少年Cの終末目撃証言

陸一 潤

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序 少年Cの目撃証言

魔王希望Aは世界征服を果たしたい

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 欧州 某国 某所


  摩天楼の隙間に車がビュンビュン走り回り、人がひしめき、街は夜でも微睡むこともない。そんな街の郊外にある森、そこに彼女は住んでいる。
  彼女の祖父が、もう三十年も昔に買い取った森は、梢の向こうにいくつも銀のタワーが聳えるようになっても、時を止めたように変わらず根を張っていた。 
  森を囲んで三メートルの立派な塀と、大人の腰ほどしか無い扉。そこが人間の入口だ。
そこをくぐると煉瓦の街道だけがあり、十分も木々を分け入ってやっとその建物が見える。車は大きく迂回したところからしか入れない。

  ガラスの灯台……いや、むしろ、巨大な香水瓶か。

  製薬会社にはクリーンな印象が必要だと、その男は部下に言いわけをして、このオフィスを作った。
 一代にして華々しく世界に轟くまでに功績を積み上げたアリスの祖父は、その実、たった七歳の少女へのプレゼントとして、この香水瓶を献上している。

  初夏の昼、森は鳥と虫の世界だ。人間どもはガラス瓶の透き通った回廊の中で、その臓腑を風船のように弾けさせている。


  混沌、悲鳴、怒号、哀願………。


  彼女のスキップは軽やかだった。オフィスを出ると、白亜の廊下をトットコ進む。邪魔な障害物や床の汚れ溜まりは、彼女の真っ白なパンプスを汚すことも叶わない。踵のリボンが、蝶々のようにリノニウムの上を跳ね回った。

  閉め切られたオフィスの中で、大人たちが踊り狂っているが、彼女は一目さえも、夏の晴天よりさらに深い、その青い瞳を向けはしない。
  エレベーターが少女を上空に吸い上げる。まっすぐに向かったそこは、唯一ガラスが貼られていない最上階の会議室だ。ドーナッツ状の巨大な円卓に、数人の大人がまばらに座している。


 「ハァーロォーウ……ご機嫌はいかがかしら、おじいさま」


  片手をひらひらさせて挨拶をしたアリスを一目見るなり、ひときわ立派な椅子に座る老人が、今にも泣きそうな眼をして立ち上がった。
 「アリス! 」


  すっかり色の抜けた髭は、皺の掘られた肌に美髯と言えるほど整えられている。しわの奥で、淡い空色の瞳が子供のように煌めいた。
  アリスはその老人から目をそらし、ゆっくりと、ほかの面子を見渡す。一人ひとり、目を合わせるように。
  彼らは怯えたように、そんな少女の視線から逃れた。もしくは気丈にも睨みつけた。

 「いち、にい、さん……八人ね。おじいさま、あなた達が最後になるわ」

 「アリス。どうしたんだい。下に降りようにも、エレベーターが動かなくてね……これは君の仕業かい? 」

 「ええそうよ」

 「いけない子だ。またこんな悪戯をして……さあ、今日は何をするんだい」

 「おじいさまたちを皆殺しにするの」


  ガタガタと数人が椅子から転げ落ちた。引き攣った悲鳴も上がる。「やっぱり! ああ、誰か助けて! 」

  しかし祖父は、「ああ、なんだ。そんなことか」というふうに、目元を細めてアリスを見た。

 「ああ……アリス。それは初めての試みだね。生き返るのにはどれくらいかかるだろうか? 仕事がけっこう立て込んでいるんだ」

 「あら、おじいさま。とっても頭がいいのに知らないのかしら。人生って一度こっきりしか無いの。そうでしょ、チェシャー」


 「ああ、そうだね。そう教わったよ。なあ、クイーン」

  アリスの脇で、円卓に足を組んで少年が座っている。顔こそ皮肉気に笑んでいるが、腰の下から伸びる長い尻尾は、何度も何度も苛立たしげに卓を叩いている。変声期を終えたばかりの少年の声に、舌足らずの甲高い声が応える。


 「ええもちろん、あたくしでもしってます」

  円卓に置物のように顔を出した赤毛の幼女が、こっくりと深く頷いた。ピアノの発表会にするにも豪華すぎる赤いドレスだが、しっかり小さな手に誂えた真っ赤な革製の籠手を着け、身長の倍はある獲物を握っている。槍ではない……死神のような三日月形の大鎌だ。

