少年Cの終末目撃証言

陸一 潤

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序 少年Cの目撃証言

神さまは普通に暮らしたい

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 平均身長、やや痩せ型の体格、黒縁眼鏡をかけていて、その顔立ちは機嫌のいい時の猫に例えられる。そんな片田舎の十四歳であるところの僕である。

  主人公にしては地味すぎて、かといって、脇役にしても背景に埋もれている名もなきクラスメイトC。
  さて、そんな僕を他と区別する、明確なる個性とは何か。




  バスや電車で通学してくる生徒が占めるなか、僕のように徒歩通学をしている生徒は少ない。どれくらいかというと、クラスに三人いても多いくらいだ。
  それというのも、二、三ほどの理由がある。学園着の駅やバス停があることと、生徒には電車やバスの定期券が安く発行されること、それらを利用したとしても、山の坂を上るために毎朝お寺さんのように長い階段をエッチラ上がらなければいけないこと。
  少しでも運動量を減らそうと考える生徒の心理と、子を思う親心が、財布の紐を緩めさせる。これらが多くの生徒が乗り物を使う通学事情だ。
  僕の場合、「足を動かしてこそ男児の十代」という母の方針と、単純に駅が微妙な距離にあるという理由である。


  僕の家は、学校から徒歩三十分圏内の住宅街にある。郊外にある学園のさらに郊外。市の中でも、特に古い家屋とお年寄りが多い地区。そこに武家屋敷と見紛う、長い生垣で囲まれた建物がある。墨色の瓦屋根が乗っかった分厚い門を潜って、飛び石を踏みしめて僕は玄関に進む。


 「あっ、お帰ンなさい坊ちゃん」
 「ただいま。今日はいい天気だね」
 「そうですねぇ。洗濯物がよく乾いて助かりますよ」

  顔だけを見れば鋭利な美女。しかし低い声色と体格が、見るものを一瞬混乱させる。そんな青年が、山盛りの洗濯物を入れた籠を抱えて微笑んだ。
  居間を覗くと、髯のおじさんが家主を差し置いて、煎餅を齧りながらワイドショーを眺めている。
 「ただいま、コジロウさん」

 「おおっ、お帰り純くん」
 「今日は休み? 」
 「まぁね。俺はこれから病院行って、アキ坊の様子、見てきます」
 「そっか。じゃあ聖あきら兄ちゃんによろしく言っといてよ」

 「へーい」
  野太く、それでいて軽快な声が、後ろ頭に返ってきた。


  二階にあるおよそ4畳半の和室が、僕のわたし室として充てられている。
  小学校の時と変わらず使い続けている勉強机と、成長期を見越して去年買ったダブルベット。押入れはクローゼット兼本棚だ。
  襖をぴっちり閉め、僕はそっと、ベッドの上にリュックサックを下ろした。

 「大丈夫? 」
 「へいき」

  真っ黒い体に、前足だけ白い長靴を履いた猫が、つるんとリュックサックから出てくる。猫姿のエムはぷるぷる首を振って、赤い瞳をきゅっと細めた。

 「……あの人たちは? 」
 「ああ……そっか」

  僕には当たり前のことだけれど、我が家にはお手伝いさんのようなお兄さんが数人いる。母が面倒を見ている男たちで、母の務めている会社の社員らしいが、ローテーションを組んで母子二人の我が家の雑事をこなしてくれているのだ。
  迫力ある美貌で家事が得意な大陽ひろあき兄さん、虎のような剃り込と顎鬚が特徴的なコジロウさん、あともう一人、最年少の聖あきら兄さんが基本の三人で、いつでも誰かが我が家の安寧と生活を守っている。

  ちなみに、こうして勝手に生き物を連れ込んだ場合、聖兄さんが一番危険だ。大陽兄さんは真っ先に気が付くだろうが、「陽子さんに了解取ってくださいよ」の一言だけで、へたに突いてこないだろうから。コジロウさんは一番緩い。

