The Color of The Fruit Is Red of Blood

羽上帆樽

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第6章 考察は能動的に

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 昼食をとり終えてから、僕とリィルはウルスのところに向かった。彼女に来るように言われていたからだ。別に断ってしまっても良かったが、彼女に気に入っていると言われた手前、約束を破る勇気は僕にはなかった。

 ウルスの部屋は、正面玄関から見て左のブロックの奥にある。広間に出てから右手に向かい、僕たちはブロックの中に入った。

 そちらのブロックにも、僕たちのブロックと同じように沢山の絵画が置かれていた。臨時に運び込まれたテーブルに煩雑に置かれているだけで、まだ展示はされていない。その向こう側にあるドアをノックすると、ウルスはすぐに鍵を開けてくれた。

 ウルスも昼食をといっていたようで、彼女はフォークを持ったまま僕たちの前に姿を現した。彼女が選んだメニューはナポリタン一択で、ほかには部屋に備えつけのインスタントコーヒーしかなかった。普段からそんな食事ばかりとっているのかと思ったが、僕も似たようなものだから、助言の一つもすることはできなかった。

 ウルスの部屋も、僕たちが使っているものと大差はない。というよりも、まったくといって良いほど同じだ。左側にデスクと書棚があり、その向かい側にベッドがある。

 彼女が言っていた問題の絵画は、今はデスクの上に置かれていた。運ばれてきたときに包んであった薄い紙が下に敷かれ、その上に絵画が置かれている。部屋に絵画を持ち込むのは禁止されているが、僕は今は何も言わないでおいた。

 ウルスに勧められ、僕たちはその絵画を観察する(この場合、鑑賞というよりも、観察という方が正しい)。

 午前中にウルスが言っていたように、絵には林檎が描かれていた。しかし、それは林檎と言われて一般的に想像されるようなものではなく、現実離れした青色の配色が成されていた。木製のテーブルの上にその林檎が一つ置かれているだけで、背景はあまりしっかりとは描かれていない。どちらかというと印象派の画家が描いた作品のように見えるが、所々くっきりとしている部分もあって、制作年、作者に加えて、派閥も不明ということになりそうだった。

 絵は当然額縁に収められており、その額縁の下部にタイトルが書かれたプレートが嵌められている。タイトルは”The Color of The Fruit Is Red of Blood”。どことなく舌足らずな感じのするタイトルだが、どこの国の人間が描いたものかは分からない。

「どう思いますか?」

 椅子に座ってナポリタンを食べていたウルスだが、僕たちが一通り絵画の観察をし終えたタイミングで、彼女は僕たちに尋ねてきた。

「おっしゃる通り、不思議な作品ですね」僕は感想を述べる。「しかし……。絵画ならよくありそうな作品にも思えますけど……」

「どういうところがですか?」

 ウルスは相変わらず無表情だ。ときどき笑顔を覗かせるが、そのタイミングは予想が難しく、かなり頻度にばらつきがある。彼女と接していると、どことなく他人とはずれたものを感じることが多い。

「うーん、たとえば……。……普通なら赤いはずの林檎が、青く彩られているところとか」

 僕の答えを聞いて、ウルスは満足気に頷く。それから少し顎を上げて、続きをどうぞというふうに僕に促した。

「あとは……。……そうですね、作品の内容とタイトルが一致していないというのも、そんな感じがします」僕は考えながら話した。「タイトルのフルーツというのは、当然この林檎のことを指しているのでしょうが……。林檎は青色なのに、タイトルではそれは血の色だと述べられている。血は普通赤色です。だから矛盾していることになる。そういうところがわざとらしいというか、作者は捻ったつもりでも、未熟な考えのように思えてしまいます」

