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第32話
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「柏原さん……助けてください」
受話器越しに聴こえた声は震えていた。
私になんか連絡したくないはずなのに、こうしてかけてくるとは……ただごとじゃない。「ちょっと待ってて」と電話を切り、林田課長に許可をもらって市場開発課に向かった。
市場開発課には近江さんしかいなかった。他の人達は外出しているようだ。どうしたのと近江さんに尋ねたら、仕事用に使っているデータベースのデータを誤って削除してしまったらしい。
「データの復元方法なんて、私にはわからないよ」
「でも、このデータベースを作ったのは柏原さんです。……それに前に柏原さんもデータを消したけど、何とかしたって聞きました。だから思い出して下さい」
……すごい無茶ぶり。だけど、真剣な表情で私に頭を下げている近江さんを無下にも出来ない。私を呼ぶってことが、社会人二年目のこの子に出来る精一杯だったんだろう。
だから何とかしないと──と思ったところで、やっぱり何も思い出せない。ここで突っ立っていても仕方がない。近江さんの隣の席の人のイスを借りて座ってみる。
私が去年の三月まで働いていた場所。
全く実感はないけど、近江さんのデスクには私がいた痕跡が残っている。デスクトップPCに付箋で貼ってあるメモは私の字だし、近江さんが持っている業務マニュアルも私が作ったものだとわかる。前の会社で作っていたものとフォント設定やレイアウトがほぼ同じ。
……不思議な感じだ。
懐かしいのに懐かしくない。中途半端な痕跡が私を戸惑わせる。でも、そのおかげでヒントも見えた。
近江さんの話から察するに、これは発生頻度は高くないけど、してしまうと面倒なミス。
私も前に同じミスをして、何とかしたってことは……あれを作っているはずだ。
近江さんに書類棚の場所を聞いて、私はあるファイルを探した。
探していたファイルはあっさり見つかった。それは黄色のファイル。イエローファイルだ。何のひねりもないけど、それなりに意味がある。
何かしらの対応が必要なミスをした場合、私は必ずミスの内容とリカバリー方法を記録していた。ミスはしないのが一番だけど、人間である以上完璧にはなれない。同じミスを繰り返さないように注意することは当然だけど、リカバリー方法を残しておけば、トラブル対応に強くなれる──みたいなことが、前に読んだ仕事の本に載っていたので作るようになった。黄色なのは、サッカーのイエローカードみたいなものだ。ちなみによく発生するミスは、赤いクリアファイルの中に入れている。
……あった。
ファイルのページの中から、該当のミスの記録を見つけた。対応方法を確認して思わず苦笑した。資料の作成日付は、谷崎さんの家から朝帰りした日の翌日。どれだけ動揺してたんだか……。
「これで……大丈夫なはず」
「よかっ……た」
三十分後。
過去の私が作ったマニュアル通りに処理したら無事にデータを復元することができた。内心ヒヤヒヤしたけど、何とかできてよかった。
近江さんは緊張の糸が切れたみたいにぐたりとして、ミスのショックが残っているみたいだ。数分後、ふらふらしながらも近江さんが口を開いた。
「もう……大丈夫です。申し訳ありませんでした」
「大丈夫じゃないでしょ。まだ、仕事は残ってるんだし」
こんな状態で仕事を続けても、ミスを繰り返して更に自己嫌悪な気がする。一旦、ここから離れて気持ちを切り替えた方がいい。そう思っていたら、外に出ていた社員の人達が戻ってきた。電話対応等をお願いして近江さんを休憩室に連れ出すことにした。
休憩室には誰もいなかった。近江さんを座らせて自販機で飲み物を買う。無難なお茶と鮮やかなデザインのグレープジュースを選んだ。
「お好きな方をどうぞ」
「……ありがとうございます」
近江さんの前にペッドポトルを二本差し出したらお茶を選んだ。ペットボトルのキャップを開け、少しずつ飲んでいく。ゆっくり喉を潤していくうちに落ち着いてきたようだ。二人とも無言のままだけど、ケリをつけないといけないことがある。
あの時のこと。敢えて悪者になるって決めてはいたけど、言い過ぎた。仮面夫婦だと思っていたから、谷崎さんに気持ちを伝えてみろなんて言ったけど、それが無神経なことだと今はわかる。
「この間のことなんだけど」
「謝りませんから! 助けてもらいましたけど、柏原さんがずるいのは事実です」
話そうとしたら、速攻で返ってきた。ずるい……ね。
他人にどう思われようが構わないけど、この子にそう思われたままでいるのは嫌だ。この子にとっては心外だろうけど、やっぱり似ているのだ。人を羨んだり妬んだりしていた……やさぐれていた私に。
