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僕はうるさく軋む木のドアをゆっくりと開け、薄暗い部屋の中へ右足を進める。
「お久しぶりです」
「おうおう、やっときたか」
低くざらざらした、しわがれた声だけが僕のもとに届く。声の主の顔はまだ見えない。
「そりゃあもう、随分と遅かったじゃないか、クソガキ」
ドアの輪郭が横を通り過ぎるのと同時に、白いあごひげを生やした細い老人が姿を見せた。老人は背中を丸めたまま、テーブルの奥で肘をつき、口を引きつらせている。
「それについてはどうもすみませんでした。それにしても、どうして僕だとわかったのでしょう? 僕に昔の面影が残ってるとは思えません」
「この辺りに残ってるのはもう俺だけなんだよ。もう皆好き勝手上の方に行っちまった。今となってはここが地上なんだか地下なんだかもわかりやしない。そうなりゃこんな所にわざわざやってくるのはお前だけだろうよ。おかげ様で、偉く退屈さ」
「そうでしたか。それならなおさら、遅れて申し訳ございません。」
「おう、まあ座れや。時間は腐るほどあるんだ」
僕はビジネスバッグを右の地面に下ろし立ててから、老人に対面するように、テーブルの前にある薄汚れた木のイスに腰を下ろす。
「しかしまあ、でかくなったもんだな。俺が最後に見た時には、まだこんなだったと思うが」
そう言って老人は右手を頭の少し上まで持ち上げ、小さく横に揺らす。
「僕も成人ですよ。もう老いに向かう身ですから。言ってしまえば、用済みだと言われているようなものです。」
「...用済みだと?」
老人は顔を伏せながら嗤いだす。
「かっかっか...! 赤ん坊のお前が用済みね、そりゃあ悲しいこった! ああ、悲しいな、かっかっか...!」
老人はひとしきり嗤い終わると、唾を垂らしながら話し始める。
「ああ...それで? お前がここに来たってことは、なにかうまくいってねえってことなんだろ?」
「そうです。今日はそれを話しに、ここまで来ました。」
老人はテーブルに置いてある黒ずんだジョッキを口元に近づけ、ゴリゴリと酒を喉にそそぐ。
「おう、てめえも飲むか?」
「いえ、僕は遠慮しておきます。酒は苦手なので。」
「けっ、そうかい。」
酒を注ぎなおす老人を横目に、僕は話を始める。
「どうすればいいのか、わからなくなりました」
「どうすればって、何の話だ?」
「全部です」
そう言うと、老人はつぶれていない方の左目で、僕の目をじっと見つめる。
「全部ねえ」
老人は顎の横についた吹き出物をつねりながら、何もないテーブルの木目に視線を送る。
「それはお前、俺が何か言ったところでどうにかすんのか?」
「僕は先生を信用していますから」
「けっ」
老人は背を持たれて耳の穴に中指を入れる。
「じゃあ聞いとくがな、お前、嘘はついてるか?」
「ついていません」
「そんなこったろうと思ったよ」
「いけないことですか?」
「いけないね。正直者ってのはバカの事さ。正直者が偉いだのなんだのって知らないが、結局そいつを誰が讃えるんだ、ん? 神か? 仏か? お天道様はバカとそれ以外のどっちの味方なんだ?」
「僕は救いを望んでいるわけではありません。正しい事こそがこの世の収束点と考えているだけです。だから、その収束点を僕は探している。」
老人の口元が引きつる。
「かっかっか...! ああそうか、お前はバカなんかじゃないね。大馬鹿もんだよ、大馬鹿もん。お前はわざわざ、死に向かって走ってるんだよ、自殺願望者が。自分が死にてえのかどうかもわからずに、時間をかけて首をくくってるのさ」
僕は引き嗤いを続ける老人を、ただじっと見つめている。
「おうおう、じゃあそんな早死に野郎のお前さんに、俺が特別に長寿の秘訣を教えてやろう」
「それは、何ですか?」
老人は緑色の瓶を逆手に握る。
「酒だよ、酒を飲む事さ。長生きしたいだろ? くっくっく...! どうだ、少しは俺と酒を飲む気になったか?」