 「でも大丈夫だよ。聖兄さんはいま入院しててね。だから会うことはないと思う」
 「ふうん……入院ねえ。なんで? 」
  僕は少し、話すことを躊躇した。……まあ、いいか。相手は猫だし。

 「……このへんで通り魔事件があったの、知ってる? 」
 「ああ、そうね」
 「聖兄さんは、その、それにやられてさ。……ていっても腕っぷしが強い人だから、攻撃を避けて迎え討とうとして階段を落っこちたんだけど」
 「それって、いつのこと? 」
 「十日前」

  エムは臭いものを嗅いだ時のような顔をした。

 「警察の発表じゃあ、通り魔の最後の被害者は四か月前じゃなかった? 」
 「表向きは、聖兄さんは酔っ払って階段を踏み外したことになってる。届け出なかったんだ」
 「どうして」
 「変なものを見ちゃったからさ」
 「へんなもの」
 「なんか、詳しくは教えてくれなかったんだけどね。……でもたぶん、その通り魔だと思う。通り魔はさ、『熊手のような凶器』で殴りつけるんだっていうじゃないか。ちょうど、そんな感じで服が裂けててさ……どうしたの?」

  エムはまた、臭いものを嗅いだ時のような顔をしていた。

 「……もしかして臭う? 」
 「ええ、別の意味で臭うわね」
 「え~掃除したほうがいい? それともお風呂入ってきたほうが」
 「そうじゃないわよ。通り魔事件のアレコレが見えてきた、って言ってんの」
  エムは枕の上に腰掛け、器用に足を組んでふんぞり返った。

 「でもそれ、フレーメン反応じゃないか」
 「それ『おならしたでしょ? 』って聞くようなものよ? 考えことしてるときの癖なのよ。ほっといて」
  エムはプイッと枕に陣取ると、体を横たえて毛づくろいを始めた。

 「ねえ、見えてきたってどういうこと? 」
 「わたしが持っている情報と、あんたが話した情報、併せてみたら現状が見えたってこと」
 「君は何を知ってる? 」
 「また後で話してあげる」
 「今じゃだめ?」
 「だぁめ」

  さっき出会ったばかりで、どうして聞きたいことがあるのだろう。首をかしげる僕をよそに、ころんと横ばいに転がったエムは、首を曲げて熱心に腹の毛を舐めだした。

  考えてみれば、彼女は都合により全裸である。僕は空気を読んで立ち上がると自室を出る。
  何か飲もうかな。冷蔵庫には、冷えた麦茶があるはずだ。運が良ければ、一昨日に買ってきたオレンジジュースも残っているはず。コジロウさんが飲んでいなければ。
  台所に行くと、洗濯物を片付けた大陽兄さんが、寸動鍋を取り出しているところだった。

 「お昼ご飯は素麺でいいですか? 」
 「うん」

  ジュースは見当たらなかったので、麦茶と氷を5:5でジョッキに入れる。こうするとあんまり氷も溶けないし、お替りに立つ回数が減って楽ちんなのだ。

 「あ、お湯沸かすので、見ていてもらってもいいです? すぐ戻りますんで」
  お湯を沸かす合間に、風呂掃除を済ませるのだろう。大陽兄さんはとても働き者である。

 「わかった。卵焼いとこうか」
 「ありがとう。じゃあお願いします」

  僕は玉子焼きに使う小さなフライパンを取り出し、火にかけた。温まる間の片手間に、卵と、ついでに使うだろうから、胡瓜とハムと、ちょっと悩んでトマト。後でコジロウさんがプランターで育てている青紫蘇ももらおうと決めておく。

  大陽兄さんが帰ったころ、特大の寸動鍋は、ようやく水面を波立たせだしたところだった。台所を明け渡して、僕は勝手口からコジロウさんのプランター家庭菜園コレクションのある庭へ、青紫蘇を収穫しに行く。ついでに万能葱も取っておこう。

  ……そういえば、彼女のご飯はどうしようかな。

 「葱を鷲掴みにして、何をしているの? 」
  背後から影が差した。
  振り返ると、風に揺れた水色のフレアスカートの裾が、腰を下ろした僕の肩をくすぐる。肩に日傘を携え、カールしたすすき色の髪が、ふわふわ夏の風に靡いていた。

