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第1話
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幸せな人間は無神経。
時々、耳にする言葉だけど、この台詞を呟くのは大抵、“幸せじゃない”人間だと思う。
幸せじゃないからその無神経さを敏感に感じ取っちゃって、いちいち傷ついたり、ムカついたり──心を波立たせてしまうのだ。
もちろん、幸せな人間に悪気がないってことはわかっている。
気持ちがふわーっと舞い上がっちゃって、他人の痛みに鈍感になっているだけだって事も。そして……それがとてもとても厄介だということも。
何でそんなことがわかるのかって?
答えは簡単。
私、柏原つぐみが幸せじゃない人間そのものだからだ。
「でね、彼ってば最近、忙しいみたいでさぁ。毎日終電帰りだし、土日も会社だし……すれ違ってばっかり。あーあ、今度の土曜は結婚して初めてのバレンタインデーなのにー。あの仕事バカめ」
恨めしげにぼやいた後、広岡はビールを一気に喉に流し込んだ。喉がゴクゴクと嬉しそうに動いているのがわかる。あっという間にジョッキを空にした後、それをテーブルの隅にやり店員さんを捕まえ、追加のビールを注文している。
その姿を眺めつつ、私は小さくため息をついた。
「仕方ないんじゃない? 椎名さんの部署って、この時期特に忙しいし。広岡だって色々忙しいんでしょ? お互い様じゃん」
「私は時間作ろうと頑張ってるもん。それなのに……ああ、思い出したらムカついてきた。大体、忙しいくせにさ──」
あ、やばい……地雷踏んじゃった? と思った時には既に遅し、広岡の口から旦那の不満が次から次へと出てくる。
ベッドで寝ないでソファーで熟睡するとか、アイスを大人買いするから冷凍庫に物が入らないとか……何でそんなことで怒れるんだろう? 私にはさっぱりわからない。
あの鬼上司が冷凍庫一杯にするくらいアイスを買うなんて、可愛らしくて微笑ましい光景じゃないか……もっとも、そんなことを言うと面倒なのでとりあえず聞き流すことにする。
適当に相づちを打ちつつ、広岡に負けじとジョッキに口をつけた。
……なるほど、コクがあって深い味。それに喉越しもなめらかで確かに美味しい。でも、今日のビールはおいしくない。
広岡倫香は前の会社の同期。
今は出版社で編集の仕事をしている。結婚して椎名になったけど、昔の名残で今も広岡と呼んでいる。
出版社の編集と言えば人気のある仕事だけど、その一方で激務だと聞く。ご多分に漏れず広岡も毎日忙しい日々を送っている。だけど、今週は珍しく時間を取れたようで、美味しいビールを飲める店を見つけたけど行かない? と誘ってくれた。
美味しいビールという甘い誘惑に「たまには息抜きも必要」とのってみたら、席に着くなり旦那のグチが始まり今に至る。
でも、これはグチではなく単なる幸せ自慢だ──そう思うのは私が独身だからでも、彼氏がいないからでも、試験勉強に疲れているからでも、荒んだ生活を送っているからでもない。
広岡の旦那である椎名さんに恋していたからだ。
大学卒業後、私はとある玩具メーカーに就職した。そこで私の直属の上司だったのが椎名さん。
仕事ができるのはもちろんのこと、長身で均整のとれた体格、切れ長の目に鼻筋の通ったクールな顔立ちというエース的な存在で、多くの女性社員の胸をときめかせていた。
新人研修を終え、椎名さんの部署に配属されたときは、同期の女の子達から「代わって」とか「ずるい」とか散々言われた。
そんな彼女達を「仕事なんだから」と宥めつつ、その当時彼氏を別れたばかりだった私は、思いっきり浮かれていた。あの別れはこの為だったのね──なーんて思っちゃうくらい。
けれど、そんな浮かれた気分は早々に砕け散ることになる。
椎名さんはエース的存在として有名だったけど、一部の人からは“鬼の椎名”と恐れられる程、仕事に厳しいことでも有名だった。
そして、その厳しさは、新入社員だった私にも容赦なく向けられ──
「何回、同じことを言わせる気だ?」
「言われたことだけやってるから、こんな結果になるんだろ!」
何度も何度も怒られ、しかも言われていることは正論……。怒られる度に自分のダメさ加減を思い知らされ、心が折れそうになった。一体、何回トイレで涙を零したことやら。
