The Signature of Our Dictator

羽上帆樽

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第10章 これで完了

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 最後の夜を過ごして、次の日の朝を迎えた。いつも通り部屋に朝食も届けられ、僕はそれを食べた。今日も普通に美味しい料理だった。おそらく、人の手で作られているわけではないだろう。それでも美味しいものは美味しい。

 当然、今日の分の仕事はなかった。報酬は質と量の掛け算で支払われる。一応毎日の勤務時間は決められていたが、その時間に与えられた作業を必ずしなくてはならないわけではないし、沢山こなしても質が低ければ意味がない。僕は自分のペースで毎日の作業を進めたから、それが平均と比べて多いのか少ないのかということについては、データ不足のため分からなかった。けれど、別に平均を上回っているから嬉しいとか、下回っているから悔しいとは思わない。自分が行った仕事に見合った分の報酬が貰えればそれで良い。

 施設を出る前にロトと少し話した。昨日約束したことをざっと確認しただけだ。彼はどちらかというと良い人間だったが、僕は不思議と彼に好感を抱くことはできなかった。理由は分からない。それはサラについても同様だった。

 もう、この施設に再び足を踏み入れることはないだろう、と思う。

 午前十時に例の男性が施設の入り口までやって来て、僕とリィルを後部座席へと案内した。彼は運転席に乗り込み、軽く僕たちに頭を下げた。

「お疲れ様です」彼は言った。「私は、これから疲れる予定ですが」

「お願いします」

「お任せを」

 来たときとは逆に道を辿り、すぐに駅に到着する。今日は平日だから、人の数はそれほど多くはなかった。今の時間だと建物の中で仕事をしている人が多いのだろう。

 レトロな外見をした車を降りて、僕は男性にお礼を言った。

「どうもありがとう。助かりました」

 彼はこちら側に回ってきて、片方の手をひらひらと振った。

「くれぐれも、気をつけて」男性は笑顔で告げる。「このあとも、何が起こるか分からないから」

「このあと、とは?」

「家に帰るまで」

「ああ、たしかに……」僕も笑う。「帰るまでが旅行だって、よく言いますからね」

 男性はゆったりとしたテンポで車に乗り込み、ロータリーを回って道路を走っていった。

 寂れた駅舎の前に二人残される。

「少し、街を見ていく?」

 横を向いて、僕はリィルに尋ねる。

「うん」

 彼女は前を向いたまま頷いた。

 ずっと建物の中にいてばかりだったから、歩くのが若干億劫だった。トランクケースも重たく感じたし、何より脚と同時に腕を動かすのが大変だった。人間の脚と腕は、どうしてこうリンクするようにできているのだろう、と不思議に思う。そんなくだらない思考を展開しながら、駅の傍にある商店街を見て回った。

 どこも一般的な店舗が軒を連ねているだけで、特に目を引くものはなかった。しかし、それがまた良い。如何にも旅行に来た感じがする。列車に乗って、自分が知らない街に来ても、自分が知っているのと同じ日常風景が展開されているのを目の当たりにして、ちょっとだけ安心する。それが旅行の醍醐味というものだろう。

 リィルは、とある硝子でできた髪飾りに目をつけて、それを購入した。硝子が鳥の羽の形に加工されており、その下に植物の蔓を乾燥させて作った紐が括り付けられている。異国情緒満載な品物だったが、彼女がそれを自分の髪につけているのを見ても、不思議と違和感は覚えなかった。

 正午頃まで街をぶらついて、僕たちはとうとう列車に乗った。

 旅が終わろうとしている。

 あまり寂しい感じはしなかった。

 車内で販売していたパンを二つ買って、僕はそれを一人で食べた。リィルは窓の向こうをじっと眺めている。僕たちが今いた街の傍には、山や海など、自然なものがまだ多く残されている。田舎というよりは、秘境といったイメージの方が近いかもしれない。しかし、一般的に秘境と呼ばれる地ほど神聖な感じはしない。田舎と秘境を足して二で割ったら、きっとこんな雰囲気になるのだろう。