「謝らなくていい。謝るのはこっちだから。色々ごめん。ただ、これだけは言わせて。私って近江さんが思うほど恵まれた人間じゃないよ」
そう言って、私は自分の過去の話をした。
椎名さんと広岡のこと、公認会計士試験のために会社を辞めて派遣社員になったけど、結局は叶わなかったっこと。たいして勉強せずに簿記の試験に合格したのは、公認会計士試験で勉強していたからだったこと。
近江さんは黙って聞いていたけど、どこか拗ねた顔をしているように見えた。
「ね、別に恵まれてないでしょ?」
「でも、柏原さんは私が持ってないものをたくさん持ってる。谷崎課長だってそうだし、正社員にならないかって言われるほどのスキルだって……それに比べて私なんか……就職活動だってダメだったし、正社員にならないかだなんて絶対に言ってもらえないし……頑張っても報われない」
そう言って近江さんは顔を伏せた。本当に私を見ているようだ。三年後に来る前の夜、同じようなことを考えていた気がする。自分のことが嫌で仕方なくて……しんどかった。
「頑張ったら報われるなんて誰が決めたの?」
「え?」
私の問いに近江さんは顔を上げた。何言っちゃってんのコイツって顔してる。構うことなく、私は続ける。
「私なんて休みの日は一日中勉強、会社帰りには四時間勉強。そんな日々を三年以上続けて、試験に落ちてるし。それだけじゃないよ、車に跳ねられそうな妊婦さんを庇ったら、いいことしたはずなのに記憶喪失になっちゃうし……。その中には結婚式とか新婚旅行とか幸せな記憶がつまってるのに」
ちょっとした不幸自慢みたいで嫌になるけど、事実なんだからしょうがない。
「じゃあ、どうしろって言うんですか?」
「糧にするしかないんじゃない?」
「糧?」
「近江さんの場合、就職活動は上手くいかなかったかもしれない。でも、履歴書を何枚も書いて何度も面接を受けて、そうして今あなたはここで働いている。きちんと前には進んでいる。だからここまでの頑張りは無駄ではない。いや、無駄にしちゃいけない」
近江さんに言いながら、自分にも言い聞かせる。
たくさん失敗してきたし痛い思いだってした。でも、失敗や痛い思いをしたからわかったことだってたくさんある。失敗して落ち込んでも、そこから何かを得てやるって根性は昔からあった。谷崎つぐみさんだってそうやって歩いてきたはずだ。
「記憶喪失なんて……何の糧にもならないと思いますけど」
小さな声で毒づいているのが聞こえる。
「そうかもね……。でも、記憶を失ったことばかり見ててもしょうがないでしょ。記憶を取り戻すことを放棄するつもりはないけど、失った記憶の分だけ色々な経験をして埋めてやるって今は思うよ」
「じゃあ……谷崎課長のことはどうするんですか?」
……聞かれると思った。だけど、私の中で答えが出ていない問題で……それをどう言えばいいのか迷う。近江さんはそんな私を射抜くように言った。
「言っときますけど私、谷崎課長に気持ちを伝える気なんてありませんから。既婚者に告白なんて冗談じゃない」
近江さんの言うことはもっともだと思う。それについては素直に謝る。
「ごめん」
「だったら、さっさと別れるか元サヤに戻るか決めて下さい。そうじゃないと私も谷崎課長も前に進めない」
前に進めない──近江さんの言葉がズシリと胸に刺さった。確かにそうだ。離婚した途端に次の恋って、人の気持ちはそんなに単純じゃない。だけど、今のままだと前には進めない。気持ちに応えらないなら、せめて私から谷崎さんを解放するべきだ。それなのに……。
何も言わなかったけど、「決められない」って顔に書いてあるみたいで、近江さんは呆れたような顔をしている。
「……いい加減認めたらどうです? 谷崎課長のことを愛しているって」
「そ、それは……」
近江さんの指摘にあたふたしてしまう。そんな私の表情にスッとしたのか近江さんが笑った。
「なんで、谷崎課長との記憶を失ったかわかりますか?」
「……わからない」
「記憶を失う瞬間に谷崎課長のことを強く思ったからですよ」
「え?」
「記憶喪失って、その時に思ったことが強く影響することがあるらしいですよ。柏原さんがいつ記憶喪失になったかなんて知りませんけど、車に跳ねられた時に……何よりも強く谷崎課長のことを思ったはずです。それって愛しているからですよね」
何も言い返せない間に、近江さんは「もう大丈夫なので仕事に戻ります」と休憩室を出て行った。その後ろ姿はどこか颯爽としていた。私はそんな近江さんをぼうっと眺めていることしかできなった。
「なんか……疲れた」
一人になった休憩室でグレープジュースを一気に飲み干して、長いすにごろんと寝転がった。
あの時と同じ。
違うのは東京タワーが見えないこと。
ゆっくりと瞳を閉じてみる。
瞼を開けたら、あの日の続きでありますように──そう願っていた時もあった。
もし、あの日に戻れたら……。
どうする?