そんな私が椎名さんにときめけるわけがなく、私は椎名さんを目にする度に縮み上がるような毎日を過ごしていた。
それが変わったのは、初めて褒められた時だった。
「よくやった」と言いながら、一瞬だけ見えた優しい笑顔。
その顔、もっと見たい──我ながら単純だと思うけど、その一心で私はそれまで以上に仕事に精を出すようになった。
椎名さんは相変わらず怖かったし怒られもしたけど、その先にある笑顔を思えばぶつかっていけるようになった。
椎名さんに少しでも追いつきたくて、休日にビジネス書を読み漁ったり、周囲の先輩達から学ぼうと観察しまくったり……自分にできることは何でもやった。
その努力は間違っていなかったらしい。
私は少しずつ仕事のコツをつかんでいった。それと同時に怒られる回数が減り、代わりに椎名さんの笑顔を見る回数が増えていった。
そして気づいた。
椎名さんは厳しいけれど、それ以上に自分に厳しい。だけど、その厳しさを誰にでも向けているわけではない。椎名さんが厳しさを見せるのは、信頼している人間や成長する人間に対してだけ。そうじゃない人間には淡々と接する。厳しく接する相手に対しては、できるようになるまで待つし、フォローだって欠かさない。
椎名さんの厳しさの裏にあるものを知っていくうちに、私は椎名さんに恋心を抱くようになった。
けれど、その想いを告げることはできなかった。
椎名さんには愛してやまない人がいた。
それは亡くなった奥さん。
告白されても、上司からお見合い話を勧められても、奥さんへの想いを理由に断っていた。
椎名さんは奥さんのことをあまり口にしなかったけど、左手に光る指輪を大切にしている姿を間近で見ていたら、自分の気持ちが入り込む隙なんてないと悲しいくらいにわかった。悔しいけどそんなところも好きだった。
振られるとわかっているのに、「好きです」なんて言えなかった。
部下だったからご褒美としてご飯を奢ってもらったり、飲みにも連れて行ってもらえたのだ。告白なんてしたら、上司と部下という関係の中で築いていたものが変わってしまう。椎名さんが変わらずに接してくれたとしても、私にはそれまでの自分でいられる自信なんてなかった。
椎名さんと築いてきたものを失いたくない。その一心で私は自分の気持ちを押し殺すことにした。
恋人にはなれないけど、その代わり一番の部下になろうと必死に働いていたら、いつの間にか“忠犬ツグ公”なんて可愛いげのないアダ名を付けられてしまった。それも今となってはいい思い出だ。
怖くて切ない三年間だったけど、あの日々があったから今の職場で難なく業務をこなせている。だから私が通って来た道は決して無駄ではない。
椎名さんのことを好きだった人は、告白してきっぱりと自分の気持ちに終止符を打つか、私のように想いを伝えないかのどちらかだった。ただ、一人を除いて……。
広岡も椎名さんに告白して断られた一人だった。
でも、広岡は一回では諦めなかった。何度も何度も自分の想いを伝えていた。迷惑そうにされても、冷たくあしらわれても、怒られても……。
そんな粘り強さに惹かれたのか、初めは迷惑そうだった椎名さんは少しずつ表情を和らげるようになり、最終的に広岡の気持ちを受け入れた。
私は広岡の想いが成就していくのを眺めることしかできなかった。「よかったね」と笑顔で言いつつ、心の中でたくさん泣いた。
恋人同士になっていく二人を見ているのは、とても切なかった。
名前を呼び捨てにする広岡の声、広岡だけに見せる椎名さんの甘い表情、その一つ一つが私の胸に傷をつけていった。だけど、それは部下という立場を言い訳にして想いを伝えるというアクションを起こさなかった私のせいだ。
広岡が嫌な女だったら……と何度思っただろう。
そうだったら、椎名さんへの恋心も「女の趣味悪っ」とあっさり消え失せたのに。でも広岡はいい奴だ。今日だって二十七歳になったばかりの私の誕生日祝いだと奢ってくれている。
それに尊敬できる奴だ。編集者になるという目標を持ちながらも、決して仕事の手は抜かなかった。働きながら出版社の採用試験を受けるのは、体力的にも精神的にもきつかったはずだ。目の下に濃いクマを作りながらも、「好き好んでしている無理は無理じゃないんだよ」と笑顔で話す姿は本当にかっこよかった。
