皿かナイフか

羽上帆樽

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第4章 掲示板改訂

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 次の日、学校に行くと、授業の内のいくつかが休講になることが、昇降口の掲示板に記されていた。いくつかの授業が同時に休講になるということは、教員の集まりがあるということだ。学校の外で会議か何かが開かれるのだろう。そういうわけで、月夜は一時間目の授業を受けたあとは、昼休みまでずっと自習をすることになった。

 自習ができる部屋は決まっている。自習室か図書室だ。だが、月夜は滅多に自習室は使わなかった。特に理由はないが、図書室の方がなんとなく落ち着くような気がするからだ。完全に無音よりも、ある程度雑音がする方が集中できるからかもしれない。

 図書室に行くと、案の定勉強できるブースがほとんど埋まっていた。入り口に近いブースのいくつかが運良く空いていたので、月夜はその内の一つに座った。

 この時間にフィルが学校に来ることはない。人に見られるからだ。猫が建物の中に侵入するという事態は、現代ではそれなりに特異な事象とされている。彼の場合、言葉は話せても、話せない振りをすることはできるから、正体がばれることはない。ただ、月夜の傍にいたら間違いなく怪しまれるので、そうした当たり前の判断の結果、放課後になるまでは来ないみたいだった。

 最初の一時間ほど勉強したあと、月夜は立ち上がって、本を探す旅に出た。

 昨日読んでいた本は、今日は家に置いてきた。なんとなく、続きを読む気になれなかった。

 彼女は、ときどき、何の脈絡もなく、別の本を読みたくなることがある。

 図書室に並べられた本の中から、目についたものをなんとなく手に取って、ページを開く。最初からは読まない。適当なところから目を通す。

 彼女が書架の前に立って本を広げていると、本の整理にやって来た司書が声をかけてきた。司書とは顔馴染みだが、親密な関係というわけではなかった。

「最近は、頭を使う本が、よく読まれますね」会話の中で司書がそう言った。

「頭を使う本、とは?」月夜は尋ねる。本を読むからには、頭を使わないわけにはいかないだろうと思ったのだ。

「うーん、そうですね……。たとえば、パズル関連の本とか」司書は答えた。「クロスワードとか、あとは、視点をぼやけさせて、何が描かれているのかを当てるものだったり。……そういうのが、最近流行っているの?」

 月夜は知らなかったので、首を振った。

「私は、その手のものはあまり読まないんですけどね」司書は笑顔で話す。「ただでさえ、頭の回転が遅いのに、パズルなんて、難しすぎます。普通に文章を読んでいる方が面白いと思いませんか?」

 司書に問われ、月夜は答えた。

「たぶん、どちらも、面白いと思います」

 司書に紹介されて、月夜はパズルの本を一冊読んでみた。読むというよりは、解くといった方が近い。本に載っていたのは所謂数学的なパズルで、どちらかというとなぞなぞに近いものだった。マッチ棒を一本だけ動かして、任意の図形に変えたり、てんびんを使って、最低限の操作で求めている重りを見つけたりと、様々なバリエーションの問題があった。

 そうした本を読みながら、なるほど、パズルとは、パズルなのだな、と月夜は思った。

 ふざけているのではない。

 ある一つのパズルに挑戦している内に、その問題に取り組んでいる間、自分がパズルのことしか考えていないことに気がついたのだ。普通、読書という行為は、そこに書かれていることだけではなく、自分の身近なことだったり、関連する事柄だったりと、色々な想起を伴うものだが、パズルに挑戦しているときにはそれがない。ただ、目の前にある問題に集中するだけだ。だから、パズルはパズルなのだと、彼女は思ったのだ。

 適当なタイミングで本を棚に戻して、月夜はブースに戻った。席に座ると、ノートにペンを走らせて、自分で思いつくままに図形を描いて、パズルを作れないかと試してみたが、無理だった。

 パズルは、解くのも大変だが、作るのも大変なのかもしれないと思った。そういう意味では、数学の問題と似ている。数学の問題も、解くのも作るのも大変だ。いや……。数学の場合は、どちらかというと作る方が大変か……。

 いずれにせよ、頭を使うことに変わりはない。司書が言いたかったことが、少しだけ分かったような気がした。

 午後は普通に授業があったので、いつも通り受講して、あっという間に放課後になった。ただ、月夜自身にあっという間という感覚はなかった。そして、長いという感覚もない。午後は三時限授業があるが、三時限は三時限として、彼女には処理された。

