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第4部 指数と対数
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あなたも、ルームも、大学では数学を学んでいる。数学を学ぶことのデメリットは、学んだところで実益が少ないという点にある、とあなたは認識している。それは、世間一般に言われていることをそのまま引っ張ってきただけで、あなた自身が考えて導き出した結論ではない。あなたは、数学を学ぶことについてのメリットやデメリットなど、考えたことがなかった。考えたところであまり意味はない、と考えている。
ルームは、自分は数学を愛している、とかつてあなたに話したことがある。あなたが試しに理由を尋ねてみると、彼女は一言、
「好きだから」
と答えた。
「それって、理由になっていないのでは?」とあなたは問うた。
「理由なんて、そんなものでいいんだよ」ルームは澄ました顔で答える。もっとも、彼女は大抵の場合澄まし顔でいる。「好きだから、愛しているの。数学が持つのとは違うけど、大分綺麗な理屈だと思うな」
「理屈になっていないと思う」
「理屈、を拡大解釈すれば、そうでもない」
あなたは、しかし、ルームが「綺麗」と表現したものを、感覚的に理解できた。左辺と右辺が同値になることばかりが綺麗なのではない。本当は同値でないものを、イコールとは異なる記号を用いて、無理矢理に繋げてしまうことも、ときには綺麗に感じられるだろう。
そういう「感覚」は、理系の人間には無関係だ、と考える者がいる。そう考える者は、理系と呼ばれるグループに属する者の中にも、文系と呼ばれるグループに属する者の中にもいる。けれど、本当のところは、あなたの周りにも、そういう「感覚」を持ち合わせている者は沢山いる。少なくともあなたはそう認識している。ただ、その「感覚」の有無を口にするか否か、あるいは、物事を考えるときに、その「感覚」を根拠に理論を組み立てる傾向にあるか否か、の違いでしかない。そういう「感覚」を持っているか否か、の違いではない。
あなたが、ルームに声をかけた理由を口にできないのも、その種の「感覚」に起因している。あなたの中には、理由を述べるべき対象とタイミングというものが、何らかの基準をもって存在している。ただ、その基準自体が非常に「感覚」的なもので、基準というものが本来的に客観的に定められるものである以上、それは基準とは呼べないかもしれない。
季節は秋になっていた。あなたは、ルームと大学の傍の河川にいた。斜面上の草地に並んで座っている。空は曇り、冷たい風が吹いていた。夜は雨が降るかもしれない。水面には細波が立ち、茶色い小さな鳥が飛んできて、飛びながら水面に細い脚の先を浸らせている。
前方を眺めているルームの横顔を、あなたは見つめる。
一定のペースで吹いている風に揺られ、彼女の綺麗な目が、彼女自身の髪によって、隠されたり、現れたりした。
目だけが動いて、彼女がこちらを見る。
何も言わない。
あなたも彼女の目を見つめ続ける。
不意に重心を移動させて、彼女がこちら側に倒れかかってくる。突然の事態にあなたは多少動揺するが、肩に微妙な力を入れて、彼女の接触を受け止めることができた。あなたの顔のすぐ下に、彼女の頭がある。
髪。
ルームは、そのまま目を閉じてしまう。
自分が今数学を学んでいる理由というものを、あなたは考える。
数字というのは、奇妙なものだ。たとえば、「ペンが十本ある」という事態は、世界中の誰がどう見てもそのように観察されるのに、十という数量を直接表現する手段を持つか否かは、言語の体系によって異なる。日本語では、「十」というマークを用いることで、「ペンが十本ある」というときの、その十という数量を直接表現することが可能だ。しかし、アラビア数字を用いて表わそうとすれば、たちまち「1」と「0」という二つのマークが必要になり、それらを「1→0」の順に並べることで、間接的に十という数量を表わすことになる。もし、日本語の「十」も、アラビア数字の「1」と「0」もなければ、十という数量を表わすには、「●●●●●●●●●●」とでもするほかになくなる。
「十」、「10」、「●●●●●●●●●●」のいずれも、表わしている数量に変わりはない。ある事態を捉え、それをどう表現するか、その面白さ、不思議さを理解するために、あなたは数学を学んでいるのだろうか。
あなたの顔の下で、再びルームが目を開ける。
「私に声をかけた理由も、そんなふうに、どう捉えるか、という点で、答えてみてよ」
