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第九章 幸せのかたち
Push from the Children
しおりを挟むsideユリカ
ユリカが久しぶりに手にしたのは、食器棚の奥に眠っていたペアマグカップだった。
シェイとお揃いで使っていたもの。
そこに、ミスティアスがたっぷりのクリームをのせたココアを二つ。
「なぁに、あなたが“話がある”なんて言うから、悪い知らせかと構えちゃったわ」
息子を前にユリカは少し冗談めかして笑った。
「もっと息子を信用してよ」
ミスティアスは片眉を上げ、マグを差し出す。
「……見た目だけで甘そう」
ユリカがカップを覗き込むと、甘い香りがふわりと広がった。
「ココア……? このマグ……」
「使ってやらないとかわいそうだろ」
彼自身もひと口すすり、顔をしかめた。
「……甘っ。父さん、毎日こんなの飲んでたのか?」
ユリカはその横顔を見て小さく笑った。
「父さんと似ているのに、似ていない顔で飲むのね」
しばらくの沈黙の後、ミスティアスは口を開いた。
「……母さん、ルアルクさんのこと、好きなんだろ。
それも、ずっと」
ユリカの表情が一瞬固まる。
「あなたに言われると、堪えるわね」
「責めてるわけじゃない。
どうせ父さんだって、うまく立ち回って母さんを俺の母親にしたんだろうなって、想像つくから」
「……あなた、シェイさんをなんだと思ってるの」
ユリカは目を伏せ、ゆっくり言葉を選ぶ。
「あの人は少しずるいところもあったけど、誠実な人よ。
ルアルクと別れたのは未熟だったせいで、シェイさんのせいじゃないわ」
「でも、好きなんだろ?」
ユリカはカップを握りしめた。
「……私はシェイさんを、愛しているわ。
これからも、ずっと」
すぐに、ミスティアスの声が重なる。
「……でも、同じくらいルアルクさんのことも、ずっと想ってる」
ユリカは唇を噛み、言葉を失う。
「もう」――そう呟くのが精一杯だった。
「いいんだよ、もう」
ミスティアスは真っ直ぐに母を見た。
「自分が向き合えないことの言い訳に、父さんを使うな。
……父さんだってきっと、母さんが幸せならそれでいいと思ってる。
俺が保証する」
ユリカは静かに首を振る。
「簡単に言うのね。
私が好きだからって、ルアルクにだって都合があるでしょう?」
「今さらだろ。
あの人はずっと母さんしか選んでない。
母さんは、どうしたいんだ」
ユリカはふと遠い記憶に目を細めた。
「シェイさんとね、昔、結婚式の真似事をしたことがあるの。
あの人は私を一生愛すると誓ってくれたのに、私は“僕に縛られるな”って言われて同じ誓いをさせて貰えなかった。
……本当は縛って欲しかったのに。
ずるいよね、そんなこと言われたら、一生忘れられない」
「それが父さんだよ」
ミスティアスの声は穏やかだった。
「母さんを心から愛してるからこそ、そう言ったんだと思う。
……だから今度は、素直に幸せになってくれ。
父さんの息子として頼む」
ユリカはカップを一気に飲み干した。
「……わかった。行ってくる!」
白いリボンを髪に結ぶと、軽やかにスカートを翻して走り出した母の背を、ミスティアスは呆然と見送った。
「……今すぐかよ」
sideルアルク
一方そのころ、教会にあるルアルクの私室。
ルアルクは書きかけの書類に目を落としていた。
静かな部屋にノックの音が響く。
「お父様、少しお話が」
入ってきたのはリシェリアとフィリア。
娘たちの表情は真剣そのものだった。
自然と、ルアルクも身構える。
「……お父様。
わたしたちから、お願いがあります」
「どうしたんだい? そんな顔をして」
フィリアは少し肩をすくめて、けれど真っ直ぐに言った。
「お父さん、ユリカさんと……結婚してください」
ペン先が止まる。
ルアルクは言葉を失い、机の上で手を固めた。
「わたし、ずっと我慢してきました。
でも、もういいでしょう?