仕事は辞めて、公認会計士の試験だけに集中する?
ダメかもしれないけど、仕事を辞めたことがプラスに作用して、合格するかもしれない。
色々な課題と忙しい日々と格闘して、大変だとか忙しいとか愚痴りつつも、それなりに充実した毎日を送っているかもしれない。
でも……私はその道は歩かない。その道を歩いたら、確かに私が望んでいた未来に行けるかもしれない。けど、どこかで後悔しているような気もする。
私はこの三ヶ月間の間に知った道を歩く。その道は、誰かを傷つけたり自分が傷ついたり……嫌なことがいっぱい転がっている道だ。でもそこから逃げずにぶつかって行きたい。
忙しくなる仕事と谷崎課長には全力で抵抗してやる。試験だって結果を覆す勢いで向かっていく。それで落ちたら? 全力で大泣きすればいい。
広岡への暴言は、改めた方がいいと思うけど、自分の本音はきちんと伝える。
定められた自分の運命から目を逸らすことなく、戦って行きたい。失敗したり痛い思いをするのは怖いし嫌だ。でも、その後の私次第でプラスにだって変えていける。全力でぶつかって痛い思いして、そこから這い上がって……そうやって自分を作り上げて行きたい──なーんて何、かっこつけてるんだか。肝心なことの決断ができていないのに……。
休憩室のドアが開く音が聴こえる。寝転がってる自分を見られるわけにはいかない。急いで瞳を開けて体を起こした。入ってきた男性の姿に大きく目を見開いた。
「久しぶり……柏原さん」
受話器越しに聴こえた声は震えていた。
私になんか連絡したくないはずなのに、こうしてかけてくるとは……ただごとじゃない。「ちょっと待ってて」と電話を切り、林田課長に許可をもらって市場開発課に向かった。
市場開発課には近江さんしかいなかった。他の人達は外出しているようだ。どうしたのと近江さんに尋ねたら、仕事用に使っているデータベースのデータを誤って削除してしまったらしい。
「データの復元方法なんて、私にはわからないよ」
「でも、このデータベースを作ったのは柏原さんです。……それに前に柏原さんもデータを消したけど、何とかしたって聞きました。だから思い出して下さい」
……すごい無茶ぶり。だけど、真剣な表情で私に頭を下げている近江さんを無下にも出来ない。私を呼ぶってことが、社会人二年目のこの子に出来る精一杯だったんだろう。
だから何とかしないと──と思ったところで、やっぱり何も思い出せない。ここで突っ立っていても仕方がない。近江さんの隣の席の人のイスを借りて座ってみる。
私が去年の三月まで働いていた場所。
全く実感はないけど、近江さんのデスクには私がいた痕跡が残っている。デスクトップPCに付箋で貼ってあるメモは私の字だし、近江さんが持っている業務マニュアルも私が作ったものだとわかる。前の会社で作っていたものとフォント設定やレイアウトがほぼ同じ。
……不思議な感じだ。
懐かしいのに懐かしくない。中途半端な痕跡が私を戸惑わせる。でも、そのおかげでヒントも見えた。
近江さんの話から察するに、これは発生頻度は高くないけど、してしまうと面倒なミス。
私も前に同じミスをして、何とかしたってことは……あれを作っているはずだ。
近江さんに書類棚の場所を聞いて、私はあるファイルを探した。
探していたファイルはあっさり見つかった。それは黄色のファイル。イエローファイルだ。何のひねりもないけど、それなりに意味がある。
何かしらの対応が必要なミスをした場合、私は必ずミスの内容とリカバリー方法を記録していた。ミスはしないのが一番だけど、人間である以上完璧にはなれない。同じミスを繰り返さないように注意することは当然だけど、リカバリー方法を残しておけば、トラブル対応に強くなれる──みたいなことが、前に読んだ仕事の本に載っていたので作るようになった。黄色なのは、サッカーのイエローカードみたいなものだ。ちなみによく発生するミスは、赤いクリアファイルの中に入れている。
……あった。
ファイルのページの中から、該当のミスの記録を見つけた。対応方法を確認して思わず苦笑した。資料の作成日付は、谷崎さんの家から朝帰りした日の翌日。どれだけ動揺してたんだか……。
