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第2章 四面楚歌
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斜張橋を渡りきると、すぐ正面にメリーゴーラウンドが現れた。当然、今の時間帯では稼働していない。メリーゴーラウンドの周囲には、円周上にいくつもの売店が並んでいたが、それらにもすべてシャッターが下りていた。
メリーゴーラウンドがあるエリアから、道は三つに分かれている。すべてその円周の奥に位置していて、道と道の間の距離は等しい。フィルが一番手前のものを選んだので、月夜は彼の指示に従って先へと進んだ。
右手には、バイキングと呼ばれるアトラクションが存在する。暗くなってから乗れば、いつもより速度が速く感じられるはずだ。上まで上がったとき、星空が見えて綺麗かもしれない。しかしながら、月夜はバイキングに乗ったことがなかったので、そのときの感覚については、想像で補うことしかできなかった。ただ、自分が乗っても、気持ちが悪くなることはないだろう、となんとなく思った。
夜の遊園地は、不気味というよりは、不思議だ。この場所には、普段から人が多く訪れるわけではない。この辺りに住む人々にとっては、それなりに有名な土地なのだろうが、そう思っているのが彼らだけなのか、ほかの都市から観光客が多くやって来る印象はなかった。
道を進む。
所々に点在するベンチ。
花壇の植え込み。
そのどれもが、作り物じみていたが、この環境にはマッチしているように見えた。
暫く歩き続けると、正面に噴水が現れた。噴水といっても、公園にあるようなものではなく、中心から水が吹き出しているわけではない。ドーナツ状の溝にいくつもの排水装置が設置されていて、そこから水が小さな山を形成して吹き出している。
この時間でも、噴水が稼働していることに、月夜は少しだけ疑問を覚えた。彼女の学校の中庭にも噴水があるが、それは、夜になれば水を吐き出すのをやめる。ここに入るとき門も開いていたから、おそらく、フィルの言う誰かが、それらを操作しているのだろう。
噴水の右側には、その上を走る橋状の道路の下に作られた、多少傾斜のきついエリアがある。川から水をすべて抜いたように起伏に富んだ場所で、至る所に大小様々な岩が配置されている。エリアとしてはかなり広く、もしこれが川なら、ボートを浮かべて遊べそうなくらいだ。
そのエリアの前まで来て、月夜は歩くのをやめた。
背後には、水を吹き出し続ける、噴水。
前方には、横幅のある広大な傾斜。
その頂上に、誰かが座っているのが見える。
段差に腰をかけ、脚と腕を組んで、その人物は目を瞑っている。
少女だった。
月夜はフィルに視線を向ける。
「ああ、彼女が、俺達を待っている奴だ」
月夜はしゃがんでフィルを持ち上げ、自分の両腕で包んだ。
「彼女に、声をかければいいの?」
「それ以外に、どうするんだ? 超音波でも出せるのか?」
再び足を前に進め、石造りの傾斜道を進む。段差は全部で三つ。その一番上に、目標とする少女が座っている。
段差はかなり高いから、一つ上るだけでも大変だった。月夜がそんな(彼女にとっては)激しい運動をしていても、目の前の少女はなかなかこちらに気づかない。
少女の前まで来て、月夜は立ち止まり、彼女を見下ろした。
白味がかかった綺麗な長髪が、目もとを隠して、顔つきを伺わせるのを拒んでいる。
月夜は、彼女の髪に手を伸ばし、触れる。
錦糸のように髪ははらはらと彼女の掌をすり抜け、物理の法則に従って、また自然に垂れる形に戻った。
その一連の事態のあと、少女は、目を開き、顔を上げる。
月夜は、少女と目を合わせた。
少女は、大きく瞬きをする。
それから、申し訳程度、顔に笑顔を浮かべて、彼女は口を開いた。
「待っていました」少女は呟く。「ようこそ」
フィルが月夜の肩から飛び降り、少女の膝の上に乗った。
「貴女が、月夜さんですね……。ええ……。フィルから、話は聞いています」
透き通るように綺麗な声だったが、声量が小さすぎて、月夜には辛うじて聞き取れる程度だった。
「貴女は?」月夜は質問する。
「この遊園地の管理人をしている、火花です。よろしくお願いします」
そう言って、少女は小さく首を傾げる。
彼女は自分を知っているみたいだったが、月夜も改めて自己紹介した。
火花は、彼女が自分で言ったように、この遊園地の管理人を務めているらしい。そうはいっても、表向きの管理人は、ほかに存在する。火花は、あくまでこの時間帯の管理担当らしい。管理人は彼女以外にも複数人存在するが、彼らは夜勤を行わないため、代わりに彼女が担当しているとのことだった。
そして、彼女は、フィルと繋がりがあった。
それは、彼女が人間以外の存在を認知している可能性を示唆している。
「貴女は、フィルの知り合い?」
月夜がそう尋ねると、火花は微笑みながら小さな声で答えた。
「ええ、そうです……。物の怪、らしいですね、彼……」
フィルは火花の言葉に反応するように身を寄せ、彼女の掌を軽く舐める。
フィルが月夜をここへ連れてきたのは、火花の手伝いをしてもらうためだったらしい。火花の役割は夜の遊園地の管理をすることだが、色々と作業が重なってしまって、一人ではどうにもできなくなってしまったとのことだ。そこで月夜を呼び出して、彼女に仕事の一部を引き受けてもらおうと考えたみたいだった。
「手伝ってくれますか?」
火花が尋ねる。
月夜はすぐに頷いた。
「どうもありがとう」
「遊園地の管理というのは、具体的に何をすればいいの?」
「うーん、色々ありますけど……」火花は答える。「まずは、月夜さんには、掃除を手伝ってもらいたいと思います」
「掃除というのは、この遊園地全体の?」
「ええ、そうです。大変ですが、二人いればすぐに終わるはずです」
