迷子のネムリヒメ

燕尾

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第51話

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 胃袋をつかまれる──という女子力のカケラもないきっかけで、私と谷崎さんは仲良くなっていった。けれど、それはあくまでも上司と部下としてだ。
 心を開いたと言っても仕事以外の話をするようになったくらいで、それも新聞やニュースの話や会社の近くの安くて美味しい店の情報とか、コンビニスイーツの新商品の話という……浅いものばかりだった。
 資格取得のために勉強しているという話はちらっとしたらしいけど、公認会計士を目指しているという話は一切しなかった。

「本音を言えば……話して欲しかったと思う。だけど、安易に他人に話すことでもないよな。俺がつぐみの立場でも言わなかった。その上でどうするかを考えた」

 谷崎さんが出した答えは、私が公認会計士のことを口にしない限り、知らない振りを貫くというものだった。
 自分だったら絶対に知られたくないという考えのもと、知らない体で私と接して事情を知っている南ちゃんには「俺が知っていることは絶対に伝えるな」と固く口止めしたそうだ。

「本当は業務量を減らしてやれればよかったんだけどな……」
「ダメですよ。それで業務を減らすのは間違ってる。そんな配慮されても、嬉しくなんかない」

 谷崎さんはそんなことをしなかったと知っていても、気弱な言い方に声を張り上げてしまう。谷崎さんはそんな私に苦笑した。

「そんな配慮はしてないから大丈夫だよ。減らしてやりたくても……あの時は市場開発課も大変な時だったし。俺にできたのは、体力がつくようにって時々旨いものを食わせてやることくらいだった。あとはつぐみに仕事を頼む上で、どうしたら効率的に作業できるかを考えて指示を出すようするとか? ……今考えると、大して役に立ってないな」
「そんなことない」

 力がつくようにって美味しいご飯を食べさせてくれたり、仕事をしやすいように考えてくれたり……至れり尽せりだわ。
 私はそんな谷崎さんの見えない優しさに気づけていたのだろうか。いや……きっと試験勉強に必死で見えていなかっただろう。
 嬉しいやら、ありがたいやら、情けないやら、自分に腹立つやら……プラスの感情とマイナスの感情が頭の中でマーブリングみたいになってきた。

「私って……谷崎さんに助けられてばっかりだ」

 自分を卑下するつもりはないけど、しょんぼりした気持ちになってしまう。

「それは違う」

 ため息混じりの私の呟きに穏やかだけど、毅然とした声が降ってきた。下を向いていた視線がその声の持ち主を求めていく。そんな私にふっと軽く笑って見せた後、谷崎さんは笑みを解いて真面目な顔をして口を開いた。

「助けられていたのは俺だ」
「え?」
「俺にとってつぐみは、ヒーローみたいなものだった」
「……はい?」

 谷崎さんの言葉に眉間にぎゅっと皺が寄る。
 ヒーローって? 何?
 童話に出てくる王子様? 
 それとも、なんとかマンとか、なんとか戦隊とか?
 頭の中で記憶にある限りのヒーローを思い浮かべる。
 ……全部男だ。一体、どういう意味なんだろう。
 なんとか戦隊のピンク的なイメージで言ってくれているんだろうか。

「……なんとかピンク的な?」
「つぐみは、ピンクよりもイエローだろう?」

 首を傾げながらの独り言に、谷崎さんが静かにツッコミを入れてきた。
 イエローって……大食いキャラじゃん。
 戦隊ものをほとんど見たことない私だって、それくらいは知ってる。
 
「あんまりだ……」
「え?」
「イエローって大食いキャラでしょ」
「……」

 拗ねながら言うと、小さなため息が聴こえてきた。

「言っておくが、歴代のイエローで大食いのキャラはほとんど存在しない。今のイエローは、曲がったことが嫌いな真っ直ぐな女性キャラだ。ちなみにピンクは、駆け引き上手な小悪魔キャラだ。それでもピンクがいいのか?」

 ……私にピンクは無理だ。

「イエローでいいです」

 谷崎さんの的確な解説で素直に納得する。だけど……。

「何でそんなに詳しいんですか? まさか……」

 実は戦隊シリーズオタクで書斎の重厚そうな経済書の奥に、歴代のDVDとかを忍ばせていたりして?

「オタクじゃない。甥っ子達からオモチャをせがまれるから、覚えただけだ……って、何でなんとか戦隊の話になるんだ」
「谷崎さんが変なこと言うからですよ。ヒーローって……ヒロインならともかく」
「ヒロインか……」

