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第一章 桐壺
二
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更衣は帝の寵愛に縋りなんとか暮らしておりましたが、何かにつけて蔑み、粗探しをしてくる人々の中では心細くてなりません。
もともと腺病質で弱々しい上に、帝のあまりにも深すぎる愛が却って仇になり、様々な気苦労の耐える間もないためいつまで生きられるやらと不安なのでした。
更衣が住んでいるのは「桐壺」と呼ばれるお部屋です。
桐壺は帝がいつもいる清涼殿から一番遠い位置にあるので、帝が通う時には多くの妃たちのお部屋の前を素通りしなければなりません。
それもひっきりなしに通うので、長いこと帝のお通いのない妃たちが妬ましく思うのも当然のことでした。
更衣が帝に召されて清涼殿に上がる時、特にそれが度重なる折には、更衣はひどい嫌がらせを受けたのです。
打橋や渡り廊下の通り道のあちこちに汚物が撒き散らされて送り迎えの女房たちの衣装の裾が我慢できないほど汚されたり、どうしてもそこを通らなければならない廊下の戸を両側から閉ざして中に更衣やお供の女房たちを閉じ込めたり、とにかく更衣たちに恥をかかせ、途方に暮れさせるようなことがよくありました。
こんなふうに苦労が増すばかりなので更衣は悩み続け、すっかり塞ぎ込んでしまいました。
そんな様子を見た帝は不憫さと愛しさを募らせ、激しく庇護欲を掻き立てられました。
そこで清涼殿とすぐ隣り合わせの後涼殿にお部屋をいただいて住んでいた一人の更衣を他に移すように命じ、その後は愛する更衣が清涼殿に召されたときに使う専用の部屋にしてしまいました。
追われた更衣の身になれば、どんなにか口惜しく、その恨みは晴らしようもなかったことでしょう。
さて、更衣の産んだ姫宮が数え年で三つになった年、袴着の式がありました。
先に行われた一の宮の式に劣らないよう、帝は内蔵寮や納殿の素晴らしい品々を惜しみなく使い、それは立派に行いました。
世間では更衣に対する非難ばかりが多いので、この姫宮も初めは全く歓迎されていませんでした。
しかし成長するにつれ、顔や姿はますます愛らしくなり、性質も素直で愛嬌があります。
そのため更衣をひどく憎んでいる妃たちでさえ、この姫宮のことまでは憎み切ることができませんでした。
その年の夏、更衣ははっきりしない気鬱の病になり、お里に下がって養生したいと願い出ました。
しかし、帝はなかなか暇を出しません。
ここ何年か更衣はとかく病気がちでしたので、帝はそれに慣れきってしまい、もうしばらくこのままで様子を見ようと言うばかりでした。
そのうち病状は日増しに重くなっていき、ほんの数日の間にめっきり衰弱してしまいましたので、更衣の母君が泣く泣くお願いして、ようやく実家に帰るお許しが出ました。
こういう場合にも、もしも退出の行列に何かひどい仕打ちを仕掛けられ、恥をかかされるようなことがあってはと取り越し苦労をして、姫宮は宮中に残されたまま、更衣だけがひそかに退出しました。
引き止めたくても、宮中の作法によって限度があります。
清く貴い宮中に穢れは御法度であり、死が迫っているかもしれない病人を置いておくことはできません。
帝もこれ以上はどうにも止めようがなく、立場上見送りさえ思うに任せない心もとなさを言いようもなく辛く感じるのでした。
もともと更衣は美しく可憐な人だったのに今はすっかり面やつれしており、帝とのお別れをたまらなく悲しみながらも、それを言葉に出すこともできずに今にも消え入りそうになっています。
それを見た帝は過去も未来も一切考えられず、ただもうあれこれと泣く泣く来世のことなどを約束するのですが、更衣はもうお返事さえできません。
帝は心痛のあまり気もそぞろで、更衣のために特別に輦車を使うことを許す宣旨を出してからも、また更衣のお部屋に引き返し、どうしても更衣を手放すことができない様子です。
ところが傍から、
「今日から始めることになっていますご祈祷の支度が整いました。霊験あらたかな僧たちが、もう既に里の方で待っておりますので」
としきりに急かしますので、帝はたまらない気持ちのまま、今はもうどうしようもなく更衣の退出を許したのでした。
帝はその夜は寂しさと不安で心が塞がり、まんじりともせず夜を明かしかねていましたが、里へ見舞いにやられた使いが戻って来て
「夜中過ぎに、とうとうお亡くなりになりました」
と伝えました。
それを聞いた帝は、悲嘆のあまり茫然自失して部屋に引きこもってしまいました。
帝は更衣の忘れ形見の姫宮をそばに引き止めて顔を見ていたいと思いましたが、母の喪中に宮が宮中にいらっしゃるのは前例のないことなので、仕方なく宮も里方へ退出しました。
宮はまだ頑是なくて、何が起こったのか分からず、女房たちが泣き惑い、しきりに涙を流すのを不思議そうに眺めています。
普通のありふれた親子の別れでさえ悲しいものなのに、母君との死別さえわきまえない幼い姫宮の哀れさは一入で、周囲の涙を誘うのでした。
いくら名残りを惜しんでも、こうしたときの掟には限りがありますので、更衣の亡骸はやがて作法どおりに火葬にされることになりました。
更衣の母君は娘と同じ煙になって、空へ登り消えてしまいたいと泣き焦がれます。
