No.2 トブトリノス

羽上帆樽

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 蛇行する坂道を下り、僕とカロはスーパーマーケットに向かった。空は段々と雲の密度を増して、綿飴を霧散させたような状態になっていた。この辺りでは毎年夏祭りが行われるが、最近は僕は行っていないから、綿飴を食べる機会はあまりない。道の両端には木々が等間隔に並んでいる。左手には人工的に形成された斜面が、右手には遊水池があった。斜面の上には住宅が建ち並んでいる。木造の階段が斜面上に並べられ、アンティークな雰囲気を仄かに放っていた。僕もこういう家に住みたいなと少しだけ思う。自分がそこに住んでいる様を具体的に想像することはできなかったが。

 カロは歩くのが大変そうだった。ときどき躓く。躓くが、転びはしない。リズミカルに数歩前へつんのめって、何事もなかったかのようにまた普通に歩き始める。ときどき長い両腕を広げてバランスをとっていた。なんとも人形らしい動作といえる。

 カロの腕と脚の可動域は、僕がデザインした木造のパーツが実現しうる範囲を超えていた。おそらく、彼女の身体を構成する繊維状の組織が木にも浸食して、性質を変えたのだろう。木造の骨格そのものが繊維と同等の性質を帯びたのだ。もしかすると、カーボンのような状態かもしれない。カーボンというのが物の名前なのか、状態の名前なのか、僕はよく知らなかったが、とりあえず、カーボン、という音を連想しうるように思えた。

 風が吹いて、少し寒かった。カロが身につけているブレザーがぱたぱたとはためく。彼女の長い髪も宙に舞った。それを見て、僕は純粋に綺麗だなと思った。

 カロは女性に近い見た目をしているし、声も動作もそれに近いが、僕としては、完全に女性と割り切れはしなかった。カロがその姿になる前の状態を知っているからだ。そのイメージも伴って、彼女はどちらかといえば中性的に見える。ただ、カロを指すときに代名詞を使うとなると、結果的に「彼女」と呼ぶことになる。

 ついにカロが本当に転びそうになったから、僕は手を伸ばして彼女の身体を支えた。勢い良く倒れ込むほどではなかったから、僕の愚鈍な反射神経でもなんとかなった。掌に彼女の皮膚の柔らかさが伝わる。体温はほとんど感じない。この点で、彼女は僕と似ている。

「ありがとう」

 片目を瞬かせて、カロが言った。片目を瞬かせた理由は分からなかった。

「靴が少し大きいかな」僕は彼女が履いている靴を指さして言う。カロが履いているのは、僕の姉が昔履いていたものだった。

「少し大きいような気もするけど、大丈夫」

「何がどう大丈夫なの?」

「うーん、分からない」

「もしかして、気に入った?」

「気に入った」そう言って、カロはにっこりと笑った。「この服も、この靴も、いい」

 世界はどこまでも広がっていると言われるが、地球は球形をしているわけだから、一周したらもとの場所に戻ってきてしまう。そうではなくて、その世界というのが宇宙のことを指しているのだとすれば、宇宙は無限に続いているらしいから、世界はどこまでも広がっているといえる。僕にとって、世界はこの街の周辺でしかない。この街から遠く離れた場所に行ったことがないからだ。実際に確かめたことがないから、海の向こうにほかの大陸が存在するかどうかも分からない。多くの人々はそうは思わないらしい。自分で見たことがないものも、触れたことがないものも、世俗的に存在するということになっていれば、存在するものとして信じられるらしい。

 カロは僕の傍にいて、見ることもできるし、触れることもできるから、僕にとっては存在する。もしかすると、彼女を見ることも、触れることもできない者がいるかもしれない。その人にとっては、カロは存在しないことになるかもしれない。

 科学には限界があるということに、僕は随分昔に気づいてしまった。科学を否定したいわけではない。けれど、科学にも必ず前提があるということが分かってしまったのだ。科学では、基本的に客観的な観点から物事を考える。客観的な観点というのは、誰のものでもない、言うなれば神の視点ということだろう。しかし、客観「的」になることはできても、真の意味で客観することは不可能だ。客観「的」に物事を見ているのは、ほかでもない自分に違いないのだから。

 そういうわけで、僕が科学の道に進むことはなかった。昔の僕はそちらの道に憧れていた。けれど、いつしかその道をから逸れてしまった。今、毎日人形を作って生活しているのも、その結果だ。その人形たちは、僕にとっては存在する。見ることも触れることもできる。そうしたものに囲まれて生きていたいのだろう。そんな人形など役に立たないと言われても、全然関係がない。間近で見たことも、触ったこともないのに、月について議論するよりましだと思ってしまう。

 カロはどのような道を選ぶだろうかと、ふと思った。彼女に昨日与えた本は、すべて科学的な観点から書かれたものだった。少なくとも、芸術の類ではない。芸術性は幾分認められるかもしれないが……。