「分かった」
「箒を使って、落ち葉や塵を拾ってくれるだけでいいです。あとは……、まあ、何か気になったことがあれば、その都度私に知らせて下さい。ああ、えっと、のちほど専用のトランシーバーをお渡ししますから……。必要があれば、適宜それを使って下さいね……」
内容を理解できたので、月夜は頷く。ほかの仕事に関しては、そのときになれば説明してくれるだろう。
火花の隣に座っていた月夜は、立ち上がって早速作業に取りかかろうと思ったが、火花はフィルとじゃれ合っているだけで、何も行動しようとしなかった。
数秒間、月夜は黙って彼女を見下ろす。
フィルと遊んでいる火花は、楽しそうに笑っていたが、どこか寂しげでもあった。
「まだ、始めないの?」
月夜は尋ねる。
火花は答えない。
風が吹いて、彼女の白い髪をそっと揺らした。
「……実は、私、もうあまり長くないんです」唐突に火花が言った。「月夜さんを呼んだのは、力が尽きてしまう前に、自分の役割を全うしたかったから……。……要するに、制限時間内に、自分のやりたいことをやるためなんです」
想定していなかったことを伝えられて、月夜は少し戸惑ったが、今は火花の話に耳を傾けようと思った。
「だから……、もしかすると、迷惑だったかもしれません。急に呼び出して、時間がなくて、一緒にどうにかしてほしいなんて……。でも、私にはほかに方法がありませんでした。たまたまフィルと知り合いだったから、貴女に協力を求めることができましたけど……。それも、たまたま上手くいっただけです。ですから、貴女に断られないか、少し心配でした。いえ……。なんか、一人で話してしまっていますね。ごめんなさい。でも、最初にきちんと伝えておいた方がいいと思ったので、そうしました。理解してもらえますか?」
火花は顔を上げ、月夜の表情を確認する。
月夜は無表情だったが、すぐに口を開いて了承した。
「分かった。理解する」
火花は微笑む。
「ありがとうございます」
フィルを抱き抱えて月夜に渡し、火花も立ち上がった。立ち上がると、彼女の背が高いことが分かった。高いといっても、月夜の背丈より十数センチほど上なだけだが、すらりと伸びた手脚と相まって、非常にほっそりとした印象を受ける。
彼女は、もしかすると、純粋な日本人ではないかもしれない、と月夜は思った。髪の色も、一般的な日本人のそれではない。染めている可能性もなくはないが、その色合いが彼女によくマッチしていたから、月夜は、彼女がハーフか、あるいはクォーターの類なのかもしれないと思っておくことにした(その情報が役立つときが来るとは思えないが)。
「ああ、そうですね……。では、まず、私が使っている管理棟にご案内しましょう」
火花にそう言われて、月夜とフィルは彼女と一緒にその場から立ち去り、夜の遊園地を奥に向かって進んだ。
遊園地は、単純に見ればそれ自体が円形の形をしている。周囲は海に囲まれ、その海はやがて海洋と化す。遊園地の左奥には水族館があり、その手前に講義室のように扇形に形成された階段があった。その一帯が、火花がいつも使っている管理棟とのことらしい。
階段を上り、右手を向く。ドアを開け、中に入ると、そこは一種のカフェだった。
「日中は、カフェとして利用されています」部屋を進みながら、火花は説明した。「この時間帯は、管理室としてこの部屋を使わせてもらっているということです」
カフェは、階段の形と合うように、扇形に湾曲している。当然、今は照明も消えていて、誰もいない。カウンターの隣に奥へと繋がるドアがあり、その向こう側が管理人の待機場所として使われているとのことだった。
待機場所に入り、壁のスイッチを押して火花が部屋の照明を灯す。あまり広くはなく、中央に大きなデスクがある以外は、部屋の奥に比較的小さな棚が一つ置かれているだけだった。
部屋の隅に、縦に長いロッカーがある。火花はその中から箒と塵取り、さらにトングとビニール袋をそれぞれ二つずつ取り出し、一セットを月夜に手渡した。
カフェの外に出ると、火花は、自分は南側を担当するので、月夜には北側の掃除をしてもらいたい、と話した。南側は、メリーゴーラウンドや、先ほど火花と話したエリアがある。対して北側は、水族館やその周辺施設があり、海に面している一帯が多い。掃除をしてくる序に、この遊園地の全貌を確認してこい、との意思が込められているのかもしれない。
火花とはそこで分かれて、彼女に言われた通り、月夜は北側のエリアの掃除に取りかかった。
階段を下りた先には、左手に水族館が、右手には桟橋のような建造物がある。桟橋の付近にはベンチが多数設置されており、休憩スペースのような扱いになっている。海はすぐ傍にあり、生き物に餌をやれるスペースも存在する。
突然、周囲に立っている照明の明かりが灯り、辺りが一気に明るくなった。
月夜は周囲を見渡す。照明は園内の所々に立っていて、ざっと見たところ、それらすべてが灯っているみたいだった。おそらく、火花がどこかでスイッチを入れたのだろう。
「貸し切りの遊園地というのも、悪くないな」
月夜の肩に載ったフィルが、彼女の耳もとで囁いた。
「どんなところが?」月夜は尋ねる。
「何でもありな感じがするところとか」彼は言った。「その気になれば、勝手にボートに乗ることもできる」
「ボートに乗りたいの?」
「いや、特に乗りたくはない」
「水族館に行きたい?」
「月夜は、行きたいのか?」
「いや、特に行きたくはない」
思ったほど塵は落ちておらず、どちらかというと、堆積した植物や泥が多い印象だった。ときどき紙製のコップなども落ちていたが、その頻度は高いとはいえない。
水族館の裏手に周り、海が一望できるエリアに辿り着く。そちらには防波堤が建設されていて、その上に上がることもできた。海に近づくほど、照明の出現頻度は低くなるから、必然的に辺りは暗くなる。闇のように黒い塩水が目前に広がっており、一歩足を踏み外したら呑み込まれると思うと、少しだけ怖いような気がした。