 日が暮れて、部活動に所属している生徒が帰宅し、そして、教師も帰宅する。

 窓の外は暗くなり、空気が冷たくなった。

 月夜は、教室にいた。

 自分の席に座って、じっとしている。

 目の向かう先には、自分の掌があった。

 暗闇に、浮かぶ、手。

 白い、手。

 所々、ほんのり赤く染まっている、手。

 誰かに握られたこともある、手。

 でも、今は独りぼっちな、手。

 窓が叩かれて、月夜は我に返る。予想した通り、そこにはフィルがいた。

 彼を教室に招き入れると、床に着地する前に、月夜は彼を抱きかかえた。

「どうした?」

 フィルに問われ、月夜は答える。

「あの、喫茶店に、行く」

「ほう。何か、したいことがあるんだな」

「たぶん」

「それならそうと、もっと早く言ってくれたらよかったのに。連絡先、知っているだろう? 異世界通信システム」

「今、思いついたことだから」

「だから?」

「だからは、接続詞」

 机の横にかけてあった鞄を背負って、月夜は学校の外に出た。例外なく、今日も街は静まり返っていた。昼と夜を反転させるような、アクロバティックな事象を望む人はいないらしい。

「で、何をしに、喫茶店に行くんだ?」

 月夜の隣を歩きながら、フィルが尋ねてきた。

「彼を、好きになりに行く」

「彼を、好きに?」

「誰かを、好きになりたいから」月夜は説明した。「今、身近にいて、お願いできそうな人は、彼しかいない」

 フィルは声を出して笑ったが、月夜に見つめられるとすぐに黙った。

「悪い。気を悪くしたのなら、謝るよ」薄く笑みを浮かべたまま、フィルは謝罪した。

「そんなことはない」月夜は首を振る。「そんなに、可笑しいこと?」

「まあ、お前にとっては可笑しくないんだろうな。でも、そういう態度は大事だぞ。たとえ周囲の人間から冷たい目で見られようと、自分にとって本当に大切なことだと思うのなら、気にしてはいけない」

「あまり、気にしたことはないけど」

「ああ、そうだったな。では、俺も付き合おう」

 昨日と同様の道順でバスロータリーまで来て、二人は喫茶店の入り口に辿り着いた。店自体は地下にあるが、それを示す看板が地上に出されている。

 階段を下りて、ドアを開ける。ベルが鳴って、来客を知らせる。

 カウンターの中から、すぐに店主が顔を出した。軽くお辞儀をしてきたので、月夜とフィルもそれに倣った。視線を手前に向けると、そこに例の少年が座っていた。やはり、この時間になると毎日ここへ来るようだ。

 自動で閉まったドアを背に、月夜は暫くの間その場に立ち尽くす。

 席に座る前に、彼女は少年の傍へと向かった。

 彼の、肩に触れる。

 耳にイヤフォンを嵌めていて、少年は月夜たちが来たことに気がついていなかった。昨日と同様に顔を訝しげに顰めると、嵌めていたイヤフォンの片方を外して、少年は口を開いた。

「何?」

 月夜は、無表情で言葉を放った。

「お願いがある」

「え?」

「私に、君を好きにならせてほしい」

 空気が停滞した。

 沈黙。

 外で、バスが走っているはずなのに、何も聞こえない。

「……は?」

 目を何度か瞬たせて、少年は尋ねた。

「好きに、ならせてほしい」

「何、言ってるんだ」

「お願い」

 少年は月夜の目をじっと見つめる。それから、椅子に座ったまま少し身体を捻って、彼女の背後を探るように見た。背中に銃をつきつけられているのかと思ったのかもしれない。

「いい?」

 月夜は、彼に念を押す。

 少年は、答えない。

 ただ一人、フィルが、声を抑えて笑っていた。

 何度も同じことを伝えて、やがて、少年に呆れ返られた。月夜が何を言おうとしているのか、理解できないといった感じだった。それもそのはずだ。二人は、まだ出会って二日しか経っていない。しかも、それは出会いなどと呼べるものではなく、ただちょっと言葉を交わした程度にすぎない。そんな相手から、突然日本語の使い方を間違えたような台詞を吹っかけられたら、どう対処したら良いのか分からくなるに決まっている。

