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「取り引き」
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再び斉藤啓一氏のHPより抜粋
瞑想とは、何なのだろうか?
瞑想とは、ひとつの訓練なのだろうか?
訓練とは、それが肉体であれ、心であれ、自分が意図したものになるよう、意識的に操作すること、努力することである。つまり、目的があり、そのための手段がある。
瞑想をやろうと思い、また瞑想を続けている人は、目的があってそうしているのだろうか。
そうだとしたら、それは何なのだろうか? 妄想を消すため? ストレスをなくすため? 能力を高めるため? 悟りを開くため? 悟りを開くとは、どういうことなのだろう? 悟りとは、訓練の末に勝ち得るものなのだろうか? オリンピック選手が激しい努力の末に金メダルを獲得し、あるいは毎日猛勉強した末に難関の学校の合格証書を獲得するかのように。
苦しみをなくしたいために、瞑想するのだろうか? 確かに釈尊は、苦しみから解脱するために瞑想をし、仏教を確立し、それを広めた。苦しみから解放されるため、苦しみの土壌となっている煩悩を完全に消滅させるために。
苦しみは妄想からくるというのは事実であろう。だが、妄想をなくすためなら、瞑想よりももっと簡単な方法がある。それは麻薬を使うことだ。そうすれば、妄想などたちまちに消え、苦しみも消えて、ハッピーな気持ちになれる。「いや、麻薬は中毒になるし、場合によっては悪い妄想が出てくるからダメだ」というだろうか。ならば、麻薬が改良されて、決して中毒にならず、悪い妄想も出てこない麻薬が合法的に売り出されたとしたら、どうなのだろうか。瞑想よりも、麻薬の方がいいといえないだろうか。
瞑想は、決して手段にはなり得ない。
瞑想は訓練ではない。だから、瞑想が麻薬などその他のものに代替されることはない。訓練ではないという意味は、瞑想に目的はない、ということである。
「目的がないなら、どうして瞑想なんかしようなどと思うだろうか」といわれるかもしれない。
ならば、あえて目的という言葉を使うのであれば、瞑想の目的とは「目的がないなら、どうして瞑想なんかしようなどと思うだろうか」という、その思い自体を消すことにある。
私たちは、なぜ「報酬」がなければ、何もしようとしないのだろう。なぜ、すべてが取引なのだろう。訓練は取引であり、交換条件である。たとえその目的を「悟り」だとか「解脱」といった、宗教的にいかに高尚な名前で呼ぼうとも、そのような「報酬」を求めて瞑想や修行をする行為は、取引であり交換条件であって、要するに巷で行われている「商売」と何ら変わりはない。麻薬を吸う行為と本質的に変わらない。
私たちの頭は、この「取引」という発想から抜け出せない。これこそが、妄想の中の最大の妄想なのである。報酬がなければ行動できないという妄想に、がんじがらめになっているのだ。この妄想を消さなければ、雑魚に等しい小さな妄想をいくら消したところで、やがて生えてくる雑草のように、きりがないだろう。
激しい妄想を沈静化させるための緊急措置的な訓練的瞑想は、ときには必要である。だが、その延長線上に悟りはない。苦しみをなくすという目的をもって瞑想する限り、苦しみから解放されることはない。麻痺させることはできるけれども。
もしも、報酬を求めて誰かを愛するというのだったら、それは本当に愛しているとはいえない(もちろん、仏教でいう「愛」、つまり欲望のことをいっているのではない)。愛は無報酬である。愛は取引でも交換条件でもない。何の報酬もないのに、あえていえば、愛すること、そのものを報酬として、愛は成立する。報酬がないどころか、愛することには苦しみが伴うことの方が多い。
たとえば、マザーテレサなどは、生涯独身で、清貧で、汚れて死にかけた人を路傍から拾い上げては世話をするという生活、これを何十年もやってきた。肉体的にも苦しいであろうし、精神的にもかなり苦しいはずだ。孤独で、自尊心などを満たすこともなく、中には助けてあげたのに恩を仇で返すような人もいるかもしれない。もしも、彼女のセンターでシスターたちが強制的にそんなことをやらされているのだとしたら、それこそナチスの強制収容所のように、人類史上、もっとも苦しく悲惨な「悲劇」のひとつとして記録されていることだろう。仏教のいう四苦、つまり生・老・病・死そのものと隣り合わせなのであるから。
しかし、そこで奉仕する人たちの顔は喜びで輝いている。それは、彼女たちが(もちろん、全員がそうだとはいわないけれども)、取引のレベルを超えているからだ。取引という妄想から解脱しているからなのだ。
彼女たちは、神様に「自分を救ってください」などと祈らない。自分たちの苦しみを消してくださいなどとお願いなどしない。そのための、いかなる瞑想も修行などもしていない。
苦しみがないから喜びで輝いているのではない。彼女たちは苦しみを受け入れる。苦しみながら生きること、それが彼女たちにとっての道である。だからこそ、そこには愛がある。取引も訓練も行っていないから。その愛が、彼女たちの顔を喜びで輝かせているのだ。
苦しみと共に喜んで生きること、これが悟りであり、解脱である。
そのためには、妄想をなくそうなどと思ってはならない。妄想とは、満たされない欲求の訴えなのである。つまり「愛してください」といっているのだ。妄想を悪として排除するのではなく、妄想を愛すること、妄想をいたわること、妄想が湧いてきたことに感謝すること、「辛かったでしょう。さあ、私の家にきなさい。一緒に食事をしましょう。痛いならさすってあげましょう。好きなだけ滞在してもいいんですよ」といって妄想を受け入れること、マザーテレサがやったように。これが真の「瞑想」である。
そうして、いっさいの打算も取引もなく生きたとき、初めて妄想は消える。訓練によってではない。
瞑想とは、何なのだろうか?