「...どうでしょう」
老人は持っていた瓶を横に投げる。瓶は部屋の壁にぶつかり、地面に触れると同時に粉々に砕け散った。あたりには、緑や茶色のガラスの破片が山積みになっている。
「ああなんだ? お前あれだ、女とはうまくやってるか?」
「いえ」
「ちっ、全くふざけてる」
「女性と関係を持つことが良い事なのか悪い事なのかを判断するには、20年という時間はあまりにも短すぎた。静かに考える時間なんて全く与えられなかった。まるで何か大きなものに、衝動的に生きる事を強要されているかのような気分です。」
「なんだその言いぐさは? 反吐が出るな」
老人の人差し指が木のテーブルをつつく音が、静かな部屋の中にわずかに響く。
「そんな事言ってる奴は、周りから白い目で見られるぜ」
「ある程度の事は覚悟しています。僕が彼らを見下しているのだから、僕も見下されて当然です。」
「それは悲しくないのか?」
「...悲しいと思います」
「そりゃそうだろうよ」
「今までの人生の中には、僕を必要としてくれる人間も少なからずいたのかもしれません。しかし、僕はその人を必要としなかった。その人だけでなく、誰も必要としなかったのだと思います。」
「なぜお前は誰も必要としなかった?」
僕は顎を引いて、2回まばたきをし、鼻から大きく息を吸い込む。
「嫌になったからです」
「ああ」
「欲望が透けて見えてくるんです。日々の些細な挙動や、ツノの大きさを競い合う男共の声、花の美しさの概念にすら、その奥に見え隠れしている人間の皮膚の油が、浮き出た静脈が、現れては頭にこびりついて離れないんです」
老人は小さな目を大きく開く。
「ん、なんだお前、俺が思ってたよりよっぽど"人間してる"じゃないか? かっかっか...!」
静かになった部屋で、老人は首ごと大きく頭を縦に揺らす。
「お前は所詮、人間中心に考えてるのに過ぎないのさ。人間に価値があると思いこんでいる。あまりにも大きな偏見と錯覚を持った状態で物事を見ているんだ。だからお前の口から出るすべての言葉には、何の価値もない」
「どういう事でしょうか?」
僕は姿勢を保つ。
「"正解は無い"って、よく言うだろ」
「その言葉は嫌いです」
「知ってるよ。だからわざと言ったのさ、クソガキが。お前は真夜中にカボチャ畑にでも躍り出て、夜空に向かって叫びながら、ヘッタクソな悲哀を歌ってるのがお似合いさ。今すぐにでもこんな場所を出て行って、そうすればいい」
「いつかは、そうするかもしれません」
「ふん、本当にてめえはムカつく野郎だな。死にてえならさっさと死んじまえってんだ」
老人は右手を左の肩に乗せ、首をゆっくりと回す。
「今は何もする気にならないんです」
「ああ」
「この世界のすべての色を混ぜると、最後にはただのモノクロの模様しか残らない。もしかしたら、そんな模様すら残らないのかもしれません。それがわかってしまうから、何の色も表現する気にならない。」
「だろうな」
「"世界は残酷だが美しい"と多くの人は言います。でも僕は、そうは思わない。あるのは残酷さと、その先にある白黒の退屈さだけです。世界を美しいと讃えるのは、救いの虚像を崇拝する狂信がもたらした戯言です。」
「...きっきっき...!」
老人の体が小刻みに揺れる。
「お前、自分以外の人間を狂信者とでも言ってるのか? そりゃあ、クズだわ。お前、正真正銘のクズだよ、気違いさ。かっかっか...!」
「僕は自分をクズだとは思っていません。もちろん、優しい人間だとも思っていませんが」
「てめえをクズかどうか決めるのは、てめえじゃねえだろ」
「そうなのでしょうか」
僕は天井を見上げた。かすかに見える樹の色の中に、黒い斑点が無数に散らばっている。
「僕からも先生に、質問をしていいですか」
「なんだよ、言ってみろ」
「なぜ先生は死なないのですか?」
老人は首を右に傾け、ゴリっと音を鳴らす。
「そりゃ、死にたくねえからだろ」
「それについては、僕も同意見です」