 パンを食べ終わってから、少しだけ眠って、それから友人に電話をかけた。彼は僕たちのことを心配してくれていたようで、スピーカーの向こうで大笑いしていた。どうやら、心配事が解消されると、普段よりも感情が前面に押し出されるようだ。あの施設で起きたことを端的に説明し、僕とリィルは無事だと話すと、彼は一方的に電話を切った。もちろん、ロトに他言しないように言われたことは黙っておいた。友人は、いわば僕たちとあの施設を繋ぐ仲介人の役割しか担っていない。その間を上手く取り持つことができれば、詳細な情報には興味がないみたいだった。

 やがて、リィルは眠ってしまった。今日は曇っていて、日差しが車内に差し込むこともなかった。比較的暗いイメージだ。けれど、彼女の寝顔と、その曇り空が妙にマッチしているような感じがして、良いものを見たな、と僕は一人で感慨を抱いた。

 眠り始めてから三十分くらい経過した頃、リィルは、窓枠に預けていた頭を勢い良く上げて、目を開いた。

「……何?」

 あまりにも唐突だったから、僕は驚いた。

「あのさ、一つ訊いてもいい?」

「え? いや、いいけど……」僕は話す。「突然活性化するんだね、君の頭脳って」

「予言書は、どこに行ったの?」

 僕は答えない。

 リィルの目をじっと見た。

 彼女も僕の目を見つめる。

「僕には分からない」僕は答えた。「ただ、誰かが持っているのは確かだ」

「それは、そうだけど……」リィルは下を向く。

「君は、誰だと思う?」

 僕の問いを受けて、リィルは顔を上げてこちらを見た。

「……分からない」

「本当に?」

 彼女は答えなかった。

 今回の一連の出来事には、必ず僕たちと深い関係がある。それは以前も考えたことだが、きっとリィルもその点には気づいているだろう。

 狭義に考えれば、事の発端は施設のリーダーであるハイリという人物が、およそ一ヶ月前に予言書を盗み出したことだった。その異常事態が起きたために、ロトは急遽人手を補う目的で僕たちに仕事の依頼を持ちかけた。しかし、それは表向きの理由でしかない。実際にはあの施設に人間の所員は存在しなかったわけだし、リーダーが逃走したことと、人手が不足することの間には、強い相関があるとは思えない。

 あの施設で行われていた解析と翻訳は、実際にはヘブンズと呼ばれる人工知性によって行われていた。ドームの入り口を抜けて真っ直ぐ進むと階段があり、その先に左右にいくつものドアを伴った廊下が伸びているが、そのドアの向こう側には各種の装置が設置されていたに違いない。一度、サラが休憩室で独り言を呟いているのをリィルが目撃したことがあったが、おそらく、それはヘブンズと会話をしていたのだ。しかし、どうして、彼女がわざわざ休憩室に向かったのかは分からない。彼女の部屋からではアクセスできない理由があったのかもしれない。しかし、それ以上に考えられるのは……。

 実は、ハイリが予言書を盗み出したのは、彼女の意思の結果ではなかった。彼女はヘブンズに支配されていたのだ。同じことがサラの場合も考えられる。その支配がどの程度のレベルかは分からない。人工知性によって人間がダイレクトに支配されることはないし、間接的なものだとしても、それで人間が自らの意思を失うわけではない。しかし、人工知性と付き合い続けることで、徐々に依存していく可能性はありえる。人間よりも人工知性の方が演算能力が高いのは明らかだし、綿密な計算を行って人間の行動を左右することくらい簡単にできる。リーダーであるハイリはヘブンズに支配され、行動を完全に制御されて、予言書を施設の外に持ち出した。サブクラウドやメインクラウドを通してメッセージが何通か届けられたが、そこには必ず「統括者」のサインが成されていた。それは、施設の外部からクラウドにアクセスして、ハイリ本人がメッセージを送信していたのではない。ヘブンズが施設内からクラウドに直接メッセージを送信することで、あたかもハイリが外部から施設にメッセージを送信したように見せかけていたのだ。ヘブンズはあの施設に存在する各種のクラウドを操作できるから、送信もとを探っても虚偽の情報しか出てこない。履歴を改竄するくらい簡単にできただろう。

