1 / 11
1
しおりを挟む
初夏の爽やかな気候に誘われて、隅倉永吾は稲綱山に向かった。麓近くに、よい渓流があると聞いたのだ。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。
ハクは毛足の長い、白くたくましい犬だった。ころころした毛玉のような子犬の時分から飼っており、登城の時以外は永吾の行くところ、どこにでも付いてくる可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれる。目を上げると鳳連峰の高い稜線が残雪を際立たせて青空にくっきりと浮かび上がり、これもまた美しい。
永吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
永吾の隅倉家は、鷲杜藩の馬廻りを代々勤める士だったが、君主の側で颯爽と馬を駆っていたのも今は昔。この太平の世にあっては、仕事と言えば城内警備ぐらいなものだ。非番に日がな一日釣り糸を垂れていても、文句を言う者はだれもいない。
両親はとっくに亡くなっていた。二十五にもなって独り身はいかがなものかと、親戚連中はしきりと気をもんでいるけれど、永吾はどこ吹く風。濃い眉にきりりとした目鼻立ちの美丈夫で、嫁選びにも苦労すまいにとため息をつく家人たちをよそに、永吾はこの気ままな暮らしを充分楽しんでいる。
とはいうものの、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
聞いた場所を間違えたのか。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなみずの群生を見つけた。おひたしにすれば美味いだろう。何匹釣れるか分からない魚よりも、こっちの方が下女を喜ばせそうだった。
永吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。ハクも喜んでついてくる。
山の恵みは豊かだった。みずばかりではなく、ぜんまい、姫竹、こしあぶら。
魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。屋根から煙が立ち上っている。
こんな所にも人が住んでいるのか。
永吾は小屋に近づいた。うち捨てられた樵小屋といった粗末さだったが、前は日当たりのよい空き地になっていて、畑らしきものもある。
一人の老婆が顔をのぞかせた。七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで、頭頂の薄い白髪頭。小柄で腰が曲がっていた。白目の黄ばんだ目で永吾を見上げた。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか。火打ち袋を忘れてきた」
「よござんすよ」
老婆は種火を持ってきてくれた。その礼に、永吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
空き地の隅に大きな石が転がっていて、永吾はそこに座って煙管をくわえた。足下で長々と寝そべっていたハクが、突然頭を上げた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れたのだ。
老婆の飼い犬らしい。ハクは起き上がり、前屈みになって歯をむきだした。赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクは低いうなり声を上げた。赤犬は動じることなく、鼻をならした。
ついにこらえきれなくなったように、ハクは激しく吠え始めた。永吾が止めようとした時、赤犬がハクに飛びかかった。
永吾は、あわてて赤犬を追い払おうとしたが、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
永吾は呆然と立ち尽くした。
赤犬は、血のついた口のまわりを舐めながら永吾を一瞥した。
永吾は、思わず腰の刀に手をかけた。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますよ」
後ろから、老婆の冷たい声が聞こえた。
赤犬は勝ち誇るかのように身体をゆすり、林の奥に姿を消した。
老婆が、力任せに小屋の戸をしめた。
永吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱えた。
さっきまでふかふかとやわらかな温もりを伝えていた毛並みは、血にまみれごわついていた。硬直した身体が、たちまち冷たくなっていく。
