1 / 5
第1話 意味などない
しおりを挟む
これは音楽で、だから特別意味はない。あるのは音でしかないが、音ほど頼りになるものはない。人々は言葉を信じられるみたいだが、僕からすればとても信じられたものではない。言葉を使えば平気で嘘を吐くことができる。それに比べて、音は決して嘘を吐かない。音は万人に同じように聞こえる。
少女がピアノを弾いていた。
頭の上にヘッドホンを被って、丁寧に鍵盤を叩いていく。
この世の終わりのようなメロディにも、この世の始まりのようなメロディにも聞こえた。どちらも嘘であり、本当でもある。嘘と本当が共存している。しかし、これは音の性質ではなく、言葉の性質だ。
「どうして、君はピアノを弾くの?」
僕は少女に尋ねた。つまり、口から音を発した。人間の調音器官も楽器と大して変わらない。
「理由なんてないよ」少女は答えた。「そんなものを求めて、どうするの?」
綺麗な声だった。しかし、汚くもあった。言葉の歪みに埋もれている。けれど、それは僕が彼女の声を言葉として捉えたからだ。単純な音として捉えれば、大したことはない。
「ほら、耳を澄ませてごらん。色々な音が聞こえるから」少女が言った。「たぶん、君には真似できない。真似したって、仕方がないのかもしれないけど」
「仕方がないって、何が?」
「君の人生には」
「人生には、もともと仕方なんてないよ。仕方がないから人生なんだ。しかし、最近は人生のマニュアル化が進んでいるみたいで、多くの人間がそれに従って生きているね。つまらなくないのかな? 少なくとも、僕はつまらないと思うけど」
「君は、つまらない」
「いや、僕じゃなくて、人生」
「コーヒーが飲みたいよ」
そう言って、少女は頬を膨らませる。
都合良く隣に現れた自動販売機にコインを入れて、僕は缶コーヒーを購入した。購入すると、購入した、という感じがするし、プルトップを開けると、プルトップを開けた、という感じがする。それは、頭の中にそういう「感じ」がすでに出来上がっているからで、現実を正しく理解したからだと思い込むのは傲慢だ。
「美味しい」
コーヒーを一口飲んで、少女が笑った。
少女は再びピアノを弾き始める。チクタクとメトロノームの音も聞こえた。それがどこにあるのかは分からない。もしかすると、僕の頭の中にあるのかもしれない。それはそれで面白い。試しに頭を左右に振ってみると、少々音が乱れた。やはり僕の頭の中にあるようだ。
「私がヘッドホンを付けている理由を、知っている?」
少女が僕に尋ねてきた。ピアノの演奏は続いている。知らなかったので、僕は首を振った。またメトロノームの音が乱れた。
「できるだけ、自分の声を聞きたくないからなんだ」
「耳を塞いだら、むしろよく聞こえるのでは?」僕は言った。「頭蓋骨に反響するだろう?」
「しない」
「するよ」
「しない」
しない人間もいるのかもしれないと思って、僕は諦める。この種の諦めは意外と簡単にできると自負している。それが僕に築かれた防衛機構なのだ。ほかの者にはなかなか真似できないだろう。真似されたくもない。彼女にだったら良いかもしれないと、とっさに思いついたが。
「どうして、自分の声を聞きたくないの?」
「あまり、好きではないから」
「どうして、好きではないの?」
少女は僕を睨みつける。
「そんなことに理由があって堪るか」
「お金はなかなか貯まらない」僕は話す。「それはなぜか。すなわち、貯める気がないから。如何なる目標の達成も、それを求める意志に下支えされている。その下支えがないのなら、その上に何かが載ることもない」
ピアノの音、ピアノの音。
リズム、リズム。
チャチャチャ。
アフターヌーンティー。
コーヒーを飲んだつもりなのに、缶の中から出てきたのはコーンポタージュだった。だから、僕は液体を吹き出してしまった。それを見て少女が盛大に笑っていた。そうすると、自分の声が頭蓋骨に反響するようで、それを聞いて少女は一人で悶えていた。
ここには空がない。
なぜなら、ここが空だからだ。
空の中に空はない。
上も、下も、皆空。
「天国というよりも、地獄のイメージ」少女が話した。そのコメントは、自身が演奏するピアノのメロディに対してのものみたいだった。「エンマ様が舌を抜きにやってくる。痛い痛いと言いながら。舌を抜いて痛いのは、エンマ様の方なんだよ、きっと」
「どうして?」
「心が痛むから」
「そりゃあ、誰だってそうだよ。好き好んで罰を与える者なんていない」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