「これで……大丈夫なはず」
「よかっ……た」
三十分後。
過去の私が作ったマニュアル通りに処理したら無事にデータを復元することができた。内心ヒヤヒヤしたけど、何とかできてよかった。
近江さんは緊張の糸が切れたみたいにぐたりとして、ミスのショックが残っているみたいだ。数分後、ふらふらしながらも近江さんが口を開いた。
「もう……大丈夫です。申し訳ありませんでした」
「大丈夫じゃないでしょ。まだ、仕事は残ってるんだし」
こんな状態で仕事を続けても、ミスを繰り返して更に自己嫌悪な気がする。一旦、ここから離れて気持ちを切り替えた方がいい。そう思っていたら、外に出ていた社員の人達が戻ってきた。電話対応等をお願いして近江さんを休憩室に連れ出すことにした。
休憩室には誰もいなかった。近江さんを座らせて自販機で飲み物を買う。無難なお茶と鮮やかなデザインのグレープジュースを選んだ。
「お好きな方をどうぞ」
「……ありがとうございます」
近江さんの前にペッドポトルを二本差し出したらお茶を選んだ。ペットボトルのキャップを開け、少しずつ飲んでいく。ゆっくり喉を潤していくうちに落ち着いてきたようだ。二人とも無言のままだけど、ケリをつけないといけないことがある。
あの時のこと。敢えて悪者になるって決めてはいたけど、言い過ぎた。仮面夫婦だと思っていたから、谷崎さんに気持ちを伝えてみろなんて言ったけど、それが無神経なことだと今はわかる。
「この間のことなんだけど」
「謝りませんから! 助けてもらいましたけど、柏原さんがずるいのは事実です」
話そうとしたら、速攻で返ってきた。ずるい……ね。
他人にどう思われようが構わないけど、この子にそう思われたままでいるのは嫌だ。この子にとっては心外だろうけど、やっぱり似ているのだ。人を羨んだり妬んだりしていた……やさぐれていた私に。
「謝らなくていい。謝るのはこっちだから。色々ごめん。ただ、これだけは言わせて。私って近江さんが思うほど恵まれた人間じゃないよ」
そう言って、私は自分の過去の話をした。
椎名さんと広岡のこと、公認会計士試験のために会社を辞めて派遣社員になったけど、結局は叶わなかったっこと。たいして勉強せずに簿記の試験に合格したのは、公認会計士試験で勉強していたからだったこと。
近江さんは黙って聞いていたけど、どこか拗ねた顔をしているように見えた。
「ね、別に恵まれてないでしょ?」
「でも、柏原さんは私が持ってないものをたくさん持ってる。谷崎課長だってそうだし、正社員にならないかって言われるほどのスキルだって……それに比べて私なんか……就職活動だってダメだったし、正社員にならないかだなんて絶対に言ってもらえないし……頑張っても報われない」
そう言って近江さんは顔を伏せた。本当に私を見ているようだ。三年後に来る前の夜、同じようなことを考えていた気がする。自分のことが嫌で仕方なくて……しんどかった。
「頑張ったら報われるなんて誰が決めたの?」
「え?」
私の問いに近江さんは顔を上げた。何言っちゃってんのコイツって顔してる。構うことなく、私は続ける。
「私なんて休みの日は一日中勉強、会社帰りには四時間勉強。そんな日々を三年以上続けて、試験に落ちてるし。それだけじゃないよ、車に跳ねられそうな妊婦さんを庇ったら、いいことしたはずなのに記憶喪失になっちゃうし……。その中には結婚式とか新婚旅行とか幸せな記憶がつまってるのに」
ちょっとした不幸自慢みたいで嫌になるけど、事実なんだからしょうがない。
「じゃあ、どうしろって言うんですか?」
「糧にするしかないんじゃない?」
「糧?」
「近江さんの場合、就職活動は上手くいかなかったかもしれない。でも、履歴書を何枚も書いて何度も面接を受けて、そうして今あなたはここで働いている。きちんと前には進んでいる。だからここまでの頑張りは無駄ではない。いや、無駄にしちゃいけない」
近江さんに言いながら、自分にも言い聞かせる。
たくさん失敗してきたし痛い思いだってした。でも、失敗や痛い思いをしたからわかったことだってたくさんある。失敗して落ち込んでも、そこから何かを得てやるって根性は昔からあった。谷崎つぐみさんだってそうやって歩いてきたはずだ。