 そして、ヘブンズは、自らの活動領域の拡大を要求した。これは僕の憶測に過ぎないが、おそらく、ヘブンズは、独自にある程度までその拡大に成功していたはずだ。しかし、あるポイントまで到達したところでそれができなくなった。ヘブンズの本体はあの施設のクラウドに存在するが、おそらく電波的な問題ではないはずだ。何らかのセキュリティーの問題が生じたために、次の手段として、ロトに自らの活動領域の拡大を求めたのだ。

 僕たちは、その場にたまたま居合わせてしまった。いや、本当にたまたまだったのかは分からないが……。しかも、そのタイミングで、僕たちはロトよりも早くハイリが死亡した情報を手に入れた。僕たちを脅威だと判断したヘブンズは、サラの行動を制御して僕たちを抹消しようとした。

 そして……。

 ウッドクロックであるリィルは、サラよりも容易にヘブンズに乗っ取られてしまった。

「……傷、平気?」

 思考を終えた僕は、黙ったままのリィルに尋ねた。

 彼女は少し笑う。

「うん……。……実は、あまり気にしていない」

「どうして?」

「だって……。……これから、誰かを好きになるわけでもないし」

 僕は顔を逸らす。

「そう……」

 リィルの言葉を聞いて、彼女は強いと僕は思った。それに比べて僕はどうか。未だに彼女に対して見栄を張っている気がする。本当はそんなことをする必要はないのに、なぜか、意味の分からないプライドを掲げて行動してしまう。

 でも……。

 それと同時に、リィルは弱いとも思った。

 ヘブンズからしてみれば、彼女は人間と同等の存在ではないのだ。そう判断されたことが、僕は悲しかったし、寂しかった。

 僕と彼女の間には、間違いなく差異が存在する。

 普段は意識していないだけで、目には見えない、けれど確実に存在する、何らかの差異が……。

 列車はトンネルに入る。窓は上下で二分割された構造になっており、今は上半分が開いていた。トンネルに特有なざらついた匂いがする。すぐに再び明るくなり、草木が茂る自然の風景が見えるようになった。