あなたは、今、数量の表し方について、考えていることを言葉で口にしたのではない。どうやら、ルームにはあなたが考えていることが分かるみたいだ。
彼女が手を伸ばしてくる。
冷たい指先が、あなたの頬に触れ、ルームは微笑んだ。
ルームは、自分は数学を愛している、とかつてあなたに話したことがある。あなたが試しに理由を尋ねてみると、彼女は一言、
「好きだから」
と答えた。
「それって、理由になっていないのでは?」とあなたは問うた。
「理由なんて、そんなものでいいんだよ」ルームは澄ました顔で答える。もっとも、彼女は大抵の場合澄まし顔でいる。「好きだから、愛しているの。数学が持つのとは違うけど、大分綺麗な理屈だと思うな」
「理屈になっていないと思う」
「理屈、を拡大解釈すれば、そうでもない」
あなたは、しかし、ルームが「綺麗」と表現したものを、感覚的に理解できた。左辺と右辺が同値になることばかりが綺麗なのではない。本当は同値でないものを、イコールとは異なる記号を用いて、無理矢理に繋げてしまうことも、ときには綺麗に感じられるだろう。
そういう「感覚」は、理系の人間には無関係だ、と考える者がいる。そう考える者は、理系と呼ばれるグループに属する者の中にも、文系と呼ばれるグループに属する者の中にもいる。けれど、本当のところは、あなたの周りにも、そういう「感覚」を持ち合わせている者は沢山いる。少なくともあなたはそう認識している。ただ、その「感覚」の有無を口にするか否か、あるいは、物事を考えるときに、その「感覚」を根拠に理論を組み立てる傾向にあるか否か、の違いでしかない。そういう「感覚」を持っているか否か、の違いではない。
あなたが、ルームに声をかけた理由を口にできないのも、その種の「感覚」に起因している。あなたの中には、理由を述べるべき対象とタイミングというものが、何らかの基準をもって存在している。ただ、その基準自体が非常に「感覚」的なもので、基準というものが本来的に客観的に定められるものである以上、それは基準とは呼べないかもしれない。
季節は秋になっていた。あなたは、ルームと大学の傍の河川にいた。斜面上の草地に並んで座っている。空は曇り、冷たい風が吹いていた。夜は雨が降るかもしれない。水面には細波が立ち、茶色い小さな鳥が飛んできて、飛びながら水面に細い脚の先を浸らせている。
前方を眺めているルームの横顔を、あなたは見つめる。
一定のペースで吹いている風に揺られ、彼女の綺麗な目が、彼女自身の髪によって、隠されたり、現れたりした。
目だけが動いて、彼女がこちらを見る。
何も言わない。
あなたも彼女の目を見つめ続ける。
不意に重心を移動させて、彼女がこちら側に倒れかかってくる。突然の事態にあなたは多少動揺するが、肩に微妙な力を入れて、彼女の接触を受け止めることができた。あなたの顔のすぐ下に、彼女の頭がある。
髪。
ルームは、そのまま目を閉じてしまう。
自分が今数学を学んでいる理由というものを、あなたは考える。
数字というのは、奇妙なものだ。たとえば、「ペンが十本ある」という事態は、世界中の誰がどう見てもそのように観察されるのに、十という数量を直接表現する手段を持つか否かは、言語の体系によって異なる。日本語では、「十」というマークを用いることで、「ペンが十本ある」というときの、その十という数量を直接表現することが可能だ。しかし、アラビア数字を用いて表わそうとすれば、たちまち「1」と「0」という二つのマークが必要になり、それらを「1→0」の順に並べることで、間接的に十という数量を表わすことになる。もし、日本語の「十」も、アラビア数字の「1」と「0」もなければ、十という数量を表わすには、「●●●●●●●●●●」とでもするほかになくなる。
「十」、「10」、「●●●●●●●●●●」のいずれも、表わしている数量に変わりはない。ある事態を捉え、それをどう表現するか、その面白さ、不思議さを理解するために、あなたは数学を学んでいるのだろうか。
あなたの顔の下で、再びルームが目を開ける。
「私に声をかけた理由も、そんなふうに、どう捉えるか、という点で、答えてみてよ」
あなたは、今、数量の表し方について、考えていることを言葉で口にしたのではない。どうやら、ルームにはあなたが考えていることが分かるみたいだ。
彼女が手を伸ばしてくる。
冷たい指先が、あなたの頬に触れ、ルームは微笑んだ。
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