宮中から勅使が来て、亡き更衣に三位の位を贈るとの宣命を読み上げるのが、いっそう悲しみを誘うのでした。
生前女御とも呼ばせずに終わったのを、帝はとても残念で口惜しく思い、せめてもう一段上の位だけでもと贈ったのでした。
もともと腺病質で弱々しい上に、帝のあまりにも深すぎる愛が却って仇になり、様々な気苦労の耐える間もないためいつまで生きられるやらと不安なのでした。
更衣が住んでいるのは「桐壺」と呼ばれるお部屋です。
桐壺は帝がいつもいる清涼殿から一番遠い位置にあるので、帝が通う時には多くの妃たちのお部屋の前を素通りしなければなりません。
それもひっきりなしに通うので、長いこと帝のお通いのない妃たちが妬ましく思うのも当然のことでした。
更衣が帝に召されて清涼殿に上がる時、特にそれが度重なる折には、更衣はひどい嫌がらせを受けたのです。
打橋や渡り廊下の通り道のあちこちに汚物が撒き散らされて送り迎えの女房たちの衣装の裾が我慢できないほど汚されたり、どうしてもそこを通らなければならない廊下の戸を両側から閉ざして中に更衣やお供の女房たちを閉じ込めたり、とにかく更衣たちに恥をかかせ、途方に暮れさせるようなことがよくありました。
こんなふうに苦労が増すばかりなので更衣は悩み続け、すっかり塞ぎ込んでしまいました。
そんな様子を見た帝は不憫さと愛しさを募らせ、激しく庇護欲を掻き立てられました。
そこで清涼殿とすぐ隣り合わせの後涼殿にお部屋をいただいて住んでいた一人の更衣を他に移すように命じ、その後は愛する更衣が清涼殿に召されたときに使う専用の部屋にしてしまいました。
追われた更衣の身になれば、どんなにか口惜しく、その恨みは晴らしようもなかったことでしょう。
さて、更衣の産んだ姫宮が数え年で三つになった年、袴着の式がありました。
先に行われた一の宮の式に劣らないよう、帝は内蔵寮や納殿の素晴らしい品々を惜しみなく使い、それは立派に行いました。
世間では更衣に対する非難ばかりが多いので、この姫宮も初めは全く歓迎されていませんでした。
しかし成長するにつれ、顔や姿はますます愛らしくなり、性質も素直で愛嬌があります。
そのため更衣をひどく憎んでいる妃たちでさえ、この姫宮のことまでは憎み切ることができませんでした。
その年の夏、更衣ははっきりしない気鬱の病になり、お里に下がって養生したいと願い出ました。
しかし、帝はなかなか暇を出しません。
ここ何年か更衣はとかく病気がちでしたので、帝はそれに慣れきってしまい、もうしばらくこのままで様子を見ようと言うばかりでした。
そのうち病状は日増しに重くなっていき、ほんの数日の間にめっきり衰弱してしまいましたので、更衣の母君が泣く泣くお願いして、ようやく実家に帰るお許しが出ました。
こういう場合にも、もしも退出の行列に何かひどい仕打ちを仕掛けられ、恥をかかされるようなことがあってはと取り越し苦労をして、姫宮は宮中に残されたまま、更衣だけがひそかに退出しました。
引き止めたくても、宮中の作法によって限度があります。
清く貴い宮中に穢れは御法度であり、死が迫っているかもしれない病人を置いておくことはできません。
帝もこれ以上はどうにも止めようがなく、立場上見送りさえ思うに任せない心もとなさを言いようもなく辛く感じるのでした。
もともと更衣は美しく可憐な人だったのに今はすっかり面やつれしており、帝とのお別れをたまらなく悲しみながらも、それを言葉に出すこともできずに今にも消え入りそうになっています。
それを見た帝は過去も未来も一切考えられず、ただもうあれこれと泣く泣く来世のことなどを約束するのですが、更衣はもうお返事さえできません。
帝は心痛のあまり気もそぞろで、更衣のために特別に輦車を使うことを許す宣旨を出してからも、また更衣のお部屋に引き返し、どうしても更衣を手放すことができない様子です。
ところが傍から、
「今日から始めることになっていますご祈祷の支度が整いました。霊験あらたかな僧たちが、もう既に里の方で待っておりますので」
としきりに急かしますので、帝はたまらない気持ちのまま、今はもうどうしようもなく更衣の退出を許したのでした。
帝はその夜は寂しさと不安で心が塞がり、まんじりともせず夜を明かしかねていましたが、里へ見舞いにやられた使いが戻って来て
「夜中過ぎに、とうとうお亡くなりになりました」
と伝えました。
それを聞いた帝は、悲嘆のあまり茫然自失して部屋に引きこもってしまいました。
帝は更衣の忘れ形見の姫宮をそばに引き止めて顔を見ていたいと思いましたが、母の喪中に宮が宮中にいらっしゃるのは前例のないことなので、仕方なく宮も里方へ退出しました。
宮はまだ頑是なくて、何が起こったのか分からず、女房たちが泣き惑い、しきりに涙を流すのを不思議そうに眺めています。
普通のありふれた親子の別れでさえ悲しいものなのに、母君との死別さえわきまえない幼い姫宮の哀れさは一入で、周囲の涙を誘うのでした。
いくら名残りを惜しんでも、こうしたときの掟には限りがありますので、更衣の亡骸はやがて作法どおりに火葬にされることになりました。
更衣の母君は娘と同じ煙になって、空へ登り消えてしまいたいと泣き焦がれます。
宮中から勅使が来て、亡き更衣に三位の位を贈るとの宣命を読み上げるのが、いっそう悲しみを誘うのでした。
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