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第31話
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七月になった。
夏季休暇の取得に関する案内が出たり、自動販売機のラインナップにさっぱり系のドリンクが加わったり、ビアガーデンのチラシが入っていたり、“冷やし中華はじめました”だったり……心躍る季節だ。
そして今日は一日の金曜日。技術営業支援課は月初はそんなに忙しくない。今日は定時で帰れるはず。会社帰りバーゲンに寄って、その後ラーメンと
餃子とビール……いい! これに決定。就業後に楽しみがあると、会社に向かう足取りも軽くなる。
「おはようございます」
いつもより弾んだ声だったからか、林田課長と姫島さんは一瞬戸惑った顔をした。何かあるのか? と思ったけれど、二人共いつも通りに挨拶を返してくれたので気にしないことにして仕事に取り掛かった。
あの日──病室のベッドの上で目覚めてから、もうすぐ三ヶ月経とうとしている。
肌に感じる空気が暖かくて、目に映る景色はピンクピンクしていたけど、私の頭の中は冬真っ盛りだった。
知らない間に私の前をいくつもの季節が通り過ぎていた。
私だけが時の流れに取り残されて……本当に迷子になった気分だった。
それがもう夏。
失望の中で始まった春はあっという間に過ぎて行った。三年分の記憶はないけど、今まで生きてきた中で最も濃い三ヶ月だった。
辛いこと。
恥ずかしいこと。
憤ったこと。
嬉しいこと。
ありがたかったこと。
色々な出来事が私の中に次々と降ってきた。そして、それは今も続いている。一つクリアしたらまた一つ……一体どこまで続くんだろう。
記憶が戻る気配は全くない。
自分がなっておきながらアレだけど、記憶喪失って謎だ。調べてみたけどよくわからなかった。
「ここは三年後であなたは記憶を失っています」と言われるより、童話の眠り姫みたいに「あなたは三年間眠っていました」と言われた方がまだしっくりくる。
だけど、私はちゃんと起きていて、たくさんの行動をしていた。でも、それは私だけど私じゃない。私は記憶を失ったことより、自分の知らない私の存在に戸惑っていたような気がする。
記憶喪失モノの小説やマンガ、ドラマには一通り目を通した。
フィクションなんだから……と思うけど、キスしたりエッチしても記憶は戻らないぞとヒーロー達には言いたい。現にキスしても私の記憶は戻らなかったし、あのまま流されていたとしても……戻らなかったと思う。
出てくる人達が失った記憶は私より多くて、五年とか十年とか……中には二十年とか。
みんな歳を取った自分の姿にガッカリしていた。
それに比べたら私の状況はマシ──なんて思わない。確かに私の方が期間は短いし、三十歳になったけど見かけは三年前の私よりキレイになっていた。でも、彼らの苦悩にはエンドマークがついている。私の場合は現在進行中だ。
相変わらず、実家から通勤して実家に戻る日々。
谷崎さんとは会っていない。会社で見かけることもなかった。
勤務しているフロアが違うからというのもあるけど、ここ最近の谷崎さんは出張続きで会社にいる時間がとても少なかった。ちなみに、今日は有給をとっている。
社内のイントラネットが全部教えてくれた。
会社のPCで夫のスケジュールを把握するのは私ぐらいだ、と自嘲するけど……こればっかりは仕方ない。
ちなみに近江さんにも会っていない。私というより彼女が私を避けているんだと思う。
私の前には、まだまだ宿題がたくさん転がっている。でも、前よりは後ろ向きじゃない。
それは、椎名さんと広岡と再会できたおかげだ。きれいじゃない感情や過去の気持ちと向き合うのは苦かったけど、向き合ってみたら意外にするりと消化できた。苦かった分、栄養になってるんだって思える。
私がちょっと前向きになれたのは、三年間の記憶が無くて今を生きているのも立派な経験だ──と広岡が言ってくれたことも大きい。それまでは、記憶喪失の自分をどこか後ろめたく思っていた。だけど、私は私なりに今の世界で頑張っている。その小さな自信が私の心の中にゆとりを作った。