この時期、この時間帯の海水は、きっとまだ冷たい。
防波堤の一番端までやって来たところで、月夜は一度立ち止まった。掃除をしなくてはならなかったが、少しだけ、この景色を眺めたいと思った。
目前には、ずっと向こうまで海が広がっている。右手には工場の明かりが見えた。微かだが、どこか鮮明な赤色の光だ。空には薄い雲がかかっているが、やはり星は綺麗に輝いていた。
「こういう景色を見ていると、何もかもどうでも良く思えたりするか?」
「どうだろう……」フィルに尋ねられて、月夜は考える。「あまり、しないかもしれない」
「まあ、お前は、普段からそんな態度で生きているからな。大差はないんだろうさ、日常も、今も」
「でも、星空は綺麗、海は素敵、と感じる」
「そうか? それは、まあ、良いことだ」
「良いこと?」
「そういう感想を素直に口にできる人間は、少なくとも、あまり多くはいない。きっと好感を持たれるだろう」
「誰から?」
「周囲の、不特定多数からだが……。まあ、その不特定多数がいないのなら、話は別だな」
「フィルは、好感を持ってくれる?」
彼は少し笑った。
「もちろん」
「なら、それでいい」
「そう言うと思った」
防波堤を引き返し、水族館の裏に戻ってくる。そちらには松の木が点在していた。道と道との区切り目に、ちょっとした植え込みが形成されていて、その中心に木が植えられている。
見たところ、目立つ塵は見当たらなかった。植物の類も、落ちているものはあまりない。
道を引き返し、スタート地点に戻ってくる。今度は桟橋の方に向かい、その上を歩いた。
桟橋は、木でできているから、先ほどとは歩いたときの感触が異なる。なんとなく、波に揺られているような感じがした。そして、柔らかい。歩く度に少しだけ下方向に力が加わるような感じがして、スリリングな感じがしないわけでもなかった。
周囲には、飲食物を提供する屋台やワゴンが点在している。ほかの場所に比べれば、紙屑やプラスチック製のストローの出現率が高いような気がしたが、それでも、汚い印象は受けなかった。きっと、火花が毎日掃除を行ってきた成果だろう。二人でやればすぐに終わる、と彼女は言っていたが、いつもはそれを一人でやっているのだから、どれくらいの時間がかかるのだろう、と月夜は想像する。
潮風。
人々が眠っていても、地球は絶え間なく回転している。
そして、それによって引き起こされる、波の繰り返し。
引力。
月からのメッセージ、あるいは、太陽系に仕組まれた運命。
すべては、神によって設計された造形かもしれない。
水族館の近くと、桟橋がかけられたエリアの掃除を終えた頃には、四十分ほどが経過していた。
途中で火花と遭遇することはなかった。月夜は、まだ彼女からトランシーバーを受け取っていない。作業を始める前に、まだ充電中なので、もう少し待ってほしい、と月夜は火花から説明を受けていた。
桟橋があるエリアを通過し、さらに道を進む。そちらにはレストランなどの飲食店が密集していた。全部で二階建ての建物で、一階にはバーベキューができるスペースがある。店はすべて閉まっていたが、生活感というか、普段からそれらの施設が使われている気配が、残滓のように漂っていた。
一階のエリアは吹き抜けになっており、頭の上には建物と建物を繋ぐ連絡路がある。階段を使ってその上にも上がり、塵がないか確認したが、この辺りはほかの場所に比べて綺麗だった。飲食店の従業員が、独自に掃除を行っているのかもしれない。
「こういう場所で食事をするのに、憧れたりはしないか?」
箒を使って適当に砂を除去していると、フィルが話しかけてきた。
「食事をするシチュエーションに、憧れを抱くことは、ない」
「まあ、そうだよな」
「分かっているのに、質問しているの?」
「そうさ。質問してみたかったからな。我慢できなかったんだ」
「なるほど」
飲食店が立ち並ぶエリアを抜け、道に出る。
少し進むと、広大な芝生の広場が見えてきた。
そして、その向こう側。
薄汚れた水色の鉄骨で作られたジェットコースターが、真夜中の海沿いに鎮座していた。
ジェットコースターのレールは、海の上を通るように設計されている。意図的にそうしているのだろう。それが、このアトラクションの売りなのかもしれない。月夜は、ジェットコースターにも、一度も乗ったことがなかったから、ほかにどのような種類のものがあるのか、知らなかった。
「乗ってみたいと、思うか?」フィルが尋ねる。
「あまり、思わない」月夜は答えた。「怖い思いは、できるだけ、したくない」
「怖くはないと思うぜ。きっと、楽しいはずだ。そうでなければ、こんなものを好き好んで乗る奴がそう多くいるはずがない」
「人間は、自ら、恐怖に足を踏み入れる頻度が、それなりに高いように思える」
「それは、恐怖と面白さが表裏一体だからだろう?」フィルは説明した。「そういうのを、一般的にスリルと呼ぶんだ。スリルや、刺激がなければ、人生はやっていけない。お前みたいに、勉強するか、読書をするか、そのどちらかしか選択肢がないような一生は、多くの人間は望まないのさ」
「それは、理解している」
「どっちがだ? お前以外の、多くの人間が求める傾向について? それとも、お前の特異な性質についてか?」
「どっちも」
「自分のことについては、あまり理解していないだろう?」
「そうかな?」
「いつか、自分でそう言っていなかったか?」
「そうかもしれない」月夜は頷く。「言った、かもしれない」
ジェットコースターの前に広場があり、その左手には海がある。反対に、右手には小規模な森のようなものが形成されていて、その中に展望台が立っていた。塔の周りにドーナツ状の展望施設が設置され、それが回転しながら上へと上がっていく仕組みだ。