 僕の視界からカロが消える。

 しまった、と気づいたときには、彼女は転んだあとだった。

「大丈夫?」振り返って、僕は尋ねる。尋ねる言葉が出たあとで、身体が彼女の方へ近寄っていった。

 カロはアスファルトの地面に手をついて立ち上がり、顔を上げる。

「うん」彼女は一度頷いた。「平気」

 スーパーマーケットに到着し、僕は食料品を買った。冷蔵が必要なものはあまり買わない。僕は基本的に乾いたものが好きだ。この傾向は食べ物以外にも認められる。液体よりも固体の方が好ましいし、固体も水分を含んでいないほど良い。

 と言いつつ、寒いのにアイスを買って食べた。カロが食べたいと言ったからだ。スーパーの外に設置されたベンチに二人並んで座る。僕はカップに入ったもの、カロはソフトクリーム型のものだった。二人ともバニラだ。バニラというものを僕は実際に見たことがない。植物の名前だろうか。香りは分かるが、味はよく分からない。バニラエッセンスと呼ばれる調味料は茶色いが、バニラ自体はどのような色をしているのだろう。

「冷たい」カロが言った。「体温が低下しそうだ」

「そうだろうね」僕は同意する。「そのために食べているのかもしれない」

「美味しい」カロが呟いた。「倍音を投下しそうだ」

「え?」

 今日が平日なのか休日なのか僕には分からなかったが、スーパーの駐車場はそれなりに埋まっていた。たぶん、どの時間帯もそれなりに埋まっているだろう。本当のところは分からないが、そういう印象がある。本屋に行っても同様の印象を受けるのではないか。

 カロは何度かアイスを地面に零した。幸い、衣服に付着することはなかった。流動的なものの運動を予測するのがまだ難しいのかもしれない。

「物理学の勉強をしてみようと思う」

 アイスを食べ終えて、カロが言った。僕はまだ食べている途中だった。僕は平均よりも食べるのが遅い。偏差値で言えば、たぶん四十くらいだと思う。

「そう」僕は頷きながら呟く。頷きの回数の方が多かった。

「真実がそこにある気がする」

「真実という言い方は、僕はあまり好きではないよ」

「では、言い換えると、どうなる?」カロは僕の方を見る。僕は正面を向いていた。母親に手を引かれた子どもが歩く姿に目を引かれたからだ。

「それまで真実が埋めていたスロットが空になって、そのまま」

「代わりはないの?」

「ない」

「そう……」

「寂しそうだね」僕は少し笑った。「そんなに落ち込むこと?」

「落ち込む素振りを見せてみました!」

「あ、そう」

「真実を求めて学問をするわけではない」

「そうそう」

「分かっているわ」

「わ、は、使わない方が無難だと思うよ」

「分かっているさ」

「うん、そっちの方がいいね」

 目的を果たしたので、僕たちは帰路につくことにした。充分ではないかもしれないが、カロも陽光を浴びることができたようだ。間近で見たことも触ったこともないから、太陽が存在するか否かは分からないが、少なくとも、陽光が存在することは確かだ。そもそも陽光とは存在という状態をとるものなのかは疑問だが。

 カーブしながら上がる坂道を進む。この道は、かつて山だった斜面に沿って作られている。僕の家は山の中にあるといって良い。

 突如として、前方から強い風が吹きつけてきた。

 風を受けて僕とカロは立ち止まる。カロが僕よりも数メートル先を歩いていたから、僕が受ける風は軽減された。

 衣服、それから、食料品の入ったビニール袋が音を立てた。

 木々に留まっていた数少ない鳥たちが一斉に飛び立ち、鳴き声を上げながら空を滑るように去っていく。薄く開いた目でその姿を追った先に、赤く煌めく軌跡を確かに見た。

 風が治まり、僕とカロは体勢を戻す。僕はカロの傍に寄り、なんとなく彼女の腕に触れた。

 赤い軌跡が上空に円を描いている。高速で移動することで、まるで本当にフープが存在するように見えた。端の方から徐々にその赤い軌跡の密度が薄まっていくのが分かる。しかし、密度が薄まるのと同時に軌跡は重ねがけされた。円の直径がどのくらいかは分からない。視界に収まりきらないほどではないが、顔を上げれば必ず気づくほどの大きさはある。

 赤い軌跡を作っていた先端が途中で周回を中断し、尾を引きながら地面に対して鋭角に進んでいった。円上の軌跡が消え、代わりに線上の軌跡が現れる。地上から見ているから移動を目で追えるが、実際にはかなりの速度と推測される。

 やがて、軌跡は、手前の位置にある大地に隠れて見えなくなった。

 それと同時に、再び前方から突風が生じた。

 僕は片方の手でカロの腕を掴んだまま、もう片方の手で目を塞いだ。反射的にそうしただけで、効果があるのかは分からなかった。

 目は覆われていても、耳は覆われていないから、音は聞こえる。

 地の底を穿つような振動が鼓膜を震わせた。
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