瞑想とは、ひとつの訓練なのだろうか?
訓練とは、それが肉体であれ、心であれ、自分が意図したものになるよう、意識的に操作すること、努力することである。つまり、目的があり、そのための手段がある。
瞑想をやろうと思い、また瞑想を続けている人は、目的があってそうしているのだろうか。
そうだとしたら、それは何なのだろうか? 妄想を消すため? ストレスをなくすため? 能力を高めるため? 悟りを開くため? 悟りを開くとは、どういうことなのだろう? 悟りとは、訓練の末に勝ち得るものなのだろうか? オリンピック選手が激しい努力の末に金メダルを獲得し、あるいは毎日猛勉強した末に難関の学校の合格証書を獲得するかのように。
苦しみをなくしたいために、瞑想するのだろうか? 確かに釈尊は、苦しみから解脱するために瞑想をし、仏教を確立し、それを広めた。苦しみから解放されるため、苦しみの土壌となっている煩悩を完全に消滅させるために。
苦しみは妄想からくるというのは事実であろう。だが、妄想をなくすためなら、瞑想よりももっと簡単な方法がある。それは麻薬を使うことだ。そうすれば、妄想などたちまちに消え、苦しみも消えて、ハッピーな気持ちになれる。「いや、麻薬は中毒になるし、場合によっては悪い妄想が出てくるからダメだ」というだろうか。ならば、麻薬が改良されて、決して中毒にならず、悪い妄想も出てこない麻薬が合法的に売り出されたとしたら、どうなのだろうか。瞑想よりも、麻薬の方がいいといえないだろうか。
瞑想は、決して手段にはなり得ない。
瞑想は訓練ではない。だから、瞑想が麻薬などその他のものに代替されることはない。訓練ではないという意味は、瞑想に目的はない、ということである。
「目的がないなら、どうして瞑想なんかしようなどと思うだろうか」といわれるかもしれない。
ならば、あえて目的という言葉を使うのであれば、瞑想の目的とは「目的がないなら、どうして瞑想なんかしようなどと思うだろうか」という、その思い自体を消すことにある。
私たちは、なぜ「報酬」がなければ、何もしようとしないのだろう。なぜ、すべてが取引なのだろう。訓練は取引であり、交換条件である。たとえその目的を「悟り」だとか「解脱」といった、宗教的にいかに高尚な名前で呼ぼうとも、そのような「報酬」を求めて瞑想や修行をする行為は、取引であり交換条件であって、要するに巷で行われている「商売」と何ら変わりはない。麻薬を吸う行為と本質的に変わらない。
私たちの頭は、この「取引」という発想から抜け出せない。これこそが、妄想の中の最大の妄想なのである。報酬がなければ行動できないという妄想に、がんじがらめになっているのだ。この妄想を消さなければ、雑魚に等しい小さな妄想をいくら消したところで、やがて生えてくる雑草のように、きりがないだろう。
激しい妄想を沈静化させるための緊急措置的な訓練的瞑想は、ときには必要である。だが、その延長線上に悟りはない。苦しみをなくすという目的をもって瞑想する限り、苦しみから解放されることはない。麻痺させることはできるけれども。
もしも、報酬を求めて誰かを愛するというのだったら、それは本当に愛しているとはいえない(もちろん、仏教でいう「愛」、つまり欲望のことをいっているのではない)。愛は無報酬である。愛は取引でも交換条件でもない。何の報酬もないのに、あえていえば、愛すること、そのものを報酬として、愛は成立する。報酬がないどころか、愛することには苦しみが伴うことの方が多い。
たとえば、マザーテレサなどは、生涯独身で、清貧で、汚れて死にかけた人を路傍から拾い上げては世話をするという生活、これを何十年もやってきた。肉体的にも苦しいであろうし、精神的にもかなり苦しいはずだ。孤独で、自尊心などを満たすこともなく、中には助けてあげたのに恩を仇で返すような人もいるかもしれない。もしも、彼女のセンターでシスターたちが強制的にそんなことをやらされているのだとしたら、それこそナチスの強制収容所のように、人類史上、もっとも苦しく悲惨な「悲劇」のひとつとして記録されていることだろう。仏教のいう四苦、つまり生・老・病・死そのものと隣り合わせなのであるから。
しかし、そこで奉仕する人たちの顔は喜びで輝いている。それは、彼女たちが(もちろん、全員がそうだとはいわないけれども)、取引のレベルを超えているからだ。取引という妄想から解脱しているからなのだ。
彼女たちは、神様に「自分を救ってください」などと祈らない。自分たちの苦しみを消してくださいなどとお願いなどしない。そのための、いかなる瞑想も修行などもしていない。
苦しみがないから喜びで輝いているのではない。彼女たちは苦しみを受け入れる。苦しみながら生きること、それが彼女たちにとっての道である。だからこそ、そこには愛がある。取引も訓練も行っていないから。その愛が、彼女たちの顔を喜びで輝かせているのだ。
苦しみと共に喜んで生きること、これが悟りであり、解脱である。
そのためには、妄想をなくそうなどと思ってはならない。妄想とは、満たされない欲求の訴えなのである。つまり「愛してください」といっているのだ。妄想を悪として排除するのではなく、妄想を愛すること、妄想をいたわること、妄想が湧いてきたことに感謝すること、「辛かったでしょう。さあ、私の家にきなさい。一緒に食事をしましょう。痛いならさすってあげましょう。好きなだけ滞在してもいいんですよ」といって妄想を受け入れること、マザーテレサがやったように。これが真の「瞑想」である。
そうして、いっさいの打算も取引もなく生きたとき、初めて妄想は消える。訓練によってではない。
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