子犬のころからの思い出が、とりとめもなく頭に浮かんだ。
あと数年は、共にいられるはずだったのに。それが一瞬で命を奪われてしまったのだ。
永吾は、絞り出すようなため息をついた。
ハクを山に埋め、家に帰った。
お気に入りの釣り竿を持ち、愛犬ハクを従えた。
ハクは毛足の長い、白くたくましい犬だった。ころころした毛玉のような子犬の時分から飼っており、登城の時以外は永吾の行くところ、どこにでも付いてくる可愛いやつだ。
山は、まぶしいほどの緑に溢れていた。
新緑を縫って流れる渓流は雪解けで嵩を増し、突き出た岩々にぶつかって飛沫を上げている。水も風もまだ冷たくて、木の間から降りそそぐ強い陽射しをいい具合に和らげてくれる。目を上げると鳳連峰の高い稜線が残雪を際立たせて青空にくっきりと浮かび上がり、これもまた美しい。
永吾は手頃な岩場にのんびりと腰を落ち着けた。
永吾の隅倉家は、鷲杜藩の馬廻りを代々勤める士だったが、君主の側で颯爽と馬を駆っていたのも今は昔。この太平の世にあっては、仕事と言えば城内警備ぐらいなものだ。非番に日がな一日釣り糸を垂れていても、文句を言う者はだれもいない。
両親はとっくに亡くなっていた。二十五にもなって独り身はいかがなものかと、親戚連中はしきりと気をもんでいるけれど、永吾はどこ吹く風。濃い眉にきりりとした目鼻立ちの美丈夫で、嫁選びにも苦労すまいにとため息をつく家人たちをよそに、永吾はこの気ままな暮らしを充分楽しんでいる。
とはいうものの、魚はいっこうに釣れる気配がなかった。
聞いた場所を間違えたのか。
初めはおとなしく主を眺めていたハクもだんだんと飽きてきたとみえ、沢の斜面を上ったり、下りたりしている。
ハクを目で追っていると、みごとなみずの群生を見つけた。おひたしにすれば美味いだろう。何匹釣れるか分からない魚よりも、こっちの方が下女を喜ばせそうだった。
永吾は釣り竿をしまい、山菜摘みをはじめた。ハクも喜んでついてくる。
山の恵みは豊かだった。みずばかりではなく、ぜんまい、姫竹、こしあぶら。
魚籠につめこみ、気づいた時にはだいぶ山の奥に入っていた。
ハクが一声吠えた。見ると、木々の向こうに小屋らしきものがある。屋根から煙が立ち上っている。
こんな所にも人が住んでいるのか。
永吾は小屋に近づいた。うち捨てられた樵小屋といった粗末さだったが、前は日当たりのよい空き地になっていて、畑らしきものもある。
一人の老婆が顔をのぞかせた。七十は超えているだろう。日に焼けた顔は皺だらけで、頭頂の薄い白髪頭。小柄で腰が曲がっていた。白目の黄ばんだ目で永吾を見上げた。
「すまんが、煙草の火をもらえんだろうか。火打ち袋を忘れてきた」
「よござんすよ」
老婆は種火を持ってきてくれた。その礼に、永吾は摘んできた山菜を半分わけてやった。老婆はいそいそと小屋にひっこんだ。
空き地の隅に大きな石が転がっていて、永吾はそこに座って煙管をくわえた。足下で長々と寝そべっていたハクが、突然頭を上げた。
小屋の裏から、大きな赤犬がのそりと現れたのだ。
老婆の飼い犬らしい。ハクは起き上がり、前屈みになって歯をむきだした。赤犬は、昂然とハクを見下ろした。
ハクは低いうなり声を上げた。赤犬は動じることなく、鼻をならした。
ついにこらえきれなくなったように、ハクは激しく吠え始めた。永吾が止めようとした時、赤犬がハクに飛びかかった。
永吾は、あわてて赤犬を追い払おうとしたが、赤犬の攻撃は素早かった。ハクの首を噛んで振り回し、地面に叩きつけたのだ。
ハクは哀れな声で短く鳴き、身体をひくつかせた。赤犬は前足でハクを押さえつけ、容赦なくかみ続けた。白い毛がみるみる赤く染まり、ハクはついに動かなくなった。
永吾は呆然と立ち尽くした。
赤犬は、血のついた口のまわりを舐めながら永吾を一瞥した。
永吾は、思わず腰の刀に手をかけた。
「仕掛けてきたのは、そちらの犬でございますよ」
後ろから、老婆の冷たい声が聞こえた。
赤犬は勝ち誇るかのように身体をゆすり、林の奥に姿を消した。
老婆が、力任せに小屋の戸をしめた。
永吾は、やるせない思いでハクの亡骸を抱えた。
さっきまでふかふかとやわらかな温もりを伝えていた毛並みは、血にまみれごわついていた。硬直した身体が、たちまち冷たくなっていく。
子犬のころからの思い出が、とりとめもなく頭に浮かんだ。
あと数年は、共にいられるはずだったのに。それが一瞬で命を奪われてしまったのだ。
永吾は、絞り出すようなため息をついた。
ハクを山に埋め、家に帰った。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる