迷子のネムリヒメ

燕尾

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最終話

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 午前五時。
 いつもと同じように目が覚める。
 違うのは体に残る気だるさと、私をがっちりホールドしている腕の存在。ちらりとその腕の持ち主の顔をのぞくと、幸せそうな顔をして眠っている。

「……そんな顔されたら何も言えないわ」

 昨日の夜は翻弄されっぱなしだった。
 私の名前を呼ぶ低くて甘い声、私を見つめる艶っぽい瞳、私に触れる長い指先、そしてとても熱い唇。この人から与えられる刺激に私は蕩けるしかなかった。
 普段の淡々とした雰囲気の裏側で、あそこまで激しい熱情を持ち合わせていたとは……って、反芻しなくていい。
 リセットがてらシャワーでも浴びてこよう。
 幸せそうな眠りを解かないように、私を捕えている腕を慎重に外し、ベッドから抜け出した。

「あれ?」

 昨日着ていた洋服達を探すけど、見当たらない。だったら部屋着でと思うけど、ここで暮らし始めてからから客間で生活していたので、そっちに置いている。
 参ったな。クローゼットに残っているのは、外出着ばかりだ。事後の後のままの状態で着るには抵抗がある。
 裸のままで客間まで行くのもな……どうしたものかと迷っていたら、ハンガーにかかったメンズ用のTシャツが目に入った。
 何の柄もないシンプルなグレーのTシャツ。タグを見て見ると、よく知っている量販店のものだった。洗濯してベランダに干していたものを、そのまま寝室に持ってきて掛けていたらしい。

「これならいっか」

 そうっとハンガーからTシャツを外し袖を通してみる。

「へぇ。意外といける」

 それなりの体格差があるから、ブカブカだろうなと思いきや、意外と様になっている。確かに大きいけど、袖と丈の長さがいい感じでちょっとしたワンピみたいだ。

「何がいけるんだ?」
「……うげっ?」

 不意に聴こえてきた声にびっくりして、変な声が出てきてしまった。ベッドの方を見やると、幸せな寝顔を浮かべていた人が起きてこっちを見ている。寝起きなのか、その目はトロンとしている。

「ごめんなさい。起こしちゃった」
「それ……俺の」

 そう呟いて私が着ているTシャツをじっと見て、何かを考え込んでいる。
 ……そんなに考え込むことかしら? ちょっと借りただけなのに。つられて私も考え込んでみる。
 ……嫌な人は嫌なのかも。逆だったら……想像してみるもんじゃない。絶対にありえない。そもそも私のサイズじゃ小さすぎる。そう考えるとこれって不公平? と今更ながら罪悪感が湧いてきた。

「ごめんなさい」

 もう一度謝る。返事はないけど一人で何かぶつぶつ呟いているように見える。そんなに思い入れのあるTシャツなの? 怪訝に思い近寄ってみると、腕を掴まれ体を引き寄せられた。

「俺を誘惑してるのか?」
「はっ? どうしてそうなるんですか? ……って、ちょっと待って谷崎さん!」

 何となく危険な感じがして、その腕を解こうとしたけど、更に体を引き寄せられた。谷崎さんの唇が私の耳元に近づいてくる。

「名前で呼べと言ったはずだ」

 少し不機嫌そうな声音に嫌な予感を察知する。

「わかってますけど、そんなに簡単に切り替えられませんって」
「……それは残念だ。名前で呼んでくれたら、俺も冷静でいられたんだが。つぐみが煽ったんだからな」

 訳のわからないことを言われ、ベッドに引き込まれそうになる。何、このブラックキャラは……朝が弱いって、寝起きが悪いってことだったのかと今、納得する。

「ちょっと待って。け……け、圭さん」
「もう遅い」

 躊躇いながらも名前で呼んだのに……そんなことはお構いなしとばかりにベッドの中に引きずられていく。
 一体、何が起きているんだ?
 さっぱりわからないけど……どうやら何かのスイッチを押してしまったらしい。
 それが何かを考える間も無く、私は再びベッドに沈められていった。

 土曜日の商店街は天気がいいこともあって、いつも以上に人が多くて活気に溢れている。
 主要なデパートやショッピングセンターがバーゲン真っ盛りな中、商店街も負けじとサマーセールと称して様々なイベントを催している。
 ポイント三倍キャンペーンや抽選会だけじゃなくて、ちょっとした縁日コーナーまであって、子供も大人もそれぞれに楽しんでいる。とても心躍る光景なんだけど、あいにく私の体力はそのテンションについていけそうもない。

