トンネルのおゆきさん

羽虫這左衛門

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トンネルのおゆきさん

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 ほおの切れるような冷たい風が、林蔵りんぞうの首をかすめていった。一月の外気は老骨ろうこつにこたえ、体の芯から凍えるようである。空には重苦しい雲が垂れ下がり、連れてきた老犬の太郎も、黒い毛並みを風にそよがせどこか寒そうにしていた。

「寒いなあ、太郎」

 林蔵はリードにつながれた小さな頭をなでてやった。太郎は答えるように小さく鳴いた。歳をとった犬は出不精でぶしょうになるというが、十年連れ添ったこの柴犬は一日たりとも散歩を欠かしたことはない。雨が降ろうが雪が降ろうが決まって同じ時間に外出を要求し、今ではほとんど飼い主の方が引きずり出される始末であった。

 寺田林蔵 てらだ りんぞう、今年で八十歳。ふたりの娘は結婚して家を出て、糟糠そうこうの妻はあの世へ旅立った。自らの人生の終わりを悟った彼は、東京での娘夫婦との同居を断り、故郷である飯能はんのうに戻ってきた。ゆるやかに流れる入間いるま川をのぞむ安アパートの一室が、彼にとってのつい棲家すみかである。

 ここでの暮らしは、東京近郊での生活に比べてずいぶん質素かつ不便である。街灯はほとんどなく、車もないので近くのスーパーまで片道二十分はかかる。虫も多く、冬は寒いし夏は暑い。だが、これといって不満はなかった。「起きて半畳寝て一畳」を人生の標語ひょうごとする林蔵にとって、華美かびな生活よりこうした暮らしの方が性に合っているのである。

 傍から見れば老いぼれた犬と死を待つだけの独居老人も、本人にすれば気負いのない身軽な楽隠居に他ならなかった。といって、社会との接点を全く絶ったわけではない。週に数回訪れる剣友会と、毎日定刻に行われる犬の散歩が、言ってみれば彼の「生存報告」だった。

 林蔵の散歩コースは、山間の国道をしばらく歩き、開けた田んぼを迂回うかいして、また来た道を戻るというものである。習慣となったこの道のりを変えたことはない。

 しかし。

 林蔵の後退した額に、ポツポツと小ぶりな雨が落ち始めた。あいにく、傘も合羽も持ってきていない。散歩を続けるか引き返すか迷っていた所へ、大通りの横道に行き当たった。手早く切り上げるべく、林蔵はその道を曲がった。

 どこへ続く道かは知らないが、方角は我が家の方に伸びている。だから、そのうち知った道に出るだろう。そんないい加減な目算で、森林を切り開いた薄暗く陰気な道を進んでいった。

 ほどなくして、林蔵は古いトンネルに突き当たった。立てられた看板には「松葉隧道まつばずいどう」とあり、簡単な地図も載っていた。それによると、出口の先はゆるやかな山道となっていて、そこから大通り沿いに出られるという。林蔵にとっては自宅までの近道である。のそのそと長いトンネルに入っていった。

 トンネル内は殺風景だった。黄ばんだ蛍光灯の下、放置された工具や立ち入り禁止の看板が、隅の方で白いほこりをかぶっている。溝にはドブのような水がたまり、カビともコケともつかない緑色の汚れが張り付いていた。

 手入れをされていない廃墟のようなもの寂しさが、人通りの少なさを物語っている。床のひび割れも多く、林蔵はつまずかないよう足元をよく見て歩いた。砂を踏むざらついた音と、太郎の荒い呼吸だけがトンネル内に反響する。出口から光が見えた頃、ふと視線を上げると、林蔵の目に奇妙な光景が飛び込んできた。

 出口の所に、誰か座っている。

 女だ。

 髪の長い、白い服の女が、トンネルの灰色の壁にもたれかかっているのだ。 

 林蔵ははたと足を止め、相手を見た。真冬なのに、夏場のような薄着である。白いブラウスの胸元がはだけ、濃紺のうこんのスカートから白骨のようなすねがのぞいている。靴はいていない。裸足はだしを冷たいコンクリートの上に投げ出しているのだ。力なく垂れた手は土まみれで、よく見ると数枚の生爪が痛々しくはがれていた。薄く開かれた目は下を向き、まばたきもしない。そこから何か感情や情動の変化を読み取ることはできなかった。

 林蔵はよほど声をかけようかと思った。彼の目に映るその若い女は、どう見ても普通ではない。尋常じんじょうではない事情があるには違いなかった。だが、それをためらわせたのは、女の言いようのない違和感である。何かがおかしい。その異質さの正体を突き止めた時、彼は瞬時に理解した。