「どこ?」
目の前から少女が消えていた。
背後に気配を感じる。
振り返ると、そこにピアノがあった。
だから、僕は椅子を引いて、その上に座った。
少女がピアノを弾いていた。
頭の上にヘッドホンを被って、丁寧に鍵盤を叩いていく。
この世の終わりのようなメロディにも、この世の始まりのようなメロディにも聞こえた。どちらも嘘であり、本当でもある。嘘と本当が共存している。しかし、これは音の性質ではなく、言葉の性質だ。
「どうして、君はピアノを弾くの?」
僕は少女に尋ねた。つまり、口から音を発した。人間の調音器官も楽器と大して変わらない。
「理由なんてないよ」少女は答えた。「そんなものを求めて、どうするの?」
綺麗な声だった。しかし、汚くもあった。言葉の歪みに埋もれている。けれど、それは僕が彼女の声を言葉として捉えたからだ。単純な音として捉えれば、大したことはない。
「ほら、耳を澄ませてごらん。色々な音が聞こえるから」少女が言った。「たぶん、君には真似できない。真似したって、仕方がないのかもしれないけど」
「仕方がないって、何が?」
「君の人生には」
「人生には、もともと仕方なんてないよ。仕方がないから人生なんだ。しかし、最近は人生のマニュアル化が進んでいるみたいで、多くの人間がそれに従って生きているね。つまらなくないのかな? 少なくとも、僕はつまらないと思うけど」
「君は、つまらない」
「いや、僕じゃなくて、人生」
「コーヒーが飲みたいよ」
そう言って、少女は頬を膨らませる。
都合良く隣に現れた自動販売機にコインを入れて、僕は缶コーヒーを購入した。購入すると、購入した、という感じがするし、プルトップを開けると、プルトップを開けた、という感じがする。それは、頭の中にそういう「感じ」がすでに出来上がっているからで、現実を正しく理解したからだと思い込むのは傲慢だ。
「美味しい」
コーヒーを一口飲んで、少女が笑った。
少女は再びピアノを弾き始める。チクタクとメトロノームの音も聞こえた。それがどこにあるのかは分からない。もしかすると、僕の頭の中にあるのかもしれない。それはそれで面白い。試しに頭を左右に振ってみると、少々音が乱れた。やはり僕の頭の中にあるようだ。
「私がヘッドホンを付けている理由を、知っている?」
少女が僕に尋ねてきた。ピアノの演奏は続いている。知らなかったので、僕は首を振った。またメトロノームの音が乱れた。
「できるだけ、自分の声を聞きたくないからなんだ」
「耳を塞いだら、むしろよく聞こえるのでは?」僕は言った。「頭蓋骨に反響するだろう?」
「しない」
「するよ」
「しない」
しない人間もいるのかもしれないと思って、僕は諦める。この種の諦めは意外と簡単にできると自負している。それが僕に築かれた防衛機構なのだ。ほかの者にはなかなか真似できないだろう。真似されたくもない。彼女にだったら良いかもしれないと、とっさに思いついたが。
「どうして、自分の声を聞きたくないの?」
「あまり、好きではないから」
「どうして、好きではないの?」
少女は僕を睨みつける。
「そんなことに理由があって堪るか」
「お金はなかなか貯まらない」僕は話す。「それはなぜか。すなわち、貯める気がないから。如何なる目標の達成も、それを求める意志に下支えされている。その下支えがないのなら、その上に何かが載ることもない」
ピアノの音、ピアノの音。
リズム、リズム。
チャチャチャ。
アフターヌーンティー。
コーヒーを飲んだつもりなのに、缶の中から出てきたのはコーンポタージュだった。だから、僕は液体を吹き出してしまった。それを見て少女が盛大に笑っていた。そうすると、自分の声が頭蓋骨に反響するようで、それを聞いて少女は一人で悶えていた。
ここには空がない。
なぜなら、ここが空だからだ。
空の中に空はない。
上も、下も、皆空。
「天国というよりも、地獄のイメージ」少女が話した。そのコメントは、自身が演奏するピアノのメロディに対してのものみたいだった。「エンマ様が舌を抜きにやってくる。痛い痛いと言いながら。舌を抜いて痛いのは、エンマ様の方なんだよ、きっと」
「どうして?」
「心が痛むから」
「そりゃあ、誰だってそうだよ。好き好んで罰を与える者なんていない」
「いるよ」
「どこに?」
「ここに」
「どこ?」
目の前から少女が消えていた。
背後に気配を感じる。
振り返ると、そこにピアノがあった。
だから、僕は椅子を引いて、その上に座った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる