言の葉に有らず

羽上帆樽

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第3部 安定する春

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 スクールから去ったことで、私の生活は大きく変わると予想されたが、実際には大して変わらなかった。いや、客観的には大きく変わったのかもしれない。一日の大半をスクールでの生活に費やすことがなくなったこと自体、大きな変化といえるだろう。けれど、私がそれを実感することはなかった。

 スクールに通っていた頃は、朝から晩までクラスルームの中にいた。指定された席に座り、教師が話したり板書する内容をひたすらノートに写し、問題を解くだけの毎日だった。私は、ものを覚えるのが得意だったから、テストでは毎回満点に近いスコアを獲得した。でも、いつの日からだっただろう。そんなことをして何の意味があるのだろうかと、それまで自分がやってきたこと、今自分がやっていること、そしてこれからもやっていくであろうことを、疑うようになってしまった。

 そんな生活から離れて、今の私は、家の中で、しかし、それでも、本を捲る毎日を送っていた。でも、それは、誰かに与えられて、本を読んでいるのではない。自分が気になったこと、不思議に思ったこと、つまりは、自分の内側から生じる衝動に沿わせて、本を読んでいる。それは、どうなのだろう。面白く、楽しい毎日といえるだろうか。今の私にはその成否は分からなかった。スコアの優秀な生徒というレッテルも今の私にはない。起きて、ご飯を食べて、風呂に入って、風を浴び、空を眺める、普通の一人。

 その日、私は初めてダストの家に行った。夏の気配がすぐそこまで近づいてきている、じめじめとした、しかしまだ春の日のことだった。彼女の家は私が住むのと同じような木造の家屋だったが、ログハウス型ではなく、随分と年季の入った古民家のようなものだった。ドアではなく、横開きの扉から顔を出した彼女に誘われて、ひんやりとして何の音もしない玄関の中に私は足を踏み入れた。

 私はいつもどおりの制服姿だったが、ダストは部屋着姿で、少しはだけた病院服のようなものを羽織り、スリッパを履いていた。私が物珍しげに辺りに視線を巡らせていると、彼女は私の手首を掴んで、引っ張るように家の中を奥へ進んでいく。廊下には天窓が一つあるだけで、空間の境界線が溶けるようにぼやけていた。

 彼女のほかに誰かがいる気配はなかった。私も一人で暮らしているが、家はこんなに広くはない。どのような経緯でここで暮らすことになったのか、生計はどのように立てているのかと、いくつか気になることがあったが、そのときは私は何も尋ねなかった。

 正面に出現した扉をダストが横に引く。すると、その向こう側にさらにもう一枚扉が現れて、ダストはそれも引いた。二枚目の扉を通過する際に、一枚目の扉が背後で自動的に閉まった。

 扉の先には開けた空間が広がっていた。

 部屋という印象はない。

 本当に、ただ、広く、解放的であるだけの、スペース。

 天井は高く、廊下と同じように、天窓から陽光が微かに差し込んでいるだけで、室内は暗い。

 解放的という印象を受けたものの、実際には、床には色々なものが散らばっていた。足の踏み場がないほどではないが、筆、塗料の入ったボトル、木材、汚れたバケツなどが所々に転がっている。ただ、そうした絵を描くためのものだけではなく、もっと別のものも散乱していた。私が見てそれと同定できるものは、ドライバー、螺旋、金属製のヤスリ、それから、電流計、電圧計、くらいのもので、ほかには、何に使うのか分からない赤と黒のプラグや、巨大な金属の壁に囲まれた筐体などが、絵を描くための道具に混じって、同じように散らばっていた。

 一通り部屋の中を観察し終えてから、ダストの方に視線を戻すと、彼女は部屋の中央にある木製の椅子の上に腰を下ろしていた。両手を膝の上に置いて、こちらをじっと見つめている。彼女の赤い目は、こんなふうに暗い世界の中では光っているように私には見えた。気のせいだろうか。

 彼女が座る椅子の前に、巨大なキャンバスが置かれている。近づいて見てみると、やはり何かよく分からないものが描かれていた。ただ、彼女がいつも川の傍でスケッチブックに描いているものとは明らかに質が異なり、種々の線や図形が定規の類を使って精密に描かれているのが分かった。

「これ、何?」

 私はそのキャンバスを手で示し、ダストに質問する。

 彼女は、じっと私を見つめたままで、答えない。

 数秒間、そんなふうに私を見つめたあと、ダストは傍にある木製の机の上から紙の切れ端とペンシルを手に取ると、そこに文字を書いて、私に見せた。


“そこ□座っていてほしい”


もう一度書いて、もう一度見せる。


“君○モデル□なれば、きっとよくなると思うんだ”
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