せめて夢の中は君と幸せになりたい

Ringo

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season1

離縁

ナディアから届けられた手紙を読み終わると、知らず涙が溢れていた。

記憶がないならもしかして…とあわよくば期待していた希望が、粉々に打ち砕かれてしまった。

ナディアが手紙を書くようならと医師に渡していた便箋には、一切の躊躇がないように見受けられる文字が綺麗に並びんでいる。

そして最後に記されている署名は家名を除いたもので…それが一番心を抉られ、本当にもう戻れないのだと実感した。


「ナディア…ナディア・モリス……」


思わず首元に手をもっていき、そこにある存在に触れて…これが癖になってからだいぶ経つなと寂しく思う。

首に下げている鎖には小さな指輪…かつてナディアの細い指にはめられていた結婚指輪が通されていて、ナディアが事故に遭ってから肌身離さず身に付けている。


『さすがに捨てるわけにはいかないから、タイミングを見てジェイマンに渡してくれる?』


そう言って家を出るときに侍女に渡していったものを、あの日ナディアが事故に遭ったとの報せを受けて駆け付け、その後帰宅した時に投げつけられるようにして渡された。


『そんなにあの女を好いているなら、最初からあの女と結婚すればよかったんです!!』


そう僕を詰った侍女はナディアと一番親しくしていた者で、彼女はその日のうちに退職を願い出て屋敷を去った。

きっと、僕が結婚前からトレーシアに懸想していたと思ったのだろう。

だから親友亡きあと囲い、甲斐甲斐しく世話をし殆どを彼女達と過ごしているのだと。


「…ナディアもそう思っていたの?」


孤児でひとり逞しく働いている姿が好ましくて、平民だからと渋る君を『しがない子爵』だからと口説き落とし、それなりにある貴族との付き合いも懸命にこなしてくれて…いつか生まれる子供には、温かな家庭を築いてあげたいと…自分にはなかったものだからと…そう言っていたのに。

トレーシアに懸想したことなど一度もない。

カクラスの寝台で手を伸ばされた時も、そんなつもりは起きなかったしするつもりもなかった。

それでも、夫を亡くして寂しいから傍にいるだけでいいと言われてそれを許容した。

だけど…もし君が他の男と同じ寝台で眠るなどあればそれはあり得ないことだし、たとえそこに子供が共に寝ていたと言われても、朝まで過ごすなど許せない。

今となっては簡単に分かることなのに、どこまでも僕は愚かだった。


「……ずっと苦しめていたよね…だから君は、僕に知られないように…」


ナディアが事故に遭って治療院へと搬送されたあと、僕の知らない薬などを服用していなかったかの確認の為に訪れたかかりつけ医院で、ナディアは避妊薬を処方されていたと聞いた。

行為後に飲むもので、確実な効果を出す為に作られていて負担が大きいから、明確な理由もなく渡すことは出来ないと問い詰めたところ、いつか家を出ていくことになるだろうから…その時に可能な限り身軽でいたいと…そう言っていたと教えられ、きつく叱責された。


『責任を感じてほしくないからと口止めされていたが、こんなことになるならお前を問い詰めておくべきだった』


幼少期からお世話になっている老医師から一頻りの叱責を受けたあと、冷たい失望の眼差しを向けられたままその場を後にした。

トレーシアが来るまでの三年は、泊まり込みと月のものがある時以外抱いていたのに…彼女達を迎え入れてからは、月に数度あるかないかだった。

その数少ない行為のあと、僕にとっては幸せの余韻に浸ってナディアを抱き締め微睡んで過ごしていても、別館の侍女からカクラスが泣いて呼んでいると言われれば、ナディアを置いて朝まで戻らなかったこともある。

ナディアが出ていってから気付いたことだが、僕の私物や衣服の殆どが別館に移されていて…それだけ別館でトレーシア達と多くの時間を過ごしていることに、愚かな僕は全く気付かなかった。


『今夜はここにいてほしい』


ナディアと最後の夜になった日、その日は侍女ではなく直接トレーシアが泣くカクラスを連れて本館に来ていると呼ばれ、珍しく縋るナディアを宥めて言い聞かせ、三人で別館に赴き…そのまま三人で朝まで過ごした。