 「うめさん」
 「近くを通ったから、寄ってみたの」
 「うちは今から素麺ですよ。お中元で三箱も被ったんです。」
  澄んだ海のような青緑の瞳がきらりと輝く。遠回しな僕の誘いに、母の知人は小首を傾げて頷いた。
 「お邪魔してもいいかしら」


  大陽兄さんは、勝手口から渋面でうめさんを迎えた。うめさんは、本心のわからない笑顔でにこにこしている。

 「まったく、裏から勝手に入るのはやめてくださいよ。泥棒かと思われますよ」
 「あら、ごめんなさい。だってこの家、玄関が遠いんですもの」

  大陽兄さんは、外国の血が混じっているので柔らかい顔のわりに背が高く、しっかりとした体格をしている。ターコイズブルーの瞳を持つ長身でスタイルのいいうめさんを並ぶと、美男と美女でとってもお似合いに見えた。釣り合う美貌の異性というと、お互いに貴重なはずだ。
  なのにこの二人、なぜだか知らないが仲が悪い。いや、正確には、大陽兄さんの方が、うめさんを凄まじく苦手としているようだ。
  穏やかな大陽兄さんがぶつぶつ言うのは、聖兄さんがやんちゃをした時と、うめさんを出迎えた時だけである。



  居間の食卓に、ボウルに盛られた素麺の山がそびえたった。大陽兄さんは、錦糸卵とハムと野菜を倍に追加し、うめさんの前だけ、最初から中ボウルに丘になった素麺がある。

 「いただきまーす」
 「匂いが強いのは苦手なの」と言って、葱や紫蘇などの薬味を避け、胡麻と海苔を香りづけに、「その成りで子供みたいな舌ですね」という大陽兄さんの嫌味も無視して卵や胡瓜やハムを次々投入し、うめさんは麺を吸い込んでいく。僕は黙って、日持ちしない刻みミョウガを多めに投入した。

 「そういえば坊ちゃん。あの子、お昼はお友達の家で食べてくるそうですよ」
 「ふうん」

  コジロウさんがいないなら、成長期は遠慮しなくていいだろう。僕はハムも多めに投入した。


  うめさんは、僕の交友関係において、母に次いで限りなくヒエラルキー頂点近くに君臨する女性である。
  母の知人であり、見たところ年齢は十代後半から二十代前半。母の友人にしては年が若すぎるように思うし、外見は外の国の人のように見えるけれど、みんな「うめさん」と呼んでいて、そういえば僕は苗字も知らない。
  一週間毎日うちで夕食を食べていく時があれば、数か月姿が見えないこともあり、来るときはいつも散歩帰りのような軽装でやってくる。
  さらには、朗らかなわりに押しが強い。特に要求もしていないようなのだが、これは彼女のために周囲が先に動くのだと思う。現にうちでは、まるで帰省した親類を迎えるように、料理を出して必要なら泊まっていく。それが暗黙の了解となっている。

  僕と大陽兄さんが箸をおいても、うめさんは淡々と食事を進めていた。コジロウさんが帰ってきたのは、そんなうめさんがボウルを空にして、僕と大陽兄さんが『さて、では片付けを……』と台所に立ち上がった頃だ。

 「ただいま帰りました。……おっ!美人がおりますな! 」
 「おかえりなさい、コジロウさん」
  うめさんはまるで家主のような風格で、コジロウさんを出迎えた。 太い眉尻を下げ、コジロウさんは大きな体を縮めて、うめさんの前にかしずくように正座する。

 「来てるなら言うてくださいよぉ」
 「言ったらいらない気遣いをするでしょう? 」

  でれっと精悍な顔を緩めて、コジロウさんはうめさんの一言に、十言くらいで返している。大陽兄さんと対照的に、この二人は仲がいい。……見たところ、不思議な関係だけれど。

