迷子のネムリヒメ

燕尾

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第34話

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 あの事故の日。
 自分の命が終わることを覚悟して、谷崎つぐみさんは妊婦さんを守った。そして、薄れゆく意識の中で一番大切な……愛している人のことを強く思った。
 そこで終わるはずだった。
 けれど、車に跳ばされた体は街路樹が受け止めてくれた。そのおかげで、谷崎つぐみさんはかすり傷を負っただけで済んだ。ただ、彼女はとてもとても大切な物を失った。
 それは……愛している人との始まりから意識を失うまでの全ての記憶。
 二十七歳の私がここにいるのは、三十歳の谷崎つぐみさんが消えてしまったから。
 谷崎つぐみさんの体は、ここで元気に動いているのに……中身は別の場所に行ってしまった。谷崎さんからすれば、奥さんを失ったのと同じようなものだ。
 ──いっそのこと死んじゃえばっ。
 そう言おうとした私を谷崎さんはどんな気持ちで止めたのだろう。それを思うと、心の奥がヒリヒリと痛くなる。
 こんな切なくて残酷な現実って……。
 命と大切な人との記憶。
 言われなくたってわかる。
 命の方が大切だって。
 生きてさえいれば、また始めて行くことだってできる。だけど、そんなに簡単に割り切れたりしない。本人からすればどっちも同じ重さだ。
 でも、どんな現実が待っていたとしても、谷崎つぐみさんは自分のしたことを悔やんだりしない。それが自分の選んだ道だもの。
 だから、私も悲しんだりしない。私が悲嘆にくれても谷崎つぐみさんを否定するだけだ。そうなったら、二度と谷崎つぐみさんを取り戻せない気がする。
 それに……伝えないといけない。
 谷崎つぐみさんは最後の最後まで谷崎さんを強く思ったこと。それは、もう……記憶を失ってしまうくらいに。
 これは谷崎つぐみさんの命がけのラブレターだ。私には届ける義務がある。
 でも……。
 今の私の気持ちは?
 後悔するかしないかっていう私の中の判断基準で考えたら、答えは出ているはずだ。それなのに……そっちへ進もうとすると、何かに引っ張られて動けなくなる。何が私にブレーキをかけているのだろう。

「……さん、大丈夫?」
「大丈夫な……」

 大丈夫なんかじゃない──そう言いそうになって、目の前に大路さんがいるのを思い出した。慌てて言い直す。

「大丈夫です。すみません。ぼうっとしちゃって」

 そうだ。会話の途中だった。確か……谷崎さんの条件を飲むほど、山路さんのことを慕っていんだねと言われて、後悔したくないからだって答えたんだ。……可愛げないなヤツだ、私って。おかげで色々なことに気づけたけど。

「すみません。なんか……がっかりする答えですよね」
「いや……わかるよ。してしまった後悔はいつか消えるけど、しなかった後悔は残るからね」

 大路さんは少し苦い顔をして笑っている。そういう経験があるんだろう。いや、誰にだってある。
 自分にとって何が正しくて間違っているかなんて、そんなに簡単にジャッジできない。後で気づくことだってある。でも、後悔をしてきたからわかることもある。
 ……何、このシーンとした空気。お互いにブルーな気持ちになっている。こんな話をするつもりはなかったのに……話題を変えよう。

「あっ……そう言えば、お子さんのご誕生おめでとうございます」

 今更なことだし、過去の私は口にしていたと思うけど、今の私は伝えてないので敢えて伝えた。

「ありがとう。写真とか見た?」
「はい、姫島さんから見せてもらいました。とっても可愛いですね、優花ちゃん」

 そう言った途端、大路さんの表情が一気に明るくなった。

「そう? ありがとう。あっ、よかったら映像も見て? この優花もチョー可愛いから」

 ニコニコしながら大路さんは、スマホを操作し私に映像を見せてくれた。テーマパークではしゃいでいる姿や、歌を歌っている姿。蘭ちゃんを見てても思うけど、小さい子供の仕草って可愛い。

「本当に可愛いですね」
「でしょう。あと、これ……この間写真館で撮ったやつなんだけど、あまりにも可愛いからスマホにも入れちゃった」

 そう言って、写真も見せてくれた。そこにはコスプレ? した優花ちゃんがいた。
 ピンクのドレス姿、不思議の国のアリス、うさぎの着ぐるみ……次から次へと優花ちゃん。可愛いけど……親バカだ。この人……こんなキャラだったんだ。
 私が知っている大路さんじゃない。
 私が見つめていた大路さんは、笑顔だけど心から笑っている感じがしなくて……どこかクールで少し近寄りがたい存在だった。だからこそ、本当の笑顔を見てみたいと思った。それが浅い恋心のきっかけだった。
 今、私の目の前にいる大路さんは……目尻を下げながら、スマホの中の優花ちゃんに見入っている。あの頃のクールさは消えてしまったらしい。
 でも……今の大路さんの方が素敵だと思う。そういう大路さんにしたのは、姫島さんだ。そう思うとちょっとだけ切ない。
 ん? もしかして、ブレーキの正体ってこれ?
 ……よく考えてみると、私って大抵のことは完全燃焼してきたみたいだけど、恋愛だけは不完全燃焼だった気がする。
 椎名さんへの恋心だってそう。伝えなかったことは間違ってないと思うけど、きっちり終わらせなかったから色々苦しんだ気もする。
 じゃあ、大路さんの場合は?
 谷崎さんと結婚したんだから、ちゃんと消化してはいるんだろうけど……何かスッキリしない気もする。
 ……ケリをつけろってこと?
 でも、今更告白しても……って言い訳か。この三ヶ月間、最初は逃げていたけど色んなことに向き合ってきた。それを無駄にはしないけど、相手のことも考えないと。
 
「大路さん」
「ん?」
「今、幸せですか?」
「幸せだよ。大変なこともあるけど、可愛い奥さんと可愛い娘がいるからね」

 そう言って、姫島さんと優花ちゃんのツーショットの写真を見せてくれた。
 うん……幸せなんだ。
 だったら、伝えても大丈夫だ。告白され慣れてるだろうから、スパッと振ってくれるだろう。背筋をピンと伸ばして大路さんを真っ直ぐに見つめる。

「大路さん」
「ん?」
「聞き流して欲しいんですけど……言います。ちょっとだけ好きでした」

 言っちゃった。
 ちょっとだけ好きって……もっと他に言い方があるのに。でもスッキリした。
 さあ振られようと大路さんの方に意識をやったら、大路さんはじっと私の顔を見つめている。
 え? 大丈夫だよね……聞き流して欲しいって言ったし、ちょっとだけって言ったし、でしたって過去形だし。
 予想外の反応に戸惑っていると、大路さんは口の端を上げニヤリとした。

「困るなぁ。俺を誘惑する気?」

 誘惑? 
 何、言ってるんだこの人?
 大路さんが言っていることの意図は掴めないけど、本気で言ってないのは表情からわかる。でも、私なりに真面目に答える。

「今ので誘惑されるようなチャラい男だったら、好きになったりしません」
「!」

 私がそう言うと大路さんは盛大に吹き出した。
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