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第38話
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「……え?」
思わず自分の口元を手のひらで覆う。自分で自分に驚いている。
──ただいま。
今まで言えなかった言葉を私は今、するんと口にした。
この部屋や谷崎さんには「おじゃまします」としか言えなかったくせに。
「……おかえり」
少しの沈黙の後、驚いた表情を浮かべながらも谷崎さんは返事をしてくれた。
いつもより小さくて、どこか自信なさげな声。その声音に、そう言っていいのか? という疑問や戸惑いが混じっているのがわかる。
谷崎さんが慎重になるのも仕方ない。
この部屋で「おかえり」と言われると、私は挙動不審になるくらい戸惑っていた。けれど、今の私はごく自然にその言葉を受け入れている。
「ただいま」
今度は意識的にはっきりとした口調で言ってみる。
すんなり言えた。
「ただいま」と口に出せなかった今までが嘘みたいだ。
谷崎さんは何も言わず、私をただ見つめている。その目にはもしかしたら……という期待が宿っている気がする。
無理もない。
今まで「おじゃまします」としか言わなかった私が、「ただいま」と言ったのだから。谷崎つぐみさんが帰って来たと錯覚してもおかしくない。
そうだよ──そう言ってあげたい。でも、ごめんなさい。
私を見つめる谷崎さんの視線にいたたまれなくなり、伏し目がちに言った。
「あの……すみません。記憶が戻ったとかじゃないんです」
じゃあ何だ?
谷崎さんは何も言わないけれど、そう聞かれている気がする。
どう伝えればいいのか……。
会いたいとは思ったけど、何を言うかなんて考えていなかった。だけど、谷崎さんの目を見た途端、懐かしさや安堵感やらがぶわっと湧いてきて、気づけば口が勝手に動いていた──なんて言われても困るだろう。
「……とりあえず、中に入ってお茶でも飲まない?」
言葉を選べずに迷っていたら、淡々とした声が降ってきた。私が知っているいつもの冷静な谷崎さんだ。
私が考え込んでいる内に、落ち着きを取り戻したらしい。
確かにここで立っていてもしょうがない。
……。
部屋に上がろうとして思い出す。
ここは玄関だ。
さっきは何で玄関にいるの? って思ったけど、冷静に考えればわかる。出かけるからだ、と。
「あの……谷崎さん」
「ん?」
「出かける予定だったんじゃないですか?」
自分の気持ちだけでここまで突っ走って来たけど、谷崎さんにも都合がある。
「いや、つぐみに会いに行くつもりだったから」
さらりと口にされ、頬が熱くなる。きっと私の顔は真っ赤になっているに違いない。
「リビングで待ってるから」
そう言って谷崎さんは背を向けてリビングの方へ行った。
私はサンダルを脱ぎ、久しぶりにこの部屋に足を踏み入れた。
……変わっていない。
玄関に並べられているパンプス。
洗面所にある私の歯ブラシや化粧水。
書斎にある私のマンガ。
みんな私がいた時と同じ場所にあった。
私の痕跡や居場所が残っていることが嬉しくて……切ない。谷崎さんは、どんな思いでそれらを目にしてたんだろう。今回だけじゃなくて、事故の時だってそうだ。それを考えると、ごめんなさいという気持ちでいっぱいになる。
「うわっ」
洗面所の鏡に写る自分の顔にぎょっとした。
走ってきたから髪はボサボサで、泣いたせいかメイクが崩れている。
「ふっ」
恥ずかしさや情けなさを通り越して笑ってしまう。今日だけで人生の三分の一の恥ずかしさを経験しているに違いない。ここまで来たら吹っ切るしかないんだ。
顔を洗って髪をとかして、化粧ポーチのファスナーを開きかけて止めた。
このままでいい。
化粧をすると自分の本当の気持ちまで隠してしまいそうだ。自分のすっぴんに自信なんてない。でも、今は素顔のままで自分の中の素直な気持ちを伝えたい。
リビングも変わっていない。
ただ、ダイニングテーブルの雰囲気がいつもと違う。
いつもご飯を食べている場所は、ちょっとしたオフィスになっていた。
谷崎さんのノートパソコンにたくさんの資料。