 「……大陽兄さん、どうしてあの二人って仲がいいの? 」
 「コジロウさんが、うめさんの育て親だからですよ」
 「え!? そうなんだ……」
 「ええ、それに……」
 「オーイ大陽やい。わしの昼飯はないの? 」銅鑼声の主が、戸の端から顔を出す。

 「そこの人が全部食べちゃいましたよ! 恨むならそっちを恨んでください。……なんですかコジロウさん、その顔は。はあ、すみません坊ちゃん。ちょっと……たしか冷や飯なら冷蔵庫にありますよ! ……あっ、ちょっと! 」


  『うめさんって何者? 』そういう一番聞きたい一言を、なぜかいつも飲み込むはめになる。僕は音のないため息をして、台所をあとにした。
  部屋に戻ると、ベッドの端でエムが丸くなっていた。僕はその脇腹をそっと撫で、学習机の前に座って窓の外を眺める。
  ひと雨来そうだ。


  ◎◎◎◎◎


 ジーコ ジーコ ジーコ
 この音は知っている。田舎のばあちゃんちにある黒電話の音だ。僕は目を閉じている……のに、瞼の裏で、ひんやりと冷たい受話器を耳に当てている。
  もう何夜、この夢を見ただろうか。目が覚めたら、僕はこの夢のことをすっかり忘れているはずだ。
  ジーコ ジーコ ジーコ
 僕は誰にかけている? 指は、まるで自宅の番号を押すように、当然のように動いている。
  受話器の中で音が震え、誰かに繋がった。
  ーーーーもしもし。
  声。子供の声。
  ――――あなたは、だぁれ?
  僕は名前を言う。
  ――――じゃあ、お返しね。あたしは……。

  ブツン。

  ◎◎◎◎◎

 もふっ
 生温い毛だらけのものが顔にあたる。短い毛が鼻孔をくすぐって、僕は自分がしたクシャミの勢いで瞼を上げた。

 「……エム? 」
 「寝るなら眼鏡くらい取りなさいよ」
 「……うん」
 「ちょっと。どうしたの? 」

  頭が重いのは、眼鏡をかけたまま机なんかで寝てしまったせいだ。外で雨が降る音がする。ぼんやりエムの赤い目を見ていると、数時間前の会話を思い出した。

 「……そうだ。僕に聞きたいことってなに? 」
  エムは、ぱちぱちと何度も瞬きをした。
 「ああ……そうね。話さなくちゃ」
 「うん。話してよ」
 「……気が狂うわね」

  呆れた風に言って、エムはとことこ机上を横切り、スタンドライトを中指の肉球で押し、その幹を背に腰を下ろした。そういえば雨雲のせいで、いつのまにか部屋全体が薄暗い。
  学習机のスタンドライトをスポットライトにして、エム……『羽の生えた猫』は、にやりと―ーーーそう、その猫の顔で、にやりと頬を持ち上げて、歯を剥き出して笑った。
 「前置きとして。わたし、未来から派遣された魔女なの」

  僕は、二度三度と瞬きをしたように思う。

 「……未来には魔女がいるの? 」
 「魔女は、この世界にもっと昔からいるわ」
 「いつから? 」
 「人類の最初から」

  僕は黙って、丸まった背中を伸ばして座りなおした。

 「この世界で魔女の血を引いていない女はいないもの。わたしは、本流の魔女の血筋から三代離れた魔女。これでも濃い方なのよ」
 「じゃあ、僕も魔女の血を引いている? 」
  エムは頷いた。

 「未来では、内密に異世界との国交も始まっているわ」
 「どんなことをするの」
 「異世界人の組織した研究施設があるの。そこでは魔女の血筋が集まって、科学と魔法の両面で、世の中のすべてを研究している。わたしがそこの職員。つまりわたしは、この世界の血を引く未来人であり、違う世界に触れた異世界人でもあるってわけ」
 「それって、どうやって日本に来たの? 」
 「世界を外から見た時、時空も次元の壁は、実をいうとどっちもどっちなのよ」
 「上海に行くのと、グアムに行くの、どっちも飛行機でポッキリ四時間かかるから変わらない……みたいな感じ? 」
 「例えは悪かないわね。グアムと上海、同時には行けないでしょう」
 「そうだね」
 「碁盤を思い浮かべて。横の列が並列した異世界、縦の列がその世界の時間を表しているわ。うちの、10の八にあたる場所が、この世界のこの一九九九年、八月一八日の座標になるってわけ」
 「僕、碁は分からないよ」
 「じゃあ、あなたは魔女といって何を思い出す? 」