  クイーンはさらに、エレベーターの前で従者のように佇む子供に問いかける。彼とも彼女ともつかない子供は、クイーンよりも少しだけ小さい。

 「おまえはぞんじていまして? しろうさぎ」

 「………」
  帽子の陰で、赤い目がのぞく頭が横に振られる。視線が問いかけるように、さらにその隣でだらしなく腰を下ろしている青年に向かった。


 「あん? なんだよ俺かぁ? 知るかよ。早く済ませろよな……俺はいっこもコロシアイなんて経験ねえんだよ。なんで連れてきたんだマッタク……」
  淡い金髪に深い緑の目。物語に出てくるエルフのような、端正な美貌の青年から、チンピラめいた罵声が飛び出す。


 「おい帽子屋。やる気ねえのはいいけど、おれたちの邪魔すんなよ! 」

 「するかよ! 俺ぁこんなとこで死にたかねーんだよ! ……ああもう、なんだって雇い主の殺人に加担してんだ俺ってやつは……おい、ちゃんと証拠は残らねーんだろうな! 俺はただのシッターなんだぞ! 」

 「もちろんですわ! あたくしがどんなにぐちゃぐちゃによごしても、いきていたしょうこも、のこりませんもの! 」

 「へーへー、そらぁ物騒で有り難いこって……」


  肩をすくめて帽子屋が黙ったのを見届けて、アリスは祖父に笑顔を向けた。

 「……っていうことなの。凝った趣向のステージじゃなくて? ねえ、おじいさま」

  老人は、髯を震わせて無意識にのけぞった。


 「……嘘だろう? アリス……きみは悪い子だね」
 「嘘だと思う? 」
 「………ふひ、ふひひひ、いひひひひ……う、うそだろう? 」


  たしなめるようにアリスは言う。「おじいさま、アリスは嘘をつかないわ」

  アリスは足を広げて円卓に乗り上げた。そのまま、まっすぐに大股で祖父に近づく。カツン、カツン、カツン……卓越しに老人の美髯を掴み上げ、喉笛に黒鉄の筒を押し付けた。銃口から震えが奔り、カタカタと奇妙な音がする。



 「……わたしが悪いのか? 」

 「さあ……どうなのかしら。まだ分からないわ。先に処刑を終わらせましょう。判決はあとでもいいもの」
 「ばかげてる! 」


  アリスの顔に向かって、唾を飛ばして舌が跳ね回る。


 「おっ、お、おお、おまえは神様の子だ! わたしが作った神様の子だ! おまえの役目とはわたしのために世界を統べる本当の神様を産むことだ! 神の母となることだ! 何度も教えた! 完璧に教育しただろう! おまえが創造主たるわたしを裁くなど、おこがましいにも程がある! 忘れたのか! おまえはわたしの」 
  BANG!


  硝煙の香りがたちこめる。うつむくアリスの青い目に、こもごも混ざり合った感情がよぎり、一瞬にして冷徹な決意がそれを追い立てるように塗り替える。

 「……ふう。腕がしびれちゃった」
  衝撃に軽く吹き飛んだアリスは、絨毯の上から立ち上がった。
  郷愁、憐憫、悲哀……それらを殺し、面の皮に浮かび上がった無表情は、無情と狡猾を司る。
  沈黙が広がっている。大人たちも、子供たちも、言葉を失ってアリスと躯とを見比べていた。

  それを破ったのはクイーンだ。喜色満面に、赤い少女は叫ぶ。「……ぅぅうううううううっ! アリスがやった! はじめてころした! これはすばらしいことですわ! おいわいしましょう! しなくっちゃ! 」

  クイーンはそのまま大鎌を握り直し、流れるように振りかぶった。飛沫が舞う。仕立てのいいパンツスーツを着ていた体から、化粧を涙でふやかした首が落ちる。

 「パーテーのくらいまっくすですわよ! たべのこしはゲンキン! 首をおよこし! 」




  混沌、悲鳴、笑い声、怒号、哀願、罵声、歓声、喝采………。
  そして、何度目かの沈黙。
  エレベーターの脇にある観葉植物の後ろで、音漏れしているヘッドフォンをつけて頭を抱えていた帽子屋が、ようよう顔を上げた。

 「……終わったか? 」
 「クイーンのやつ、まだやってる。俺たちン中では一番好きだよなぁ。あいつもよくやるよ」
  そう言うチェシャーも、ナイフを握った腕から胸まで血みどろだ。帽子屋は顔を引き攣らせ、鼻をつまんだ。
 「ンでぇ、もれから、ろーすんの」
 「世界征服」

