迷子のネムリヒメ

燕尾

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第39話

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「は、はいっ」

 ……もの凄く不自然な返事だ。
 谷崎さんの声に肩がびくっと震えた。さっきから呼吸する度に胸の鼓動が早くなっている。私の体は自分が思っている以上に谷崎さんのことを意識しているらしい。

「そっか……」

 独り言のような返事が返ってきた。
 淡々としているけれど、温もりのある声。
 どんな顔をしているのだろう。谷崎さんの視線は感じなかったので、グラスをテーブルに置き、そうっと谷崎さんの方に視線を向けた。
 谷崎さんはグラスを見つめていた。とても優しげな笑みを浮かべて。
 よかった──そう言ってくれているように見えた。その姿を見ているだけで胸がいっぱいになった。
 その表情……反則だ。
 たまらなくなり、視線を自分のグラスの方に戻した。

「あの……谷崎さんは?」

 谷崎さんが投げてくれたきっかけを無駄にしたくない。今度は私が聞く番だ。 
 
「……俺? 元気だったよ。バカみたいに忙しかったけどな」

 少しの沈黙の後、谷崎さんは自嘲気味に笑いつつ言った。

「確かに……谷崎さんのスケジュール画面、文字だらけでしたね」
「笑えるよな、あれ。俺も訳がわからなくなりそうだったよ。でも何だかんだ言いつつ、こなしたんだから……俺もまだ若いって思ったよ」

 隣から聞こえてくる声は明るいけれど、どこか乾いているような感じがした。
 何かあると仕事に逃避する癖がある──大路さんの台詞が頭の中に浮かんだ。
 忙しかったのは本当だろうけど、敢えてそうしていたようにも思える。
 自分の心の中に余裕があると余計なことを考えてしまう。だから、谷崎さんは自分の心の隙をなくすように仕事を詰め込んで、余計な感情を押し殺していたのかもしれない。
 谷崎さんにそうさせたのは……私だ。

「……」

 また、シーンとなった。
 せっかく谷崎さんが話題を振ってくれたのに。
 大人なんだから素知らぬ顔して、「大変でしたね」って言えばいいのに。私にはできなかった。いや、したくなかった。
 きちんと謝ろう。
 あの夜のこと。
 そして……。
 そう決意して深く息を吸っていたら、谷崎さんの声が聞こえてきた。

「あの日はわる」
「悪いのは私なんだから、謝らないでっ!」
 
 ──ペチッ!
 早口でそう言った後、谷崎さんの口元からいい音がした。
 谷崎さんの口元には私の手。
 何で私の手が? 
 その疑問の答えはすぐにわかった。
 あの日のことを谷崎さんが謝ろうとするから、止めようと慌てて口を押さえようとしたんだけど……勢い余って、谷崎さんの口元を思いっきり叩いてしまったんだ。
 急いで自分の手を引っ込める。 

「すみません! 大丈夫ですか?」
「……」

 谷崎さんは口を押さえて、無言のまま俯いている。
 大丈夫も何も……あんないい音がしたんだから、痛いに決まっている。
 口の中を切っているかもしれないし、腫れてくるかもしれない。
 どうしよう……ってそうじゃない。そんな目に遭わせたのは私だ。何ができるか考えろと自分を叱りつけ落ち着きを取り戻す。
 とりあえず……冷やしたほうがよさそうだ。

「口の中とか切ってないですか? 冷たいタオルを用意してくるので、ちょっと待ってて下さい」

 そう言って立ち上がろうとしたら、手首を掴まれソファーに引き戻された。
 
「……っ」

 その力強さに息を呑んだ。ものすごく怒っている……よね。

「本当にごめんなさい。私が言うなって話ですけど、冷やした方がいいと思うんです。だから……手、離して下さい」

 そう告げても、私の手は掴まれたままだ。

「……だから」

 谷崎さんが何かを言っているみたいだけど、上手く聞き取れない。

「え?」
「大丈夫だから、ここにいて」 

 聞き返したら、今度はしっかりとした声が返ってきた。 
 やがて、谷崎さんがゆっくりと顔を上げた。手を掴まれたまま、目線が重なっていく。私を見つめる谷崎さんの目と手から感じる谷崎さんの体温に、自分の頬が熱を帯びていく。