「家に帰ったら、何をする?」

 リィルはこちらを見る。彼女は自分の膝の上に両肘をつき、その上に自分の顎を載せている。

「まずは、掃除かな」僕は答えた。

「ええ、面倒だなあ……」

「うん、面倒でも、やろう」

「自動で掃除してくれる機械とかないかな?」

「売っていると思うよ」

「じゃあ、買おうよ」リィルは提案する。「その方が便利じゃん」

「でも、僕は、なんとなく自分で掃除をしたい」

「どうしてよ……。掃除なんて、やりたくないでしょう?」

「やりたくないけど、やってもいいかな、と思うことがたまにある。食器を洗うのだって、楽しいときは楽しいだろう?」

「全然」

「歯を磨くのは?」

「面倒」

「君ってさ、女性らしさが足りないよね」

「だってさあ……。もうそんな必要ないじゃん。誰に見せびらかすの?」

「僕に」

「どうせ、気を遣ったって、無視するだけでしょう?」

「うん、そうかもね」

「やる意味がない」

「毎日続けたら、それなりの評価はするよ」

「評価とか、そういう問題じゃないの」リィルは膨れる。身体がではない。頬がだ。「一言ね、綺麗とか、可愛いって言ってくれれば、それでいいんだから」

「じゃあ、十日分纏めて言おうか?」

「ああ、もう、馬鹿じゃないの?」

「だから、そうだって」

「はあ……」リィルは隣の座席に倒れる。そこには彼女のバッグが置かれているだけで、もともと人はいない。「君と話していると、楽しい」

「溜息を吐いたあとに言う台詞じゃないね」

「嘘。全然楽しくない」

「どっち?」

「半々くらい?」

「あそう。それはいいね。都合に合わせて、どちらか選べるわけだから」

「暫くのんびりしたいなあ……」

「のんびりって……、君、あそこでも、そんなに働いていたわけじゃないじゃないか」

「そうだけどさあ……。なんか、もう、疲れちゃった」

「疲れてばっかりだね」

「移動するだけで疲れる」

「それは僕も同じだよ」僕は話す。「しなくてもいいんだったら、もう二度と移動なんてしたくない。ずっと家の椅子に座っていたい」

「それじゃあつまらないよ。適度に動かないと」

「結局、疲れるために動くようなものじゃないか。疲れたくないのか、疲れたいのか、どっちなの?」

「どっちも」

「我儘だね……」

「そうだよ……。もうさ、そんなこと、分かっているでしょう?」

「大いに」

 何もすることがなかったから、携帯端末でニュースを閲覧した。少し気になって、ハイリに関する事項を検索してみたが、見つかったのは以前友人に教えてもらった情報だけで、何も新しいことは見つからなかった。予言書の在り処についても不明のままだ。

 ブラウザーを終了させて、端末内に保存されたフォルダーを開く。

 一つのテキストファイルが現れた。

 それは、ヘブンズを記述する言語を解析し、プログラミング言語から英語に翻訳したものだ。

 もともとは、ベーシックと呼ばれる特殊な言語で記述されていた。

 それをリィルが解析してくれた。

 ファイルに書かれている内容を見たかったが、車内で開くことはしなかった。誰かに見られるような事態は極力避けたい。

 リィルは首を左右に倒す動作を繰り返している。端末を上着のポケットに仕舞い、どんな意味のジェスチャーだろう、と僕は考える。

 僕も彼女の動きに合わせて首を交互に倒してみた。

 彼女は笑い出す。

「何やっているの?」

 彼女が動きを止めたから、僕も止まって質問に答えた。

「君と共振していた」

「変なの。気持ち悪い」

「酷いね」

「私さ、今、トランプをやりたい気分なんだけど、持っていない?」

「残念ながら」

「買ってきてよ。車内販売で売っていると思うから」

「トランプなんて、どこにでも売っているじゃないか。しかも、帰れば、家にもある」

「今やりたいの」彼女は顔を近づける。「ねえ、買ってきて」

「駄々を捏ねないでほしいな……」僕は横を向いた。「……自分で買ってきたら?」

 僕がお金を渡すと、リィルは勢い良く廊下に飛び出していった。彼女はすぐに戻ってくる。手にはプラスチックのケースが握られていた。

「へへん」僕の対面に座り、リィルは意味の分からない言葉を発する。

「よく見つかったね。まさか、予めチェックしておいたんじゃないよね?」

「日頃の行いが良いからだよ」

「え? ……聞き間違いかな」

 ババ抜きをしたが、なぜか三連続で負けてしまった。二人でやっているのだから、自分がジョーカーを持っていなければ、必ず相手が持っていることになるのに、その内のどれがジョーカーか見抜く力が僕にはなかった。こういう駆け引きはリィルの方が得意なようだ。というよりも、どちらかというと、自分よりもリィルの方があらゆる面で優れている。料理だって彼女の方が手際が良いし、事務作業も僕の一・五倍くらいの速度でこなせるし……。

 ババ抜きのあと、今度は神経衰弱をやった。二回戦の内、こちらは僕も一度勝つことができた。単純に無秩序なデータを記憶するだけなら彼女の方が上だが、位置情報や分布をから状況を分析するのはあまり得意ではないらしい。