そうして二年前、凄まじい倍率をくぐり抜け、広岡は念願の編集者へ転職した。一方、私は仕事に対する意識が変わったことで、一度は諦めた公認会計士試験に再度挑戦しようと決め、試験と勉強を両立させるために会社を辞め、今は残業がほとんど無い会社で派遣社員をしている。……試験には目下二連敗中だけど。
広岡と椎名さんは去年の夏に結婚した。
二人の結婚式は切なかったけど、きちんと祝福できたから椎名さんのことはそのうち吹っ切れるだろうと思っていた。だけど忘れかけた頃に、広岡から結婚生活のグチやのろけ話を聞かされ、その度に私の胸の古傷がチクチク痛んだ。
胸が痛まなくなったのは最近。
今の職場で気になる人ができたから。
「ねえ、柏原。聞いてる?」
広岡の話題は椎名さんのことから、赤ちゃんの話に変わっていた。
「うん、聞いてるよ。赤ちゃんが欲しいって話でしょ? でもまだ結婚して一年経ってないんだし、そんなに焦らなくてもいいんじゃないの?」
「でも、仕事のことを考えると、早く産んでおきたいし」
それなのに彼がね、とまた椎名さんの話になりそうだったから、バレンタインのチョコはどうするの? と話題を変えた。すると、広岡は嬉しそうに選んだチョコについて語り始めた。
何だかんだ言いつつ、愛しているし愛されていて……幸せなんだな。
「そういえば、そっちはどうなの?」
「え? 私」
予想していなかった広岡の問いかけに戸惑う。
「気になる人がいるって言ってたじゃない。チョコあげるの?」
「え? あげないよ。今は勉強でそれどころじゃないし。大体、バレンタインなんて広岡に言われるまで忘れてたよ」
「えーダメじゃん。勉強だけだと疲れちゃうよ。もっと欲張りなよ」
広岡の言葉がぐさりと胸に刺さる。
そうね、確かにあなたは欲張りね。でも、皆が皆あなたみたいに図々しくできてないのよ──喉元まで出かかった言葉を飲み込み、「そうだね。頑張る」と曖昧に返事をした。
「もうダメ」
自分の部屋に入るなり、どさりとベッドに倒れこむ。
しまった。完全に飲み過ぎた。
程々の量に抑えて、勉強する気力は残しておこうと心に決めていたはずなのに。
いや、案外大丈夫だったりするかもよ? と問題集を開いてみた。
「えっと、続きはここからだから──」
……ダメだ。問題文がさっぱり頭に入らないし、文字を追う気にもなれない。
情けない……でも、飲まなきゃやっていられなかった。
広岡は私が椎名さんを好きだったって知らないから仕方ないけど、好きだった相手のグチを聞くのはキツい。
広岡と話していると刺激を受けて、頑張ろうって気持ちになるのに最近は疲れる。多分、大切にしているものの順番が変わって、見ている世界が変わったからだ。前は仕事について熱く語っていたのに、最近は旦那や赤ちゃんのことばかり。
やりたい仕事をして好きな人と結婚するのは、広岡にとって当たり前のこと。それがどんなに奇跡的で恵まれているかなんて広岡にはわからない。だから、可愛い子供ができるのも当たり前。
──子供なんてできなければいいのに。
広岡を見ていると、時々そんな醜い思いに駆られる。思い通りにならないこともあるって思い知ればいいって。
……やめやめ、こんなことを考えるのは、自分の頭に隙がある証拠だ。こんなことにスペースを割くくらいなら、勉強に使え──とは言うものの時々、愚痴りたくもなる。
神様の意地悪って。
同じくらいの努力で仕事と恋愛を両方手に入れる人間もいれば、どっちもダメな人間がいる。
せめてどっちか一つ位、くれたらいいのに。
一つでいいからくれませんか? 神様。
私だったらその一つをもっと大切にするし、不満なんて絶対口にしない。
そんなことを考えているうちに意識が朦朧としてきた。
「神様のバーカ」
薄れていく意識の中、小さく呟いた。
神様は地獄耳だ。
そして超短気だ。
だから、私にあんな仕打ちをしたのだ。
これから自分の身に起こることなんて、この時の私は知る由もなく、熟睡していた。
時々、耳にする言葉だけど、この台詞を呟くのは大抵、“幸せじゃない”人間だと思う。
幸せじゃないからその無神経さを敏感に感じ取っちゃって、いちいち傷ついたり、ムカついたり──心を波立たせてしまうのだ。
もちろん、幸せな人間に悪気がないってことはわかっている。
気持ちがふわーっと舞い上がっちゃって、他人の痛みに鈍感になっているだけだって事も。そして……それがとてもとても厄介だということも。
何でそんなことがわかるのかって?