そちらの方も掃除の対象区域だったが、そこまで行ってしまうと、あまりにも時間がかかりそうだったから、月夜は今日はやめておいた。一応、メインのエリアはきちんと確認したので、それで良いはずだ。火花には、あとで事情を伝えておこう、と彼女は考えた。
ジェットコースターの前を通り過ぎ、そのまま道を進む。右手に丘が現れ、左手にはずっと海が続いている。途中で何個かアトラクションが出現したが、アニメのようにデフォルメされた乗り物など、子ども向けのものが多かった。ジェットコースターは、おそらく子ども用の乗り物ではない。身長に制限があるのはそのためだ。
道の先には、最初に遭遇したメリーゴーラウンドがあった。
月夜はその前まで来て、立ち止まる。
先ほどまで何の色彩も持っていなかったメリーゴーラウンドが、今はその明るい光を存分に放ち、夜の遊園地に眩しい気配を漂わせている。
音楽も流れていた。まるで、本当に夢の世界へと来たような、甘い旋律だ。
施設の中に、誰かの姿が見えた。彼女は、背が高いから、遠くからでも目立つ。
火花だった。
「終わりましたか?」メリーゴーラウンドの柵の中から、火花が声をかけてきた。
手に持ったビニール袋を軽く持ち上げて、月夜は頷く。
「ありがとうございます。助かりました」
「何をしているの?」
火花の傍までやって来て、月夜は尋ねる。
「アトラクションの点検をするのも、私の仕事なんです」火花は話した。「よかったら、乗ってみませんか?」
「どうして?」
「いえ、単なる思いつきです。でも、せっかく来たんだから、どうかなと思って……」
「乗った方がいいの?」
「乗りたければ」火花は微笑む。「きっと、楽しいはずです」
楽しめる自信はなかったが、月夜は火花の誘いに乗ることにした。一度も乗ったことがなかったから、良い経験になると考えた。
柵で覆われた円周を周り、入り口へとやって来る。火花はその近くの操作室へと入り、月夜に好きなものに乗るように指示した。フィルも彼女の後ろをついてくる。
メリーゴーラウンドだから、当然、馬か、馬車に乗ることになる。月夜は白く塗装された馬車を選んだ。馬に乗るべきかとも思ったが、落ちたら嫌なので、安全な方を選択した。
「つまらないやつだな」
フィルにそう言われたが、その通りだと思ったので、月夜は黙って頷いておいた。
電車の発車合図のような音が鳴り、ゆっくりと盤が回り始める。回り始めると、ああ、回っているな、と月夜は感じた。それ以外の感想はなかったが、回っているだけでもそれなりに面白かった。速度は徐々に加速していき、周囲の景色が絶え間なく切り替わっていく。回転しているから、何度も同じ景色を見ることになるが、自分が中心になって周囲の景色が変化するという経験は、今までにないもので興味深かった。
夜だから、遠くの方までは見渡せない。
メリーゴーラウンドが放つ橙色の光だけが、辺りをぼんやりと照らしている。
ときどき、操作室にいる火花が、手を振ってくれた。
月夜も何度かそれに応じた。
正に、適度なコミュニケーションといった感じ。
悪くはない。
やがて回転速度が落ちていき、最初と同じ音が鳴り響く。回転力は失われ、馬車は完全に停止した。
感覚が少し狂っているような感じがしたので、転ばないように気をつけながら、月夜は馬車から降りた。そのまま盤の上を歩き、入り口に隣接する出口から外に出る。火花も操作室から出てきて、月夜の後ろからアトラクションの外に出た。
「どうでしたか?」
火花に質問されたから、月夜は思考を巡らせて、感想を述べた。
「うん、面白かった」
月夜の返答を聞いて、火花は笑みを零す。
「それなら、よかったです」
最初に歩いたのと同じ道を進み、やがて管理棟まで戻ってきた。カフェの中に入り、部屋を進んで待機場所に入る。集めた塵はそのままで良いとのことだったので、塵が入った袋はそのまま壁際に置いておいた。
ロッカーの中に箒と塵取り、そしてトングを仕舞い、作業がすべて完了する。
「ありがとうございました」中央のテーブルでチェックシートにチェックを入れながら、火花が言った。「ここの全体も、大体覚えてもらえましたか?」
月夜は頷く。
火花は顔を上げ、月夜の挙動を確認すると、少し笑った。
「今日の仕事は、これで終わりです……。……明日も、来てもらっていいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます」
チェックシートを棚の中に仕舞い、二人は待機場所の外に出る。火花が鍵をかけてから、月夜は彼女と一緒にカフェの外に出た。
「火花は、これからどうするの?」
カフェの前で、月夜は火花に質問した。
「えっと……、……どうというのは?」
「家に帰るの?」
「ああ、そうですね……」火花は答える。「私には、家はないんです。ずっとここで暮らしていますから……」
「遊園地の中で、過ごすの?」
「大抵の場合は、外に出て、海沿いを散歩しています。ほかに、することはありませんから……」
「また、夜になるまで、ずっと?」
「ええ……」
「分かった」
「私の役割はそれだけです」火花は言った。「ずっと、夜の間ここの管理をしてきました。……それも、もうすぐ終わりです。それまでにやっておかなければならないことがあるので、月夜さんにも手伝ってもらいたいんです。……どうか、よろしくお願いしますね」
前方には扇状に広がった階段があるが、その後ろにも、同様に階段があって、そちらに進めば遊園地の入り口へのショートカットになる。
「やらなければならないことというのは、具体的に、どんなこと?」
歩きながら、月夜は火花に尋ねた。
「それは、明日お伝えします。今すべてをお話しするのは大変なので……」
分かった、と月夜は呟く。
「なんだか、素直ですね、月夜さん」
火花に言われて、月夜は顔を上げる。
「よくそう言われるけど、自覚はない」
「そういうのも、素敵です」
素敵とは、どういう意味だろう?