 ―――この女、人間ではない。

 女は、体が半分透けていた。死人のような肌が、豊かな黒髪が、モノクロームの装いが、半透明のビニールのように陽の光を透過しているのだ。出口の向こうの景色が、濃霧のうむの中にあるかのようにぼやけて見えるのである。

 初めて出会う奇怪な現象に、林蔵は戸惑いを隠せなかった。これはいわゆる「幽霊」というやつなのか、それとも彼の老朽した脳が見せる幻覚なのか。できれば後者であってほしかった。しかし、その期待はかなわなかった。太郎が、尻尾をふって女の方に駆け出したのである。見えているのは林蔵だけではないらしい。

「ばかっ」

 林蔵はとっさに叱りつけ、リードを引いた。トンネルに大声が反響し、太郎がビクッと身を震わせた。誰にでもなつく犬だが、人でないものでも例外ではないらしい。おとなしくなった太郎を抱きかかえると、林蔵はきびすを返してトンネルを駆けだした。

 女は身じろぎもしなかった。

 翌日。地元の体育館を間借りした剣友会の一角である。稽古の後、林蔵は友人の宗像むなかたに、昨日のことを話した。話さずにはいられなかった。友人は手ぬぐいで汗をふきながら、怪しむ様子もなく話を聞いていた。

「それじゃありんさん、あんたもおゆきさんに会ったのかい」

「おゆきさん?」

 林蔵は頓狂とんきょうな声を出した。にわかには信じてもらえないと思っていた与太話が、あっさり受け入れられたことへの驚きだった。

「あのトンネルに出てくる女の幽霊だよ。色白のべっぴんさんだから、昔からみんなおゆきさんって呼んでるんだ」

「・・・・俺はそんな話、聞いたこともないよ」

「まあ、りんさんは若い頃に上京して最近帰ってきたクチだからね、知らないのも無理はないさ」

 宗像の話によると、松葉隧道では古くから女の幽霊が目撃され、少なくとも彼の父親の代から見られたという。現在ではそれを知る者は多くないが、それは単に人通りが少ないという理由と、近隣住民がみな老齢で話が外に広まらないという事情のためらしい。

「へえ。それにしても何者なんだい、そのおゆきさんってのは」

「さあねえ、詳しいことは誰にもわからん。その昔、特高に拷問されて殺された女が化けて出るんだとか、お産で死んだ妊婦が赤ん坊を探してるんだとか、いろいろと言われてはいる。ただ、どれもいい加減なうわさだよ」

 林蔵が一番知りたかった部分は、なんともあいまいだった。素足で、生爪がはがれ、力なく壁にもたれかかったあの姿。あれは誰かを恨んでいるとか、探しているといった様子ではない。強いて言うなら。

 ―――疲れきって、誰かを待っている。

 そんな姿である。

 林蔵の無言を恐れと取ったのか、宗像は背中を叩いて元気づけるように言った。

りんさん、怖がらんでもいいよ。おゆきさんは別に悪さをするわけじゃない。ああやって座っているだけで、他に何もしないのさ。うちの親父なんか二十歳の時に出会って老衰でくたばったくらいだから、案外幸運をはこんでくれる福の神かもしれないぜ」

ほこらも鳥居もない所に神さまがいるかい」

 林蔵は混ぜ返して笑った。脳裏には、なぜかおゆきさんの影が焼き付いて離れなかった。

 それからというもの、林蔵は散歩中に興味本位でトンネルを通るようになった。宗像の言う通り、彼女は本当に何もしなかった。ただ置物のように座っているだけで、まばたきもしなければ言葉も発しない。太郎は彼女を見るたびに喜んで駆け寄ろうとするが、さすがにそれは止めた。

 力なく座り込だ無言の幽霊。それは不気味といえば不気味だったが、しだいに恐怖よりも不憫ふびんさの方がつのるようになった。林蔵は、いつしかおゆきさんに自分の娘の影を重ねていたのである。宗像の父親の代からここにいるということは、すでに百年近い時間を過ごしていることになる。この娘にも親や恋人があっただろうと思うと、可哀想でならなかった。

 そのうち、林蔵はおゆきさんに話しかけたり、お供え物としてみやげ物の生菓子をそなえることもあった。全くの無信心で、仏壇のほこりを払うのも億劫おっくうなこの男には、なんとも珍しい行いではあった。