「ええ、その通り」僕の話を聞いて、ウルスは頷いた。ちょうどナポリタンも食べ終えたみたいだった。「私も、そう感じました」

 ウルスは椅子から立ち上がり、デスクの傍へと近づいてくる。それから僕の隣に立って 絵を見下ろし、目つきを鋭くしてそれを見つめた。

「色々と気になるところはありますが、問題はそこではありません。……昨晩私が見つけた林檎と、この作品の間に、どのような関係があるかということです」

「それって、本当に関係があるんですか?」

 喧嘩を売るつもりではなかったが、僕はウルスに気になっていたことを質問してみた。

「ないと、思いますか?」

 逆に問われ、僕は考える。

「ないと断言はできないと思いますけど……。……うーん、ちょっと微妙なところですね」

「私が拾ったのは、青林檎です」ウルスは真剣な顔で話す。「ここに描かれているのは、青色に染まった林檎……。青林檎は実際には青くありませんが、言葉のうえでは共通しています」

「分かりました。じゃあ、仮に関係があるとしましょう」僕は一度自分の考えを放棄することにした。「それで、貴女はどういう可能性を考えているんですか?」

 僕たちが話している間、リィルはずっと黙っていた。ウルスの顔を見たり、絵画に目を向けたりと、割と忙しなく状況を観察しようとしている。彼女の観察眼は普段は大したことはないが、ときどき面白いことを発見することがある。リィルの意見についても、僕はあとで訊いてみようと思った。

「私が疑っているのは、ガザエルさんです」ウルスは端的に答えた。

「なぜですか? 今、いないからですか?」

 僕が尋ねると、ウルスはゆっくりと部屋の中を歩き始めた。見た目の割に行動は大人びているから、ウルスの挙動は見ていて面白い。

「まだ確固たる理論が確立できているわけではありません。予感、いや、直感……。そのような域を出ていない考えですが、私の中に渦巻いているのはまさにそれです」

「よく分かりません」僕は首を振る。

「まあ、いいでしょう。何か思いついたら、お知らせします」

「え? なぜ、僕に知らせる必要があるんですか?」

 僕の質問には答えずに、ウルスは僕とリィルに別れを告げた。別れを告げたというか、単純に部屋から追い出されたのだ。

 腕時計で時刻を確認すると、間もなく午後一時になるところだった。午前と午後で作業時間が定められているわけではないから、好きな時間に再開することができる。ただし、絵画に関する作業は三日以内に終わらせなくてはならないので、そう休憩ばかりしていられない。

 部屋に戻ってくるなり、リィルは勢い良く窓を全開にした。

「何?」

 あまりにも唐突な動作だったから、僕は思わず驚いてしまった。リィルがそういう挙動をすると分かっていても、何の前触れもないと驚かずにはいられない。

「面白くなってきたじゃん」彼女はこちらを振り返る。

「何が? 仕事?」

「あの絵の話」リィルは笑っていた。「私、こういうの好きだよ」

「こういうのって、どういうの?」

「ウルスもなかなかいいところに目をつけるなあ……」リィルは愉快そうに話した。「ガザエルが怪しいかもしれないって、私もずっと思っていたんだよね」

「君が言っているのは、人間性の話じゃないのかな」

「ウルスが青林檎を拾ったのだって、絶対に偶然なんかじゃないと思うよ。ガザエルが何か企んでいるに違いない」

「君もウルスも、なんでそんなふうに特定の個人を疑うわけ?」

「だってさ、あの人、見るからに怪しいじゃん」

「見た目で人を決めてはいけない」

「だって、ほかに手段なんてないんだし」リィルは当然のような口振りで話す。「彼が帰ってきたら、どうやって訊き出すか考えておかないと」

「妙なことはしないでほしいな」

「でも、どうしてそんなことをしたのかな……。なんか、私たちに勝負を挑んでいるとか、そんな感じかな?」

「うん、違うと思う」

「じゃあ、なんだっていうの?」

 リィルに問われたが、僕は答えなかった。意図的にそうした態度をとったのだ。普段と役割交代というつもりだった。

「林檎ってさ、どんな味がするの? 甘いってことは知ってるけど、普通の林檎と青林檎だと、何か違うの?」

 リィルに再度問われ、僕はその質問には答えることにした。

「うん、まあ、多少は違うかな。青林檎の方がより甘いと思う」

「甘いって、どんな感じ?」

「説明できないよ」椅子に座ったまま、僕は彼女の方を見た。「逆に、どうやって説明すしたらいい?」

「あああ……。なんだかわくわくしてきちゃった。うーん、いや、ガザエルのことだけじゃなくても、そういう絵を描く人がいて、そして、意味深長なタイトルをつけるっていうだけで、なかなかドラマチックで面白いよね」