 「……おいおい即答かよ」帽子屋は鼻に当てていた手を、額に乗せて天を仰いだ。

 「十二歳が本気で目指す夢にしても、もうちょっとあるだろ? 俺はただの雇われシッターだぜ? 」

 「何度も言ってんだろ。本気だって。シッターだから巻き込まれたんだ。馬鹿だなぁ」

 「本当に俺が馬鹿なのか? 俺だけが悪いのか? 」

  頭を抱えてうずくまる帽子屋の服の裾を、白兎がそっと握った。

 「白兎……おまえ」

  ……そして手についた血液を拭う。帽子屋は天を仰いで、中て付けのような大きなため息をした。
 「俺はいつまでガキの面倒見りゃいいんだ! 」すかさずアリスが言う。


 「いつまでも! ずっとよ! わたしが死んじゃうまで! 」


  初夏の夕方、赤く染まった西日が、香水瓶を血色に染める。



  毒々しくも怪しく輝くそのボルジャのカンタレラは、明日には中身だけを入れ替えて、香水瓶の姿を偽るのだ。『わたしを飲んで! 』というタグ付きで。
  彼女の名前はアリス。ほかに名前はない。




  一年後。
  十一月二十四日。

 「つまりませんわ! 」


  革張りのソファの上で、クイーンはジタバタしながら吠えた。ふだん着ているチューリップのような赤いドレスではなく、時代と年齢相応の『ちょっとよそいき』といったワンピース姿である。隣では、彼女より少し背の低い白兎が、いつも被っている帽子を膝に、ウトウトしている。
  窓の外ではネオンが色とりどりの光の帯のようになって、車内の彼らを彩っていた。向かいでは長い足を組んだ帽子屋が、尊大なほどシートの一面を占領して高級車を満喫しながら言う。

 「ま、そう言うなよ。今頃アリスはパーティーを満喫しているさ。会長たちが『生きているふり』をするなら、出席しないわけにはいかないだろ。ま、こういう時もアリスには必要だ。いま我慢できたら、あとでアリスが褒めてくれるだろうよ」

 「がまんしますとも。でもつまらないの! それはどうしたって、おんなじことよ! ぼうしや! なにかおもしろいことをして! 」

 「よーし、いいだろう。とっておきの遊びを教えてやる」

 「なんですの? 」


  この怠惰なシッターからのため息を予想していたクイーンは、思わぬ提案に身を乗り出しながら、訝しげな声で尋ねた。
このシッターの『楽しいこと』とは、基本的に『いかにしてばれないズルをして楽をするか』に集約される。クイーンは隣で眠る白兎を起こすかどうかを一瞬頭の中で考え、先に自分で見極めてからでも遅くはないと思い直した。

 「そこに横になれ」帽子屋は言う。

 「……そう、それで目を閉じる。ふむ。……そして深呼吸。それを三十分繰り返せ……」「さんじゅっぷんってどれくらい? 」「……カートゥーン三本分くらいだ……すると、なぜだか上下左右が曖昧になり、気づけば夜が明けていてベッドの中にいるという不思議な体験ができる上、疲れも取れてとってもお得……」跳ね起きたクイーンの足が、帽子屋の向う脛を強かに打つ。「アンギャッ」


  クイーンはまた吠えた。幼年期の主張である。
 「そんなことしたら、ねちゃうじゃないの! 」

 「シッターは寝かしつけねえと仕事終わらねえの! 」そしてこちらは、保護者の主張だ。


 「もう十一時だぞ! 頼むから寝てくれよ! 俺が休めねえだろうがよ! 」

 「ふん。しるもんですか。どうせシャンペンでものむんでしょう」

  鋭い言葉に、帽子屋はギクリと肩を揺らす。クイーンは知っている。この車がミニカーだったのなら、握ってシェイクすればチャプチャプ音がするくらい、冷蔵庫に美味しい飲み物が詰まっているのである。アリスはこの大人を甘やかしすぎていると、クイーンは思う。

 「あたくししってます。しょくむたいまん、っていうのですわ! 」

 「この問題児め」

  帽子屋は歯軋りをしてくやしがっているが、所詮負け犬の遠吠えであった。アリス不在の場では、クイーンこそが最高権力であり覇者である。何人も、この幼き赤の女王の覇道を遮ることは許されない。
 拮抗するとしたらアリスと同い年で幼馴染のチェシャー猫だが、クイーンはいずれあの男よりも大きくなって、あのニヤニヤ顔をアリスの横から蹴落とすと決めている。