 そうして幾日かが過ぎた。

 ある日のこと。いつものように太郎を連れてトンネルを出た林蔵は、林道の木に見慣れない張り紙がしてあるのを見つけた。何の気なく読んでみて、あっと思わず声が出た。そこにはこう書いてあったのである。

『 注意 山にゴミを捨てないでください。カラスや他の動物が荒らして中身が散乱します。不法投棄ふほうとうきは犯罪です。見つけ次第警察に通報します。 山林管理者 』

 トンネルが通る山林の、持ち主のものであった。しかし林蔵が驚いたのはそこではない。その下に添付てんぷされた写真である。

 むき出しの地面に、円形にくぼんだ箇所がある。張り紙のある木のすぐ近く、深い茂みの奥だった。そのくぼみの真ん中に、和菓子の中身やパッケージが散らばっている。明らかに野生動物が食い荒らした跡である。林蔵が驚いたのは、それらがすべて、彼がおゆきさんに手向けたものだったからだ。思い返せば、トンネルに置いた菓子類は、最近見なくなっていた。

 林蔵は自分の浅はかさを恥じた。人通りが少ないとはいえ、こんな場所に生ものを放置すれば、山の動物たちが漁りに来るに決まっている。当然、土地の関係者だって迷惑するだろう。考えればわかることなのに、思慮しりょが浅かった。そう反省する一方で、全く別の思考が彼の頭に浮かんでいた。

 ―――どうして、菓子はここにあったんだ?

 林蔵が菓子を置いたのは、トンネル内だったはずだ。出口に近いとはいえ、それらがすべて山中で見つかるとは考えにくい。動物というのはたいてい、ゴミ捨て場のカラスのようにその場で食べ物を漁ってゆくものだ。巣やねぐらに持って帰るにしても、パッケージも開けずに持ってゆくとは考えにくい。他の通行人が片付けたのだろうか。

 不思議に思った林蔵は、林道を外れたヤブのくぼみを確かめてみた。直径は約一メートルほどで、それほど深くはない。ゴミはあらかた片付けられていたが、細かい袋の破片が残っていた。それを何気なく手に取ろうとした時、突然太郎が激しく吠え始めた。林蔵は腰を抜かさんばかりに驚いた。普段は大人しく、めったに吠えない犬なのである。

「どうした、太郎」

 右手のリードがピンと張るのが伝わってきた。太郎がくぼみの中心に走り、犬かきでもするように地面を掘り始めたのだ。後ろに黒土が盛り上がってゆく。太郎は深く掘った穴に鼻先をつっこみ、何かをかき出そうとしていた。

 見かねた林蔵が太郎を抱き上げると、そこに赤茶けた陶器片とうきへんのようなものが埋まっていた。太郎はこれを掘り出そうとしていたようだ。林蔵はにわかに気になって、フン処理用のシャベルでその外周を掘っていった。表面の下は固い地面だったが、全体を掘り出すと、その正体が見えた。林蔵は、ウッとうめいて身動きが取れなくなった。

 赤茶色の陶器と思えたものは楕円形で、穴が三つ逆三角形についている。その下に貝殻のような平たい破片が横一列に並び、何かと思えば歯であった。それは紛れもない、人間の頭蓋骨ずがいこつだったのである。

 後日。

 林蔵の通報により、警察の調査が行われた。その結果、同じ場所からさらに小柄な人間ひとり分の人骨が発見された。一時住民は騒然となったが、すぐに落ち着きを取り戻した。鑑定かんていの結果、この白骨は現代のものでないとわかったのである。

 正確な時代の特定は困難だが、遺骨は少なくとも死後百年以上は経過している。骨盤の形状から、性別は女性と断定。死因は不明だが、明治から戦前にかけての戦火や災害、事件事故等で死亡したものとされ、いずれにしろ事件性は認められなかった。

 歴史的な遺物とも無関係なため、最終的に自治体に引き取られ、無縁仏として埋葬された。その始末は淡々とこなされ、いつしか人骨が出土したという出来事も、人々の記憶から忘れ去られていった。

 そして。

 白骨が発見されたその日から、おゆきさんはトンネルから姿を消した。もうどこにも見ることはなくなったのである。林蔵は大して驚かず、やはりそうか、と思った。あの遺骨は、やはりおゆきさんのもので間違いなかったのだ。

 太郎がひどく寂しがるので、しばらくトンネルには行かなかった。ほとぼりが冷めた頃、思い出したようにまた訪れた。陰気なトンネルを歩きながら、林蔵はおゆきさんのことを考えていた。彼女は一体何者なのか。どうしてこのトンネルに居つくことになったのか。