お母様もお父様も、責められる形で生き続けなくていい。
わたしは……その姿を見ているのが、つらかった」
目を伏せるリシェリアの表情に心が揺さぶられる。
そんな表情をさせているのは、どんなに愛し合っていたと言い繕っても自分の甘さのせいだった。
申し訳なさで目線が下がる。
「もちろん、たくさん愛されているのもわかってる。
わたしは生まれてこれて幸せ。
パパとお父様、2人も父親がいて幸せだわ」
「そうよ。ずるいなって思うくらい。
だってわたしは、お父さんの本当の子じゃない。
お父さんがお父さんになってくれなかったら、本当に父がいない子はわたしだった。
だからもし再婚したら、いらない子になるんじゃないかって……昔は思った。
でも違うってわかってる。
お母さんと離婚しても私を傍に居させてくれた。
お父さんは、わたしを絶対に手放さない人だから」
リシェは妹の肩にそっと手を置き、父を見据える。
「だから、お願いです。どうかお母様と結婚してください」
ルアルクは椅子から立ち上がると、娘たちを抱き寄せた。
「……君たち2人にそんなことを言わせてしまったんだね。
ごめん……」
震える声に、ふたりは顔を見合わせて笑う。
「ごめんより、ありがとうだよ、お父さん」
「ええ、フィリアの言う通りだわ」
ルアルクは娘たちの言葉を聞きながら、静かに微笑んだ。
「……僕はね、リシェ、フィリア。
ユリカをずっと愛している。
けれど……シェイさんの代わりになることはできない。
そんなつもりで隣に立ちたくはないんだ」
リシェリアは一歩前に出て、真っ直ぐに父を見上げる。
「お父様は代わりにならなくていいの。
パパはパパ、お父様はお父様。
どちらもわたしにとって、大切な人」
ルアルクの瞳が揺れる。
リシェリアは微笑み、そっとその手を握った。
「私はパパの娘で、同時にお父様の娘。
だから、もう迷わないで。
……お母様と結婚して」
横で聞いていたフィリアも頷いた。
「そうです。
私はユリカさんの子じゃないけど、それでも家族だって思ってる。
だからお願いです、お父さん。
幸せになって」
ルアルクは堪えきれず、二人を強く抱き寄せた。
「……ありがとう。僕を赦してくれて。
ユリカの気持ちもあるから簡単には言えないけど、でも、もしユリカが赦してくれるのなら、僕は――」
sideユリカ
その時、扉が大きな音を立てて開いた。
同時に、ユリカの彼女らしくない大きな声。
「ルアルク!!」
「!!!」
室内の3人は驚いて同時に肩を上下させる。
「お母様、きちんとノックして、扉は静かに開けてください」
「あ……はい、ごめんなさい……」
リシェリアとフィリアは、ちらりと顔を見合わせて微笑み合い、小さな声で呟いた。
「……ミスティアスがうまくやってくれたのね」
「しかしびっくりしたわ。
あなたたちも来ていたのね」
ユリカがバツが悪そうな顔で言う。
完全に先程までの勢いは無くなっていた。
「大好きなお父様のところに娘二人が来ていても、何もおかしいことはないでしょう?」
「ね」
クスクス笑い合われるその感じが更にバツの悪さを煽った。
「お邪魔虫は退散しますから、後はごゆっくり」
「ごゆっくり。――お父様、頼みましたわよ!」
二人は示し合わせたように軽やかに立ち去り、部屋に残されたのはユリカとルアルクだけ。
昼前の光が差し込む部屋に、静けさと心臓の鼓動だけが残る。
手持ち無沙汰に周りを見回す。
引越し用にまとめられた箱が目立ち、彼の部屋らしくなく雑多な印象だ。
「……その、手伝いに来たの。荷物、まだ残っているんでしょう?」
勢いを無くした手が、そわそわしながら重ねられた本を取る。
「あ、うん……お願い」
どこか気まずそうに、彼も答える。