考えても分からなかった。
ただ……。
火花の生き様は、少なくとも月夜には、素敵に思えた。
メリーゴーラウンドがあるエリアから、道は三つに分かれている。すべてその円周の奥に位置していて、道と道の間の距離は等しい。フィルが一番手前のものを選んだので、月夜は彼の指示に従って先へと進んだ。
右手には、バイキングと呼ばれるアトラクションが存在する。暗くなってから乗れば、いつもより速度が速く感じられるはずだ。上まで上がったとき、星空が見えて綺麗かもしれない。しかしながら、月夜はバイキングに乗ったことがなかったので、そのときの感覚については、想像で補うことしかできなかった。ただ、自分が乗っても、気持ちが悪くなることはないだろう、となんとなく思った。
夜の遊園地は、不気味というよりは、不思議だ。この場所には、普段から人が多く訪れるわけではない。この辺りに住む人々にとっては、それなりに有名な土地なのだろうが、そう思っているのが彼らだけなのか、ほかの都市から観光客が多くやって来る印象はなかった。
道を進む。
所々に点在するベンチ。
花壇の植え込み。
そのどれもが、作り物じみていたが、この環境にはマッチしているように見えた。
暫く歩き続けると、正面に噴水が現れた。噴水といっても、公園にあるようなものではなく、中心から水が吹き出しているわけではない。ドーナツ状の溝にいくつもの排水装置が設置されていて、そこから水が小さな山を形成して吹き出している。
この時間でも、噴水が稼働していることに、月夜は少しだけ疑問を覚えた。彼女の学校の中庭にも噴水があるが、それは、夜になれば水を吐き出すのをやめる。ここに入るとき門も開いていたから、おそらく、フィルの言う誰かが、それらを操作しているのだろう。
噴水の右側には、その上を走る橋状の道路の下に作られた、多少傾斜のきついエリアがある。川から水をすべて抜いたように起伏に富んだ場所で、至る所に大小様々な岩が配置されている。エリアとしてはかなり広く、もしこれが川なら、ボートを浮かべて遊べそうなくらいだ。
そのエリアの前まで来て、月夜は歩くのをやめた。
背後には、水を吹き出し続ける、噴水。
前方には、横幅のある広大な傾斜。
その頂上に、誰かが座っているのが見える。
段差に腰をかけ、脚と腕を組んで、その人物は目を瞑っている。
少女だった。
月夜はフィルに視線を向ける。
「ああ、彼女が、俺達を待っている奴だ」
月夜はしゃがんでフィルを持ち上げ、自分の両腕で包んだ。
「彼女に、声をかければいいの?」
「それ以外に、どうするんだ? 超音波でも出せるのか?」
再び足を前に進め、石造りの傾斜道を進む。段差は全部で三つ。その一番上に、目標とする少女が座っている。
段差はかなり高いから、一つ上るだけでも大変だった。月夜がそんな(彼女にとっては)激しい運動をしていても、目の前の少女はなかなかこちらに気づかない。
少女の前まで来て、月夜は立ち止まり、彼女を見下ろした。
白味がかかった綺麗な長髪が、目もとを隠して、顔つきを伺わせるのを拒んでいる。
月夜は、彼女の髪に手を伸ばし、触れる。
錦糸のように髪ははらはらと彼女の掌をすり抜け、物理の法則に従って、また自然に垂れる形に戻った。
その一連の事態のあと、少女は、目を開き、顔を上げる。
月夜は、少女と目を合わせた。
少女は、大きく瞬きをする。
それから、申し訳程度、顔に笑顔を浮かべて、彼女は口を開いた。
「待っていました」少女は呟く。「ようこそ」
フィルが月夜の肩から飛び降り、少女の膝の上に乗った。
「貴女が、月夜さんですね……。ええ……。フィルから、話は聞いています」
透き通るように綺麗な声だったが、声量が小さすぎて、月夜には辛うじて聞き取れる程度だった。
「貴女は?」月夜は質問する。
「この遊園地の管理人をしている、火花です。よろしくお願いします」
そう言って、少女は小さく首を傾げる。
彼女は自分を知っているみたいだったが、月夜も改めて自己紹介した。
火花は、彼女が自分で言ったように、この遊園地の管理人を務めているらしい。そうはいっても、表向きの管理人は、ほかに存在する。火花は、あくまでこの時間帯の管理担当らしい。管理人は彼女以外にも複数人存在するが、彼らは夜勤を行わないため、代わりに彼女が担当しているとのことだった。
そして、彼女は、フィルと繋がりがあった。
それは、彼女が人間以外の存在を認知している可能性を示唆している。
「貴女は、フィルの知り合い?」
月夜がそう尋ねると、火花は微笑みながら小さな声で答えた。
「ええ、そうです……。物の怪、らしいですね、彼……」
フィルは火花の言葉に反応するように身を寄せ、彼女の掌を軽く舐める。
フィルが月夜をここへ連れてきたのは、火花の手伝いをしてもらうためだったらしい。火花の役割は夜の遊園地の管理をすることだが、色々と作業が重なってしまって、一人ではどうにもできなくなってしまったとのことだ。そこで月夜を呼び出して、彼女に仕事の一部を引き受けてもらおうと考えたみたいだった。
「手伝ってくれますか?」
火花が尋ねる。
月夜はすぐに頷いた。
「どうもありがとう」
「遊園地の管理というのは、具体的に何をすればいいの?」
「うーん、色々ありますけど……」火花は答える。「まずは、月夜さんには、掃除を手伝ってもらいたいと思います」
「掃除というのは、この遊園地全体の?」
「ええ、そうです。大変ですが、二人いればすぐに終わるはずです」
「分かった」
「箒を使って、落ち葉や塵を拾ってくれるだけでいいです。あとは……、まあ、何か気になったことがあれば、その都度私に知らせて下さい。ああ、えっと、のちほど専用のトランシーバーをお渡ししますから……。必要があれば、適宜それを使って下さいね……」
内容を理解できたので、月夜は頷く。ほかの仕事に関しては、そのときになれば説明してくれるだろう。
