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小間物屋の暖簾をくぐると、矢兵衛の女房が店番をしていた。
永吾を憶えていたらしく、静かに頭を下げた。
お夕と言う名だったか。薄紅色の小紋に前掛け姿。昼間見ると、ほっそりとした色白の顔は、まだ少女のような可憐さを残している。
女房には知られたくないと言ったときの、矢兵衛の辛そうな顔が目に浮かんだ。どんなに愛おしんでいることだろう。
「矢兵衛は?」
「卸問屋に行っております。間もなく戻るかと」
「煙草入れを見せてもらおう」
お夕はこくりと頷いて、棚から煙草入れの並んだ箱を出してきた。永吾が上がり框に腰を下ろしてあれこれ吟味しているうちに、矢兵衛が帰って来た。永吾を見、表情を強ばらせた。
「これにしようか」
永吾は、鴛鴦の金具がついた腰下げの煙草入れを買った。
矢兵衛を促すように外に出る。
矢兵衛はお夕に声をかけ、永吾の後をついてきた。
永吾は人気のない路地に入って足を止めた。
「すまんな。もう会うまいと思っていたのだが」
矢兵衛はうつむいていた。永吾の方がやや背が高いので、見下ろすかたちになる。
「中島町の殺しを知っているか?」
矢兵衛は身じろぎした。
「聞いております」
「仏の側に」
永吾はささやいた。
「白い犬がいたそうだ」
「いえ」
矢兵衛はきっと頭を上げ、激しく首をふった。
「わたしではありません、隅倉さま。あの時には、もう」
「もう?」
「信じて頂けないかもしれませんが、妙な気配を感じて堀端に行ったのです。死体には、舐めるほどの血も残っていませんでした」
「妙な気配とは、どんなものだ」
「人でないことは確かかと」
「化けものか」
矢兵衛が嘘を言っているとは思えなかった。永吾はひとまず安心した。
「また現れるかな?」
「人の血に飢えているもののようです。おそらく」
「ならば、あまり出歩かない方がいい」
永吾は言った。
「城下の者は、おぬしの仕業と思ってしまうぞ。正体がわかれば──」
「ここにはいられません」
矢兵衛は暗い目で永吾を見つめた。
「お夕とも別れるしかない」
永吾はうなずいた。
「気をつけろ」
「ですが」
矢兵衛はうめくように言った。
「だめなのです、隅倉さま。わたしとて、ずっと人の姿でいたい。それなのに、夜になるといてもたってもいられず、犬になってしまう。猫又を殺してからは、ことにひどくなってしまいました。身体が、血なまぐさいものを求めてしまうのです」
矢兵衛は、両こぶしを白くなるほど握りしめていた。
永吾は心が痛んだ。責任の一端は自分にある。
「すまん」
矢兵衛はかぶりを振った。
「性なのです。どうしようもありません」
「矢兵衛」
永吾は思わず口にした。
「もう一度、化けものと戦わないか。おれと」
矢兵衛は、はっと永吾を見つめた。
「隅倉さま」
「そいつがいなくなれば、おぬしに疑いがかかることもない。城下も守れる」
城下か。
言ってみたものの、永吾はおかしくなった。城下のことなど考えていない。永吾はただ、矢兵衛とともに戦いたかっただけだった。
屋敷を出る時は忠告だけのつもりだったのに、いざ矢兵衛に会ってみると、むき出しになったのは自分の願望ではないか。
永吾は、猫又を倒した時の高揚感をもう一度味わいたかった。死と紙一重のあの感覚を。どんな化けものであっても、かたわらに矢兵衛がいれば立ち向かえそうな気がする。
矢兵衛には、心底すまなかった。疑いをはらすと言いながら、永吾はその魔性をいっそう呼び起こそうとしているのだから。しかしそれにも増して、この思いは抑えきれなかった。
矢兵衛は目を伏せた。長い睫が震えていた。
男でもふるいつきたくなるような美しさだ。
だが、永吾が求めているのは矢兵衛の別の姿。完璧な四肢をそなえた純白の犬だった。
「かすかですが、そいつの臭いは憶えています」
ややあって、矢兵衛は言った。
「そいつの出そうな所を歩いてみましょう」
「ああ」
永吾は笑みを押し殺してうなずいた。