「僕はそうは思わないけど」

「謎解きって感じがして、いいじゃん」

「どうだか」僕は首を振った。「何が謎なのか明示されているわけでもないし、きっと、解消されない可能性の方が高いと思うよ」

「どうして?」リィルは真顔に戻って僕に尋ねる。

「謎って、そういうものじゃないか」僕は答えた。「ドラマじゃないんだからさ……。そう首尾良く事が運ぶことなんてないよ。君がその手のものを観すぎているだけだと思う。現実はそこまで甘くないってこと」

「甘いとか、甘くないとか、そういう話じゃないでしょう?」

「じゃあ、明るいか、明るくないってとこかな」

「何が明るいの?」

「未来。いや、明るいんじゃなくて、明るくない」

 リィルは勢い良くベッドに腰を下ろす。

「私は、もう少し考えてみることにしよう」彼女は言った。「じゃあ、そういうことだから、よろしく頼むよ、ワトソン君」

「うんうん、情緒不安定なんだね。分かるよ、その気持ち」

 リィルは軽く僕の頭を小突き、そのまま部屋の外に出ていった。どうやら仕事はきちんとこなすつもりらしい。いや、彼女のことだから、そのままどこかへと消えてしまう可能性もなくはないが……。

 僕も作業の続きを行うことにした。今日で四作目の絵画の説明の翻訳に入る。もう大分作業には慣れてきていたから、作業をしながらほかのことを考える余裕もあるような気がした。

 思考は自然と、ウルスと、あの絵画のことへと向かう。自分ではそうしたくなかったが、たった今リィルと交わした会話が印象に残っていたのだ。

 ウルスが拾った青林檎と、絵画に描かれていた林檎に関係があるとするなら、ウルスが言っていた通りに、たしかにそこには人為的な何かが存在しなくてはならない。ウルスはそれを画策したのはガザエルだと考えているみたいだが、それについては彼だと断定できる証拠はない。

 そもそもの問題として、なぜウルスがそれらのことに興味を抱いているのかが分からなかった。たまたま青林檎を拾って、たまたま自分がその絵画を担当することになっただけだし、わざわざ僕たちを呼び出して、話し合いをするまでに発展させようとするのはおかしい。

 ウルス自身が関わっているわけではないとする考えを、撤回しなくてはならないかもしれない。

 ウルス本人が何かを企てているとするのなら、話がおかしくなることはない。彼女が自ら青林檎を用意し、彼女があの絵画の翻訳を担当することは必然だった。そして、僕たちにそれを示したのだから、彼女の目的は僕たちそのものか、あるいは僕たちと関係のある誰かということになる。

 その場合、ウルスの目的は何だろう?

 もし本当に達成したい目的があるのなら、こんな分かりやすいやり方を採用するはずがない。事態が起こったのはあまりにも突然だったし、何かを隠していて、それを見破ってほしいと言わんばかりの荒い手法だ。彼女にとっては戯れ事のつもりなのかもしれないが、単純にそれが楽しいからという理由であるはずがない。

 ……。

 いったい、僕は何を考えているのだろう?