老人は眉間にしわを寄せる。
「同意見なわけあるか。てめえの小便臭い"死にたくない"と一緒にするんじゃねえよ。俺はな、お前らが死んだ昆虫みてえにひっくり返って、冷たくなってる様を見届けなきゃいけねえんだよ。そして最後は一人も二人もなくなって、境界線を失ったタンパク質がぼろぼろと奈落に落ちていくのさ。それがよ、くっくっく...!」
「それを見届けるという行為にどんな意味があるんでしょうか」
「まあやってみりゃわかるさ。知りたくなったら、またここにくればいい」
「あまり気が進みません」
「ああ、そうか。まあ、いつでも待ってるからよ、きっきっき...!」
僕は一点を見つめている。
「最後に一つだけ、聞きたいことがあります」
「おう、なんだ」
「僕が最後に会った貴方は、嗤わない人でした。何が先生を変えたのでしょうか」
「変えただと?」
老人は暗がりから僕の瞳をとらえる。
「馬鹿言え。何も変わっちゃいないさ」
老人の喉仏が、大きく上下する。
「だがな、いいことを一つ教えてやる。やれ真実だの、やれ善悪だの騒いでいる奴がな、その死に際になんて言うと思う?」
「...」
「"ありがとう"だとよ。どいつもこいつも薄い意識に、最後の力で愛を唄うのさ。...きっきっき! それが嗤わずにいて、どうしていられる? わかるか? 嗤いが止まらないんだよ!...かっかっか...!ひっ、ひっひっひ...!」
ガラガラと響く老人の嗤い声を横目に、僕はイスを引き、膝を伸ばす。
「おう、もう帰るのか?」
「はい。話したいことはもうすべて話したので」
「また来るのか?」
「...いえ、もうここに来る事は無いと思います」
「そりゃあ、いい心がけなこった。かっかっか...!」
僕は後ろを振り返り、ドアを引いた。
「じゃあな、きっきっき...!」
止まることのない老人の引き嗤いに振り向くことなく、部屋の境界を通り過ぎる。
ガコン、というドアの閉まる重い音が、すぐ後ろに聞こえた。
巨大な橋の影が、街を覆ってる。どこを見渡しても、昼か夜かはわからない。
「お久しぶりです」
「おうおう、やっときたか」
低くざらざらした、しわがれた声だけが僕のもとに届く。声の主の顔はまだ見えない。
「そりゃあもう、随分と遅かったじゃないか、クソガキ」
ドアの輪郭が横を通り過ぎるのと同時に、白いあごひげを生やした細い老人が姿を見せた。老人は背中を丸めたまま、テーブルの奥で肘をつき、口を引きつらせている。
「それについてはどうもすみませんでした。それにしても、どうして僕だとわかったのでしょう? 僕に昔の面影が残ってるとは思えません」
「この辺りに残ってるのはもう俺だけなんだよ。もう皆好き勝手上の方に行っちまった。今となってはここが地上なんだか地下なんだかもわかりやしない。そうなりゃこんな所にわざわざやってくるのはお前だけだろうよ。おかげ様で、偉く退屈さ」
「そうでしたか。それならなおさら、遅れて申し訳ございません。」
「おう、まあ座れや。時間は腐るほどあるんだ」
僕はビジネスバッグを右の地面に下ろし立ててから、老人に対面するように、テーブルの前にある薄汚れた木のイスに腰を下ろす。
「しかしまあ、でかくなったもんだな。俺が最後に見た時には、まだこんなだったと思うが」
そう言って老人は右手を頭の少し上まで持ち上げ、小さく横に揺らす。
「僕も成人ですよ。もう老いに向かう身ですから。言ってしまえば、用済みだと言われているようなものです。」
「...用済みだと?」
老人は顔を伏せながら嗤いだす。
「かっかっか...! 赤ん坊のお前が用済みね、そりゃあ悲しいこった! ああ、悲しいな、かっかっか...!」
老人はひとしきり嗤い終わると、唾を垂らしながら話し始める。
「ああ...それで? お前がここに来たってことは、なにかうまくいってねえってことなんだろ?」
「そうです。今日はそれを話しに、ここまで来ました。」