  むんと胸を張ったクイーンは、はたと窓の外を見た。ふと、尻の下が引っ張られるような感覚とともに、窓の外の風景が停止した。

 「……なんだ? 」
  帽子屋が腰を上げ、運転席と通じる小窓を開いた。

 「おい、どうし……」涎を垂らしていた白兎が跳ね起きる。シャツの襟首を引かれてシートの下に頭から落ちた帽子屋は、悪態をつきながら迅速に長い足を折り畳んで小さくなった。

  その頭の上を、いくつもの火矢のようなものが通過してバックウィンドウを砕く。
 「ちょっと待て防弾ガラスだろ!? 」

  車が急発進する。クイーンは小窓に張り付いた。運転手の後ろ頭が見えるはずのそれは、がらんどうのシートと、勝手に傾いているハンドルだけが見えた。

  車はみるみる速度を上げていく。まるで透明人間が操縦しているかのような有様だった。

 「うんてんしゅがいませんわ。くるまって、ここにいなくてもうごかせるもの? 」

 「ンなわきゃねーだろ! ラジコンじゃねぇんだぞ! 」

 「……ねえ、あれ」
  白兎が、控えめに砕かれたバックウィンドウを指した。


  こちらの車の尻をハイビームで照らしながら、猛進する影がある。それは、どこからどう見ても軽自動車のシルエットだったが、その上に細長い何かが突き刺さっている。……いや、突き刺さっているのではない。乗っているのだ。



  それは、人影だった。


  しかしそれにしては、奇妙に折れ曲がり、長すぎる影であった。それでも人影だと理解できてしまう。例えるなら、それは半端に不出来な案山子である。

  クイーンが小窓の下を蹴り上げる。爆弾でも爆発したような音がして、運転席との間に紙でも千切り取ったような穴が開いていた。音と威力は比例しているのに、凶器の外見と威力が比例していない。ここにいる二人の子供は、二人ともが、素手でそれほどの怪力を持った兵器であったことを再確認し、シッターは僅かに冷静になる。
  それとほぼ同時、案山子が長すぎる腕で空を掻き、空中の何かを掴むような仕草をしたのを帽子屋は見た。

  帽子屋には、敵が何をどうしようとしているのかは分からない。しかし、禍々しいほどの悪意だけは抽出できた。一瞬にして冷静になった頭が、グツグツと沸騰するのを感じる。



 「頭守れ! 」
  言うが早いか帽子屋は子供二人を抱え込み、なだれ込むように運転席に丸くなった。帽子屋の足が運転席に収まるより先に衝撃が襲い、車体後部からバウンドする。驚いた子供二人が、甲高い声で叫んでいる。悲鳴か、抗議か。おそらく後者だった。蹴られた肋骨と、逃げそびれた左足が熱い。

 「早く助けやがれアリス! 」

 「はいはーい! 」

  軽快な少女の声が、すぐそばで聞こえた。と、同時に、爆走していた車がゆっくりと停止する。
  どうやってここに? そんな質問は、彼女においては無意味でしかない。

  もし、『神』というものを、宇宙の法則を支配する『何か』と定義づけるのならば、今この世界では彼女こそが、帽子屋が知る中で最もそれに近しい存在だからである。

  だって彼女は、『そう作られた』のだから。



 「平気? 」

 「重傷者一名」

  座席の穴から、少女趣味の青いドレス姿のアリスが、顔を出して問いかける。

  逆さまにひっくり返りながら呻いて、帽子屋は手を上げてそれに応えた。クイーンと白兎は、アリスが声をかけただけで機嫌を真逆に戻して、帽子屋の上から飛び出していく。

 「なっさけねえなぁ、帽子屋」
 「うるせぇ、バケモノども」

  タキシードの襟を乱したチェシャー猫が、ニヤニヤしながら伸ばしてくる手を取る。


  繁華街を走っていたはずだというのに、どうりで揺れるはずである。そこは人気のない田舎道だった。民家どころか、街灯ひとつ見当たらない。帽子屋たちが這い出た高級車の残骸から離れたところに、一台の廃車が沈黙していた。煤けた白いワゴンである。