二人の間に、妙な沈黙。
ユリカは赤面しながら箱に本を詰め、ルアルクも気まずそうに同じ段ボールを押さえる。
指先が少し触れただけで、お互いビクッとして顔を上げた。
ユリカはパッと距離を取り、違う箱を覗き込む。
「私はこっちを纏めるわ」
ガシャン、と大きな音が静かな部屋に響く。
慌てて触ったからか、机の上に置いてあった綺麗な缶を取り落とし、中から色とりどりの便箋が溢れた。
「ご、ごめんなさい!」
慌ててかき集めようとして気がつく。
「……なに、これ」
覗き込むと、どこか見覚えのある紙。
文字を追った瞬間、胸が跳ねた。
「これ……まさか……」
横で立ち止まったルアルクが、少し気恥ずかしそうに頷く。
「……うん。ユリカが誕生日や節目にくれた手紙。ずっと取っておいたんだ」
指先で一枚を開くと、そこに綴られていたのは、若い頃の自分の言葉。
――今の目で見れば、どう読んでも告白にしか思えない。
思わず頬が熱を帯び、声が震えた。
「……これ、どう見ても……」
けれど彼は静かに首を振り、柔らかい笑みを浮かべる。
「勘違いしたりしないよ。ただ……温かい言葉がいっぱいだと思った。ユリカがくれた言葉は、どれも全部、僕にとって特別だったんだ」
便せんを抱きしめるユリカの瞳に、涙とも笑みともつかない光が揺れる。
「……そんなふうに、取ってくれたのね」
ルアルクは少し照れくさそうに目を伏せた。
「きっと僕は、大切にされたくて、何度も読み返してしまったんだと思う」
昼の光が窓から差し込み、あの日と同じ部屋が、新しい意味を持って二人を包んでいた。
箱の中に散らばった便せんを胸に抱きしめ、ユリカは唇を震わせた。
(……やっぱり、この人が大好き)
溢れ出す想いは止められない。
「ルアルク。……私と結婚してほしいの。
これからの人生、許されるのなら、あなたと一緒にいたい」
彼の瞳が揺れ、大きな影を落とした。
「……僕は、ずっとユリカだけを選んできた。
昔から変わらず、愛している」
静かに吐き出した言葉には確かな熱がこもっていた。
けれど、次に続いた声は、彼自身の奥底をさらけ出していた。
「でも……いいのかな。
それと同じくらい、僕はシェイさんが好きなんだ。
あの人の在り方も、笑顔も、全部。
ユリカも、そうだろう?」
ユリカは一瞬、言葉を失った。
確かに、その通りだから。
でも、もう逃げない。
「ミスティアスに言われたの」
便せんを抱きしめながら、彼の瞳をまっすぐに見上げる。
「“自分が選べない理由に父さんを使うな”って。
……今ならわかるわ。あの人は、私たちが幸せに生きることを望んでいるって」
ルアルクの喉が小さく鳴る。
「……都合のいい解釈かもしれない。
けど、僕もそう思っていいのかな」
ユリカは笑みをこぼした。
涙に濡れた瞳で、でも力強く。
「一緒にずるくなって。流されて」
彼は首を振り、その手を強く握り返す。
「流されない。僕は、自分の意志で君を選ぶ」
その瞬間、ユリカは自分から彼の胸に飛び込んでいた。
彼の心臓の鼓動が掌に伝わる。
驚きに戸惑った彼も、すぐに腕を回して抱きしめる。
「ユリカ……」
「あなたと生きたいの」
「僕も……同じだよ。
ユリカ、君をずっと愛してる。
一緒に生きよう」
光に透けた髪を、彼がそっとすくい上げた。
前髪を払う動作――
あの夜、雨に濡れた彼女を包んだ時と、同じ手の動き。
けれど今はもう、震えも迷いもない。
「ユリカ」
「……ルアルク」
名前を呼び合うだけで、心が満たされていく。
二人の距離が、自然に近づく。
唇が触れた。
静かに、確かめるように。
あの時の別れのキスではなく、“これから生きていくため”の誓いのキスだった。