「今夜からでも」
永吾を憶えていたらしく、静かに頭を下げた。
お夕と言う名だったか。薄紅色の小紋に前掛け姿。昼間見ると、ほっそりとした色白の顔は、まだ少女のような可憐さを残している。
女房には知られたくないと言ったときの、矢兵衛の辛そうな顔が目に浮かんだ。どんなに愛おしんでいることだろう。
「矢兵衛は?」
「卸問屋に行っております。間もなく戻るかと」
「煙草入れを見せてもらおう」
お夕はこくりと頷いて、棚から煙草入れの並んだ箱を出してきた。永吾が上がり框に腰を下ろしてあれこれ吟味しているうちに、矢兵衛が帰って来た。永吾を見、表情を強ばらせた。
「これにしようか」
永吾は、鴛鴦の金具がついた腰下げの煙草入れを買った。
矢兵衛を促すように外に出る。
矢兵衛はお夕に声をかけ、永吾の後をついてきた。
永吾は人気のない路地に入って足を止めた。
「すまんな。もう会うまいと思っていたのだが」
矢兵衛はうつむいていた。永吾の方がやや背が高いので、見下ろすかたちになる。
「中島町の殺しを知っているか?」
矢兵衛は身じろぎした。
「聞いております」
「仏の側に」
永吾はささやいた。
「白い犬がいたそうだ」
「いえ」
矢兵衛はきっと頭を上げ、激しく首をふった。
「わたしではありません、隅倉さま。あの時には、もう」
「もう?」
「信じて頂けないかもしれませんが、妙な気配を感じて堀端に行ったのです。死体には、舐めるほどの血も残っていませんでした」
「妙な気配とは、どんなものだ」
「人でないことは確かかと」
「化けものか」
矢兵衛が嘘を言っているとは思えなかった。永吾はひとまず安心した。
「また現れるかな?」
「人の血に飢えているもののようです。おそらく」
「ならば、あまり出歩かない方がいい」
永吾は言った。
「城下の者は、おぬしの仕業と思ってしまうぞ。正体がわかれば──」
「ここにはいられません」
矢兵衛は暗い目で永吾を見つめた。
「お夕とも別れるしかない」
永吾はうなずいた。
「気をつけろ」
「ですが」
矢兵衛はうめくように言った。
「だめなのです、隅倉さま。わたしとて、ずっと人の姿でいたい。それなのに、夜になるといてもたってもいられず、犬になってしまう。猫又を殺してからは、ことにひどくなってしまいました。身体が、血なまぐさいものを求めてしまうのです」
矢兵衛は、両こぶしを白くなるほど握りしめていた。
永吾は心が痛んだ。責任の一端は自分にある。
「すまん」
矢兵衛はかぶりを振った。
「性なのです。どうしようもありません」
「矢兵衛」
永吾は思わず口にした。
「もう一度、化けものと戦わないか。おれと」
矢兵衛は、はっと永吾を見つめた。
「隅倉さま」
「そいつがいなくなれば、おぬしに疑いがかかることもない。城下も守れる」
城下か。
言ってみたものの、永吾はおかしくなった。城下のことなど考えていない。永吾はただ、矢兵衛とともに戦いたかっただけだった。
屋敷を出る時は忠告だけのつもりだったのに、いざ矢兵衛に会ってみると、むき出しになったのは自分の願望ではないか。
永吾は、猫又を倒した時の高揚感をもう一度味わいたかった。死と紙一重のあの感覚を。どんな化けものであっても、かたわらに矢兵衛がいれば立ち向かえそうな気がする。
矢兵衛には、心底すまなかった。疑いをはらすと言いながら、永吾はその魔性をいっそう呼び起こそうとしているのだから。しかしそれにも増して、この思いは抑えきれなかった。
矢兵衛は目を伏せた。長い睫が震えていた。
男でもふるいつきたくなるような美しさだ。
だが、永吾が求めているのは矢兵衛の別の姿。完璧な四肢をそなえた純白の犬だった。
「かすかですが、そいつの臭いは憶えています」
ややあって、矢兵衛は言った。
「そいつの出そうな所を歩いてみましょう」
「ああ」
永吾は笑みを押し殺してうなずいた。
「今夜からでも」
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