火花の隣に座っていた月夜は、立ち上がって早速作業に取りかかろうと思ったが、火花はフィルとじゃれ合っているだけで、何も行動しようとしなかった。
数秒間、月夜は黙って彼女を見下ろす。
フィルと遊んでいる火花は、楽しそうに笑っていたが、どこか寂しげでもあった。
「まだ、始めないの?」
月夜は尋ねる。
火花は答えない。
風が吹いて、彼女の白い髪をそっと揺らした。
「……実は、私、もうあまり長くないんです」唐突に火花が言った。「月夜さんを呼んだのは、力が尽きてしまう前に、自分の役割を全うしたかったから……。……要するに、制限時間内に、自分のやりたいことをやるためなんです」
想定していなかったことを伝えられて、月夜は少し戸惑ったが、今は火花の話に耳を傾けようと思った。
「だから……、もしかすると、迷惑だったかもしれません。急に呼び出して、時間がなくて、一緒にどうにかしてほしいなんて……。でも、私にはほかに方法がありませんでした。たまたまフィルと知り合いだったから、貴女に協力を求めることができましたけど……。それも、たまたま上手くいっただけです。ですから、貴女に断られないか、少し心配でした。いえ……。なんか、一人で話してしまっていますね。ごめんなさい。でも、最初にきちんと伝えておいた方がいいと思ったので、そうしました。理解してもらえますか?」
火花は顔を上げ、月夜の表情を確認する。
月夜は無表情だったが、すぐに口を開いて了承した。
「分かった。理解する」
火花は微笑む。
「ありがとうございます」
フィルを抱き抱えて月夜に渡し、火花も立ち上がった。立ち上がると、彼女の背が高いことが分かった。高いといっても、月夜の背丈より十数センチほど上なだけだが、すらりと伸びた手脚と相まって、非常にほっそりとした印象を受ける。
彼女は、もしかすると、純粋な日本人ではないかもしれない、と月夜は思った。髪の色も、一般的な日本人のそれではない。染めている可能性もなくはないが、その色合いが彼女によくマッチしていたから、月夜は、彼女がハーフか、あるいはクォーターの類なのかもしれないと思っておくことにした(その情報が役立つときが来るとは思えないが)。
「ああ、そうですね……。では、まず、私が使っている管理棟にご案内しましょう」
火花にそう言われて、月夜とフィルは彼女と一緒にその場から立ち去り、夜の遊園地を奥に向かって進んだ。
遊園地は、単純に見ればそれ自体が円形の形をしている。周囲は海に囲まれ、その海はやがて海洋と化す。遊園地の左奥には水族館があり、その手前に講義室のように扇形に形成された階段があった。その一帯が、火花がいつも使っている管理棟とのことらしい。
階段を上り、右手を向く。ドアを開け、中に入ると、そこは一種のカフェだった。
「日中は、カフェとして利用されています」部屋を進みながら、火花は説明した。「この時間帯は、管理室としてこの部屋を使わせてもらっているということです」
カフェは、階段の形と合うように、扇形に湾曲している。当然、今は照明も消えていて、誰もいない。カウンターの隣に奥へと繋がるドアがあり、その向こう側が管理人の待機場所として使われているとのことだった。
待機場所に入り、壁のスイッチを押して火花が部屋の照明を灯す。あまり広くはなく、中央に大きなデスクがある以外は、部屋の奥に比較的小さな棚が一つ置かれているだけだった。
部屋の隅に、縦に長いロッカーがある。火花はその中から箒と塵取り、さらにトングとビニール袋をそれぞれ二つずつ取り出し、一セットを月夜に手渡した。
カフェの外に出ると、火花は、自分は南側を担当するので、月夜には北側の掃除をしてもらいたい、と話した。南側は、メリーゴーラウンドや、先ほど火花と話したエリアがある。対して北側は、水族館やその周辺施設があり、海に面している一帯が多い。掃除をしてくる序に、この遊園地の全貌を確認してこい、との意思が込められているのかもしれない。
火花とはそこで分かれて、彼女に言われた通り、月夜は北側のエリアの掃除に取りかかった。
階段を下りた先には、左手に水族館が、右手には桟橋のような建造物がある。桟橋の付近にはベンチが多数設置されており、休憩スペースのような扱いになっている。海はすぐ傍にあり、生き物に餌をやれるスペースも存在する。
突然、周囲に立っている照明の明かりが灯り、辺りが一気に明るくなった。
月夜は周囲を見渡す。照明は園内の所々に立っていて、ざっと見たところ、それらすべてが灯っているみたいだった。おそらく、火花がどこかでスイッチを入れたのだろう。
「貸し切りの遊園地というのも、悪くないな」
月夜の肩に載ったフィルが、彼女の耳もとで囁いた。
「どんなところが?」月夜は尋ねる。
「何でもありな感じがするところとか」彼は言った。「その気になれば、勝手にボートに乗ることもできる」
「ボートに乗りたいの?」
「いや、特に乗りたくはない」
「水族館に行きたい?」
「月夜は、行きたいのか?」
「いや、特に行きたくはない」
思ったほど塵は落ちておらず、どちらかというと、堆積した植物や泥が多い印象だった。ときどき紙製のコップなども落ちていたが、その頻度は高いとはいえない。
水族館の裏手に周り、海が一望できるエリアに辿り着く。そちらには防波堤が建設されていて、その上に上がることもできた。海に近づくほど、照明の出現頻度は低くなるから、必然的に辺りは暗くなる。闇のように黒い塩水が目前に広がっており、一歩足を踏み外したら呑み込まれると思うと、少しだけ怖いような気がした。
この時期、この時間帯の海水は、きっとまだ冷たい。
防波堤の一番端までやって来たところで、月夜は一度立ち止まった。掃除をしなくてはならなかったが、少しだけ、この景色を眺めたいと思った。