 理由は分からなかったが、嫌な予感がするのは間違いなかった。ウルスが何かを企んでいたとしても、またはそうではなくても、僕たちが何かに巻き込まれようとしているような気がする。それはただの予感でしかないが、悪い予感は良い予感よりも当たるものだ。

 一度思考を切り替え、とりあえず目の前の仕事に集中することにした。

 その後は僕の集中力も切れることはなく(そもそも集中などしていないのだが)、気がついたときには午後六時になっていた。今日一日で合計八枚分の翻訳を行えたから、それなりに進んだといって良いだろう。

 数えてみると、絵画は全部で十六枚あった。今日で半分が終わったことになる。同様のペースで進めれば、明日中にすべて完了することになるが、何が起こるか分からないから、余裕を持っておくに超したことはない。それに、今日カウントした分には、ガザエルに確認をとらなくてはならないものも含まれている。そうすると、今日の成果は半分以下ということになる。一度成果を確認して、それを良好だと判断してから自分のミスに気づくのは、あまり良い気のしないプロセスだが、それすらも自分のミスだから、今のところは目を瞑っておくことにした。

 ブロックに出ると、リィルの姿があった。しかし彼女は、テーブルに突っ伏して眠っていた。椅子があるわけではないから、地べたに脚をついて上半身だけをテーブルについて眠っている。よくそんな姿勢で眠れるものだと僕は感心した。

「もう、終わりだよ」

 リィルの傍まで近づき、僕は彼女の肩を揺すった。

 若干呻き声を上げながら、リィルはゆっくりと頭を持ち上げる。目を開けて僕の顔を見た。

「おはよう」僕は言った。

「ううん……。うん、うん……」

 冗談をいえるくらいの余力はあるみたいだったので、僕は安心した。レム睡眠中で、比較的浅い睡眠だったがために、すぐに頭がクリアになったのかもしれない。

「こんな所で眠っていたら、風邪を引くよ」

「もう、ご飯?」

「いや、まだ」僕は首を振る。「とりあえず、風呂に入ってこようかなと思って。今日は、早い内にね」

「じゃあ、私も行く」

 リィルの発言を聞いて、僕はついつい笑ってしまった。

「そういうこと、ほかの人には言わないでね」僕は言った。「一緒には入れないから……。どうする? 僕は、君からでも構わないよ」

「どうして一緒に入れないの? スペースは、充分あるでしょう?」

「物理的な問題じゃない」

 話し合いの結果、リィルが先に入ることになった。というわけで、僕は時間を持て余すことになったが、やることがなかったので、とりあえず館内をぶらつくことにした。

 二階に上がったことがなかったので、広間の中央にある螺旋状の階段を上がって、上へと向かった。一階は広間を中心に四つのブロックが配置されているが、二階になるとそれは三つに減る。正面玄関から見て手前に一つ、奥に二つの配置で、一階と同様にそれらが作品の展示スペースとして使われているみたいだった。手前側のブロックの手前、広間の一部にはレストランがある。今は営業していないみたいだったが、室内にはテーブルと椅子がいくつも並んでいるのが見えた。僕たちに食事を提供してくれるのも、ここで働いているスタッフたちだ。

 レストランの傍を通り、手前側のブロックに入る。そこも一階と同様に展示スペースとして使われているみたいだが、まだ作品は一つも展示されていなかった。絵画の次に僕たちが担当する作品が、ここに展示されることになるのだろう。

 僕がブロックの中をぶらぶら歩いていると、不意に背後から声をかけられた。

「ここには彫刻品を展示する予定です」

 後ろを振り返ると、入り口の辺りにガザエルが立っていた。

 彼はゆっくりと僕の方に近づいてくる。

「彫刻品の方は、運ぶのが大変ですから……。うん、まだ、持ってこられそうにありませんね」

 傍まで来たガザエルに僕は質問する。

「お出かけになられていたようですが……」

「ええ、そうです」彼は頷いた。「ちょっと、ほかの美術館との話し合いです。こんな所にある美術館なんて、うちくらいのものですからね……。出向くのは我々というわけです。色々と大変なんですよ。……まあ、それを承知のうえでここに建てたんだけど……」

「なぜ、ここに建てようと思ったんですか?」

 僕が尋ねると、ガザエルはこちらを見て少しだけ笑った。

「素敵じゃあありませんか? 山の頂上に建つ美術館……。ガイドブックには載っているそうですが、まあ、それを見ても来ようと思う人は少数でしょう……。うん……。なんだか悲しい気持ちになってきましたが、これでもまあまあ儲かっている方です。……ほかと比べて、うちだけ入館料が高いことは、秘密ですけどね……」