それが原因かわからないけど、谷崎さんとの写真やDVDも前より抵抗なくじっくり眺められるようになった。
で、思い知った。
谷崎さんは谷崎つぐみさんを愛していて、谷崎つぐみさんは谷崎さんを愛している。
手帳に知らない男の人の名前を書いてたり、谷崎さんに隠れてピルを飲んでいたり、夫婦の匂いがしないと陰口を叩かれるくらいだから、仮面夫婦みたいなものだと思ってしまったけど全然違う。
写真に映る私が美味しいものを前に心から幸せそうな顔をしているのも、いつもは感情を表に出さない谷崎さんが笑っているのも、カメラを構える相手を信頼しきっているから。二人で映る写真だってそう、一緒にいて幸せって思える相手じゃないとあんな顔はできない。
職場で夫婦の匂いを醸し出さなかったのは、仕事に対する意識もあるだろうけど、恥ずかしかったんじゃないかなと思う。
ピルを飲んでいたのは多分、広岡の出産を待っていたからだと思う。けれど、もう少し二人でいたい……でも、谷崎さんに気を使わせたくない──みたいな気持ちもあったのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。
最近、谷崎さんのことをよく考える。
病室で初めて会った時。
青い顔して病室に入ってきた相手に対して、地味だの好みじゃないだの……勝手なことを心の中でたくさん言っていた。
一緒に暮らすことになった日、ガチガチに緊張していた私を大好物のシュークリームと大好きなお茶で迎えてくれた。
一緒に生活するようになって、記憶絡みのことは避けていたけどたわいのない話をたくさんした。
会社帰りに夕飯をご馳走してくれたこともあった。一緒に行った買い物で当たり前のように重い荷物を持ってくれたり、自然に車道側を歩いてくれた。私にとって久しぶりの女性扱いは、どこかくすぐったくて……嬉しかった。
ロマンチックな展開や記憶が戻るという奇跡は起きなかったけど、こうした日々の小さな出来事──ちょっと嬉しかった、ちょっと楽しかったを積み重ねて行くことの方が私には大事だった。
そして……唇を重ねた夜。
上司でも同居人でもない、男の人の顔をした谷崎さん。いつもと違う表情や纏う空気の艶っぽさが怖くて、逃げ出そうとしたけどその腕は私を力強く捉えて離さなかった。
重ねた唇の熱さ、私の体に触れた手の温かさ、記憶が戻らない私でも愛していると言ってくれた優しい声。直に触れた谷崎さんの私への想いはとても熱いものだった。
あの日の私は全然余裕がなかったから、谷崎さんを受け止めきれなかった。いや、あの日だけじゃない。私はずっと谷崎さんのことを見ていなかった。穏やかで冷静な人と勝手にラベリングして、谷崎さんの中にある激しさや熱情に気づかなかった。
そろそろ答えを出さないといけない。谷崎さんとのこと。
谷崎さんの所へ戻るのか、離婚するのか。
谷崎さんは私のことを充分過ぎるくらい想ってくれている。私だって谷崎さんはいい人だと思う。
だったら戻ればいい──というとそれは違う。今の私のままで谷崎さんのそばには行きたくない。
上手く説明できないけど、今の私じゃ足りない。谷崎さんと同じだけの想いを私は持っていない。もらった分と同じだけの気持ちを返したい。
だけど、今の私は同じだけの気持ちなんて持っていない。時が経てば湧いてくるものなのか、ずっとこのままなのか、まだ見極めきれていない。
今の私でいいと谷崎さんは言ってくれたけど、それだと谷崎さんが幸せになれない。それだけは絶対に嫌だ。あの人は幸せになるべき人なんだから。
私の問題は片付かないけど、仕事はサクサク進む。定時までまだ三時間以上あるのに、今日やるべきことは全部終わってしまった。
どうしようかな……一人考えていたら、課の書類棚が目に入った。上段の方は割りと整理されているけど、下段になるほどぐちゃぐちゃだ。これは三年前から同じ。だけど、その時よりはぐちゃぐちゃなスペースが減っている。そう言えば、時間がある時にちょっとずつ谷崎つぐみさんが整理してたんだっけ?