トレーシアの部屋ではないからと。

子供も一緒だからと…そんな勝手な言い訳を自分にして、ひとり置いていかれるナディアのことは後回しにした。


「何をやっていたんだろう…」


きっと、あの夜が最後のチャンスだった。

伸ばしてくれていた手を振り払ったのは僕だ。

あの日、あの時…もしもナディアの傍を離れずにいたら…そう思うと後悔が押し寄せる。

やり直したい。

もう君の気持ちを踏みにじるようなことはしないと誓うから…もう一度やり直したい。






******






執務室で仕事をしていると、別館から荷物の運び出しが始まったと報告が入った。


「お見送りはよろしいのですか?」

「もう渡せる情もないんだ…酷い人間だよな」


ジェイマンは苦笑しながらも、眼差しからそれでいいのだと言ってくれているのが分かる。

早くに両親を亡くした僕にとって、ジェイマンは親代わりのような存在だ。

それなのに、そんな彼の進言を悉く聞き入れることなく…結果として一番大切なものを失った。


「もう間違いたくない」

「それでよろしいかと」


予定より一週間遅くなったが、漸くトレーシア達はここを出て実家に帰る。

早急な引き受けを頼んでいたが、何かと理由をつけては拒まれ、トレーシアから話をされたのだろう…ここまで面倒を見たのだから、もう家族同然で暮らしているのだから娶って欲しいとの手紙を何通も受け取った。

けれど何を言われようと僕の意思は変わることはないし、もしも譲歩した期日までに引き取らないのであればしかるべく機関に突き出すとまで言って漸く動いた。

この二週間、昼夜問わず本館に押し掛けてくることも続き、カクラスが泣いていると毎晩のように侍女が報告に来ても追い返し、痺れを切らしたトレーシアがカクラスを抱いて来ても、一切取り合わずに別館へ戻させた。

酷いことをしているとは思う。

それでも、トレーシアがナディアにあらぬことを吹き込んでいたことは許せなかった。


「離縁の手続きを始めようと思う」

「…畏まりました」


ナディアから離縁を望むと返事が来てから、なんだかんだと延ばしてきた離縁。

もういい加減解放してやるべきなのだと思いながら、どうしても踏ん切りがつかなかった。


「爵位譲渡の件も進めていく」

「……宜しいのですか?」

「ナディア以外と結婚するつもりはないし、誰かと子を儲けるつもりもないから」

「畏まりました」

「……ナディアは…治療院を出たあとどこに行くんだろうな…」


願わくば──────






******






「こことここに署名をしてくれる?」

「はい」


およそ半年ぶりに会ったナディアは、最後に見た時より健康的な体つきになっていて…改めて窶れさせていたんだなと気付いた。

トレーシア達が来てからの三年…どれだけの心労を与えていたのだろうか。


「────はい、出来ました」


躊躇わずに記された署名は家名入りのもので…これがナディアが書く最後の名前なのだと思うと、込み上げるものを抑えきれなかった。


「あの……大丈夫ですか?」


『大丈夫?どうしたの?』


気遣う声に、初めて会った時の声が思い出されて耳に響き、どうして大切に出来なかったのだと自分に怒りが沸いてくる。

両親が亡くなり、ジェイマンに守られながらも貴族社会に立ち向かう息苦しさに限界を感じていた頃、ふらふらと歩いて気付くと座り込んでいた。

その時が、ナディアとの初めての出会い。

心配するように覗く茶色の目は大きくて、貴族女性には見ない短い髪が印象的に思えた。


『何かツラいことでもあったの?』


そう言って背中を擦ってくれた手は温かくて、その手を離したくないと強く思った…のに……


「…っ…やっぱ、り…だめ…っ、だろ…か……」

「え…」


僕と貴族社会で生きていくためにと敬語を話す練習を始め、お気に入りだと言っていた短い髪を伸ばし始め、慣れないドレスやダンス…なにもかも僕のためだったのに…


「わか……っ…れた、く……な…っ……」


君を失いたくない。

詰っていいから…


「……ごめんなさい…」


『元気出して!頑張ろう!』


いつも励ましてくれていた君を失った僕は、これからどうやって生きていけばいいのだろうか。

自業自得だと…因果応報なのだと…分かっているのに心が追い付いていかない。


「…幸せになってくださいね」


席をたって部屋を出ていくナディアを止める術などなく、取り残された僕はただ泣き続けることしか出来なかった。

窶れてしまうほどに苦しめていたナディアは、こんな僕以上にツラかったはずだし、僕に泣く権利なんてないけれど…それでも涙は止まらない。


「ナディ……ア…ッ……」


【ナディア・モリス】


もう二度と君の手で書かれることのない、僕とお揃いの名前。


『お揃いってなんでも嬉しいけれど、名前がお揃いって……最高だわ!!大好きよ!!』


生まれてからひとりだった君が、僕からの贈り物で一番喜んでくれたのは名前だった。

ナディア…ナディア・モリス……


「君が好きだ……っ……」


二度と届かないと分かっていても、僕はこれからも君を愛し続けてしまう。








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