  僕は、少しばかり考えた。最初に浮かんだのは、絵本の一ページだ。幼少に捲った……納戸の奥にまだひっそりと並んでいるはずの、一冊の挿絵。

 「……白雪姫かな」
 「白雪姫! そんなもの読むの? 碁盤も知らないのに! 」

  僕はむっとした。
 「男女関係なく一度くらいは読まない? アニメだってある。ビビデバディベブーくらいまでなら、一般常識だと思ってるんだから」

 「ふうん……でも、ま、そんなもんか。それに白雪姫の継母は、テンプレートな魔女らしい魔女だわ。美女の臓物を食べてその若さを取り込もうとした行為、薬草を使った変化、罠、姫を探し出す魔術……魔法のチョイス使い方が基本に忠実というか……」
 「そうなの? 」


  『びじょのぞうもつ』なんて単語をスラリと口にする黒猫は、悪魔の使いみたいで少し怖い。エムは畳みかけるように、教示を重ねた。

 「白雪姫がどうして生き残ったと思う? それは最初に差し向けられた猟人から逃げられたからよ。彼女の最大のピンチはそこだったんだもの」
 「どうして? 」
 「決定的に『殺す』ことは、この継母にはできないの。魔女の魔法は、いわばルールに基づいたゲームだわ。『ただし○○してはいけない』『ただし××があれば効果は無効』は、よくある基本ルール。『この腰ひもで絞め上げたら死ぬ』『この櫛が刺さると毒を浴びる』『この林檎を食べると永遠の眠りにつく』……そういうルールね。これが魔法」
  僕はウンと頷いた。

 「でも、この女王の詰めが甘いところがこの魔法に現れている。腰紐で絞められたら切ればいい。毒の櫛なら抜けばいい。毒りんごなら吐き出せばいい……ね、毎回簡単に抜けられるでしょう? 彼女の魔法は、白雪姫が孤独であることが前提の殺害計画だもの。もっと力の強い魔女なら、もっと上手いルールでやるわ。だから姫が一番危なかったのは、猟人に襲われた時。一人きりの森で、ただの屈強な大人の男に襲われた時よ。ただ殺すだけなら、殺意ある手の一撃が一番効果的なのはいつの時代も同じなの。確実に殺したいのなら、猟人にきちんと殺させれば良かったの。魔法とは、意志に方向と役割を付属する術と考えて。それを打ち破るには、それより強い意志なのよ。殺意はとても強い『意志』よ。魔法は……たとえばアリバイ工作なんかには有効だけれど、殺すだけとなると話は別。よけいに話をややこしくするわ。継母の最後なんて、姫の方が一枚上手じゃない」

 「焼けた鉄の靴が? 」

 「そう。似たようなものが魔女裁判の拷問のひとつにあるのは知らないかしら? 鍛冶の火は神聖なもの。ヨーロッパでは昔から、邪悪なものは焼けた金物が苦手だと言われてたのよ。だから白雪姫は、継母に焼けた鉄の靴を履かせたの。確実に排除するために、抜かりなく一番必要なことをしたのね」
 「へえ~」
 「そして、その継母が余計に羽虫に思えるくらい、ものすっっっ……ごい魔女が、ここに現れるわ。彼女は魔女の源泉の血筋をもろに引いていてね」
 「……へえ? 」

  話の風向きが変わったのが分かった。ゆっくりと首を傾げた僕を、エムは半眼でねめつける。
 「……真面目に聞いてる? 」
 「うん。まじめまじめ」
 「通り魔事件、あるでしょう」
  斜め上から飛んできたボールに、落ちかけた首をもたげた。