答えは簡単。
私、柏原つぐみが幸せじゃない人間そのものだからだ。
「でね、彼ってば最近、忙しいみたいでさぁ。毎日終電帰りだし、土日も会社だし……すれ違ってばっかり。あーあ、今度の土曜は結婚して初めてのバレンタインデーなのにー。あの仕事バカめ」
恨めしげにぼやいた後、広岡はビールを一気に喉に流し込んだ。喉がゴクゴクと嬉しそうに動いているのがわかる。あっという間にジョッキを空にした後、それをテーブルの隅にやり店員さんを捕まえ、追加のビールを注文している。
その姿を眺めつつ、私は小さくため息をついた。
「仕方ないんじゃない? 椎名さんの部署って、この時期特に忙しいし。広岡だって色々忙しいんでしょ? お互い様じゃん」
「私は時間作ろうと頑張ってるもん。それなのに……ああ、思い出したらムカついてきた。大体、忙しいくせにさ──」
あ、やばい……地雷踏んじゃった? と思った時には既に遅し、広岡の口から旦那の不満が次から次へと出てくる。
ベッドで寝ないでソファーで熟睡するとか、アイスを大人買いするから冷凍庫に物が入らないとか……何でそんなことで怒れるんだろう? 私にはさっぱりわからない。
あの鬼上司が冷凍庫一杯にするくらいアイスを買うなんて、可愛らしくて微笑ましい光景じゃないか……もっとも、そんなことを言うと面倒なのでとりあえず聞き流すことにする。
適当に相づちを打ちつつ、広岡に負けじとジョッキに口をつけた。
……なるほど、コクがあって深い味。それに喉越しもなめらかで確かに美味しい。でも、今日のビールはおいしくない。
広岡倫香は前の会社の同期。
今は出版社で編集の仕事をしている。結婚して椎名になったけど、昔の名残で今も広岡と呼んでいる。
出版社の編集と言えば人気のある仕事だけど、その一方で激務だと聞く。ご多分に漏れず広岡も毎日忙しい日々を送っている。だけど、今週は珍しく時間を取れたようで、美味しいビールを飲める店を見つけたけど行かない? と誘ってくれた。
美味しいビールという甘い誘惑に「たまには息抜きも必要」とのってみたら、席に着くなり旦那のグチが始まり今に至る。
でも、これはグチではなく単なる幸せ自慢だ──そう思うのは私が独身だからでも、彼氏がいないからでも、試験勉強に疲れているからでも、荒んだ生活を送っているからでもない。
広岡の旦那である椎名さんに恋していたからだ。
大学卒業後、私はとある玩具メーカーに就職した。そこで私の直属の上司だったのが椎名さん。
仕事ができるのはもちろんのこと、長身で均整のとれた体格、切れ長の目に鼻筋の通ったクールな顔立ちというエース的な存在で、多くの女性社員の胸をときめかせていた。
新人研修を終え、椎名さんの部署に配属されたときは、同期の女の子達から「代わって」とか「ずるい」とか散々言われた。
そんな彼女達を「仕事なんだから」と宥めつつ、その当時彼氏を別れたばかりだった私は、思いっきり浮かれていた。あの別れはこの為だったのね──なーんて思っちゃうくらい。
けれど、そんな浮かれた気分は早々に砕け散ることになる。
椎名さんはエース的存在として有名だったけど、一部の人からは“鬼の椎名”と恐れられる程、仕事に厳しいことでも有名だった。
そして、その厳しさは、新入社員だった私にも容赦なく向けられ──
「何回、同じことを言わせる気だ?」
「言われたことだけやってるから、こんな結果になるんだろ!」
何度も何度も怒られ、しかも言われていることは正論……。怒られる度に自分のダメさ加減を思い知らされ、心が折れそうになった。一体、何回トイレで涙を零したことやら。
そんな私が椎名さんにときめけるわけがなく、私は椎名さんを目にする度に縮み上がるような毎日を過ごしていた。
それが変わったのは、初めて褒められた時だった。
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その顔、もっと見たい──我ながら単純だと思うけど、その一心で私はそれまで以上に仕事に精を出すようになった。
