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4・契約を無視すればムシムシ

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 アスカの瞳は今までになくキラリと強く光ります。
 
 彼女は右手を軽く振るって、空中より長方形の平べったい箱を取り出しました。
 箱は真っ白な包み紙に覆われていて、赤紫の線が横に一本だけ引かれています。


「そうだ。これを渡しておこう。引っ越し蕎麦ならぬ、引っ越しお菓子なのじゃ」
「引っ越しお菓子? なんですか、それは?」

「F県名物の鈴の形をした最中というお菓子じゃ。地球の日本という国の風習で引っ越してきた際は、向こう三件両隣にこうやって、今後ともよろしくという気持ちを込めて贈り物をするのじゃ」
「はぁ、そういうことでしたら、頂いておきますが」
 
 ミュールがお菓子を手に取ったところで、アスカは小さく口端を捩じ上げます。

「フフ。お~っと、話は変わるが、ミュールの家には余っている部屋はあるか?」
「はい、ありますけど」
「もし、よかったら一部屋貸して欲しいのじゃ」
「え? 龍を納めるようなおっきなお部屋はありませんよ」
「大丈夫なのじゃ。普段はこうして少女サイズじゃから。それに礼儀はちゃ~んと通す女じゃぞ」

 
 渡したお菓子の箱に視線をチラリ。
 ミュールはその態度に呆れます。

「はぁ~、先にお菓子を渡して、断りにくくしたつもりですか?」
「いや~、そんなことは全く」

「言っておきますが、この程度で恩義なんて……あっ」
 ミュールはお菓子を持つ手首に小さく残っていた、赤い汚れを目にしました。
 その様子をアスカは瞳を揺らめかせて見つめます。

「どうしたのじゃ?」
「いえ、なんでもありません。お部屋をお貸しするのは構いませんが、一つだけ条件があります」
「何じゃ?」
「契約を結んでもらいます」
「契約?」

「龍と言えば、人を遥かに凌駕する存在。僅かな気まぐれで私が食べられちゃう恐れがありますから。そうならないように、ある程度契約で行動を縛らせてもらいます」
「別にお主のことなんぞ、食べる気はないのじゃが。まぁ、恐れるのは無理もない話なのじゃ。よかろう。じゃが、契約内容はしっかりと目を通すぞ」
「もちろんです。では、契約書を持ってきますので」

 
 ミュールは一度家の中に入り、すぐに戻ってきました。
 手には強力な魔力を帯びた契約書を携えています。

「はい、これが契約書です」
「ふむふむ、すさまじい呪力の籠る契約書じゃな。じゃが、契約内容は大した内容ではないようじゃな」
「ないようではないよう……駄洒落ですか?」
「今のはダジャレ冤罪じゃっ。この程度なら契約を結んでも問題ない。どれ、サインを」
  
 アスカは人差し指の腹を自身の親指の爪で切り裂き、血を契約書に振ります。
 血は『ケツァルコアトル』の文字の形となって契約書に焼きつきました。
 ミュールは血と名と魔力の繋がりに偽りがないことを確認して、薄っすらを笑いを浮かべます。
 
「はい、たしかに」
「ん? ミュールよ、いまニヤリとしなかったか?」
「はい、しましたよ」

 ミュールは自分の企てごとを隠そうともせずにあっさり言葉を返します。
 
「な、なにっ? 一体、何を企んでおるのじゃ?」
「実は少しばかり、アスカさんから血を頂きたくて……」
「血! なぜ、血を?」

「私は薬を専門とする錬金術士でして、それで今、お薬を作っているんですが、その材料に血が必要なんです。でも、手持ちの血では効力が薄くて。それで」
「手持ちの血……なんちゅー、恐ろし気な言葉じゃ。じゃが、契約内容にそんなものは」
「ありますよ、裏側に」

 契約書をぺろりと翻すと、ミュールに都合のいい内容がびっしりと……。
 
「こ、古典的な方法をっ」
「契約書にサインをするときは、じっくり読んで確認してからにした方がいいですよ~。だから、こんな使い古された方法に引っかかるんです」

「く、この腹黒女め。じゃが、ワシは注射なんぞ打ったこともないし、これからも打たれたいとは思わん。悪いが契約を破らせてもらうぞ」
「いいんですか、そんなこと言って?」
「ふんっ。呪力の契約書とはいえ、龍であるワシ相手ではさほどのぉぉぉぉ!?」

 ミュールが契約書に魔力を注ぐと、アスカの体中にうねうねとした虫たちが湧き出てきました。
 それは払い落しても払い落しても、体から落ちることなく、皮膚の上をもぞぞもぞぞと這いまわります。
 気持ち悪さに地面でのたうち回るアスカを見下ろしながら、ミュールは涼しげな顔で尋ねました。

「どうですか? 虫が全身を這いまわる感触は?」
「お、おのれ、なんちゅー恐ろしいことを。くっ、いいじゃろう。好きなだけ血を採るがよい。採ることができればの。くくくくく」

 
 アスカは意味深な言葉を口にして、腕をミュールへ突きつけます。
 妙に思いながらも、ミュールはウエストポーチから注射器を取り出しました。
 そして、プスリと行くはずだったのですが……。

「あっ」
 針をアスカの皮膚に押し当てたところで、無残にもぐにゅりと曲がってしまいました。
 その様子を見て、アスカは厭らしく笑います。

「くふふ、ワシの見た目は少女じゃが、肉体は龍よ。どこぞのネバーなエンディングの龍とは違い、そんなちんけな針が刺さるはずがないのじゃ」
「なるほど、通常の注射針では駄目みたいですね。でしたら!」

 
 ポーチより新たに注射器を取り出し掲げます。
 先端の針は神々しい光に包まれ、光を浴びた植物たちはグングンと成長していきます。
 この神器に匹敵する力を持つ注射器に、龍であるアスカも、さすがにたじろいでしまいます。 

「な、な、何じゃ、その神々しい注射針は?」
「オリハルコンの針を持つ注射器です」
「で、伝説級の金属? そんなもので注射針を作るなぁ!」
「では、いきますよ~」
「ま、待つのじゃ! 針を身体に刺すなど正気の沙汰ではっ」

 ミュールはアスカの言葉に一切の聞く耳を持たず、彼女の腕を取って、プスリ。
 
「ぷぎゃっ。チクって、うわっ、中で針がこわいこわいこわいこわい」
「大丈夫ですよ~。ほら、こんなに赤黒く綺麗な血がいっぱい、いひひひひ」
「その笑い方止めよ。魔女になっておるぞ!」
 
 注射器の色はアスカの血の色に染まっていきます。
 おのれの身から引き抜かれていく血を見つめたアスカは、自分の体重が急激に軽くなる錯覚に陥り、眩暈を覚えました。
 ミュールは針を引き抜き、真っ赤に満たされた注射器を愛おしそうにさすります。

「ふふ、たくさんの血が取れました」

 注射の初体験で、顔を青褪めるアスカ。
 仄かな暖かさの残る血を慈しむミュール。

 こうして、世にも恐ろし気な賃貸契約で結ばれた二人の生活が始まったのです。
 ミュールは今後、尽きることのない龍の血という最高の薬の材料を手に入れてご満悦。
 ですが、それは本当に満悦できることなのでしょうか?

 だって、アスカはどうしようもないくらい、ぐーたらな龍なのですから……。
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