老人はテーブルに置いてある黒ずんだジョッキを口元に近づけ、ゴリゴリと酒を喉にそそぐ。
「おう、てめえも飲むか?」
「いえ、僕は遠慮しておきます。酒は苦手なので。」
「けっ、そうかい。」
酒を注ぎなおす老人を横目に、僕は話を始める。
「どうすればいいのか、わからなくなりました」
「どうすればって、何の話だ?」
「全部です」
そう言うと、老人はつぶれていない方の左目で、僕の目をじっと見つめる。
「全部ねえ」
老人は顎の横についた吹き出物をつねりながら、何もないテーブルの木目に視線を送る。
「それはお前、俺が何か言ったところでどうにかすんのか?」
「僕は先生を信用していますから」
「けっ」
老人は背を持たれて耳の穴に中指を入れる。
「じゃあ聞いとくがな、お前、嘘はついてるか?」
「ついていません」
「そんなこったろうと思ったよ」
「いけないことですか?」
「いけないね。正直者ってのはバカの事さ。正直者が偉いだのなんだのって知らないが、結局そいつを誰が讃えるんだ、ん? 神か? 仏か? お天道様はバカとそれ以外のどっちの味方なんだ?」
「僕は救いを望んでいるわけではありません。正しい事こそがこの世の収束点と考えているだけです。だから、その収束点を僕は探している。」
老人の口元が引きつる。
「かっかっか...! ああそうか、お前はバカなんかじゃないね。大馬鹿もんだよ、大馬鹿もん。お前はわざわざ、死に向かって走ってるんだよ、自殺願望者が。自分が死にてえのかどうかもわからずに、時間をかけて首をくくってるのさ」
僕は引き嗤いを続ける老人を、ただじっと見つめている。
「おうおう、じゃあそんな早死に野郎のお前さんに、俺が特別に長寿の秘訣を教えてやろう」
「それは、何ですか?」
老人は緑色の瓶を逆手に握る。
「酒だよ、酒を飲む事さ。長生きしたいだろ? くっくっく...! どうだ、少しは俺と酒を飲む気になったか?」
「...どうでしょう」
老人は持っていた瓶を横に投げる。瓶は部屋の壁にぶつかり、地面に触れると同時に粉々に砕け散った。あたりには、緑や茶色のガラスの破片が山積みになっている。
「ああなんだ? お前あれだ、女とはうまくやってるか?」
「いえ」
「ちっ、全くふざけてる」
「女性と関係を持つことが良い事なのか悪い事なのかを判断するには、20年という時間はあまりにも短すぎた。静かに考える時間なんて全く与えられなかった。まるで何か大きなものに、衝動的に生きる事を強要されているかのような気分です。」
「なんだその言いぐさは? 反吐が出るな」
老人の人差し指が木のテーブルをつつく音が、静かな部屋の中にわずかに響く。
「そんな事言ってる奴は、周りから白い目で見られるぜ」
「ある程度の事は覚悟しています。僕が彼らを見下しているのだから、僕も見下されて当然です。」
「それは悲しくないのか?」
「...悲しいと思います」
「そりゃそうだろうよ」
「今までの人生の中には、僕を必要としてくれる人間も少なからずいたのかもしれません。しかし、僕はその人を必要としなかった。その人だけでなく、誰も必要としなかったのだと思います。」
「なぜお前は誰も必要としなかった?」
僕は顎を引いて、2回まばたきをし、鼻から大きく息を吸い込む。
「嫌になったからです」
「ああ」
「欲望が透けて見えてくるんです。日々の些細な挙動や、ツノの大きさを競い合う男共の声、花の美しさの概念にすら、その奥に見え隠れしている人間の皮膚の油が、浮き出た静脈が、現れては頭にこびりついて離れないんです」
老人は小さな目を大きく開く。
「ん、なんだお前、俺が思ってたよりよっぽど"人間してる"じゃないか? かっかっか...!」
静かになった部屋で、老人は首ごと大きく頭を縦に揺らす。
「お前は所詮、人間中心に考えてるのに過ぎないのさ。人間に価値があると思いこんでいる。あまりにも大きな偏見と錯覚を持った状態で物事を見ているんだ。だからお前の口から出るすべての言葉には、何の価値もない」
「どういう事でしょうか?」