椎名さんは相変わらず怖かったし怒られもしたけど、その先にある笑顔を思えばぶつかっていけるようになった。
椎名さんに少しでも追いつきたくて、休日にビジネス書を読み漁ったり、周囲の先輩達から学ぼうと観察しまくったり……自分にできることは何でもやった。
その努力は間違っていなかったらしい。
私は少しずつ仕事のコツをつかんでいった。それと同時に怒られる回数が減り、代わりに椎名さんの笑顔を見る回数が増えていった。
そして気づいた。
椎名さんは厳しいけれど、それ以上に自分に厳しい。だけど、その厳しさを誰にでも向けているわけではない。椎名さんが厳しさを見せるのは、信頼している人間や成長する人間に対してだけ。そうじゃない人間には淡々と接する。厳しく接する相手に対しては、できるようになるまで待つし、フォローだって欠かさない。
椎名さんの厳しさの裏にあるものを知っていくうちに、私は椎名さんに恋心を抱くようになった。
けれど、その想いを告げることはできなかった。
椎名さんには愛してやまない人がいた。
それは亡くなった奥さん。
告白されても、上司からお見合い話を勧められても、奥さんへの想いを理由に断っていた。
椎名さんは奥さんのことをあまり口にしなかったけど、左手に光る指輪を大切にしている姿を間近で見ていたら、自分の気持ちが入り込む隙なんてないと悲しいくらいにわかった。悔しいけどそんなところも好きだった。
振られるとわかっているのに、「好きです」なんて言えなかった。
部下だったからご褒美としてご飯を奢ってもらったり、飲みにも連れて行ってもらえたのだ。告白なんてしたら、上司と部下という関係の中で築いていたものが変わってしまう。椎名さんが変わらずに接してくれたとしても、私にはそれまでの自分でいられる自信なんてなかった。
椎名さんと築いてきたものを失いたくない。その一心で私は自分の気持ちを押し殺すことにした。
恋人にはなれないけど、その代わり一番の部下になろうと必死に働いていたら、いつの間にか“忠犬ツグ公”なんて可愛いげのないアダ名を付けられてしまった。それも今となってはいい思い出だ。
怖くて切ない三年間だったけど、あの日々があったから今の職場で難なく業務をこなせている。だから私が通って来た道は決して無駄ではない。
椎名さんのことを好きだった人は、告白してきっぱりと自分の気持ちに終止符を打つか、私のように想いを伝えないかのどちらかだった。ただ、一人を除いて……。
広岡も椎名さんに告白して断られた一人だった。
でも、広岡は一回では諦めなかった。何度も何度も自分の想いを伝えていた。迷惑そうにされても、冷たくあしらわれても、怒られても……。
そんな粘り強さに惹かれたのか、初めは迷惑そうだった椎名さんは少しずつ表情を和らげるようになり、最終的に広岡の気持ちを受け入れた。
私は広岡の想いが成就していくのを眺めることしかできなかった。「よかったね」と笑顔で言いつつ、心の中でたくさん泣いた。
恋人同士になっていく二人を見ているのは、とても切なかった。
名前を呼び捨てにする広岡の声、広岡だけに見せる椎名さんの甘い表情、その一つ一つが私の胸に傷をつけていった。だけど、それは部下という立場を言い訳にして想いを伝えるというアクションを起こさなかった私のせいだ。
広岡が嫌な女だったら……と何度思っただろう。
そうだったら、椎名さんへの恋心も「女の趣味悪っ」とあっさり消え失せたのに。でも広岡はいい奴だ。今日だって二十七歳になったばかりの私の誕生日祝いだと奢ってくれている。
それに尊敬できる奴だ。編集者になるという目標を持ちながらも、決して仕事の手は抜かなかった。働きながら出版社の採用試験を受けるのは、体力的にも精神的にもきつかったはずだ。目の下に濃いクマを作りながらも、「好き好んでしている無理は無理じゃないんだよ」と笑顔で話す姿は本当にかっこよかった。
