迷子のネムリヒメ

燕尾

文字の大きさ
4 / 60

第4話

しおりを挟む
 何だろう……体がふわふわしているようなこの感じ。
 瞼の裏に映る景色は真っ黒で何も見えない。けれど、手がぽかぽかと温かかったり、ペチペチと頬を弱々しく叩かれたり、表現しようのない不思議なものに包まれている気分。でもどこか心地いい。
 もう少しだけこのままで──と思うけど、これだけ考えたりしているということは、そろそろ起きる時間ですよということ。もうちょっとでアラームが鳴るはず。 
 短い時間だったけど、深く眠った気がする。疲れもいい感じにとれている。二日酔いやら失恋やらで、重かった頭もどこかすっきりとしている。けれど、肌がヒリヒリしているのは何故?
 長いすでかぶれたとか? でも、二十分で肌が痛くなるほどかぶれるのはおかしい。じゃあ……何時間も寝ていたとか? いや、私に限ってそれはない。今日の朝だって二日酔いのくせにきっちり起きたし……とはいうもののセットしていたアラームが鳴る気配がない。起きる時間を意識して寝たはずだし……まさか、アラームを止めて二度寝? 信じたくないけど、今日の私のテンションならやりかねないかも。
 十三時から新しい上司との顔合わせなのに、二度寝で遅刻……。

「やばい!」

 自分の状況のまずさを悟ると同時に、飛び起きた。

「っ……」

 叫んじゃって恥ずかしいとか誰かに見られたらどうしよう、とか思ったのは一瞬。

「何? これ?」

 私の目に映るのは真っ白な空間。
 一体、何が起きているの?
 そう思った途端、頭がクラクラしてきた。せっかく起きたのに、私の体は再び寝転んでしまう。
 落ち着け。急に起きたから変なものが見えただけだ。一回、瞳を閉じて大きく息を吸って吐く。大丈夫、気のせいだから──自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと瞳を開いた。
 落ち着いて見た景色は、さっきほど真っ白ではなかった。けれど、明らかにおかしい。
 ここはさっきまで私がいた休憩室ではない。訝しげに思いながら、あたりを見回してみる。
 休憩室より狭くて、私の部屋よりかは広い。
 白くて無機質な天井に微かに香る消毒液の匂い。
 見覚えのないパジャマっぽいものを着て、ベッドの上にいる自分の体──って知らない間に着替えた挙句、ベッドの上って軽くホラーなんですけど。
 ここはどこ? 休憩室じゃないのは確かだから医務室か。でもこの会社に医務室があるなんて聞いたことがない。医務室だったとしても着替える必要はないはず──ということは病室、つまりここは病院?
 消去法で自分がいる場所を探り当ててみるけど、どうして私がこんなところにいるのかが、さっぱりわからない。
 どうすればいい?
 会社に戻りたいけど、こんな恰好で外には出られないし。どうしたものかと迷っていたら、ガラガラと扉が開く音がすると同時に聞きなれた声が聞こえた。

「つぐみ!」

 南ちゃんだ。

「つぐみ! 気がついたのね? よかったー」

 わけがわからない状況で知っている顔を見てほっとしたのもつかの間、南ちゃんを見た途端、私の頭の中に次々と疑問符が浮かんできた。
 ここにいてくれることは嬉しい。でも、用事は大丈夫なの? 
 グレーのスーツを着てたよね? なのにどうして、水色のカットソーにジーパン姿なの? オフィスカジュアルの域、超えちゃってるよ。
 それに……その腕の中の存在は? 
 赤ちゃんだってことくらいわかる。でも、なんで南ちゃんが抱いてるわけ? 南ちゃんは独身でしょ?
 聞きたいのに、聞いてはいけない気がして何も言えない。
 私の目の前にいるのは、確かに南ちゃんだ。でも私の知っている彼女じゃない。いつもはビシッとした空気を纏っているのに、今の南ちゃんはやわらかい感じがする。
 南ちゃんの顔をした他人? 南ちゃんを呆然と見つめていたら、勢いよくドアが開く音がした。誰かと思ったら、京都にいるはずの母。
 いつもは楽天的で、げらげら笑っているおばちゃんなのに、今にも泣きそうな顔をしている。

「やだ……なんでいるの?」

 素直に思ったことを口にしただけなのに、母は怒りながら信じられないことを言い出した。

「まったく、あんたって子は。心配で心臓止まるかと思ったでしょ。運動音痴のくせに、妊婦さんを庇って車に跳ねられるなんて……」

 ……は?
 何言っちゃってるのこの人?
 妊婦さんを庇って車に跳ねられる? 
 この私が?
 何のために?
 何の冗談?
 そんな覚えまったくありませんが?
 確かに今日の朝、電車で妊婦さんに席を譲ってその後の満員列車で押しつぶされ、死ぬとは思ったけど、車に跳ねられた覚えはない。
 会社の休憩室で眠っていただけの人間が、どうやって車に跳ねられることができるわけ? 超能力か何かで妊婦さんの危険を察知して駆けつけて跳ねられたとでもいうのか。超能力があるくせに、跳ねられるなんてどんな間抜けだよ。