 そう言って谷崎さんは私をじっと見つめた。

「……無理だ。俺にはあの日のつぐみはヒーローにしか見えなかった」
「……っ」

 あの日という言葉に胸がざわめく。
 私の予想が正しければ、谷崎さんの言うあの日とは私の試験一日前の話だ。

「あの日って……」

 ゆっくりと呼吸を整えて尋ねると、谷崎さんはゆっくりと頷いた。

「そう。つぐみの試験一日前の話だよ」

 それは八月のお盆が明けた頃のことだった。
 私が受けていた公認会計士試験は短答式と論文式の二つで成り立っている。
 私の場合、短答式試験は前年に合格していた。だから免除申請をして、論文式試験だけを受けることになっていた。
 その論文式試験は、毎年八月の中旬を過ぎた頃に実施される。うちの会社は夏休みは雇用形態に関わらず、好きな時期に取ることになっている。だから私は毎年この時期に夏休みを取っていた。それは市場開発課に異動しても同じだった。
 八月は取引先の夏季休暇の関係で閑散期にあたるけど、その年は事情が違った。
 お盆明けに市場開発課にとって、重要で大きな商談が控えていたのだ。谷崎さんをはじめとする社員の人達は、普段の業務に加えて膨大な資料の作成や打ち合わせに明け暮れて、毎日終電続きだったと、南ちゃんに聞いたことがある。

「そんな時期に夏休みって……ちょっと罪悪感ですね」
「いや、当然の権利だろう。それにつぐみは休みに入る前にできる限りのことを済ませてくれていた。残っていたのは、プレゼンのリハーサルくらいだったし」

 その日は大事な商談の前日だったけど、事前準備を済ませていた谷崎さんにしてみれば、よくある普通の一日に過ぎなかった。
 それを一変させたのは、客先に提示する資料用に提供していたデータに欠陥があるという技術部からの連絡だった。

「一日前に言われても……って話ですね」

 素直に思ったことを口にしたら、谷崎さんは視線を落として笑って首を横に振った。

「いや、あれは俺の確認不足だ」
「そんな……技術部のデータに誤りがあるなんて、営業部門じゃ見抜けないでしょう」
「俺が新入社員だったらな。だけど、俺は仕事で技術部のデータを何度も目にしていた。現に連絡を受けて見直したら、違和感がくっきり見えた。俺が見過ごさなければ、もっと早く手を打てたはずだ」
「……」

 谷崎さん自身に向けられた厳しい言葉に息を呑む。
 そんなことないと言いたいけど、これは私が踏み込んではいけない領域だ。どういう状況だったにしろ、そのまま客先に提示していたら、失注だけじゃなく会社の信用を大きく損ねていたかもしれない。信頼を得るのに時間や労力をかけても失う時は一瞬だ。

「それで……どうしたんですか?」
「すぐに正しいデータを入手して、資料を作り直すことにした」
「客先にリスケをお願いするとかは考えなかったんですか?」
「徹夜すれば何とかできるレベルだったからな。それにあれは五社競合の案件で、うちのプレゼンが最後たっだんだ。その状況で延期を申し出るのは不利だと判断した」

 私を呼んだらという声もあったらしいけど、谷崎さんはそれを頑なに拒否した。
 谷崎さんは私が翌日試験を控えていると知っていた。それは南ちゃんも同じで、連絡しようとする他の社員を睨みつけて威嚇していたらしい。
 だから、私がそれを知ることはなかった……はずだった。
 だけど、私はその時にたまたま姫島さんの家にいて、姫島さんに届いた「トラブルが起きたから今日は帰れないかもしれない」という大路さんからのメールで間接的に知ってしまった。

「それは不可抗力ですね」
「そうだな……大路は落ち込んでたけど、つぐみと姫島さんが一緒にいるなんて誰も思わないし。息を切らしながら駆け込んだつぐみを見た時は、本当に驚いた。だけど、すぐに我に返ってつぐみを廊下に連れ出して、どうしてここに来たんだって一喝した」

 その時の谷崎さんは普段とは違って、かなり冷たくて厳しい目を私に向けていたそうだ。だけど、私は怯むことなく、姫島さんに届いたメールで知ったので来たと淡々と答えた。

「大丈夫だから帰れって言っても、つぐみは帰ろうとしなかった。あんまりにも強情だったから、明日は論文式試験の一日目だろって言った」
「……それで?」
「ハトが豆鉄砲食らったような顔してた」

 それはつまり、かなり面食らったってことか。
 きっと間抜けな顔してたんだろうなあ……。でも、私の事情なんて知らないだろと高を括っていた人の口から、論文式試験なんて言葉が出できたら……動揺くらいする。

「俺が知っているとは夢にも思っていなかったんだろうな。面白いくらいに固まってた。だから、優しく諭すように帰りなさいって言った」
「それを私は拒否したんですよね」
「ああ。さっきまで間抜けな顔してたくせに、急にキリッとした顔で“嫌です”って即座に返してきた」
「……私らしい」
「最初はその態度にカチンと来たけど、その後に“大丈夫です。これでダメになるような浅い努力なんてしてません”って笑って言うんだからな」

 うわぁ……南ちゃんからちらっと聞いてたけど、本人から聞くと破壊力が増す。

「……試験に落ちてるくせによく言うって話ですよね。本当に恥ずかしい。タイムマシーンがあったら、今すぐ回収しに行きたいくらい」
「それはダメだ」
「え?」
「今のつぐみが思おうが、俺はあの時のつぐみに見惚れたんだから」
「……っ」

 さりげない谷崎さんの告白に心拍数が一気に跳ね上がった。
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