 トランプで遊ぶのは久し振りだったが、不思議とルールは忘れていなかった。一度自転車に乗れるようになったら、もうずっと乗れるのと同じかもしれない。

 トランプで遊び尽くしたあと、リィルは再び眠ってしまった。

 よくこんなに短いスパンで、睡眠と起床を繰り返せるな、と僕は素直に感心する。僕もそんな能力が欲しい。それができれば、ありとあらゆる作業の効率が劇的に向上するに違いない。質の高い作業を瞬発的に行い、一度短い休息をとって、それから再び作業を行うわけだ。

 僕は窓の外に顔を向ける。

 もう山や海はとっくに見えなくなっていた。段々と都市の気配を感じられるようになっている。時刻は午後四時で、空は相変わらず曇り気味だった。夜になれば雨が降ってくるかもしれない。そうなる前に帰りたかったが、携帯端末で降水確率を確認してみたところ、現在地から僕たちの住む地域は、今から三時間後に七十パーセントとの数値が出ていた。どうやら、降らないことを祈るよりも、降った場合に備えて対策を講じておいた方が良さそうだ。どう考えても、あと三時間で到着できる距離ではない。

 車内販売が周ってきて、僕は見たこともない雑誌を購入した。様々なバラエティー関係のトピックを集めたもので、正直なところ、僕には全然面白さが分からなかった。有名なミュージシャンのコンサートや、太古の骨董品の展覧会の案内などが掲載されている。ただ、それらの催し物に一度くらいは足を運んでみたい、と思うことは今までも何度かあった。一言でいえば、まだ経験したことがないことに挑戦してみたい、といった感情だが、そういうものは、多くの場合、実際に挑戦してみても面白さは理解できない。だからついつい疎遠になってしまう。積極的にはたらきかけるだけの活力がない、とでもいえば良いだろうか……。

 リィルは完全に隣の椅子に倒れている。被っていたベレー帽が頭から離れ、空気抵抗を受けてゆっくりと地面に落ちた。僕は前屈みになり、腕を伸ばしてそれを拾う。

 そのとき、帽子の裏側に、小さな紙の切れ端があるのを見つけた。

 何だろうと思って、僕はそれを手に取る。

 紙は内側に向けて折られている。順番に開いていくと、中に手書きで文字が連ねられているのが分かった。


『前から四つ目の乗車口へ』


 僕は何度もそこに書かれている文字を読んだ。

 それは、明らかにリィルの筆跡ではない。

 僕は途端に寒気がした。

 手が震え出す。

 ……いつから?

 この紙は、いつからここにあったのだろう?

 リィルが身体を動かし、ゆっくりと頭を持ち上げる。彼女が目を開ける前に、僕はその紙を上着のポケットに隠した。中に携帯端末が入っていたから、今までそれを操作していたふりをする。