 「それ、関係あるの? 」
 「大ありよ。いいこと、美嶋純。あなたにも関係ある話よ。わたしはこの事件が解決できなければ、存在そのものが消えて無くなる運命なの」
 「……消える? コンクリに詰められてドボンだとか、そういう……」
 「タイムパラドックスってわかる? 例えばあなたの祖父母が出会わない。そうすると、あなたの母親は生まれない。つまりあなた自身も生まれない……過去を変えると、そういうことが起きる。だからわたしはここに来たし、あなたを守らなければならない。世界を外側から見た時、その世界は一つの物語のように俯瞰して観測できるの。事件をうまく解決すれば、世界はもとの筋書きに戻り、わたしの存在も確立される。その『うまく解決』の条件の一つに、あなたの生存が必要不可欠なのよ」
  エムは壇上の役者の様に、ゆっくりと立ち上がった。前足の右を、左を、僕の顔の高さまで上げて……おおっ! 直立した! もこもこのお腹が気持ちよさそう! 毛皮が僕を誘惑する。

  肉球の先から剥けた爪が、わきわきと腕を持ち上げかけた僕の鼻先に突きつけられる。





 「早く解決しなくっちゃあ……あなたはこの事件の、最後の被害者になっちゃうのよ! 」


  ピッシャーン!





  ……と、窓の外で雷が奔った。

 「そうなんだ……」
 「……何よ。もうちょっと、慌てるなりなんなりしたらどうなの? 締まらない顔しちゃってさ。大事な話なのよ」
  うーん。それは分かるんだけど、まだちょっと脳みそに染みない。

 「これでも真面目だよ。あとねぇ、よく言われるけど、こういう顔なんです。いつも顔で笑って心で泣いてるの」
  僕がそこそこ優等生なのは、半分が性分で、半分が顔のせいだ。作り笑いは得意だけれど、真面目な顔というものが苦手。「何をへらへらしてるんだ! 」なんてふうに怒られたこともある。ちょっとしたコンプレックスなのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。僕は、とっても大切なことに気が付いた。

 「ねえエム。じゃあ未来から来た君は、犯人が分かっているんだろ? 」
 「ええ、まあね」
 「じゃあ、何も問題ないんじゃない? 」
 「やっぱり真面目に聞いてない! 」
 「真面目だって。見ての通りさ」
 「見てくれで判断してほしいなら、その緩んだ目元と口元をもっと引き締めなさいっての! 」
 「ま、落ち着きなよ。エムはご飯まだだろう? 腹が減っては戦はできぬって言うじゃない。ハラペコだから気が起つんだよ」
 「ああもうっ! 魔女は動き出してるわ。異変はとっくにそこまで来てるのよ! 常識知らずのやつがね! わたしには分かるの! 知ってるのよ! 」

  頭をぶるぶる振って癇癪を起すエムの首筋を、普通の猫にするように僕は撫でた。爪の出ていない前足が、すかさずその手ををはらい落とす。……愛い。
  部屋を出ていこうとした僕の背中に、エムの慌てた声が追ってきた。


 「あ、ちょっと! 猫缶は勘弁してよね! 」

  はいはい。

  ◎◎◎◎◎

「ひどい雨ですねえ」
 「そうだね」

  階下に降りると、大陽兄さんが雨戸を閉めながら、通りすがりの僕にぼやいた。築七十年の我が家は、時々思わぬところが悪くなる。たとえば縁側にある雨どいだとか。
  おかげで大陽兄さんは、雨戸を閉めるだけでびしょ濡れだ。

 「ゲリラ豪雨っていうんでしょう? 怖いですねぇ、温暖化って」
  大陽兄さんは、いつも通りお年寄りみたいなことを言っている。この様子からして、どうやらうめさんはすでに帰ったようだ。
 「手伝おうか? 」
 「いいえ。濡れちゃいますし」
  大陽兄さんはそう言うと思っていた。ふむ……これはまだかかるな。