「わけが分からない」掌を上に向けて、少年は言った。「僕は、了承すればいいのか?」

「して、くれるの?」

「すれば済むんだな?」

「うん」月夜は頷く。

「じゃあ、いいよ」言い終わらない内に、少年は月夜に背を向けた。「あとは、好きにやってくれ」

 事態が終了したと判断して、月夜は昨日も座ったテーブル席に着いた。タイミングを窺っていたかのように店主が姿を現して、伝票を片手にご注文はと月夜に尋ねてきた。月夜はメニューを手に取り、飲み物のページを開いて、グレープジュースを注文した。

「どうして、今日はグレープジュースなんだ?」

 店主がいなくなったあとで、フィルが彼女に訊いてきた。

「特に理由はないよ」月夜は答える。

「飲みたくなったのか?」

「そういうわけでもない」

「じゃあ、どうしてだ?」

「理由は、ない」

「喉が渇いたんだな?」

「ううん」月夜は首を振った。「全然、渇いていない」

 コーヒーが到着すると、例によって月夜は今日も勉強を始めた。宿題がまだ終わっていなかった。

「で、好きになるための儀式は、あれで終わりか?」

 それ以降少年と何のやり取りもしようとしない月夜に、フィルが訊いた。

 月夜は顔を上げて、隣に座るフィルを見る。

「そうだけど」

 フィルは口を真一文字に広げる。

「本気で言っているのか?」

「うん」

 勉強を進めながら、何かおかしいことを言ったただろうか、と月夜は考えた。今日は国語の文章読解をしていたので、内容を理解しながら別のことを考えるのは多少困難だった。こういうときには、今目の前にあることではなく、別のことを考える方が優先されるようだ。

 勉強を進めたかったから、月夜は頭を支配していることを排除するために、フィルに尋ねた。

「ほかに、何かした方がいい?」

 月夜が尋ねると、フィルは笑みを浮かべた。

「いや、お前がそれでいいのなら、いいんじゃないか?」彼は話す。「あいつも、好きにしろって言っていたからな」

「フィルなら、どうするの?」

「え?」フィルは真顔になった。「俺はそもそも、そんなことをしようとは思わない。少しは自分の特異さを知った方がいいぞ、月夜」

「特異さ?」

「自分が変わっていることを、知っているだろう?」

「私が?」

「そう」

 月夜は沈黙し、暫くの間下を向いたまま固まる。

「いや、なんか……」フィルは特に意味のない言葉を発する。

 月夜は唐突に立ち上がる。

「彼の所に、行ってくる」

「え?」

 カウンター席に向かい、月夜は少年の隣に座る。それに気がついて、少年は顔を上げて月夜を見た。先ほどと同様の手順でイヤフォンを外し、彼は口を開く。

「何か用があるのか?」

「用はないけど、話した方がいいかな、と思った」月夜は答える。「話しても、いい?」

「何の話?」

「何でも」

「話したいことがあるわけじゃないのか?」

「何か、ある?」

「こっちが訊いているんだけど」

「ない」

「じゃあ、自分の席に戻ってくれ」少年は薄く笑いながら告げる。「君は、何がしたいんだ」

 自分でも何がしたいのか分からなくて、月夜は返答に困った。いや、したいことはある。それは、誰かを好きになることだ。でもそれは、もう達成されたといって良い。いや……。達成するための道筋は用意できた、といった方が正しいか。

「貴方と、話がしたい」月夜は言った。「しても、いい?」

 月夜の言葉を聞いて、少年は短く溜め息を吐く。

「どうして、僕なんだ」

「貴方と、出会ったから?」

 少年は首を捻ったまま沈黙する。

 彼は手もとのゲーム機をスリープモードにすると、それをカウンターの上に置いた。それから椅子を回転させて月夜の方を向き、彼女を真っ直ぐ見つめて口を開いた。

「それは、恋愛的な感情なのか?」

 少年が言った言葉の意味を、月夜は最初理解できなかった。

 ……恋愛?