 ガザエルと一緒に一階へと戻る道中、僕は思いきってウルスが見つけた絵画のことを話した。制作年と作者が不詳となれば、できるだけその作品について調べた方が良いからだ。僕の方も説明の捕捉が必要な絵画を見つけていたので、それについても調べてもらうことにした。ガザエルは了承してくれたが、少し時間を貰うことになりそうだとのことだった。

 部屋に戻っても、まだリィルは帰ってきていなかった。行き来するだけでも時間がかかるし、入浴時間も長いだろうから、まだまだ待つことになりそうだ。

 椅子に座り、なんとなく読書を始める。

 今読んでいるのは、とある歴史的な医師の精神分析について書かれたものだった。精神分析の分野は哲学や心理学と深い結びつきがあるから、それなりに興味を惹かれるものがある。

 哲学や心理学というものでは、いくら考えても答えは見つからない。そもそも答えを見つけるものではないのだ。反対に、絶対的な答えが存在するものなど限られている。学校で出される数学のテストには答えはあるが、現実世界にその方程式を適用しても、自然と答えは幅を持ったものになる。つまり誤差が生じるのだ。その幅を埋めて一つの答えに絞ることはできないし、そもそも一つに絞る必要はない。

 哲学や心理学が追い求めているものは、最終的には事物の解釈の仕方、その手順を定めることにほかならない。それはあくまで解釈だから、やはりそこには誤差が認められる。判断する者によって結果は異なるし、ある解釈が正しいと判断されても、それはあくまでその場合の話であり、状況が変わればまた新しい解釈が必要になる。

 結局のところ、そうした揺れは人間が多数存在することに起因している。人間には幅があるから、彼らが出す答えにも幅が生じる。当たり前というか、この世界に存在する定理のようにも思えることだが、どういうわけか、人間にはそれでも完璧な答えを求める習性がプログラムされている。なんとか答えが揺れないようにし、たった一つに絞りたいと思ってしまうのだ。

 僕とリィルの二人だけでも、意見が食い違うことが多い。それがさらに人数を増やせば、より意見は合致しずらくなる。

 この美術館に僕たちが集まったことで形成された社会にも、様々な意見を述べる人たちがいる。僕とリィルの間で揺れていたものが、ウルスやボォダ、そしてガザエルとの間でさらに揺れるようになる。話し合いには余計に時間がかかるようになるし、最終的な結果に納得できない人も当然出てくる。

 それが人間に定められた運命なのかもしれない。

 これも僕の意見だ。

 リィルにそれを言っても、相手にされるかどうか分からない。

 自分でも気づかない内に瞼を閉じていたせいか、僕はいつの間にか眠ってしまった。次に目を覚ましたのは、風呂から帰ってきたリィルに肩を揺すられたときだった。

「こんな所で眠っていたら、風邪を引くんじゃなかったっけ?」

 いつもとは違う石鹸の匂いがして、僕は、ああ、いつもと違うな、と思った。それ以外はいつも通りのリィルだったので、それを見て、ああ、いつも通りだな、とも思った。

「風呂は、湖だった?」僕は苦し紛れの奇襲攻撃を仕かける。

「湖?」

「金の斧か、銀の斧かと訊かれたら、斧ではなくて金そのものです、と答えなくちゃ駄目だからね」

「それは、湖じゃなくて、泉じゃないの?」

 リィルに突っ込まれてしまったが、僕はなんとか平静を装うことに成功した。

 山道を下って風呂へと向かったが、今日は誰にも会わなかった。時間が早すぎたからかもしれない。別に誰かと一緒に入りたいわけでもないし、一人でのんびりと入るのも好ましいから、僕としてはそれで良かった。

 四十分くらいかけて入浴を済ませて帰ってくると、部屋にリィルの姿が見つからなかった。暫く待っていても彼女は帰ってこなかったので、僕は捜索に出かけることにした。美術館の外に出ることはないだろうから、館内を探すことにするが、余計なことをしていないか多少心配になった。