そうして二年前、凄まじい倍率をくぐり抜け、広岡は念願の編集者へ転職した。一方、私は仕事に対する意識が変わったことで、一度は諦めた公認会計士試験に再度挑戦しようと決め、試験と勉強を両立させるために会社を辞め、今は残業がほとんど無い会社で派遣社員をしている。……試験には目下二連敗中だけど。
広岡と椎名さんは去年の夏に結婚した。
二人の結婚式は切なかったけど、きちんと祝福できたから椎名さんのことはそのうち吹っ切れるだろうと思っていた。だけど忘れかけた頃に、広岡から結婚生活のグチやのろけ話を聞かされ、その度に私の胸の古傷がチクチク痛んだ。
胸が痛まなくなったのは最近。
今の職場で気になる人ができたから。
「ねえ、柏原。聞いてる?」
広岡の話題は椎名さんのことから、赤ちゃんの話に変わっていた。
「うん、聞いてるよ。赤ちゃんが欲しいって話でしょ? でもまだ結婚して一年経ってないんだし、そんなに焦らなくてもいいんじゃないの?」
「でも、仕事のことを考えると、早く産んでおきたいし」
それなのに彼がね、とまた椎名さんの話になりそうだったから、バレンタインのチョコはどうするの? と話題を変えた。すると、広岡は嬉しそうに選んだチョコについて語り始めた。
何だかんだ言いつつ、愛しているし愛されていて……幸せなんだな。
「そういえば、そっちはどうなの?」
「え? 私」
予想していなかった広岡の問いかけに戸惑う。
「気になる人がいるって言ってたじゃない。チョコあげるの?」
「え? あげないよ。今は勉強でそれどころじゃないし。大体、バレンタインなんて広岡に言われるまで忘れてたよ」
「えーダメじゃん。勉強だけだと疲れちゃうよ。もっと欲張りなよ」
広岡の言葉がぐさりと胸に刺さる。
そうね、確かにあなたは欲張りね。でも、皆が皆あなたみたいに図々しくできてないのよ──喉元まで出かかった言葉を飲み込み、「そうだね。頑張る」と曖昧に返事をした。
「もうダメ」
自分の部屋に入るなり、どさりとベッドに倒れこむ。
しまった。完全に飲み過ぎた。
程々の量に抑えて、勉強する気力は残しておこうと心に決めていたはずなのに。
いや、案外大丈夫だったりするかもよ? と問題集を開いてみた。
「えっと、続きはここからだから──」
……ダメだ。問題文がさっぱり頭に入らないし、文字を追う気にもなれない。
情けない……でも、飲まなきゃやっていられなかった。
広岡は私が椎名さんを好きだったって知らないから仕方ないけど、好きだった相手のグチを聞くのはキツい。
広岡と話していると刺激を受けて、頑張ろうって気持ちになるのに最近は疲れる。多分、大切にしているものの順番が変わって、見ている世界が変わったからだ。前は仕事について熱く語っていたのに、最近は旦那や赤ちゃんのことばかり。
やりたい仕事をして好きな人と結婚するのは、広岡にとって当たり前のこと。それがどんなに奇跡的で恵まれているかなんて広岡にはわからない。だから、可愛い子供ができるのも当たり前。
──子供なんてできなければいいのに。
広岡を見ていると、時々そんな醜い思いに駆られる。思い通りにならないこともあるって思い知ればいいって。
……やめやめ、こんなことを考えるのは、自分の頭に隙がある証拠だ。こんなことにスペースを割くくらいなら、勉強に使え──とは言うものの時々、愚痴りたくもなる。
神様の意地悪って。
同じくらいの努力で仕事と恋愛を両方手に入れる人間もいれば、どっちもダメな人間がいる。
せめてどっちか一つ位、くれたらいいのに。
一つでいいからくれませんか? 神様。
私だったらその一つをもっと大切にするし、不満なんて絶対口にしない。
そんなことを考えているうちに意識が朦朧としてきた。
「神様のバーカ」
薄れていく意識の中、小さく呟いた。
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