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帚木【一】
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数年が経ち、人妻と呼ぶにはあまりに幼い御様子だったひかる宮もずいぶん大人らしく成長しました。
臣下に降嫁したとはいえ婚家は今をときめく左大臣家であり、夫は出世して今は葵の大将と呼ばれていて、強い後ろ楯のない立場の弱い皇女として未婚のまま暮らすよりはずっと豊かで幸せなはずでした。
大将は世間にはひかる宮だけを妻として暮らす真面目な人物として知られており、帝をはじめ皆がひかる宮はよい縁談を手にしたと喜んでいます。
しかし実際のところ、確かに大将の妻はひかる宮だけでしたが、中年やそれ以上の歳の恋人が何人かいて、密かに通っているのでした。
ひかる宮が女性として成熟してきた今もあまり触れようとはせず、ごく稀に義務的な床入りをするだけなのは、徹底した年上好みであるとしか言いようがありません。
ひかる宮は愛され大切にされる喜びは知らず、甘やかな夜の悦びも知らないままでした。
五月雨が長く続いて晴れ間もない頃、宮中の物忌みが続いたのを口実に、ひかる宮はいつにも増して宮中に長逗留しておりました。
舅の左大臣は葵の大将の恋人たちの存在には薄々気づいており、息子夫婦の仲がうまくいっていないことも察していましたが、だからこそせめてひかる宮にとって左大臣家の居心地が良くなるようにと衣装や調度を新調し、待ち遠しく思っています。
そんな左大臣の心遣いを、ひかる宮は気の毒に思うのでした。
葵の大将の同腹の弟は、今は頭中将として宮廷に仕えています。
異性ということもあってひかる宮とはそれほど馴れ馴れしくするわけにはいかない立場ではありますが、ひかる宮にとっては夫の葵の大将よりこちらの中将の方が話しやすく、気の合う相手なのでした。
音楽や蹴鞠が好きで活発な中将は話好きでもあり、ひかる宮とは御簾越しにではありますが色々な話題を共有しています。
中将も色々あって正妻のいる右大臣邸にはあまり寄り付かないので、その点では似た者同士でもあるのでした。
ひかる宮は心の中で、
「結婚したのが葵の大将ではなくこちらの中将だったら、もしかしたら結婚生活も意外と面白かったかもしれない」
と思うこともありましたが、友人としては良くても男性として愛せるかというと話は違ってくるだろうし中将だって自分を女としては見ないだろうと思い直すのでした。
世間ではひかる姫、ひかる宮などと持て囃され、美辞麗句を尽くして賛美されてはいても、実情は夫の心ひとつ捉えることができない自身のことを、宮は情けなく思っていました。
しかし、葵の大将に愛されていたとしてもそれで幸せになれたかは分かりません。
ひかる宮の心は未だに藤壺の宮にありましたので、夫に愛されたところでそれが変わるとも思えないのでした。
終日しとしとと所在なく雨が降り続けたまま、しめやかな宵になりました。
宮中には殿上の間にもほとんど人影がなく、ひかる宮のお部屋もいつもより閑かな雰囲気で、宮は燭台の灯を近く引き寄せて書物などを見ていました。
御簾の向こうには頭中将がいて、ひかる宮の厨子の中にある色とりどりの手紙をしきりに読みたがっています。
「別にご覧になっても構いませんよ、見られて困るものはないから」
と言うのを聞いて、中将はつまらなさそうな御様子です。
「じゃあ、見られたら困るようなのを見せてくださいよ。どうせ隠してあるんでしょう。ありふれた恋文ぐらいは私だってそれなりにやり取りしていますから、あなたほどの人がどんなふうに駆け引きをしているかが知りたいのです」
などと言ってそこらをがさごそと漁るふりをするので、控えている女房たちはくすくすと笑っています。
ひかる宮は、今のところやましい関係などは誰とも一切もっておりません。
ですが、季節の折々に若い公達からの手紙などは密かにたくさん届けられます。
人妻になったとはいえ帝に最も可愛がられている女宮ということや、世にも素晴らしい方だという世間の噂が若い男性の心を駆り立てるのでしょう。
そういった手紙は途中で人手に渡ってもいいように差出人の名前などははっきりと書かれてはいませんから、中将になら別に見られてもいいだろうと思って警戒していませんが、大切な藤壺の宮からの手紙だけは後生大事にしまい込んであります。
それこそやましさのかけらもない、心のこもった優しい言葉が書き連ねてある手紙は、誰にも見られたくないひかる宮の宝物なのでした。
不満そうに文句を言う中将をあしらっているうちに、左馬頭と藤式部の丞が物忌のため一緒に籠もろうと頭中将を呼びに来ました。
そんな二人を、中将は勝手に招き入れます。
ひかる宮に対しては遠慮がちな男たちも、頭中将がいると許されると思うのか、つい図々しくなるようでした。
宮は男たちを体よく追い出そうか少し迷いましたが、退屈な夜を過ごすよりはいいだろうと思ってしばらく様子を見ることに決めました。
頭中将は気楽な様子で近頃の自分の近況を話したり、他の二人に浮いた話はないかと探りを入れたりします。