僕は姿勢を保つ。
「"正解は無い"って、よく言うだろ」
「その言葉は嫌いです」
「知ってるよ。だからわざと言ったのさ、クソガキが。お前は真夜中にカボチャ畑にでも躍り出て、夜空に向かって叫びながら、ヘッタクソな悲哀を歌ってるのがお似合いさ。今すぐにでもこんな場所を出て行って、そうすればいい」
「いつかは、そうするかもしれません」
「ふん、本当にてめえはムカつく野郎だな。死にてえならさっさと死んじまえってんだ」
老人は右手を左の肩に乗せ、首をゆっくりと回す。
「今は何もする気にならないんです」
「ああ」
「この世界のすべての色を混ぜると、最後にはただのモノクロの模様しか残らない。もしかしたら、そんな模様すら残らないのかもしれません。それがわかってしまうから、何の色も表現する気にならない。」
「だろうな」
「"世界は残酷だが美しい"と多くの人は言います。でも僕は、そうは思わない。あるのは残酷さと、その先にある白黒の退屈さだけです。世界を美しいと讃えるのは、救いの虚像を崇拝する狂信がもたらした戯言です。」
「...きっきっき...!」
老人の体が小刻みに揺れる。
「お前、自分以外の人間を狂信者とでも言ってるのか? そりゃあ、クズだわ。お前、正真正銘のクズだよ、気違いさ。かっかっか...!」
「僕は自分をクズだとは思っていません。もちろん、優しい人間だとも思っていませんが」
「てめえをクズかどうか決めるのは、てめえじゃねえだろ」
「そうなのでしょうか」
僕は天井を見上げた。かすかに見える樹の色の中に、黒い斑点が無数に散らばっている。
「僕からも先生に、質問をしていいですか」
「なんだよ、言ってみろ」
「なぜ先生は死なないのですか?」
老人は首を右に傾け、ゴリっと音を鳴らす。
「そりゃ、死にたくねえからだろ」
「それについては、僕も同意見です」
老人は眉間にしわを寄せる。
「同意見なわけあるか。てめえの小便臭い"死にたくない"と一緒にするんじゃねえよ。俺はな、お前らが死んだ昆虫みてえにひっくり返って、冷たくなってる様を見届けなきゃいけねえんだよ。そして最後は一人も二人もなくなって、境界線を失ったタンパク質がぼろぼろと奈落に落ちていくのさ。それがよ、くっくっく...!」
「それを見届けるという行為にどんな意味があるんでしょうか」
「まあやってみりゃわかるさ。知りたくなったら、またここにくればいい」
「あまり気が進みません」
「ああ、そうか。まあ、いつでも待ってるからよ、きっきっき...!」
僕は一点を見つめている。
「最後に一つだけ、聞きたいことがあります」
「おう、なんだ」
「僕が最後に会った貴方は、嗤わない人でした。何が先生を変えたのでしょうか」
「変えただと?」
老人は暗がりから僕の瞳をとらえる。
「馬鹿言え。何も変わっちゃいないさ」
老人の喉仏が、大きく上下する。
「だがな、いいことを一つ教えてやる。やれ真実だの、やれ善悪だの騒いでいる奴がな、その死に際になんて言うと思う?」
「...」
「"ありがとう"だとよ。どいつもこいつも薄い意識に、最後の力で愛を唄うのさ。...きっきっき! それが嗤わずにいて、どうしていられる? わかるか? 嗤いが止まらないんだよ!...かっかっか...!ひっ、ひっひっひ...!」
ガラガラと響く老人の嗤い声を横目に、僕はイスを引き、膝を伸ばす。
「おう、もう帰るのか?」
「はい。話したいことはもうすべて話したので」
「また来るのか?」
「...いえ、もうここに来る事は無いと思います」
「そりゃあ、いい心がけなこった。かっかっか...!」
僕は後ろを振り返り、ドアを引いた。
「じゃあな、きっきっき...!」
止まることのない老人の引き嗤いに振り向くことなく、部屋の境界を通り過ぎる。
ガコン、というドアの閉まる重い音が、すぐ後ろに聞こえた。
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