 広間にもいなかったので、二階か三階に上がったのかと思ったが、無闇に探すのも良くないと思い、誰かに訊いてみようと思ってウルスの部屋に向かったところ、リィルはそこにいた。彼女だけではなく、ガザエルもウルスの部屋にいた。僕がやって来たのを見つけると、ウルスはにっこりと笑って僕に手招きをした。

 三人が見ていたのは、例の林檎が描かれた絵画だった。その絵の存在を僕がガザエルに伝えたことで、彼はウルスの部屋に現物を見に来たらしい。不満を零すかと思ったが、ウルスもそれで良かったと話した。彼女はガザエルを疑っているみたいだったが、彼自身に絵のことを尋ねるのも良い方法だと考えたのかもしれない。

「ええ、そうです、私も忘れていましたよ、この絵のことを……」一度ウルスには説明したのだろうが、ガザエルは僕に話した。「この絵はあなた方の作業の対象外にするつもりだったんです。説明が存在しないのなら、あなた方にできることはありませんから。まさか、担当者が自分で考えて、適当に書くわけにもいかないでしょう。……こちら側で預かって、展示するのをやめようと考えていた……。手違いというやつですね。私の好い加減さ故に起きた事故として認識してもらって差し支えないです」

「この絵がどこから運び込まれたのかは、分かっているんですか?」

 僕が質問すると、それにはウルスが答えた。

「分かっていません」ウルスは人差し指を立てる。「つまり、身元不明です」

 つまり以下の内容が要約になっていなかったが、僕は気にしなかった。

「じゃあ、どうやって……」

「おそらく、どこかで紛れ込んだのでしょう」ガザエルは説明する。「うち以外にも、同じ業者から色々な美術館宛に絵画が輸送されている。本当はここに来るはずのものではなかったのだと思います。……そう、たとえば、そういった身元不明の絵画を集めて、研究する機関があります。私もそうした企業と繋がりがある。おそらく、本来はそこに向かうはずだった。そう考えるのが妥当でしょう」

 彼の説明はパーフェクトだったので、僕たちはそれ以上何もいえなくなった。ただ、ウルスはまだ何か考えているような顔をしていた。

「君は、なんでここにいるの?」

 傍にいるリィルに向かって、僕は尋ねた。

「ウルスに、呼ばれたから」

 リィルの返答を聞いて、僕はウルスを見る。彼女は不気味な笑みを浮かべていたが、それが彼女の本心からの笑顔なのかもしれなかった。

「本当は貴方をお呼びしようと思ったんです。でも、リィルさんしかいらっしゃらなかったから……」

「この絵については、私が預かりましょう」ガザエルが口を開き、提案した。「……しかし、それにしても、まったく興味深い作品ですな、これは……。青い林檎に、血液の赤……。まあ、多少素人っぽいところはありますが、洒落込んでいることに違いはない。きっと余程のロマンチストなのでしょう」

 背後で気配がし、僕たちは後ろを振り返る。ドアの付近にボォダが立っていた。

「何の騒ぎです?」彼は部屋に足を踏み入れ、僕たちの傍にやって来る。

「どうでしょう。この絵について、我々で何か考察をしてみるというのは」ボォダを無視してガザエルは言った。「宛先を特定するのも、そこに送るのにも、それなりに時間がかかります。その間、この絵は我々の手もとにある。……ちょっとした遊戯として、如何ですか、皆さん」

 ガザエルの意味不明な提案に最初に反応したのは、リィルだった。

「それって、謎を解くってことですか?」

 目を輝かせているリィルに向かって、ガザエルは片方の掌を向ける。

「ええ、そうです……。皆さん、仕事ばかりじゃあ、つまらないでしょうから……」

「謎解き? 何の話ですか?」ボォダが声を出す。

「僕たちには関係のない話ですから、さあ、行きましょうか」

 僕はボォダを連れて部屋の外に出ようと思ったが、不意に背後から両腕を掴まれた。

 好奇心旺盛な二人の少女が、そんな行動を許してくれるはずがなかったのだ。
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