「ほんとだよ。飛ばされた先が木の上だったから、かすり傷だけですんだけど。一時的に意識を失っているだけだって言われても、つぐみったらなかなか起きないし。でも、もう大丈夫だからね。看護師さんも呼んだし、谷崎さんもいるからね」

 南ちゃんまで何言っちゃってるの?
 二人の話の意味が全くわからないのですが。二人共、泣きそうな顔しちゃって、何だっていうのだ。
 仕方ない。こういう時は、わかることから考えよう。予備校の先生も、わからない問題は飛ばして、できるものから解けって言うし。
 わかること……看護師さんってことは、やっぱりここは病院ってことか。
 はい……次、谷崎さん。
 確か、来月異動する市場開発課の課長がそんな名前だったはず。そう言えば打ち合わせ……こんなところにいるって事はすっぽかしたってことだよね。
 なんで課長さんがわざわざ病院にと思うけど、契約終了の話とかするのかもね。
 会社には何の未練もないからどうでもいいけど。今から職探しかと思うと不安になる。本当に案件が少ないらしいし、理由が理由だし。もういっそのこと試験だけに集中しようかな? そうやって開き直って心を落ち着かせていると、静かにドアが開き青ざめた表情の男性が入ってきた。

 この人が谷崎課長か。
 確かに地味。それに……三十三歳にしては老けてない?
 これと言って印象に残らないというか。多分、市場開発課にお使いに行った時に顔ぐらいは目にしているんだろうけど、全く記憶に無い。好きでも嫌いでもなくて、どうでもいい感じ──って一体、何様だ。
 打ち合わせをすっぽかしたくせに、その相手を老けてるとか地味とかどうでもいいとか。失礼にも程がある。
 それにこの人怒ってるっぽい。常識的に考えても怒るよね。上司ならともかく、部下が打ち合わせをすっぽかすってあり得ないし。
 きちんと謝ろう。事情はわからないけど、打ち合わせに出られなかったのは事実なんだから。
 さっきの二の舞にならないよう、慎重に体を起こして谷崎課長の目を見て言った。
 
「打ち合わせに参加できず、誠に申し訳ありませんでした。せっかく、お時間を頂いていたのに。それにこのような場所にも来て頂いて、どのように、お詫び申し上げればいいのか……言葉もございません」

 自分に言える最大限の言葉で謝り頭を下げた。怒られようが罵られようが谷崎課長の反応を受け止めよう。恐る恐る頭を上げ、谷崎課長の方を見る。
 谷崎課長は怒るでも罵るでもなく、何も言わず私を見ている。
 何言っちゃってんの? こいつ──そうはっきりと顔に書いて。
 谷崎課長のリアクションに戸惑う私に追い打ちをかけるように、南ちゃんと母の顔にもそう書いてある。
 一体、どういうこと?
 何? この空気。
 さっきまでは噛み合わないなりに、時間が流れていた。それなのに今は一時停止ボタンを押したみたいだ。そのボタンを押したのは、私らしい。だからと言って、何とかしろと言われても困る。
 みんな私の方を見て黙っている。「きゃっきゃっ」と空気を読まずに笑っているのは、南ちゃんの腕に抱かれた赤ちゃんくらいだ。病室に大の大人が四人もいて、何も話さず赤ちゃんの声だけがするってシュールな光景。
 そんな時間が十分くらい続いた後、この空気を破るかのように、谷崎課長が口を開いた。

「つぐみ……どうした? 一体、何の話をしているんだ?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

フローライト

藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。 ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。 結婚するのか、それとも独身で過ごすのか? 「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」 そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。 写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。 「趣味はこうぶつ?」 釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった… ※他サイトにも掲載

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

王宮に薬を届けに行ったなら

佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。 カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。 この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。 慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。 弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。 「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」 驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。 「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」 ※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。内容も少し変更しておりますので、あわせてお楽しみください。

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

皇后陛下の御心のままに

アマイ
恋愛
皇后の侍女を勤める貧乏公爵令嬢のエレインは、ある日皇后より密命を受けた。 アルセン・アンドレ公爵を籠絡せよ――と。 幼い頃アルセンの心無い言葉で傷つけられたエレインは、この機会に過去の溜飲を下げられるのではと奮起し彼に近づいたのだが――

Pomegranate I

Uta Katagi
恋愛
 婚約者の彼が突然この世を去った。絶望のどん底にいた詩に届いた彼からの謎のメッセージ。クラウド上に残されたファイルのパスワードと貸金庫の暗証番号のミステリーを解いた後に、詩が手に入れたものは?世代を超えて永遠の愛を誓った彼が遺したこの世界の驚愕の真理とは?詩は本当に彼と再会できるのか?  古代から伝承されたこの世界の秘密が遂に解き明かされる。最新の量子力学という現代科学の視点で古代ミステリーを暴いた長編ラブロマンス。これはもはや、ファンタジーの域を越えた究極の愛の物語。恋愛に憧れ愛の本質に悩み戸惑う人々に真実の愛とは何かを伝える作者渾身の超大作。 *本作品は「小説家になろう」にも掲載しています。

処理中です...