目前には、ずっと向こうまで海が広がっている。右手には工場の明かりが見えた。微かだが、どこか鮮明な赤色の光だ。空には薄い雲がかかっているが、やはり星は綺麗に輝いていた。
「こういう景色を見ていると、何もかもどうでも良く思えたりするか?」
「どうだろう……」フィルに尋ねられて、月夜は考える。「あまり、しないかもしれない」
「まあ、お前は、普段からそんな態度で生きているからな。大差はないんだろうさ、日常も、今も」
「でも、星空は綺麗、海は素敵、と感じる」
「そうか? それは、まあ、良いことだ」
「良いこと?」
「そういう感想を素直に口にできる人間は、少なくとも、あまり多くはいない。きっと好感を持たれるだろう」
「誰から?」
「周囲の、不特定多数からだが……。まあ、その不特定多数がいないのなら、話は別だな」
「フィルは、好感を持ってくれる?」
彼は少し笑った。
「もちろん」
「なら、それでいい」
「そう言うと思った」
防波堤を引き返し、水族館の裏に戻ってくる。そちらには松の木が点在していた。道と道との区切り目に、ちょっとした植え込みが形成されていて、その中心に木が植えられている。
見たところ、目立つ塵は見当たらなかった。植物の類も、落ちているものはあまりない。
道を引き返し、スタート地点に戻ってくる。今度は桟橋の方に向かい、その上を歩いた。
桟橋は、木でできているから、先ほどとは歩いたときの感触が異なる。なんとなく、波に揺られているような感じがした。そして、柔らかい。歩く度に少しだけ下方向に力が加わるような感じがして、スリリングな感じがしないわけでもなかった。
周囲には、飲食物を提供する屋台やワゴンが点在している。ほかの場所に比べれば、紙屑やプラスチック製のストローの出現率が高いような気がしたが、それでも、汚い印象は受けなかった。きっと、火花が毎日掃除を行ってきた成果だろう。二人でやればすぐに終わる、と彼女は言っていたが、いつもはそれを一人でやっているのだから、どれくらいの時間がかかるのだろう、と月夜は想像する。
潮風。
人々が眠っていても、地球は絶え間なく回転している。
そして、それによって引き起こされる、波の繰り返し。
引力。
月からのメッセージ、あるいは、太陽系に仕組まれた運命。
すべては、神によって設計された造形かもしれない。
水族館の近くと、桟橋がかけられたエリアの掃除を終えた頃には、四十分ほどが経過していた。
途中で火花と遭遇することはなかった。月夜は、まだ彼女からトランシーバーを受け取っていない。作業を始める前に、まだ充電中なので、もう少し待ってほしい、と月夜は火花から説明を受けていた。
桟橋があるエリアを通過し、さらに道を進む。そちらにはレストランなどの飲食店が密集していた。全部で二階建ての建物で、一階にはバーベキューができるスペースがある。店はすべて閉まっていたが、生活感というか、普段からそれらの施設が使われている気配が、残滓のように漂っていた。
一階のエリアは吹き抜けになっており、頭の上には建物と建物を繋ぐ連絡路がある。階段を使ってその上にも上がり、塵がないか確認したが、この辺りはほかの場所に比べて綺麗だった。飲食店の従業員が、独自に掃除を行っているのかもしれない。
「こういう場所で食事をするのに、憧れたりはしないか?」
箒を使って適当に砂を除去していると、フィルが話しかけてきた。
「食事をするシチュエーションに、憧れを抱くことは、ない」
「まあ、そうだよな」
「分かっているのに、質問しているの?」
「そうさ。質問してみたかったからな。我慢できなかったんだ」
「なるほど」
飲食店が立ち並ぶエリアを抜け、道に出る。
少し進むと、広大な芝生の広場が見えてきた。
そして、その向こう側。
薄汚れた水色の鉄骨で作られたジェットコースターが、真夜中の海沿いに鎮座していた。
ジェットコースターのレールは、海の上を通るように設計されている。意図的にそうしているのだろう。それが、このアトラクションの売りなのかもしれない。月夜は、ジェットコースターにも、一度も乗ったことがなかったから、ほかにどのような種類のものがあるのか、知らなかった。
「乗ってみたいと、思うか?」フィルが尋ねる。
「あまり、思わない」月夜は答えた。「怖い思いは、できるだけ、したくない」
「怖くはないと思うぜ。きっと、楽しいはずだ。そうでなければ、こんなものを好き好んで乗る奴がそう多くいるはずがない」
「人間は、自ら、恐怖に足を踏み入れる頻度が、それなりに高いように思える」
「それは、恐怖と面白さが表裏一体だからだろう?」フィルは説明した。「そういうのを、一般的にスリルと呼ぶんだ。スリルや、刺激がなければ、人生はやっていけない。お前みたいに、勉強するか、読書をするか、そのどちらかしか選択肢がないような一生は、多くの人間は望まないのさ」
「それは、理解している」
「どっちがだ? お前以外の、多くの人間が求める傾向について? それとも、お前の特異な性質についてか?」
「どっちも」
「自分のことについては、あまり理解していないだろう?」
「そうかな?」
「いつか、自分でそう言っていなかったか?」
「そうかもしれない」月夜は頷く。「言った、かもしれない」
ジェットコースターの前に広場があり、その左手には海がある。反対に、右手には小規模な森のようなものが形成されていて、その中に展望台が立っていた。塔の周りにドーナツ状の展望施設が設置され、それが回転しながら上へと上がっていく仕組みだ。
そちらの方も掃除の対象区域だったが、そこまで行ってしまうと、あまりにも時間がかかりそうだったから、月夜は今日はやめておいた。一応、メインのエリアはきちんと確認したので、それで良いはずだ。火花には、あとで事情を伝えておこう、と彼女は考えた。