次から次へと仕事のメールが飛んでくる──大路さんのボヤキは本当だったらしい。
苦笑しながらダイニングテーブルを眺めていたら、小さなダンボールが目に入った。
何だろう……。
仕事の資料でも頼んだのだろうか? 気になって近寄ってみる。
ダンボールは開封されていた。その中には小箱とリボンとカードらしきものが入っていた。そして、その小箱の中には黒い革製の財布が収まっている。
二つ折りの財布はシンプルだけど、深い光沢がある。一目見るだけで丁寧に作られたものだとわかる。
どこのショップの商品なんだろう。
何となく気になって送り状を覗き込んだ途端、送り状に書かれた見覚えのある文字に胸を締め付けられた。
その送り主は、谷崎つぐみさん。
それが何を意味するか……今の私は知っている。
谷崎さんへの誕生日プレゼント。
誕生日に届くように注文していたのだろう。
谷崎つぐみさんにとって、今日は大切な日だった。だから、何ヶ月も前からプレゼントを準備していた。
一番に誕生日おめでとうって言いたかっただろう。
誰よりも谷崎さんが喜ぶ顔を見たかっただろう。
それなのに……。
谷崎つぐみさんはここにいない。
谷崎さんは、谷崎つぐみさんからのプレゼントをどんな気持ちで受け取ったのだろう。
「上は散らかってるから下で……」
二つのグラスが乗ったトレーを手にして、谷崎さんがキッチンから出てきた。ダンボールの前で固まっている私を見て、穏やかな笑みを浮かべた。
「ずっと財布を買い換えたいと思っていたんだ。けど、条件に合うのが無くてね。出先で財布売り場に寄る度に、形が好きじゃないとか大きさがちょっと……とかダメ出しばかりしていた。つぐみはそれを全部覚えていたんだな。俺に内緒でオーダーメイドの店を探して、注文して……こうして俺好みの財布が届いた」
嬉しそうな顔で財布を眺めている谷崎さんに何とも言えない気持ちになる。
だけど、谷崎さんにとってこのプレゼントは温かいものだ。
財布を選んだ時のあなたの想いは、谷崎さんに届いているよと私の中のどこかにいる谷崎つぐみさんに伝えた。
それに引き換え、柏原つぐみは……。
「ごめんなさい。私、知らなくて……」
「誕生日のこと? 気にしなくていい。俺も言わなったし、周りにも口止めしてたから。でも何で?」
「大路さんが……」
そう言うと谷崎さんは渋い顔をした。
「アイツか……。直接、話す機会がなかったからな。どうせ、俺は何も言われてないからとか言ってたんだろ?」
「はい」
「やっぱり……ああいうヤツなんだよ。アイツは」
頭を抱えるジェスチャーをする谷崎さんがおかしい。
その口ぶりに普段の二人の関係が垣間見えて、少し気持ちが和む。
そう言えば、姫島さんからもプレゼントを預っていたんだった。
「あの……姫島さんから預かってきました」
紙袋を見せると、おおっという顔をした。
「姫島のお菓子か……美味いんだよ。一緒に食べよう」
「はい」
谷崎さんに促され、私はソファーに座り込んだ。
「疲れただろ。楽にするといい」
目の前のローテーブルにグラスを置かれた。
「ありがとうございます」
谷崎さんは、私の隣に腰掛けた。二人の間には、いつものクッション一個分の距離。私にとって必要な距離だけど、今はちょっとだけもどかしく感じる。
ドキドキしてきた。
久しぶりの二人きりは、やっぱり緊張する。気持ちを落ち着けようと、グラスに口をつけた。
喉が潤っていく。
そう言えば、初めてここに来た時もお茶を入れてくれた。あの時はホットだったのに……季節を一つ歩いてきたのだと改めて実感する。
姫島さんのお菓子には手をつけず、二人とも黙って飲み物を飲んでいる。
シーンとしている。
向かい合っていないので、谷崎さんの表情は読めない。でも、時折こっちを見ているのが気配でわかる。私はそれに気づかないふりをして、ただグラスを見つめていた。
わかっている。
私から話さないといけないと。
胸の中に思いを閉じ込めていても仕方がない。
でも……。
何と言えばいいのだろう。
言わなきゃいけないことはたくさんあるのに、何から言葉にすればいいのかわからない。
きちんと言葉にしないと伝わらないってわかっているのに。