 それは、今までずっと理解できなかったことだ。

「恋愛って、何?」

 月夜の問いを受けても、少年は表情を変えない。

「意識的に、そうしようと思っているのか?」

「そうしようというのは、どういうこと?」

「僕を、好きになろうとしているのか?」

「うん」

「じゃあ、それは恋愛的な何かじゃないな」

 少年は脚を組み、それから腕を組む。

「友達が欲しいのか?」

「友達?」

「傍に誰もいないから、不安なのか?」

「不安?」

「傍に誰もいないというのは、合っているんだな?」

「ううん」

 月夜は後ろを振り返り、テーブル席に着くフィルを指差す。

「彼がいる」

 月夜の答えを聞いて、少年は首を振った。

「そういうことじゃない」

「……どういうこと?」

「人」

「人?」

「同類じゃないと、駄目なんだ」

「彼も、同類だと、私は思う」

「それは一般的じゃない」

「一般的?」

 少年はまた溜め息を吐く。

 店内は暗い。だから、顔を近づけなければ、互いの表情を見ることはできなかった。月夜が顔を近づけても、少年は抵抗しなかった。きっとそれが彼の本当の性質なのだろう。今までは、そうではない振りをしていたのだ。それが彼の処世術だからかもしれない。

 会話の中で、少年は自らを煤と名乗った。彼が自己紹介をしてくれたから、月夜も自分の名前を伝えた。他人との関係を結ぶ際に、名前を教えることを重要だと月夜は思わない。その手続きを踏まなくても、関係を結ぶことはできる。けれど、相手がそうしてくれたのなら、自分もそうし返すことが礼儀だということは、彼女も理解していた。

「僕と関係を結ぶ必要はない」煤は言った。「だって、そうだろう? 君が求めているのは、僕を好きになることだ。僕に好かれることじゃない。人間同士の関係は、本来相互的に結ばれるものだけど、君はそうなることを求めているんじゃない」

「どうして、そんなに話してくれるの?」

「君に、好きになってもらうためだよ」煤は少し笑い、答えた。「君のためだ」

 煤は月夜と同学年だった。ただし、通っている学校は異なる。高校に学区は関係がない。この喫茶店に通っているのは、かつてこの近郊に住んでいて、そのときによく訪れていたかららしい。店主とも顔馴染みで、互いのことをよく知っているとのことだった。

「でも、どうして、この時間に、ここへ来るの?」疑問に思っていたことを月夜は煤に尋ねた。

 煤は顔を正面に向ける。

「ゲームの練習がしたいからだよ」

 カウンターの上にあるゲーム機に、月夜は目を向ける。

「ここで?」

「静かで、集中できるから」

「集中しないと、できないの?」

 月夜の問いを受けて、煤は少し笑った。

「集中しないよりは、した方がいいに決まっているじゃないか」

 煤は学校にはあまり通っていないらしい。定時制の学校だが、週に何度も欠席しているらしかった。

 彼が最も興味があることはゲームで、今も、それをするためにここに通っている。彼がやっているゲームは、それなりに認知度の高いものらしく、大会の類も定期的に開催されているとのことだった。彼の実績では、地方レベルの大会まで進出したことがあるらしい。ただ、それ以上進むには相当な技術が必要だから、毎日の練習が欠かせない。学校の授業など受けても面白くないし、自分にとって得になるとは思えないから、自分のやりたいことを優先してやっていると彼は話した。

「通いたかったから、受験したんじゃないの?」月夜は質問する。

「もちろん、そうだ」煤は答えた。「でも、それは違う。今の社会では、そうすることが半ば強制されているようなものだ。うちの親も同じように考えていただろう。その方が安全とでも言えばいいかな。とにかく、一般的なルートから外れるようなことがあってはならない。……ただ、僕はもう大分そのルートから外れてしまった。やっぱり自分には無理だったんだ。やりたくないことをやり続けるのは、困難だ」

 お腹が空いたと言って、煤はハンバーグ定食を注文した。彼に何か食べるかと問われたが、特にお腹は空いていなかったので月夜は断った。

 テーブル席からフィルを連れてきて、月夜は煤に彼を紹介した。フィルは普通の猫ではないが、今は普通の猫として振る舞っていた。

「ゲームが、好きなの?」

 途中からまたゲームをやり始めた煤に向かって、月夜は尋ねた。

「ああ、好きだよ」煤は素直に答える。「好きだから、やっているんだ」

 概観。

 視点。

 月夜は、自分を見る術を知らない。

 いや、知っているが、上手く使えていない。

 煤は上手く使えているように見える。

 縒れたパーカーの袖から出した手を器用に動かして、彼はゲーム機のボタンを操作する。操作された通りに、ブロックは位置と向きを変えて、適切な場所へと配置されていく。

 見ているだけでは、何が面白いのか分からなかった。

 炎の舞。

 重なる性質。

 火の粉。

 きっと、見ているだけでは分からない何かが、そこにあるのだろう。勉強を面白いと言う人もいる。それでも月夜が面白く感じられないのは、きっとまだ見ている段階に留まっているからだ。それ以上先に進めていない。

