迷子のネムリヒメ

燕尾

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谷崎圭の場合

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 不意に目が覚めた。
 ベッドサイドに置いてある時計が示している時間は、日付が変わる十分前。
 今日は眠りが浅いのだろうか。
 普段は遅くまで起きておく分には平気だが、一度眠りにつくと余程のことがない限り、目覚ましのアラームが鳴り出すまでは起きない。
 それに寝起きの割に妙に意識がはっきりしている。
 ……まさか、さっきまでの現実は夢だったのか?
 嫌な胸騒ぎに体を起こしてベッドの中の存在を確認する。
 ……よかった。
 俺の心配をよそにすうっと寝息を立てて眠る存在に胸を撫で下ろす。額をそっと撫でてみるが、起きる気配は全くない。どうやら深い眠りの世界に入っているようだ。
 ……当たり前か。
 それなりに無茶をさせた覚えはある。
 
「それにしても、今日は君に驚かされるばかりだった」

 思い出しただけでも口元が緩んでしまう。

「君は嫌がるかもしれないけど、やっぱり君は俺にとってヒーローだよ」

 起きる気配のない相手に小さな声で囁く。

 今年の誕生日は最悪な一日だと思っていた。
 結婚して初めて迎える誕生日。この歳になると自分の誕生日に対して浮かれたりはしないが、つぐみは何ヶ月も前から楽しみにしていた。
 その日は絶対に休むんだと言って、色々なパンフレットを熱心に眺めていた。その大半が牛肉とケーキで占められていたから、胃袋の限界にでも挑戦させる気かと不安になったが、つぐみの楽しそうな姿を見ていたら、いつの間にか俺も自分の誕生日を心待ちにするようになっていた。
 だが、それはあの事故をきっかけにあっさりと崩れ去った。
 事故の影響で記憶喪失になってしまった妻は、夫である俺の存在を忘れ去ってしまった。一人で悩み考え抜いた末に選んだのは、記憶を取り戻させることよりも、一日も早く今の世界に適応させる道だった。
 自分の考えは間違っていないと信じていたが、それが妻の過去を置き去りにして追い詰めてしまった。そして、妻はそんな俺から逃げるように実家へ戻ってしまった。
 そんな状況の中で過ごす誕生日が悲惨なのは言うまでもないことだ。
 だけど、今日が終わろうとしている今、とても幸せな一日だったと思える。そんな一発逆転ホームランを打ったのは、俺の存在を忘れ去っていたはずの妻だった。

 今日なんてさっさと終わってしまえ──と心を乾燥させていた俺に届いたのは、事故に遭う前……三十歳のつぐみが準備してくれていた誕生日プレゼントだった。
 届けられた俺好みの財布。
 俺の細かいダメ出しを一つ一つ大切に覚えて、それを注文するのは大変だったはずだ。
 けれど、俺におめでとうと言えることが嬉しいと綴られたメッセージカードを見て、大変さすらも楽しんでワクワクしながら俺の誕生日をを待っているつぐみの姿が目に浮かんだ。
 それは、俺が忘れかけていたものを思い出させてくれた。
 つぐみがどれだけ俺のことを大切に想ってくれていたか。そして、俺がどれだけつぐみのことを大切に想っているか。

 そして……二十七歳のつぐみ。
 会いたくて……会いに行こうとしたその時にドアが開いて、つぐみが目の前にいた。
 どこか使命感が滲んていたその表情は、試験前の休みを返上した時と同じだった。

「俺がピンチの時に絶妙なタイミングで現れるんだから……ヒーローとしか言いようが無いだろう?」

 ──ただいま。
 その言葉に三十歳のつぐみが戻ってきたのかと心臓が早鐘を打った。奇跡が起きているのか──と期待したのは事実。だけどそうではなくて、つぐみは申し訳なさそうな顔をしていた。
 奇跡が起きなかったのは残念だった。だけど、二十七歳のつぐみが言った“ただいま”は俺にとって、つぐみの記憶が戻るのと同じくらい嬉しかった。それは俺と過ごした日々がつぐみの一部になっていたと思えたからだ。
 そして……怒涛の告白。
 直球で飾り気のないつぐみの言葉は、俺の心の中にあった曇りを凄まじい勢いで振り払っていった。それはもう……笑ってしまうほど見事に。俺の奥さんは本当に真っ直ぐだ。
 あの夜の後、仕事に没頭してつぐみのことを考えることから逃げていた俺とは違い、つぐみはしっかりと自分の過去に向き合っていた。
 自分の過去と向き合う。
 記憶がある人間ですら辛い作業なのに、記憶喪失の状態でそれをやるのはどれだけ苦しかっただろう。
 三年間という時間の中にある過去は、必ずしも良い過去ばかりではない。悲しみや憤りを含んだ過去だってある。記憶がない以上、悪い過去は無かったことにするという手段はある。だけど、つぐみは悪い過去にも真正面からぶつかっていった。今日に至るまでの間に、どれだけの傷と痛みを負ったのか……つぐみはさらりと話していたけど、想像するだけで胃が痛くなりそうだ。
 だけど、つぐみはそれを乗り越えて二十七歳の自分と三十歳の自分を繋げて、こうして俺のところに帰ってきた。

「全く……俺は君に救われてばっかりだな。でも、今度は俺が助けるから」

 つぐみは戻ってきたけれど、つぐみの傷は完全に癒えてはいない。
 記憶が戻るか戻らないか、はっきりとした答えが出ていない以上、ふとした瞬間に苦しむことだってある。

「きっと君は、自分なりに消化してやるって思っているんだろうけど……俺のことも頼ってくれよ」

 記憶喪失という感覚が分からない以上、俺がつぐみの苦しみを変わってやることはできない。だけど、側にいて支えることはできる。俺と過ごした日々が幸せだったから──とつぐみが告げてくれたことで自信がついた。
 俺は俺なりの方法でつぐみを守っていけばいい。

「何があっても、俺はもう君のことを離さないからな。君ばかりにヒーローの座は譲らない。守られるばっかりは性に合わないんだから……覚悟しろよ」

 耳元で囁くと、つぐみの口元が動いた。

「……神戸牛だぁ」
「……ふっ」

 この雰囲気の中でそれを言うか? とつっこみたくなる色気のない寝言に笑ってしまう。
 一体、どんな夢を見ているんだ。何となく想像はつくが……。幸せそうな声音とは裏腹にその眉間には皺が寄っている。最初は何と戦っているんだって思ったけど、幸せな夢を見ている時も集中するからこうなると知ったのは、二人で過ごすようになってから。

「……圭さんも」
「ふーん。さっきまではあんなに躊躇ってたのに……寝言だとすんなり俺の名前を言えるんだな」
「……やく、熱いうちに食すの……が鉄則」
「ハイハイ、今度本物を食いに行こうな。とりあえず……眉間の力を抜こう」

 夢を邪魔しないように静かに声をかけて、そっと眉間を撫でて瞼に口付けを落とした。

「くすぐったい……これから駆け込み牛」

 駆け込み牛って……ラストスパートなのか。それにしても、どれだけ牛、牛言っているんだ。俺のライバルは肉なのか……バカな想像をしながらつぐみの寝顔を眺めていたら、いい感じに眠気がやってきた。
 再び体をベッドに体を倒し、隣に眠るつぐみを引き寄せ、宝物を抱えるようにそっと腕の中に閉じ込め、俺は再び深い眠りについた。

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