じゃあ、私もやってみようかな──そう思い立ち上がったら、私の席の電話機が鳴った。立ったまま受話器を取ると、受話器から意外な人物の声が聴こえた。
内線電話の相手は姫島さんだった。
夏季休暇の取得に関する案内が出たり、自動販売機のラインナップにさっぱり系のドリンクが加わったり、ビアガーデンのチラシが入っていたり、“冷やし中華はじめました”だったり……心躍る季節だ。
そして今日は一日の金曜日。技術営業支援課は月初はそんなに忙しくない。今日は定時で帰れるはず。会社帰りバーゲンに寄って、その後ラーメンと
餃子とビール……いい! これに決定。就業後に楽しみがあると、会社に向かう足取りも軽くなる。
「おはようございます」
いつもより弾んだ声だったからか、林田課長と姫島さんは一瞬戸惑った顔をした。何かあるのか? と思ったけれど、二人共いつも通りに挨拶を返してくれたので気にしないことにして仕事に取り掛かった。
あの日──病室のベッドの上で目覚めてから、もうすぐ三ヶ月経とうとしている。
肌に感じる空気が暖かくて、目に映る景色はピンクピンクしていたけど、私の頭の中は冬真っ盛りだった。
知らない間に私の前をいくつもの季節が通り過ぎていた。
私だけが時の流れに取り残されて……本当に迷子になった気分だった。
それがもう夏。
失望の中で始まった春はあっという間に過ぎて行った。三年分の記憶はないけど、今まで生きてきた中で最も濃い三ヶ月だった。
辛いこと。
恥ずかしいこと。
憤ったこと。
嬉しいこと。
ありがたかったこと。
色々な出来事が私の中に次々と降ってきた。そして、それは今も続いている。一つクリアしたらまた一つ……一体どこまで続くんだろう。
記憶が戻る気配は全くない。
自分がなっておきながらアレだけど、記憶喪失って謎だ。調べてみたけどよくわからなかった。
「ここは三年後であなたは記憶を失っています」と言われるより、童話の眠り姫みたいに「あなたは三年間眠っていました」と言われた方がまだしっくりくる。
だけど、私はちゃんと起きていて、たくさんの行動をしていた。でも、それは私だけど私じゃない。私は記憶を失ったことより、自分の知らない私の存在に戸惑っていたような気がする。
記憶喪失モノの小説やマンガ、ドラマには一通り目を通した。
フィクションなんだから……と思うけど、キスしたりエッチしても記憶は戻らないぞとヒーロー達には言いたい。現にキスしても私の記憶は戻らなかったし、あのまま流されていたとしても……戻らなかったと思う。
出てくる人達が失った記憶は私より多くて、五年とか十年とか……中には二十年とか。
みんな歳を取った自分の姿にガッカリしていた。
それに比べたら私の状況はマシ──なんて思わない。確かに私の方が期間は短いし、三十歳になったけど見かけは三年前の私よりキレイになっていた。でも、彼らの苦悩にはエンドマークがついている。私の場合は現在進行中だ。
相変わらず、実家から通勤して実家に戻る日々。
谷崎さんとは会っていない。会社で見かけることもなかった。
勤務しているフロアが違うからというのもあるけど、ここ最近の谷崎さんは出張続きで会社にいる時間がとても少なかった。ちなみに、今日は有給をとっている。
社内のイントラネットが全部教えてくれた。
会社のPCで夫のスケジュールを把握するのは私ぐらいだ、と自嘲するけど……こればっかりは仕方ない。
ちなみに近江さんにも会っていない。私というより彼女が私を避けているんだと思う。
私の前には、まだまだ宿題がたくさん転がっている。でも、前よりは後ろ向きじゃない。
それは、椎名さんと広岡と再会できたおかげだ。きれいじゃない感情や過去の気持ちと向き合うのは苦かったけど、向き合ってみたら意外にするりと消化できた。苦かった分、栄養になってるんだって思える。
私がちょっと前向きになれたのは、三年間の記憶が無くて今を生きているのも立派な経験だ──と広岡が言ってくれたことも大きい。それまでは、記憶喪失の自分をどこか後ろめたく思っていた。だけど、私は私なりに今の世界で頑張っている。その小さな自信が私の心の中にゆとりを作った。
それが原因かわからないけど、谷崎さんとの写真やDVDも前より抵抗なくじっくり眺められるようになった。