その態度はくだけており、宮の御前だというのにずいぶん打ち解けた様子でした。
宮はその姿を特に無礼だとも思わず、親しく接してくれる義弟を可愛いとすら感じるのでした。
臣下に降嫁したとはいえ婚家は今をときめく左大臣家であり、夫は出世して今は葵の大将と呼ばれていて、強い後ろ楯のない立場の弱い皇女として未婚のまま暮らすよりはずっと豊かで幸せなはずでした。
大将は世間にはひかる宮だけを妻として暮らす真面目な人物として知られており、帝をはじめ皆がひかる宮はよい縁談を手にしたと喜んでいます。
しかし実際のところ、確かに大将の妻はひかる宮だけでしたが、中年やそれ以上の歳の恋人が何人かいて、密かに通っているのでした。
ひかる宮が女性として成熟してきた今もあまり触れようとはせず、ごく稀に義務的な床入りをするだけなのは、徹底した年上好みであるとしか言いようがありません。
ひかる宮は愛され大切にされる喜びは知らず、甘やかな夜の悦びも知らないままでした。
五月雨が長く続いて晴れ間もない頃、宮中の物忌みが続いたのを口実に、ひかる宮はいつにも増して宮中に長逗留しておりました。
舅の左大臣は葵の大将の恋人たちの存在には薄々気づいており、息子夫婦の仲がうまくいっていないことも察していましたが、だからこそせめてひかる宮にとって左大臣家の居心地が良くなるようにと衣装や調度を新調し、待ち遠しく思っています。
そんな左大臣の心遣いを、ひかる宮は気の毒に思うのでした。
葵の大将の同腹の弟は、今は頭中将として宮廷に仕えています。
異性ということもあってひかる宮とはそれほど馴れ馴れしくするわけにはいかない立場ではありますが、ひかる宮にとっては夫の葵の大将よりこちらの中将の方が話しやすく、気の合う相手なのでした。
音楽や蹴鞠が好きで活発な中将は話好きでもあり、ひかる宮とは御簾越しにではありますが色々な話題を共有しています。
中将も色々あって正妻のいる右大臣邸にはあまり寄り付かないので、その点では似た者同士でもあるのでした。
ひかる宮は心の中で、
「結婚したのが葵の大将ではなくこちらの中将だったら、もしかしたら結婚生活も意外と面白かったかもしれない」
と思うこともありましたが、友人としては良くても男性として愛せるかというと話は違ってくるだろうし中将だって自分を女としては見ないだろうと思い直すのでした。
世間ではひかる姫、ひかる宮などと持て囃され、美辞麗句を尽くして賛美されてはいても、実情は夫の心ひとつ捉えることができない自身のことを、宮は情けなく思っていました。
しかし、葵の大将に愛されていたとしてもそれで幸せになれたかは分かりません。
ひかる宮の心は未だに藤壺の宮にありましたので、夫に愛されたところでそれが変わるとも思えないのでした。
終日しとしとと所在なく雨が降り続けたまま、しめやかな宵になりました。
宮中には殿上の間にもほとんど人影がなく、ひかる宮のお部屋もいつもより閑かな雰囲気で、宮は燭台の灯を近く引き寄せて書物などを見ていました。
御簾の向こうには頭中将がいて、ひかる宮の厨子の中にある色とりどりの手紙をしきりに読みたがっています。
「別にご覧になっても構いませんよ、見られて困るものはないから」
と言うのを聞いて、中将はつまらなさそうな御様子です。
「じゃあ、見られたら困るようなのを見せてくださいよ。どうせ隠してあるんでしょう。ありふれた恋文ぐらいは私だってそれなりにやり取りしていますから、あなたほどの人がどんなふうに駆け引きをしているかが知りたいのです」
などと言ってそこらをがさごそと漁るふりをするので、控えている女房たちはくすくすと笑っています。
ひかる宮は、今のところやましい関係などは誰とも一切もっておりません。
ですが、季節の折々に若い公達からの手紙などは密かにたくさん届けられます。
人妻になったとはいえ帝に最も可愛がられている女宮ということや、世にも素晴らしい方だという世間の噂が若い男性の心を駆り立てるのでしょう。
そういった手紙は途中で人手に渡ってもいいように差出人の名前などははっきりと書かれてはいませんから、中将になら別に見られてもいいだろうと思って警戒していませんが、大切な藤壺の宮からの手紙だけは後生大事にしまい込んであります。
それこそやましさのかけらもない、心のこもった優しい言葉が書き連ねてある手紙は、誰にも見られたくないひかる宮の宝物なのでした。
不満そうに文句を言う中将をあしらっているうちに、左馬頭と藤式部の丞が物忌のため一緒に籠もろうと頭中将を呼びに来ました。
そんな二人を、中将は勝手に招き入れます。
ひかる宮に対しては遠慮がちな男たちも、頭中将がいると許されると思うのか、つい図々しくなるようでした。
宮は男たちを体よく追い出そうか少し迷いましたが、退屈な夜を過ごすよりはいいだろうと思ってしばらく様子を見ることに決めました。
頭中将は気楽な様子で近頃の自分の近況を話したり、他の二人に浮いた話はないかと探りを入れたりします。
その態度はくだけており、宮の御前だというのにずいぶん打ち解けた様子でした。
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