 注文したハンバーグ定食が運ばれてきて、煤はゲームを中断してそれを食べ始めた。

 月夜も、彼の隣に並んで、自分のグレープジュースを飲んだ。

 誰かと一緒に食事をするのは、久し振りだった。

「月夜は、お腹は空かないのか?」

 食事をしていると、煤が尋ねてきた。

 月夜はそれに応じる。

「うん、空かない」

「いいな、そういう人は」彼は言った。「僕も、できることなら空かない方がいい」

「食事は、嫌い?」

「嫌いじゃない。でも、本当は好きも嫌いもない方がいい」

「美味しいと感じない?」

「感じる。でも、それも僕の本心じゃない」

「美味しいと、また食べたくなる?」

「なる」

「それも、君の本心じゃない?」

 煤は頷いた。

 前髪に隠された二つの目が、彼女を見て笑っているように見えた。煤は奇抜だと、月夜は思う。でも、奇抜すぎず、程良い範囲に収まっている。彼はきっと、色々なことを知っているのだろう。外見は、やはり飾りにすぎない。内に隠しているもの、隠されているものは、角度を変えても見えない。本人が見せようとしたときに、ようやく見えるようになる。

 でも、月夜には、それがなかった。

 何も隠していない。

 常に自分の内を見せている。いや、内を、見せているのではない。見える状態にあるのだ。

 食事を終えると、煤はナイフを手に取った。

 彼はそれを月夜に手渡した。

「何?」

 ナイフを受け取って、月夜は尋ねる。

「いや、特に何も」煤は顔を背ける。

 ナイフの表面を覗き込むと、ぼんやりと自分の顔が映り込んでいた。店内は暗くて、表面も滑らかではないから、辛うじて何かが映っているのが分かる程度だ。けれど、月夜にはそれが自分の顔だと分かった。映っている対象を視認することで、直接理解したのではない。自分が今立たされている状況から、映っているのが自分の顔だろうと推測したのだ。

 自分を認識するためには、他者というほかの存在が必要になる。

 煤にはその他者が存在するのだろうか?

 きっと、存在する。

 では、自分には?

 自分には、その他者は存在するのか?

 その他者が欲しいのか?

 誰かを好きになりたいとは、どういうことだろう?

 好きになるとは、どういうことだろう?

 好きになってもらうとは、どういうことだろう?

 好きとは何だろう?

「皿と、ナイフだったら、君はどっちを取る?」

 唐突に煤に問われて、月夜は彼の方を見た。肩に載っているフィルがバランスを崩して、落ちそうになった。

「皿と、ナイフ?」

「無人島に行くとしよう」感情を窺わせない声で、煤は静かに話した。「持っていけるものは一つだけだ。そして、選択肢には皿とナイフがある。君はどちらを持っていく?」

 裏の意味など考えずに、月夜は考えたまま答える。

「ナイフ」

「なぜ?」

「皿よりも、ナイフの方が有用だと判断したから」月夜は説明した。「ナイフがあれば、食材を調達することができる。木の実を削ったり、魚を捌いたり。もし、同じ島に流れ着いた誰かと争うことになっても、ナイフがあれば応戦できる」

「そうか」月夜の答えを聞いて、煤は頷いた。「僕は、皿だな」

「どうして?」

「皿の方が好きだから」テーブルの表面を見つめたまま、煤は答えた。「僕は、たぶん、皿を持って待っている。食材を調達することも、誰かと争うこともしない。皿を持って、食べ物がそこに舞い降りてくるのを待っているんだ」

 煤が言った意味を、月夜は考える。

「それは、合理的ではない」月夜は応える。

「そう、合理的ではない」煤は言った。「でも、そうすることもできる」

 店主がやって来て、空になった食器を下げていった。皿もナイフもなくなり、カウンターの上は空白になる。煤はゲーム機を手に取って、またゲームをやり始めた。

 以後、月夜と煤が口を利くことはなかった。たぶん、お互いに、意識的にそうしようとしていたのではない。流れ、もしくは運命のように、そうなることが必然だったのだ。

 ……と思いついたのは、都合の良い偶然だろう。

 煤の方が、先に喫茶店から立ち去った。

 彼がいなくなってから、三十分後。

 月夜は、ハンバーク定食を注文した。
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