光がまぶたを透かし、温度が重なる。
春の空気の中で、彼の指先がユリカの頬を包む。
「……やっと、ここに帰ってこられたね」
「ええ。あなたのところが、私の家だから」
彼女の声が、涙をふくようにやさしい。
ルアルクはそのまま彼女を抱き寄せた。
どちらも、もう壊れもののようには扱わない。
(この日を、忘れない。今日から、また素敵な“家族”を作っていくの)
「愛してる」
「……わたしも、愛してる」
抱きしめる力と、触れる手の温度で足りない愛を、伝え合う。
もう、遠慮はしない。
たくさんの愛の言葉を紡ぎながら、笑顔が零れ落ちた。
彼の手が「愛おしい」という感情を伝えてくる。
(また、私は“だいじに”されてる)
しっかりと彼を抱き寄せる。
彼女も、彼を”だいじに”できるように。
互いにしっかり抱き合いながら、胸がいっぱいになった。
全身で彼に愛を伝える――そう思うと、自然と涙が滲んだ。
ルアルクの目から涙が零れる。
「ごめんね……幸せすぎて」
「ううん……私も、幸せ」
腕の中に包まれて、ぬくもりに触れて、何度も確かめた。
唇が触れるたびに、心が震えた。
彼の頬を伝う涙に手を伸ばし、ゆっくりと拭う。
くすぐったそうに笑う彼が、さらに強く抱きしめる。
言葉はもう、いらなかった。
昼の光が、やわらかく床を照らしていた。
風に揺れるカーテンが、淡い影を壁に映す。
あの日、雨の音に包まれたこの場所に――
今は、小鳥のさえずりが満ちている。
それが、ふたりの“これから”の音だった。
◇
気がつけば、窓の外は夜の色を帯びていた。
「……丸一日、私たち、何をしていたのかしら」
ユリカは息をつきながら微笑み、額を彼の胸に押し当てる。
ルアルクは髪に口づけ、囁く。
「信じられない。でも……これほど幸せだと思ったことはない」
再び抱き合い、笑みと涙を交わしながら――夜は静かに更けていった。
やがて朝。
眩しい光が差し込むころ、二人はぎこちない足取りで並んで歩いていた。
けれど、その表情はどこまでも柔らかく、疲労の奥に満ちる幸福感を隠しきれない。
もう隠さなくていい――その事実だけで、祈りの朝は祝福に満ちていた。
シスターたちも視線を逸らしながら、けれど頬を染めて呟く。
「……お似合いですわね」
「まったく、見ているこちらが当てられてしまいそう」
昼と夜を越え、ようやく訪れた新しい朝。
並んで祈る二人の背に、温かな声がかかる。
「……ユリカ、よかったわね」
「ずっと祈っていたの。あなたが幸せになる日を」
ユリカは胸がいっぱいになり、ルアルクの袖をそっと握った。
もう隠さなくていい。
その事実だけで、光に包まれる朝だった。
◇
けれど家に戻れば――
「信じられない! 朝帰りなんて!」
「お母様、お父様、あり得ないです!」
「……はぁ。あれだけ悩んでいたのなんだったんだよ……」
子どもたちに口々に責め立てられ、二人してしゅんと肩を落とす。
「ごめん……」
「ほんとに……その……ごめんなさい」
追い打ちをかけるようにリリが肘をつき、にやにやと笑みを浮かべる。
「まぁまぁ、派手にやったわねぇ。
あらあら、昼から夜、夜から朝……若いって羨ましいこと」
「リリ!」
赤面して抗議する二人を、容赦なくいじり倒す。
けれど最後に、リリの目にうっすら涙がにじんだ。
「……長かったけど、よかったね」
少し震える声で、でも心からの笑顔を向ける。
「ずっと私は、あんたたち二人が幸せになるのが見たかったんだから」
ユリカは、その言葉に思わずリリを抱きしめた。
家族の笑い声と涙が交じり合い、新しい朝は祝福で満ちていた。
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