雨はやさしく嘘をつく

黒崎優依音

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第二章 命を告げるとき

扉の向こう

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sideユリカ

ユリカは静かにカップを置き、窓の外に目を向けた。

「……もう少ししたら、退院ですね」
「ええ。予定通りなら、あと一週間ほどで」

「そっか……」

呟いたその言葉に、浮かぶのは希望とも不安ともつかない微妙な揺らぎ。

「……何か気になることでも?」
シェイが尋ねると、ユリカはほんの少し首を振った。

「……いえ。ただ、あのアパート、階段がきついから……赤ちゃん連れには、やっぱり少し不便かなって思って」

さらりと笑い混じりに言ったその声には、「でも、なんとかするから大丈夫」という意志が透けて見えた。
シェイは一瞬視線を落とし、少し間を置いてから口を開く。

「その件なんですが……正直に言うと、もう、あのアパートには戻れません」

「え?」

ユリカが驚いたようにシェイを見つめる。

「大家が“ガーディアンなんて厄介ごとを連れてくるな”と。
 あまり周囲に噂を立てたくない人らしくて」

「……そんな」

「なので、勝手ながら荷物は僕が預かっています。
 事後報告になってしまって、申し訳ありません」

シェイの言葉に、ユリカはしばし沈黙したあと、ぽつりと口を開いた。

「……でも、それじゃあ……」

「新しい家は、俺の家です」

淡々と、けれど決意を滲ませた口調だった。

「もちろん、他を探すこともできます。
 嫌なら今すぐ撤回します。
 でも……俺としては、もう遠回りしなくていいと思ってる」

「それは……あなたの家に?」

「はい。強引ですよね」

シェイは少し苦笑し、肩をすくめた。

「本当なら、あなたの気持ちを最優先にしたいんです。
 でも今回は……少し、わがままを言わせてください」

「……」

ユリカは言葉を失ってシェイを見つめる。

「あなたが『頼ってない』のは知ってます。
 けど、それでも、俺はそばにいたいと思った」

「……ずるいな」

小さな声で、ユリカが呟く。

「そう言われるかなって思ってました」
「……だって、本当にそう思ったから」

ユリカの目元が、ほんのりと潤んでいた。
シェイは優しく微笑みながら続ける。

「でも、“ずるい”って言われるくらいが、僕にはちょうどいいのかもしれません」

そこで一度、会話が切れた。
けれどシェイは、少しだけ間をおいて、まっすぐユリカの目を見た。

「――それと、もう一つ。
 すぐにとは言いませんが……一つ、選択肢として考えておいてほしいことがあります」

ユリカが目を伏せたまま、そっと顔を上げる。

「“結婚”という形をとれば、教会側も手出しがしづらくなります。
 国家公務員の僕と、教会出身のあなた。
 ……その間に生まれる子なら、さすがに一方的に奪うことは難しくなる」

「……」

「これは強制ではありません。
 ただ……僕ができる限りの方法を考えた末の、一つの提案です」

ユリカはしばらく黙っていたが、やがて少しだけ微笑んだ。
その微笑みはどこか痛みを含みながらも、確かな感謝の色を帯びていた。

「……ありがとう。でも、今はまだ……」

その言葉に小さな笑みを添えながらも、胸の奥ではずきんと痛みが走っていた。
迷いと感謝が入り混じり、言葉にできない想いが喉の奥で絡まる。

「ええ。答えは急ぎません」
シェイはそう言って、少しだけ肩の力を抜いた。

(……もしかしたら、赤ちゃんの安全と彼の立場を守るためなら、私は……)

けれど、その考えを言葉にする勇気はまだなかった。
声にしてしまえば、もう後戻りできなくなる気がして。

「ただ、いつか決断の時が来るかもしれない。
 だからその時までに、どうか……心のどこかに置いておいてくれたら、それで十分です」

彼の声音には押しつけがましさはなく、ただ“守りたい”という想いだけが静かに滲んでいた。

シェイが微笑を浮かべたまま、ふと思い出したように声を弾ませる。

「……あ、そうだ。そういえばまだちゃんと紹介してませんでしたね。
 僕の家には、もう二人住んでいます」
「え?」

まるで、ひとつの扉が静かに開いたような瞬間だった。
ユリカの目がほんのり丸くなる。

「……じゃあ、2人きりじゃないんですね」

「ええ。家には、お手伝いとしてミーナという年配の女性がいます。
 それから、旦那さんのトマスも一緒に。
 僕がいない間も、彼女たちが家にいますし、あなたや赤ちゃんの世話も手伝ってくれると思います」

「……なんだか、それなら安心かも」

「ふたりとも、赤ちゃんの世話には慣れていませんが……ミーナはとても頼りになりますよ。
 身の回りのことや食事も準備してくれます。
 あなたが無理をしないで済むように」

ユリカはしばし黙ったまま、窓の外を見ていた。
新しい場所のことを想像しているような、そんな横顔だった。

そして、ぽつりと小さく呟く。

「――あのアパート、好きだったんですけどね。
 祖父の土地の近くで、ひとりで頑張ってる気になれて」

「でも、ひとりじゃありませんよ」

その言葉に、ユリカがそっと視線を戻す。
シェイは穏やかに、けれどしっかりと彼女を見つめていた。

「僕は無理に入り込むつもりはありません。
 でも……あなたが頼りたいと思ったときに、頼れる誰かがいるってこと。
 少なくとも、それくらいは覚えておいてください」

ユリカは、ふっと小さく息をついて、やがてわずかに笑った。

「……それなら、少しだけ。甘えてもいいですか?」

「もちろん」
「よかった」

シェイの表情に、ようやく緊張が解けたような笑みが浮かんだ。

「それに……彼女、あなたに会うのを楽しみにしてたんです。
 “ようやくお招きできるんですね”って、朝から台所でソワソワしてましたから」

「……なんだか、迎えてもらえるのって、嬉しいですね」

ユリカが小さく笑うと、シェイもまた、そっと笑い返した。


点滴の滴る音が、静かに数を刻む。
ここから、三人分の時間が始まる。

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