で、思い知った。
谷崎さんは谷崎つぐみさんを愛していて、谷崎つぐみさんは谷崎さんを愛している。
手帳に知らない男の人の名前を書いてたり、谷崎さんに隠れてピルを飲んでいたり、夫婦の匂いがしないと陰口を叩かれるくらいだから、仮面夫婦みたいなものだと思ってしまったけど全然違う。
写真に映る私が美味しいものを前に心から幸せそうな顔をしているのも、いつもは感情を表に出さない谷崎さんが笑っているのも、カメラを構える相手を信頼しきっているから。二人で映る写真だってそう、一緒にいて幸せって思える相手じゃないとあんな顔はできない。
職場で夫婦の匂いを醸し出さなかったのは、仕事に対する意識もあるだろうけど、恥ずかしかったんじゃないかなと思う。
ピルを飲んでいたのは多分、広岡の出産を待っていたからだと思う。けれど、もう少し二人でいたい……でも、谷崎さんに気を使わせたくない──みたいな気持ちもあったのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。
最近、谷崎さんのことをよく考える。
病室で初めて会った時。
青い顔して病室に入ってきた相手に対して、地味だの好みじゃないだの……勝手なことを心の中でたくさん言っていた。
一緒に暮らすことになった日、ガチガチに緊張していた私を大好物のシュークリームと大好きなお茶で迎えてくれた。
一緒に生活するようになって、記憶絡みのことは避けていたけどたわいのない話をたくさんした。
会社帰りに夕飯をご馳走してくれたこともあった。一緒に行った買い物で当たり前のように重い荷物を持ってくれたり、自然に車道側を歩いてくれた。私にとって久しぶりの女性扱いは、どこかくすぐったくて……嬉しかった。
ロマンチックな展開や記憶が戻るという奇跡は起きなかったけど、こうした日々の小さな出来事──ちょっと嬉しかった、ちょっと楽しかったを積み重ねて行くことの方が私には大事だった。
そして……唇を重ねた夜。
上司でも同居人でもない、男の人の顔をした谷崎さん。いつもと違う表情や纏う空気の艶っぽさが怖くて、逃げ出そうとしたけどその腕は私を力強く捉えて離さなかった。
重ねた唇の熱さ、私の体に触れた手の温かさ、記憶が戻らない私でも愛していると言ってくれた優しい声。直に触れた谷崎さんの私への想いはとても熱いものだった。
あの日の私は全然余裕がなかったから、谷崎さんを受け止めきれなかった。いや、あの日だけじゃない。私はずっと谷崎さんのことを見ていなかった。穏やかで冷静な人と勝手にラベリングして、谷崎さんの中にある激しさや熱情に気づかなかった。
そろそろ答えを出さないといけない。谷崎さんとのこと。
谷崎さんの所へ戻るのか、離婚するのか。
谷崎さんは私のことを充分過ぎるくらい想ってくれている。私だって谷崎さんはいい人だと思う。
だったら戻ればいい──というとそれは違う。今の私のままで谷崎さんのそばには行きたくない。
上手く説明できないけど、今の私じゃ足りない。谷崎さんと同じだけの想いを私は持っていない。もらった分と同じだけの気持ちを返したい。
だけど、今の私は同じだけの気持ちなんて持っていない。時が経てば湧いてくるものなのか、ずっとこのままなのか、まだ見極めきれていない。
今の私でいいと谷崎さんは言ってくれたけど、それだと谷崎さんが幸せになれない。それだけは絶対に嫌だ。あの人は幸せになるべき人なんだから。
私の問題は片付かないけど、仕事はサクサク進む。定時までまだ三時間以上あるのに、今日やるべきことは全部終わってしまった。
どうしようかな……一人考えていたら、課の書類棚が目に入った。上段の方は割りと整理されているけど、下段になるほどぐちゃぐちゃだ。これは三年前から同じ。だけど、その時よりはぐちゃぐちゃなスペースが減っている。そう言えば、時間がある時にちょっとずつ谷崎つぐみさんが整理してたんだっけ?
じゃあ、私もやってみようかな──そう思い立ち上がったら、私の席の電話機が鳴った。立ったまま受話器を取ると、受話器から意外な人物の声が聴こえた。
内線電話の相手は姫島さんだった。
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