 「あっちの車に乗っていたやつは? 捕まえたのか? 」
 「聞いて驚くなよ帽子屋。今度の敵は、どうやら異世界人だぜ」
  チェシャー猫は薄い胸を張る。

 「……真面目に」
 「本当だって。根拠もある。でもあっさり逃げられちまった。ふわーあ」

  欠伸をするチェシャーに見切りをつけ、ボンネットに腰掛けるアリスに、視線を向けた。
 「チェシャーの言うことは本当。今日のパーティーで接触してきたの」

 「どーやらおれたち、いつのまにか異世界人に喧嘩ふっかけてたみたいだ。この世界を征服したいだけなのに」

 「それが駄目なんじゃねえの? ていうか絶対それじゃねえか? 」

 「二つも三つもいらねえってーの! 」

 「普通は世界を一つも欲しがったりしねえんだよ」

 「ふふ。でも帽子屋は、やめろとは絶対言わないわよね」

  訳知り顔で、アリスが上目づかいに覗き込んでくる。彼女にはなんでもお見通しというわけだ。

 「……アリスなら、できるかもしれねぇって、思っちまったからな。それが二番目の理由だ」
 「いちばんめは? 」

  クイーンが、アリスの横から覗き込んでくる。帽子屋はこころなしか、表情筋を引き締めて言った。血で汚れた青年の、怜悧な美貌が冴える。

 「死にたくねえ」

 「三番目は? 」

 「本当に世界征服できちゃったら、輝かしい未来が待ってるかもしれないから」

 「素直っていいことよ! 」

 「エラソーに。ガキンチョが……」


  ボンネットの上で笑い転げるアリスの頭をはたき、帽子屋は取り出した煙草に火をつけ……ゆたり、と視界が揺らめくのを感じた。

 「は……? 」

  眼球が、振り子のように揺れている。





 「アリス! 」

  聞き覚えのある声が、悲鳴となって響いていた。
  視界の端で、チェシャー猫が床に這いつくばり、追い縋るように腕を伸ばしているのが見えた。帽子屋は細く途切れそうな息を繰り返しながら、突然飛び込んできた目の前の光景にのけぞる。

  ーーーーここはどこだ? 

  いつもの部屋。見慣れた香水瓶の一室だ。

  ――――……だというのに、明らかに何かが違う。

  ――――どうして俺は、ここにいる?


  異常異常異常。たたらを踏んだ足が、何か弾力のあるものを踏んで、吐きそうになるほど後悔した。靴の下にあるのは、見覚えのある赤いドレスだったからだ。
 「帽子屋……」

  吐息のような声が、優しげに囁かれた。胸元に温もりがあることに気が付く。
 「ア、アア、ア、リス……お、おれは、何を――――」


  アリスはにっこりと、帽子屋に抱き付いたまま笑った。彼女の眩いほどに鮮烈な青い瞳が、淡く頼りなげな金色になっている。生ぬるい体温を抱きすくめようと少女の背中に手を回し、帽子屋は息を止めた。

 「……なんだ、これ」

  鼓動で温められた血液が、帽子屋の手が浸るほど噴き出している。ほんの鼻先にあるアリスの青空の瞳が点滅するように色を失くしていくのを、帽子屋は瞬きを忘れて見つめていた。

 「てめえ……っ! 裏切り者……! 」
  チェシャーがこちらを、帽子屋を睨んでいる。


  ――――何が、何が起きている……わからない……思い出せない。




  俺は何をしていた?





 「にんむしゅうりょう」


  帽子屋は、視界をスライドさせた。

  出来の悪い機械音声のような耳障りな声をしたそれは、床につくほどの長い頭髪で、顔は分からない。そもそもあれは、人の顔をしているのだろうか。骨格にくっついた筋肉と皮膚の生物としか形容できない。

  襤褸のようなものを着た、巨大で、細長い、奇妙なその生き物は、窓際で夕日に照らされ、赤黒く影を落としている。軽く持ち上げた手に、何かを持っていた。

  ししどに濡れたその塊は、ひどく脆そうに見え、そいつは見た目に似合わない繊細な手つきで、それをどこからか取り出した螺鈿の小箱に詰める。

  胸元にかろうじて縋りついていた少女の体が、あまりにあっけなく床に崩れ落ちた。濡れた背中に、ぽっかりと黒い穴が開いている。

  足元で獣の咆哮が上がる。脳髄がびりびりと震えるほどのそれを、悲鳴と帽子屋は認識した。幼い彼女は、小さな胸が抱く愛憎の大きさに悲鳴を上げている。
  赤いドレスが飛び上がり、帽子屋の頭を、万力のような力で小さい手が掴んだ。帽子屋は、少女の体を押し潰すように倒れる。
  最後に見たのは、白いザクロのような歯列と赤い舌。
  ――――そして。





  そして七月十八日。海を越えた国で、魔女が飛来する。
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