「大丈夫か?」

 隣を歩く人が心配そうに私に尋ねる。

「……」

 一体どの口がそんなことを聞くのだろう。昨日の夜や今朝のことを覚えていないのだろうか。
 ……大丈夫なはずがない。
 身体中のあちこちが筋肉痛みたいだし、寝不足でふらふらするし、喉はガラガラしてていつもより声が低くなっているし。
 そして……至るところにつけられた跡。
 そのおかげて夏日だというのに、ハイネックのカットソーに長袖のカーディガンという、季節感無視の格好をするはめになった。
 あれから眠りはしなかったけど起き上がることができず、ベッドの住民になっていた。ようやく動き出せたのは昼過ぎだ。
 さくっと家事を済ませてトーストをかじりつつ、朝ドラ一週間分の再放送をチェックして、ランチがてら出かけてそのままバーゲンへ直行。
 私の頭の中にあった土曜日の計画が次々と崩れていく。
 それもこれも……隣を歩く人のせいだ。
 まったく……誰? この人のことを草食系だなんて言った奴。
 会社で草食系だの出汁で十分だの散々揶揄されていたのは何だったのかしら。
 まあ、雰囲気は見るからに草食系だけどね。
 こういうのをロールキャベツ男子って呼ぶらしいけど、そんな可愛いものじゃない。ぱっと見、まるごと一個のキャベツだげど、その中には肉がぎっしり詰まっていると言う、巨大ロールキャベツだ。
 わかっている。
 この人は何も悪くない。私が甘く見ていただけだ。
 昨日だって私を実家に送ろうとしてくれたし、今日だって動けない私の代わりに家事を済ませてくれたし、朝ドラ再放送は録画しておいてくれたし、ゆっくり歩く私に合わせて歩幅をかなり狭めてくれている……理想の旦那様状態だ。

「つぐみ?」

 無言のままの私にしびれを切らしたのか、私の顔をじっと覗き込む。

「~~~っ」

 近いっ! そんな風に見つめられると照れるってば。
 一つ歳を取ったくせに、何でそんなに肌をツヤツヤさせているの?
 顔が赤く染まっていくのはバレバレだと思うけど、耐えきれれずにその視線から逃げる。
 この人がキラキラして見えて……困る。
 何で?
 一線を超えた恥ずかしさが残っているから?
 自分の気持ちに気づいたから?
 わからないけど、一つだけ確かなことは──私、この人のことがたまらなく好き。

「熱があるんじゃないか。かなり無茶をさせたし」

 心配そうな声と一緒に大きな手のひらが私の額を捉えようとする。
 
「だ、大丈夫ですっ」
 
 急いで自分の左手で額をガードする。谷……圭さんはきょとんとした顔をしていたけど、私の左手のある部分を目にしたら、ちょっと嬉しそうな顔をした。
 気づいたのか……薬指に光るものの存在に。 
 そう、結婚指輪。前にはめてみたけど、落ち着かなくなってずっとジュエリーボックスの中で眠らせていた。出かける前にその存在を思い出し、再び薬指にはめてみた。すると、驚くくらいしっくり指になじんで……自分の気持ちと薬指はリンクしていたのねと、くすりとしながら納得した。
 言葉にしなくても伝わっただろうから、敢えて口にはしない。圭さんの笑みに私も笑みを浮かべ、ゆっくりと額から左手を下ろした。

「今日はいつも以上に賑やかですね」
「ああ、でもクリスマスシーズンはもっと凄いぞ。ポイント五倍やスタンプラリーにクリスマスプレゼント抽選会……盛り沢山だ」
「へぇー楽しみ」

 何気なく相槌を返すと圭さんは「だろ?」と言って、さり気なく去年の様子を教えてくれた。去年の一等はハワイ旅行だったけど、私が狙っていたのは三等の松阪牛の詰め合わせだったとか、残念賞だったけどこれで運貯金ができたから良しとしようと言う私に笑ったこととか。……春頃の私だったら、きっとそんな話に心を曇らせていた。

 あの日──休憩室でふて寝していた二十七歳の私が望んでいた三十歳の私の姿は、公認会計士になって忙しく働いているというものだった。
 仕事で土日が潰れても、膨大な書類や資料と喜々として格闘していている──イメージしていたのはそんな姿で、旦那さんと一緒に商店街を歩いている姿なんて思い描くこともなかった。
 思い描いていた未来とは違うけど、これはこれで悪くないでしょ? と二十七歳の私に語りかける。
 自分以上に大切に思える人がいて、その人も私のことを自分以上に思ってくれている──ありふれたことのように思えるけど、それはとても奇跡的なこと。
 今の私が思い描いている未来は、その人をたくさん喜ばせて、嬉しそうな笑顔を見ること。そのために自分のできることを探して増やしていきたい。それが今の私の考える幸せの形だ。
 目指していた公認会計士になれなかったことを思うと、今でも胸の奥がツンと痛くなる。三年分の記憶を失っている状態だって完全に受け入れられたわけでもない。
 これからも私にはたくさんの葛藤が襲ってくるってわかっている。だけど、私は大丈夫──なんて思わない。きっとたくさん悩むし、たくさん泣く。それでも、自分なりの答えを見つけて歩いていきたい。

「つぐみ、どうした?」

 考え事をしていたら、声が聴こえてきた。
 危ない。思慮にふけってせっかくの二人だけの時間をおざなりにするところだった。

「松阪牛の話をしてたら……お腹空いちゃいました」
「そっか……。じゃあ、とんかつ屋って言いたいところだけど、あそこは土日やってないんだよな。……そうだ。ハンバーグ行こうか? ちょっと待つと思うけど平気?」
「大丈夫です。待ってる時間も堪能します」
「了解。じゃあ、行こうか」
「はい」

 遠慮がちに差し出された左手に躊躇いなく自分の手のひらを合わせる。
 大切な人と手をつないで美味しいものを食べに行く──ささやかだけど贅沢な幸福感に浸りながら、私は弾むような足取りで歩いていった。

【完】
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