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しおりを挟む大きくうねって押し寄せてきた波は、岩をおもいきり叩きつけ、白いしぶきを上げて砕け散った。
岩にへばりついた貝を採ろうと身をかがめていたアロウィンは、そのしぶきをもろに浴びて立ち上がった。
赤みを帯びた金色の髪から海水がしたたり、日焼けした肩や腕にいくつもの筋を作って流れていく。
ふいに冷やっこい風が吹き、アロウィンはぶるっと身を震わせた。
鳥肌立った腕をごしごし擦る。
寒い。
夏は終わろうとしているのだ。
磯辺で半ば濡れそぼりながら食用貝を採ることも、手足をむき出しにした貫頭衣も、そぐわない季節が訪れようとしている。
アロウィンは採ったばかりの二枚貝を腰に吊るした布袋に押し込んで、こんどは波しぶきのかかりそうにない乾いた岩の上によじ登った。
夏の終わりのがらんとした静けさ。
ひと夏中ここに巣喰っていた海鳥の群れは、いつのまにか行ってしまった季節を追って、旅立っていた。もはや、けたたましい鳴き声も羽音も聞こえない。小石と藁で作った巣跡と、岩にこびりついた糞が残っているばかり。
鳥たちはどこに行ったのか。
アロウィンは岩に座り込み、灰色の海に目をはせた。
ウェストファーレンへ?
この乳色の空に溶け込んでいる水平線の向こう、ウェストファーレンはあるはずだった。
彼方の、麗しい大陸──。
「アロン」
背後で声がした。
身をよじり、微笑する。
イリュが立っていた。
アロウィンより一つ年下の愛らしい少女だ。草色の貫頭衣に短めのスカート。ほっそり伸びた褐色の手足。長い前髪を横にとめた薄桃色の貝の髪飾りはアロウィンが作ったものだった。
「何を考えていたの? アロン」
イリュはアロウィンの隣に座って言った。
「ウェストファーレンのことさ」
「ふうん」
イリュは不満げに口をとがらせた。
「あなたときたら、いつもいつもそればかり」
「しかたがないよ、イリュ。ぼくの故郷なんだ」
「どんなところかも知らないくせに」
「ちょっとは知ってる」
ウェストファーレンの大陸は、四つの国に分かれている。ナーラル、ロドロム、エルドーナ、そしてレヴァイアだ。半年に一度、島にやって来る交易船の船乗りたちが言っていた。
もっとも、彼らは無口で仲間以外の誰とも打ち解けず、彼らの祖国のことをくわしく教えてくれる者はいなかった。アロウィンは他の島人たちと同様、ウェストファーレンについては、わずかばかりの知識しか持ち合わせていない。
けれど、毎日のように夢に見る。
ウェストファーレンで最も美しい街は、レヴァイアの都ネイクロート。
石だたみの路地できっちりと区画された街中には、行きかう人々や露店商人たちの声が絶えることなく、道路と同じ数ほどある運河は家の屋根や尖塔の影を優しく映している。
丘ひとつ占めている年旧りた建物群は王宮だ。露台に立つ王の顔までが、見えるようだった。
行ったこともない彼方の光景を、なぜこんなにも鮮やかに夢見ることができるのか。
アロウィンは不思議に思わなかった。おそらく、レヴァイアに対する思いがあまりに強いためだろう。アロウィンはレヴァイアで生まれたのだから。
母親のアイメとともにこの島にやって来たのは、乳離れもしない赤ん坊の時だったという。
それだから、この島の人々にとって、アロウィンとアイメはいつまでたってもよそ者でしかなかった。島人たちはみな黒い髪に褐色の肌の持ち主。二人の金色の髪はいっそうそれに拍車をかけていた。
そんな排他的な人々の中で、二人はどんな母子よりも互いのことを理解しあっているはずなのだが、アイメはことレヴァイアに関してだけは口を閉ざしたままだった。
アロウィンが無理して聞き出そうとすると、彼女はきまって悲しげに目を伏せるのだ。
母にとって、レヴァイアはいい思い出の地ではないらしい。
だがそれでも、アロウィンの憧れは消えなかった。
夢の中では、いつでもアロウィンを迎えに来る人がいた。
むろんレヴァイアへ。
それは白い髪をひるがえした美しいひと。
と、ここまでくるとアロウィンは自分の考えに苦笑せざるをえなくなる。
夢と現実をごちゃまぜにするほど子供ではないつもりだ。
現実はわずか一日で横断できる小さな名もない島と、石のように頑固な島人たち。狭い畑や食用貝。
それがアロウィンの世界のすべてだった。
「ウェストファーレンに行ってみたい?」
「とは思うよ」
「どうやって? 交易船の連中は、船なんかに乗せてくれないわよ。島にある舟は小さくて大波にあったらひとたまりもないだろうし、泳いで行くわけにはいかないわ。あなたに自身があるなら別だけどね」
イリュは一気にまくしたてた。
「行けっこ、ないわよ」
アロウィンは、肩をすくめてため息をついた。
「そのくらい、わかっているさ、イリュ。だけど、夢ぐらい見させてくれよ」
「いいわよ、大いにごらんなさいな。あら──」
頬をふくらませて顔をそむけたイリュは、ふいに沖の方を指差した。
「あれは?」
アロウィンは、イリュの指先をたどり見た。
海にうっすらと立ちこめている靄の向こうから、しだいに大きくはっきりとしてくるものがあった。
「船、だ」
「交易船は帰ったばかりよ」
イリュは不安げにアロウィンの顔をのぞき込んだ。
アロウィンは、何か説明しがたい予感のようなものにかられ、彼女の手を取って立ち上がった。
「船着場に行ってみよう」
時節はずれの船の到来に驚いて集まった人々で、ただでさえ狭い船着場はごったがえしていた。
錨を降ろそうとしているのは、見慣れた交易船よりひとまわり小さな帆船で、荷物らしいものは何も積んでいなかった。
船の上では無口なことが売りものの船乗りたちが、日焼けした半裸の肌をてらてらと光らせて黙々と着船の用意をしている。
イリュといっしょに最前列で船を見物していたアロウィンは、甲板に姿を現した人物に気づいて息を呑んだ。
まわりの人々も一瞬静まりかえったが、アロンほど驚きはしなかったろう。
彼の腰のあたりまで波うつ髪は白く、細い絹糸のようだった。
宝石のように紅い双の瞳、病的ともいえる青白い肌。ゆったりとした青灰色の上衣に銀の腰帯を垂らし、細身のズボンに長革靴をはいている。
アロウィンは、彼を知っていた。
これまで何度となく、夢で見ていた青年だ。
アロウィンは呆けたように立ち尽くした。
彼はゆっくりとあたりを見まわしながら、船着場に降り立った。
思わずあとずさったアロウィンと視線が合う。彼はその紅の眼を細めてじっとアロンを見、ついでつかつかと歩み寄って来た。
「おまえはアイメの息子か?」
彼は口を開いた。
落ち着いた深みのある声だった。
そして、命令することに慣れた口調。
アロウィンは、こくりと頷いた。
「では、おまえがアロウィンなんだな」
彼はちらりと歯を見せ、後を振り返った。いつのまに来たのか、黒っぽい茶の上衣を来た長身の男が影のように立っている。
「見るがいい、イムラ」
彼は、その男に言った。
「アイメの肖像画を憶えているな。これは、彼女にそっくりだ」
答える間もなく、イムラはすばやく手をのばした。
彼はイムラの腕の中に倒れこみ、そのままぐったりと気を失ってしまったのだ。
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