 おゆきさん。そうよばれた女は、はるか昔に死んでいた。警察の見解によれば、林蔵が生まれるより前である。この土地との関係は不明だが、墓地や遺構いこうでもない無名の山野に単独で見つかったということは、非業ひごうの最期だった可能性が高い。

 誰にも気づかれず、とむらわれることもなく土の中で朽ち果てた、その無念と悲しみが、死後もこの世にとどまる幽霊にしてしまったのだ。女は、そんな自分を誰かに救ってほしかったに違いない。

 体を土中に埋められた彼女は、霊体となってものしかかる土の重みに苦しんだのだろう。ほとんど身動きが取れず、口をきくことさえ息苦しくてかなわなかった。力なく座り込んだまま、一言もしゃべることができなかったのは、そのためだ。長年の苦しみは、女から希望を奪っていった。

 とはいえ、かつては自分で自分の体を掘り起こそうとしたこともあったと思う。両手にこびりついた土汚れと、はがれてしまった生爪が、その証拠である。彼女は重く動きづらい体で、何年もかけて必死に穴を掘り続けた。遺骨発見場所のくぼみは、その痛ましいまでの苦労の跡だ。

 しかし、その作業は絶望的な重労働だった。穴は一向に深まらず、無理に素手で掘り続けたため爪ははがれた。遺体がどれほどの深さにあるかわからないという闇雲やみくもな状況も、無力感に拍車をかける。やがてその無謀を悟った彼女は、発掘を断念し、次善の策を実行する。それはトンネルの出口に居ついて、生者せいじゃに自分の存在を示すということだった。

 人通りが少ないとはいえ、トンネル内であれば通行人は必ず自分の存在を認識する。そこから遺棄された人骨にまでたどり着く可能性は限りなく低いが、ヤブのくぼみに陣取ったところで、気づいてもらえる望みはさらに薄い。

 そうして女はトンネルに居つく亡霊となり、人々から「おゆきさん」と呼ばれるようになった。宗像の父親たちの時代である。それから、彼女は待った。自分を救い出してくれる誰かを、ひたすら待ち続けた。だが願いはかなわず、百年以上もの間、ただ薄暗いトンネルの小さな怪異として、地元の人々に知られる存在に過ぎなかった。

 そんなおゆきさんに契機けいきが訪れたのは、林蔵と太郎が偶然やってきた時だ。彼らは不思議と幽霊に親しみを覚え、お供え物として生菓子を置くことさえあった。その時、彼女は気が付いた。これは自分の存在を知らせる千載一遇せんざいいちぐうのチャンスであると。

 おゆきさんは力を振り絞ってトンネルをい出し、菓子を林道のくぼみにばらまいた。生ものの匂いをかぎつけた動物たちがそれを食い荒らし、誰かがそれに気づく可能性に賭けたのである。

 果たして、木に張られた注意書きを読んだ林蔵は、遺骨が埋まるくぼみまでたどり着いた。動物の本能か、人間にはない第六感によるものか、隠されたものに気づいた太郎は、土中から女の白骨遺体を見つけ出した。おゆきさんの悲願は、達成されたのである。

 ふと顔を上げると、トンネルの出口が見えてきた。かつて女が寄りかかっていた場所には、もう誰もいない。太郎が残り香をしむかのように、地面に鼻をこすりつけた。

「太郎。おゆきさんはな、もう行ってしまったんだ」

 林蔵は子供に言い聞かせるような口調だった。悲し気な語気が伝わったのか、叱られた後のように太郎はうなだれた。

「お前のおかげだよ」

 しわだらけの手が、小さな頭をなでた。太郎がいなければ、おゆきさんはずっとこの地にとらわれたままだったであろう。現世のしがらみから解放したのは、他でもないこの老犬なのである。彼女が浮かばれて、本当に良かったと林蔵は思っている。

「行くぞ、太郎」

 名残惜しそうにその場から動かない犬を、林蔵は引っ張っていった。太郎はあきらめたように歩き出し、何度も何度も振り返りながら、ゆるやかな山道を下りて行った。

 誰もいないトンネルに、うつろな風がこだまする。

 女が寄りかかっていた灰色の壁に、赤黒くにじんだたて線が走っていることに、林蔵は気づかなかった。よく見ると、それは血で書かれたくずし字であった。現代の言葉にあてはめれば、確かにこう読めたはずである。


『 りんぞう たろう ありがとう 』




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