「記憶喪失なんて……何の糧にもならないと思いますけど」
小さな声で毒づいているのが聞こえる。
「そうかもね……。でも、記憶を失ったことばかり見ててもしょうがないでしょ。記憶を取り戻すことを放棄するつもりはないけど、失った記憶の分だけ色々な経験をして埋めてやるって今は思うよ」
「じゃあ……谷崎課長のことはどうするんですか?」
……聞かれると思った。だけど、私の中で答えが出ていない問題で……それをどう言えばいいのか迷う。近江さんはそんな私を射抜くように言った。
「言っときますけど私、谷崎課長に気持ちを伝える気なんてありませんから。既婚者に告白なんて冗談じゃない」
近江さんの言うことはもっともだと思う。それについては素直に謝る。
「ごめん」
「だったら、さっさと別れるか元サヤに戻るか決めて下さい。そうじゃないと私も谷崎課長も前に進めない」
前に進めない──近江さんの言葉がズシリと胸に刺さった。確かにそうだ。離婚した途端に次の恋って、人の気持ちはそんなに単純じゃない。だけど、今のままだと前には進めない。気持ちに応えらないなら、せめて私から谷崎さんを解放するべきだ。それなのに……。
何も言わなかったけど、「決められない」って顔に書いてあるみたいで、近江さんは呆れたような顔をしている。
「……いい加減認めたらどうです? 谷崎課長のことを愛しているって」
「そ、それは……」
近江さんの指摘にあたふたしてしまう。そんな私の表情にスッとしたのか近江さんが笑った。
「なんで、谷崎課長との記憶を失ったかわかりますか?」
「……わからない」
「記憶を失う瞬間に谷崎課長のことを強く思ったからですよ」
「え?」
「記憶喪失って、その時に思ったことが強く影響することがあるらしいですよ。柏原さんがいつ記憶喪失になったかなんて知りませんけど、車に跳ねられた時に……何よりも強く谷崎課長のことを思ったはずです。それって愛しているからですよね」
何も言い返せない間に、近江さんは「もう大丈夫なので仕事に戻ります」と休憩室を出て行った。その後ろ姿はどこか颯爽としていた。私はそんな近江さんをぼうっと眺めていることしかできなった。
「なんか……疲れた」
一人になった休憩室でグレープジュースを一気に飲み干して、長いすにごろんと寝転がった。
あの時と同じ。
違うのは東京タワーが見えないこと。
ゆっくりと瞳を閉じてみる。
瞼を開けたら、あの日の続きでありますように──そう願っていた時もあった。
もし、あの日に戻れたら……。
どうする?
仕事は辞めて、公認会計士の試験だけに集中する?
ダメかもしれないけど、仕事を辞めたことがプラスに作用して、合格するかもしれない。
色々な課題と忙しい日々と格闘して、大変だとか忙しいとか愚痴りつつも、それなりに充実した毎日を送っているかもしれない。
でも……私はその道は歩かない。その道を歩いたら、確かに私が望んでいた未来に行けるかもしれない。けど、どこかで後悔しているような気もする。
私はこの三ヶ月間の間に知った道を歩く。その道は、誰かを傷つけたり自分が傷ついたり……嫌なことがいっぱい転がっている道だ。でもそこから逃げずにぶつかって行きたい。
忙しくなる仕事と谷崎課長には全力で抵抗してやる。試験だって結果を覆す勢いで向かっていく。それで落ちたら? 全力で大泣きすればいい。
広岡への暴言は、改めた方がいいと思うけど、自分の本音はきちんと伝える。
定められた自分の運命から目を逸らすことなく、戦って行きたい。失敗したり痛い思いをするのは怖いし嫌だ。でも、その後の私次第でプラスにだって変えていける。全力でぶつかって痛い思いして、そこから這い上がって……そうやって自分を作り上げて行きたい──なーんて何、かっこつけてるんだか。肝心なことの決断ができていないのに……。
休憩室のドアが開く音が聴こえる。寝転がってる自分を見られるわけにはいかない。急いで瞳を開けて体を起こした。入ってきた男性の姿に大きく目を見開いた。
「久しぶり……柏原さん」
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