「元気だった?」
口火を切ったのは谷崎さんだった。
思わず自分の口元を手のひらで覆う。自分で自分に驚いている。
──ただいま。
今まで言えなかった言葉を私は今、するんと口にした。
この部屋や谷崎さんには「おじゃまします」としか言えなかったくせに。
「……おかえり」
少しの沈黙の後、驚いた表情を浮かべながらも谷崎さんは返事をしてくれた。
いつもより小さくて、どこか自信なさげな声。その声音に、そう言っていいのか? という疑問や戸惑いが混じっているのがわかる。
谷崎さんが慎重になるのも仕方ない。
この部屋で「おかえり」と言われると、私は挙動不審になるくらい戸惑っていた。けれど、今の私はごく自然にその言葉を受け入れている。
「ただいま」
今度は意識的にはっきりとした口調で言ってみる。
すんなり言えた。
「ただいま」と口に出せなかった今までが嘘みたいだ。
谷崎さんは何も言わず、私をただ見つめている。その目にはもしかしたら……という期待が宿っている気がする。
無理もない。
今まで「おじゃまします」としか言わなかった私が、「ただいま」と言ったのだから。谷崎つぐみさんが帰って来たと錯覚してもおかしくない。
そうだよ──そう言ってあげたい。でも、ごめんなさい。
私を見つめる谷崎さんの視線にいたたまれなくなり、伏し目がちに言った。
「あの……すみません。記憶が戻ったとかじゃないんです」
じゃあ何だ?
谷崎さんは何も言わないけれど、そう聞かれている気がする。
どう伝えればいいのか……。
会いたいとは思ったけど、何を言うかなんて考えていなかった。だけど、谷崎さんの目を見た途端、懐かしさや安堵感やらがぶわっと湧いてきて、気づけば口が勝手に動いていた──なんて言われても困るだろう。
「……とりあえず、中に入ってお茶でも飲まない?」
言葉を選べずに迷っていたら、淡々とした声が降ってきた。私が知っているいつもの冷静な谷崎さんだ。
私が考え込んでいる内に、落ち着きを取り戻したらしい。
確かにここで立っていてもしょうがない。
……。
部屋に上がろうとして思い出す。
ここは玄関だ。
さっきは何で玄関にいるの? って思ったけど、冷静に考えればわかる。出かけるからだ、と。
「あの……谷崎さん」
「ん?」
「出かける予定だったんじゃないですか?」
自分の気持ちだけでここまで突っ走って来たけど、谷崎さんにも都合がある。
「いや、つぐみに会いに行くつもりだったから」
さらりと口にされ、頬が熱くなる。きっと私の顔は真っ赤になっているに違いない。
「リビングで待ってるから」
そう言って谷崎さんは背を向けてリビングの方へ行った。
私はサンダルを脱ぎ、久しぶりにこの部屋に足を踏み入れた。
……変わっていない。
玄関に並べられているパンプス。
洗面所にある私の歯ブラシや化粧水。
書斎にある私のマンガ。
みんな私がいた時と同じ場所にあった。
私の痕跡や居場所が残っていることが嬉しくて……切ない。谷崎さんは、どんな思いでそれらを目にしてたんだろう。今回だけじゃなくて、事故の時だってそうだ。それを考えると、ごめんなさいという気持ちでいっぱいになる。
「うわっ」
洗面所の鏡に写る自分の顔にぎょっとした。
走ってきたから髪はボサボサで、泣いたせいかメイクが崩れている。
「ふっ」
恥ずかしさや情けなさを通り越して笑ってしまう。今日だけで人生の三分の一の恥ずかしさを経験しているに違いない。ここまで来たら吹っ切るしかないんだ。
顔を洗って髪をとかして、化粧ポーチのファスナーを開きかけて止めた。
このままでいい。
化粧をすると自分の本当の気持ちまで隠してしまいそうだ。自分のすっぴんに自信なんてない。でも、今は素顔のままで自分の中の素直な気持ちを伝えたい。
リビングも変わっていない。
ただ、ダイニングテーブルの雰囲気がいつもと違う。
いつもご飯を食べている場所は、ちょっとしたオフィスになっていた。
谷崎さんのノートパソコンにたくさんの資料。
次から次へと仕事のメールが飛んでくる──大路さんのボヤキは本当だったらしい。
苦笑しながらダイニングテーブルを眺めていたら、小さなダンボールが目に入った。