「つぐみが思っている程、痛くなかったから。びっくりしただけだ。つぐみの顔の方が赤いぞ」

 笑いながらそう言われ、うっとなってしまう。谷崎さんの口元は赤くなったり、腫れたりしている様子はない。谷崎さんの言うとおり、私の方が赤い顔をしているに違いない。

「わかりましたから……手、離して」

 そう言って、谷崎さんの手からするりと抜けようとするけど、谷崎さんの手は私を逃がしてくれない。

「嫌だ。もう逃げられるのはゴメンだ」
「逃げたりしませんって」
「嘘だ」

 子供かっ……そう言いそうになる。だけどあの夜、逃げるように私が実家に行ったのは事実。

「だ、大丈夫ですってば」
「何故、そう言い切れる? 大体、なんでここに来た? 何か取りに来たのか?」
「……」

 矢継ぎ早に聞かれ、たじたじになる。
 私がここに来た理由は……雰囲気的に察してよと思うけど、鋭いその目には通用しそうにない。
 
「……いたかったから」

 呟くように言うと、私の手を捉えていた手の力が緩み、私の手首は自由になった。谷崎さんは大きく目を見開いて、珍しいものでも見るような顔で私を凝視している。たどたどしい口調だったけど、この反応を見る限り、伝わったらしい。
 それなのに……。

「悪い。よく聞こえなかった。もう一回言って」
「……」

 嘘だ。
 谷崎さんのリアクションは、聞こえてたやつだ。そう言いたいが、その目はもう一度言えと私に告げている。
 もう、どうにでもなれ。
 谷崎さんから視線を外して、もう一度口を開いた。

「私は……谷崎さんに会いたかったからここにいるんです。だから、逃げたりなんてしませんっ!」

 部屋中に私の声が響き渡った。
 聞こえるようにって意識したら、叫んだような感じになってしまった。何だか……情熱的な告白をしてしまった気分だ。
 私の顔は十分に熱いというのに、更に温度が上昇している気がする。今だったら、顔から火を噴き出せる自信がある。
 逃げないって言ったけど、今すぐ冷水を浴びたい気分だ。言った本人がこんなに恥ずかしいのだから、言われた方はどんな顔をしているのだろう。恐る恐る谷崎さんの方に視線を合わせた。
 谷崎さんは顔色を変えることなく、黙ったまま私を見ていた。顔に出さないのはこの人の長所だど思うけど……ちょっとムカつく。こっちは顔から火を噴き出しそうな勢いなのに……。

「今度はちゃんと・・・・聞こえましたよね?」

 大人げないとわかっているけど、あまりの反応の薄さに意地悪な聞き方をした。

「ああ……ごめん。つぐみがそんな風に言ってくれるなんて、夢にも思わなかったからぼんやりしてた」

 そう言われると複雑だ。谷崎さんの中にいる私はどんなキャラなんだと問いたくなる。でも、穏やかな笑みを浮かべる谷崎さんを目にして言葉を失った。
 その笑みの中には、嬉しいという感情もあったけど、ほっとしたという思いも滲み出ているように見えた。
 当たり前だ。
 この人だって、ずっと不安を抱えていたんだ。

 目が覚めたら、三年間も時が進んで結婚していた──その現実に私は戸惑ってばかりで、もう一つの現実に気づくことができなかった。
 自分の奥さんが交通事故に遭って、奥さんの中身が三年前に戻って自分の存在が消えてしまった──という現実だって戸惑うはずだ。
 相手の中から自分と築いてきたもの全てが無くなってしまう。それは私が思う以上に切なくて痛みを伴うものだったはずだ。
 不安にならないはずがないのに、谷崎さんは私の前ではそんな素振りを見せなかった。
 
「ごめんなさい」

 谷崎さんの目をまっすぐ見て頭を下げた。
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