  我が家で家事を……特に炊事を廻しているのは大陽兄さんである。兄さんは、冷蔵庫の中身の数量と一つ一つの賞味期限を厳密に把握しており、毎食の献立は彼の計算のもとに食卓に並ぶ。
  その繊細な采配には、何人も手を出すことを許されない。家主の息子ですら、事後報告が必須である。
  今、僕が自分に課した任務。それは、どうにかして大陽御大の息のかかっていない兵糧を手に入れることだ。

 「じゃあ、僕はお風呂沸かしとくよ」
  僕はいつも通り、少しの親切をするつもりでそう言った。大陽兄さんは当たり前だが、断る理由がない。自分も濡れているから、さっぱりしたいという気持ちもあるはずだ。

  僕は風呂場……に行く前に居間をチェックした。テレビが付いていない。勝手口もチェック。サンダルがない。……よし、コジロウさんは外で愛あい菜さいたちの救出中だ。冷蔵庫をチェック。コジロウさんのおつまみは……スルメしかない。猫にイカは駄目だろう。他は確実に大陽兄さんに見つかるな……床下収納をチェック。入院中の聖兄さんの秘蔵の缶詰を発見! 
  流れるように炊事場横にある風呂の湯沸しボタンを押すのも忘れずに、僕は部屋に戻ろうと踵を返し……何かにぶつかった。

 「きゃっ! 」……いや、これは僕の声じゃない。

 「――――いたた。あれぇ、ジュンちゃん」
  僕の胸ほどの高さに、小さな白い顔がある。青いワンピースを着たおさげの女の子は、僕の名前を呼んで元気に『ただいま』を言って、『あのね今日はね』と、今日どこで誰と遊んで、何が楽しかったのかを両手いっぱい使って話し始めた。

 「それでね、あやかちゃんとさやかちゃんが……ジュンちゃん? どうしたの? 」
  確か、裏の晴福寺さんちの双子のお孫さんが、『さやか』と『あやか』だったはずである。同級生なら、この子は小学六年生。

 「おや、こんなところでどうしたんですか坊ちゃん」
 「……大陽兄さん」

  僕は穴が開いた浮き輪のように、ゆるゆる息を吐いた。僕の視線は、見知らぬ少女と大陽兄さんの間をウロウロ彷徨う。
 「……おや」大陽兄さんは、僕の影にいた少女に気が付いた。
 「サキちゃん。お風呂はもう少し後だよ」
 「はぁい。ねえ、今日のごはん何?」
 「さあ、どうしようか。坊ちゃんは何がいいですか? ……坊ちゃん? 」
  僕は、凍った顔をほぐすように深呼吸した。背中を悪寒がタップダンスをしている。僕は努めて、表情筋の力を抜いた。……そうすると僕の顔は、勝手に笑顔に見えるようにできている。
 「ジュンちゃん、なんか今日は変なの」
 「えっ、坊ちゃん、具合でも悪いんですか? 」
 「ねえ、大陽兄さん。僕は一人っ子……じゃなかったよね」
 「なんですかその質問は。まさか妹の存在を忘れたってわけじゃあないでしょう? 」
 「お兄ちゃん、まさか記憶喪失? 」
 「あはは。そうじゃないよ。なんでもないんだ。ちょっと聞いてみただけ」
 「そうですか? 変な坊ちゃん……何事も無いならいいんですけれど」
 「 ……あっ、そうだヒロアキも聞いて! サキがね、あやかちゃんに言ったのよ。『それはこっちだよ! 』って。そしたらあやかちゃんが……」

  顔を笑わせるのは得意だ。

  僕の中身はぽかんとしたまま、その、降って湧いた自他称『妹』の話の相槌を打っていた。
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ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

それは思い出せない思い出

あんど もあ
ファンタジー
俺には、食べた事の無いケーキの記憶がある。 丸くて白くて赤いのが載ってて、切ると三角になる、甘いケーキ。自分であのケーキを作れるようになろうとケーキ屋で働くことにした俺は、無意識に周りの人を幸せにしていく。

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