何だろう……。
仕事の資料でも頼んだのだろうか? 気になって近寄ってみる。
ダンボールは開封されていた。その中には小箱とリボンとカードらしきものが入っていた。そして、その小箱の中には黒い革製の財布が収まっている。
二つ折りの財布はシンプルだけど、深い光沢がある。一目見るだけで丁寧に作られたものだとわかる。
どこのショップの商品なんだろう。
何となく気になって送り状を覗き込んだ途端、送り状に書かれた見覚えのある文字に胸を締め付けられた。
その送り主は、谷崎つぐみさん。
それが何を意味するか……今の私は知っている。
谷崎さんへの誕生日プレゼント。
誕生日に届くように注文していたのだろう。
谷崎つぐみさんにとって、今日は大切な日だった。だから、何ヶ月も前からプレゼントを準備していた。
一番に誕生日おめでとうって言いたかっただろう。
誰よりも谷崎さんが喜ぶ顔を見たかっただろう。
それなのに……。
谷崎つぐみさんはここにいない。
谷崎さんは、谷崎つぐみさんからのプレゼントをどんな気持ちで受け取ったのだろう。
「上は散らかってるから下で……」
二つのグラスが乗ったトレーを手にして、谷崎さんがキッチンから出てきた。ダンボールの前で固まっている私を見て、穏やかな笑みを浮かべた。
「ずっと財布を買い換えたいと思っていたんだ。けど、条件に合うのが無くてね。出先で財布売り場に寄る度に、形が好きじゃないとか大きさがちょっと……とかダメ出しばかりしていた。つぐみはそれを全部覚えていたんだな。俺に内緒でオーダーメイドの店を探して、注文して……こうして俺好みの財布が届いた」
嬉しそうな顔で財布を眺めている谷崎さんに何とも言えない気持ちになる。
だけど、谷崎さんにとってこのプレゼントは温かいものだ。
財布を選んだ時のあなたの想いは、谷崎さんに届いているよと私の中のどこかにいる谷崎つぐみさんに伝えた。
それに引き換え、柏原つぐみは……。
「ごめんなさい。私、知らなくて……」
「誕生日のこと? 気にしなくていい。俺も言わなったし、周りにも口止めしてたから。でも何で?」
「大路さんが……」
そう言うと谷崎さんは渋い顔をした。
「アイツか……。直接、話す機会がなかったからな。どうせ、俺は何も言われてないからとか言ってたんだろ?」
「はい」
「やっぱり……ああいうヤツなんだよ。アイツは」
頭を抱えるジェスチャーをする谷崎さんがおかしい。
その口ぶりに普段の二人の関係が垣間見えて、少し気持ちが和む。
そう言えば、姫島さんからもプレゼントを預っていたんだった。
「あの……姫島さんから預かってきました」
紙袋を見せると、おおっという顔をした。
「姫島のお菓子か……美味いんだよ。一緒に食べよう」
「はい」
谷崎さんに促され、私はソファーに座り込んだ。
「疲れただろ。楽にするといい」
目の前のローテーブルにグラスを置かれた。
「ありがとうございます」
谷崎さんは、私の隣に腰掛けた。二人の間には、いつものクッション一個分の距離。私にとって必要な距離だけど、今はちょっとだけもどかしく感じる。
ドキドキしてきた。
久しぶりの二人きりは、やっぱり緊張する。気持ちを落ち着けようと、グラスに口をつけた。
喉が潤っていく。
そう言えば、初めてここに来た時もお茶を入れてくれた。あの時はホットだったのに……季節を一つ歩いてきたのだと改めて実感する。
姫島さんのお菓子には手をつけず、二人とも黙って飲み物を飲んでいる。
シーンとしている。
向かい合っていないので、谷崎さんの表情は読めない。でも、時折こっちを見ているのが気配でわかる。私はそれに気づかないふりをして、ただグラスを見つめていた。
わかっている。
私から話さないといけないと。
胸の中に思いを閉じ込めていても仕方がない。
でも……。
何と言えばいいのだろう。
言わなきゃいけないことはたくさんあるのに、何から言葉にすればいいのかわからない。
きちんと言葉にしないと伝わらないってわかっているのに。
「元気だった?」
口火を切ったのは谷崎さんだった。
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