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プロローグ
しおりを挟む「おいで」
母が手をさしのべた。
日々の暮らしに疲れた、か細く、醜い手だった。
衣服は汚れ、すり切れている。嫌な臭いが鼻につく。しかし、それは彼と同じ、貧しさゆえの体臭だ。おそらく死ぬまで消えることはないだろう。
「どこへ?」
思い詰めたような母の暗い目に脅え、彼は一歩後ずさった。
救いを求めるように父の方に首をめぐらすと、父はあわてて顔をそむけ、拾い集めた金属屑をより分けはじめた。使えそうなものを見つけて、安価で売るのが父の仕事だった。
家の中は狭く、薄暗い。やせて目ばかり大きな妹たちが湿った壁にもたれてうずくまり、不安そうにこちらをうかがっている。
「いいからおいで。いいところなんだよ。もう一生食べ物の心配をしなくてすむところさ。明るいところだよ」
母は早口のささやくと、有無を言わさず彼の手をとった。
「さあ」
貧民窟の、迷路のように入り組んだ路地はどとまでもつづき、終わりもないかと思われた。隧道をくぐり、崩れかけた長い階段を上ったところで、視界が急に開けた。
彼らは明るく広々とした、清潔な通りに足を踏み入れていた。
細長い建物がきそうようにして空に伸び、それ以上に高いところをすばらしい速さの飛行船が横切って行く。きれいに舗装された広い道路には、音なく行き交う流線型の自動走行車。明るい陽の光を弾く街路樹の下、ゆったりとした長い服をまとった人々が楽しげに語らいながら歩いている。
彼には、想像もできない暮らしがそこにある。
母は人々の視線から逃げるようにして身をすくめ、彼をとある建物に導いた。
大きな円形の建物だった。中央に、銀色の塔がひとつ高くそびえ立っていた。見上げながら幅広い階段を上り、アーチ型の門をくぐった。回廊のある庭を横切っても、行き交う人々は彼らに目もくれなかった。
天井の高い広間で、そろいの白い服をまとった男女が二人を出迎えた。
長身のすらりとした女が進み出、ふるえる彼の顎を無造作につかんで言った。
「ふうん。これならあなたのデザインをいかせるわよ、ラリイ」
「だけど、小さいな。いくつだい?」
「十二になったばかりでございます」
母が、おずおずと答えた。
「少し成長させた方がいいかもね。薬を使いましょう。いいわ、行って」
女は、小さな包みを母に投げ与えた。
彼は、それが金であることに気づいた。彼は、この女たちに売られたのだ。
何かわけのわからない叫びを上げて泣きながら、彼は逃げるように去っていく母を追いかけようとした。
が、それはできなかった。
彼は両腕をがっしりとつかまれ、地下への昇降機に押し込められた。
それから一千年か、それ以上もの長い年月、彼は眠り続けた。
強化ガラスのシリンダーの中で身体を丸めて、動かずに。
時の流れは都市を崩壊させ、その地形を変えていた。
しかし、彼は目ざめつつあった。
限りない風紋のあやなす砂丘の奥深く、今はもう昔を忍しのぶよすがもない廃墟の下で、彼はわずかに身じろぎはじめた。
ぼんやりとした意識の中で、彼は感じていた。
もうじきに、復讐の時が来るだろうと。
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