ジェットコースターの前を通り過ぎ、そのまま道を進む。右手に丘が現れ、左手にはずっと海が続いている。途中で何個かアトラクションが出現したが、アニメのようにデフォルメされた乗り物など、子ども向けのものが多かった。ジェットコースターは、おそらく子ども用の乗り物ではない。身長に制限があるのはそのためだ。
道の先には、最初に遭遇したメリーゴーラウンドがあった。
月夜はその前まで来て、立ち止まる。
先ほどまで何の色彩も持っていなかったメリーゴーラウンドが、今はその明るい光を存分に放ち、夜の遊園地に眩しい気配を漂わせている。
音楽も流れていた。まるで、本当に夢の世界へと来たような、甘い旋律だ。
施設の中に、誰かの姿が見えた。彼女は、背が高いから、遠くからでも目立つ。
火花だった。
「終わりましたか?」メリーゴーラウンドの柵の中から、火花が声をかけてきた。
手に持ったビニール袋を軽く持ち上げて、月夜は頷く。
「ありがとうございます。助かりました」
「何をしているの?」
火花の傍までやって来て、月夜は尋ねる。
「アトラクションの点検をするのも、私の仕事なんです」火花は話した。「よかったら、乗ってみませんか?」
「どうして?」
「いえ、単なる思いつきです。でも、せっかく来たんだから、どうかなと思って……」
「乗った方がいいの?」
「乗りたければ」火花は微笑む。「きっと、楽しいはずです」
楽しめる自信はなかったが、月夜は火花の誘いに乗ることにした。一度も乗ったことがなかったから、良い経験になると考えた。
柵で覆われた円周を周り、入り口へとやって来る。火花はその近くの操作室へと入り、月夜に好きなものに乗るように指示した。フィルも彼女の後ろをついてくる。
メリーゴーラウンドだから、当然、馬か、馬車に乗ることになる。月夜は白く塗装された馬車を選んだ。馬に乗るべきかとも思ったが、落ちたら嫌なので、安全な方を選択した。
「つまらないやつだな」
フィルにそう言われたが、その通りだと思ったので、月夜は黙って頷いておいた。
電車の発車合図のような音が鳴り、ゆっくりと盤が回り始める。回り始めると、ああ、回っているな、と月夜は感じた。それ以外の感想はなかったが、回っているだけでもそれなりに面白かった。速度は徐々に加速していき、周囲の景色が絶え間なく切り替わっていく。回転しているから、何度も同じ景色を見ることになるが、自分が中心になって周囲の景色が変化するという経験は、今までにないもので興味深かった。
夜だから、遠くの方までは見渡せない。
メリーゴーラウンドが放つ橙色の光だけが、辺りをぼんやりと照らしている。
ときどき、操作室にいる火花が、手を振ってくれた。
月夜も何度かそれに応じた。
正に、適度なコミュニケーションといった感じ。
悪くはない。
やがて回転速度が落ちていき、最初と同じ音が鳴り響く。回転力は失われ、馬車は完全に停止した。
感覚が少し狂っているような感じがしたので、転ばないように気をつけながら、月夜は馬車から降りた。そのまま盤の上を歩き、入り口に隣接する出口から外に出る。火花も操作室から出てきて、月夜の後ろからアトラクションの外に出た。
「どうでしたか?」
火花に質問されたから、月夜は思考を巡らせて、感想を述べた。
「うん、面白かった」
月夜の返答を聞いて、火花は笑みを零す。
「それなら、よかったです」
最初に歩いたのと同じ道を進み、やがて管理棟まで戻ってきた。カフェの中に入り、部屋を進んで待機場所に入る。集めた塵はそのままで良いとのことだったので、塵が入った袋はそのまま壁際に置いておいた。
ロッカーの中に箒と塵取り、そしてトングを仕舞い、作業がすべて完了する。
「ありがとうございました」中央のテーブルでチェックシートにチェックを入れながら、火花が言った。「ここの全体も、大体覚えてもらえましたか?」
月夜は頷く。
火花は顔を上げ、月夜の挙動を確認すると、少し笑った。
「今日の仕事は、これで終わりです……。……明日も、来てもらっていいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます」
チェックシートを棚の中に仕舞い、二人は待機場所の外に出る。火花が鍵をかけてから、月夜は彼女と一緒にカフェの外に出た。
「火花は、これからどうするの?」
カフェの前で、月夜は火花に質問した。
「えっと……、……どうというのは?」
「家に帰るの?」
「ああ、そうですね……」火花は答える。「私には、家はないんです。ずっとここで暮らしていますから……」
「遊園地の中で、過ごすの?」
「大抵の場合は、外に出て、海沿いを散歩しています。ほかに、することはありませんから……」
「また、夜になるまで、ずっと?」
「ええ……」
「分かった」
「私の役割はそれだけです」火花は言った。「ずっと、夜の間ここの管理をしてきました。……それも、もうすぐ終わりです。それまでにやっておかなければならないことがあるので、月夜さんにも手伝ってもらいたいんです。……どうか、よろしくお願いしますね」
前方には扇状に広がった階段があるが、その後ろにも、同様に階段があって、そちらに進めば遊園地の入り口へのショートカットになる。
「やらなければならないことというのは、具体的に、どんなこと?」
歩きながら、月夜は火花に尋ねた。
「それは、明日お伝えします。今すべてをお話しするのは大変なので……」
分かった、と月夜は呟く。
「なんだか、素直ですね、月夜さん」
火花に言われて、月夜は顔を上げる。
「よくそう言われるけど、自覚はない」
「そういうのも、素敵です」
素敵とは、どういう意味だろう?
考えても分からなかった。
ただ……。
火花の生き様は、少なくとも月夜には、素敵に思えた。
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