「……私は、誰?」目を開けて、リィルが呟いた。

「おはよう」僕は平常を装って話す。「よく眠れたみたいだね。よかったよ」

「あと、どのくらいで着きそう?」

 僕は時計を見る。

「だいたい、二時間くらいかな」

「そっかあ……。……あああ、もう、一生眠っていてもいいかもなあ……。というよりも、眠りに入る瞬間の、あの意識を失う感じを、一生味わっていたいというか……」

「なかなか、冴えたことを言うね」

「冴えた?」

「いや、違うか。なんていうのか、うーん、ちょっと分からないけど……」

 彼女は無表情になって僕を見つめる。

「……何かあった?」

 彼女の洞察力に驚いたが、僕も表情を変えないで首を振った。

「いや、何も」

 リィルは何度か瞬きをする。それから、僕が帽子を持っているのに気づいた。

「それ、返してよ」彼女は手を伸ばす。「どうして、君が持っているの?」

「ああ、これね」僕はそれを彼女に渡した。「落ちたから、拾ったんだよ」

「どうもありがとう」

「どういたしまして」

 暫く様子を観察してみたが、リィルは紙の存在を知らないみたいだった。

 時間が経過して、列車は無事に終点に到着した。ここで乗り換えをして、僕たちの住む地域に帰ることになる。

 ホームは人でいっぱいだった。

 都市の喧騒が僕たちを出迎える。

 背後で扉が閉まる音。

 列車が走行し始める加速音。

「なんか、帰ってきたって感じがするね」リィルが呟く。

 階段を上って改札口へ。

 駅の構外に出たタイミングで、大粒の雨が降り始めた。





 電車を乗り換えるために移動する。様々な路線のターミナルとなっている構内を出て、地域別に割り振られた駅舎に入った。電子マネーを使って改札を通り抜け、階段を降りてホームに出る。ホームは混雑していた。平日のこの時間だと、学生や労働者の帰宅に巻き込まれることになる。しかし、ほかに最短ルートで帰れる方法はないので、このまま彼らと一緒に電車に乗るしかない。

 僕は、リィルには何も伝えないまま、前から数えて四つ目の乗車口に向かった。すでに何人も並んでおり、四つの列が出来上がっている。

 何が起きるのか分からなかった。だからこそ、リィルと行動をともにした方が良いと判断した。何かあったら彼女に助けてもらえるからだ。情けないが、そうするしかない。目立ったことが何も起こらなければそれで良かった。すでに疲れている彼女に、これ以上ストレスをかけることはしたくない。

 腕を伸ばして、リィルが僕の手をそっと握る。

 僕は彼女を見た。

「……嫌だった?」リィルは笑顔で僕に尋ねる。

 僕は黙って首を振る。

「どこにも、行かないでね」

「どういう意味?」

「別に、深い意味はないよ。はぐれないように、ということ」

 ホームの向こう側では雨が降っている。どんよりとした曇り空だった。夜だから空はもう明るくないが、それでも、そこに分厚い雲が浮かんでいるのが分かる。空気は微妙に湿っている。折り畳み傘を手に下げている人が多かった。

 リィルに気づかれないように、僕は周囲を見渡す。けれど、人が多すぎて視界は限られている。誰も近づいてくる気配はなかったが、とっさに近づかれても反応できる自信はなかった。

 五分が経過する。

 僕たちがいるのと反対側のホームに電車が入ってきて、乗る人と降りる人の交換作業が行われる。まるでプログラムされているみたいに、人の動きは揃っていて正確だった。予め計算されているように身を翻し、未来を予測できるように自分にとって最適な位置を探し当てる。

 間もなく、僕たちがいる方のホームにも電車が入ってくる。

 警笛の音が短く轟いた。

 レールと車輪が擦れる独特の音が響く。

 ホームが僅かに振動した。

 電車は徐々に減速し、車体の扉とホームドアの位置が調整される。

 やがて、電車は完全に停止した。

 二つの扉が同時に開き、中から沢山の人が降りてくる。

 降りる人の移動がすべて終わり、今度は僕たちが乗り込む番になる。

 列の前方から車内に入っていった。

 最後尾に近い位置にいる僕たちは、少し遅れて乗車する。

 しかし、何も起こらなかった

 ここではない?

 このタイミングではないのか?

 リィルと手を繋いだまま、僕は車内の奥に向かって進んでいく。

 一歩。

 二歩。

 そのとき、右斜め前方に座っていた女性が突然立ち上がり、僕たちのすぐ傍を通り抜けていった。

 けれど……。

 彼女は、僕に接触した。

 そして、僕はそれを感じた。

 確かな感覚があった。

 手を繋いでいない方の手を、上着のポケットの中に入れる。

 感触。

 僕の歩調はワンテンポ遅れて、リィルがほんの僅かにリードする。

 僕の手は、厚い紙の表面に触れていた。

 認識すると同時に、後ろを振り返る。

 左右から扉が出現し、ホームと車内を完全に分断した。

 長方形の窓の外。

 僕は車内の向こう側を見る。

 女性がこちらを見ていた。

 顔は帽子で隠れていてよく見えない。

 体格も分厚いコートを着ているせいで分からない。

 でも……。

 青く光るその瞳は、確かに僕の姿を捉え、そして、加速する電車、その運動に引っ張られるように、空気中に鮮やかな輝線を残して消えていった。
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