始まりはどこから?

燕尾

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上司と部下の騙し合い

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 4月になった。
 新入社員が入社し、会社全体が若返ったような錯覚を覚える。
 今年は市場開発課には新人社員は配属されないが、新人研修や他部署の新人の挨拶回りやらで、それなりに新しい奴らと顔を合わせている。
 彼らは緊張した面持ちをしながらも、希望に満ち溢れた表情をしている。それを微笑ましく思う反面、新入社員時代の自分の未熟さを思い出し、苦い気持ちにもなる。失敗や苦い経験を経て今の自分があるとわかってはいるのだが……。
 新入社員は入ってこないが、我が市場開発課にも小さな変化が起きている。
 突然のできちゃった婚で俺を悩ませてくれた大路と姫島は、先日めでたく入籍を済ませた。挙式や披露宴は子供が産まれてからにするそうだ。最近まで新居探しや入籍に伴う手続き等でバタバタしていたようだが、ようやく落ち着いてきたらしい。

「子供ができたので結婚します」

 大路にさらりとそう告げられた時には、こっちの苦労も知らずに簡単に言いやがってと思ったものだが、大路なりに迷惑をかけたという自覚はあるようだ。借りは仕事で返してやるとばかりに今まで以上に頑張っている。上司としては喜ばしいことこの上ない。
 姫島も技術営業支援課で何とかやっているみたいだ。本人と話す機会がないので詳しいことはわからないが、問題があれば佐々木課長が何か言ってくるはずだ。それがないということは、上手くやっているのだろう。 
 仕事の量や難易度はうちの課よりも優しいはずなので、無理をしない範囲で頑張って欲しいと思っている。

 一方、彼らの結婚で巻き添えをくった柏原はと言うと……。

「谷崎課長、今よろしいですか?」
「ああ」
「ご依頼頂いていた書類の作成が終わりましたので、チェックをお願いします」

 無表情の柏原からクリアファイルを受け取る。
 ファイルの中には今日の17時までにと指示しておいた書類が入っている。ちなみは今は15時。期限の2時間前ぴったりだ。

「ありがとう。他は何か指示してたっけ?」
「次は昨日指示を頂いたA社の資料の修正に取りかかる予定です。期限は明後日の午前中でしたよね。それまでに急ぎの案件があれば、お早めにお知らせ頂ければと思います」
「了解。じゃあA社の方をよろしく。柏原さんはスケジュール管理がしっかりしているし、資料も完璧に仕上げてくれるから助かるよ」
「いえ、失礼します」
 
 柏原は眉一つ動かすことなく、さっさと自分の席に戻った。
 可愛げのない奴。
 姫島だったらこういう時、満面の笑みを浮かべて嬉しそうにするのに。もっとも頻度が少なかったのもあると思うが……。
 それにしても、少しは嬉しそうな顔しろよな。心の中で毒づきながらも、受け取ったクリアファイルから書類を取り出し目を通す。
 ……完璧。
 資料のまとめ方といい、書類の読みやすさといい、資料を見る側のことを配慮し尽くした仕事に感心すると共にため息がこぼれる。
 もっと上手く使えないものか……。

 3月から姫島に代わって、市場開発課にやってきた派遣社員の柏原は、毎日淡々と仕事をこなしている。
 始業時間の15分前に出社して、定時の17時半になったら早々にオフィスを出ていく。
 俺の予想通り、その仕事は真面目で質も高いので助かっている。
 だが、彼女は自分の力を抑えて仕事をしている。
 その証拠に柏原に仕事を頼むと必ずと言っていいほど、俺が指定した期限の2時間前に出してくる。
 最初は偶然かと思っていたが、今は敢えてそうしているのだとわかる。
 それはまるで「今の業務量が私にとって適正ですよ」とか「私のキャパは大きくないですよ」とか「姫島さんと大して変わらないですよ」とでも言っているかのようだ。たとえ早く終えていても、2時間以上前には出してこないあたり……徹底しているというと言うか、面倒なことをしていると言うか。
 そんな真似をするくらいなら、期限ギリギリ出せばいいのにと思うが、そこは確認する側の俺への配慮もあるのだろう。上司としてはありがたいことなのだろうが、裏を返せばそんなことに気を回せるほど、余裕があるってことだ。
 柏原にとって、姫島がやっていた業務は物足りないはずだ。
 お互いの業務の引継を見ているだけでそれはわかっていた。柏原の説明を必死にメモしていた姫島と違い、柏原は姫島の説明を軽く聞いていた。業務のやり方は姫島に聞くまでもないという感じだった。
 その一方で、俺から何の業務を振られていたかは真剣に尋ねていた。姫島がやっていた業務をはっきりさせることで、自分が担う仕事範囲を確定させようとしていたのだろう。
 その様子に言いたいことは色々あったが、派遣社員に無理はさせないようにと部長に釘を刺されていたので、黙って眺めていることしかできなかった。
 今の柏原に文句は言えない。
 仕事が完璧なのは言うまでもなく、会議の準備や備品の管理といった雑務なんかも、俺が指示しなくても進めておいてくれる。
 柏原が来てから市場開発課の業務効率は大幅に上がった。それは誰の目から見ても明らかだ。
 柏原が来てくれてよかった──口には出さなくても、社員全員が思っているはずだ。もちろん俺もそう思っている。だからこそ……柏原の覇気のなさというか気だるさが気になる。
 本当にやる気も実力もない人間のそれだったら気にはならない。だが、彼女の場合は敢えてそうしているように見えてしょうがない。
 本当は力を持っているのに、それを隠すどころか使おうとしない姿勢に苛ついてしまう。
 ──自分を低く見積もらせて楽しいのか?
 ──今はいいかもしれないが、力を抑える癖がついたら後々後悔するぞ! 
 それを柏原に伝えたところで、聞く耳を持たないのはわかっているが、黙って見ているだけなのも歯痒くてしょうがない。
 今年は勝負の年だ。
 元々、うちの会社の取引先は自動車メーカーや家電メーカーだった。
 優れた技術力で長年に渡り、それなりのシェアや売上を保っていた。ところがリーマンショックを皮切りにそれがどんどん崩れ始めた。
 多くの取引先が売上を大きく落とし、生産調整を行うようになった。それはうちの会社の業績に大きな影を落とした。
 創業以来の危機的状況に経営陣がとった戦略は、経費削減と景気の影響を受けにくい新たな市場の開拓だった。それを一番に担うのが市場開発課だ。
 今までの市場開発課は営業部門の援護射撃的な立場だった。だが、今後は積極的に売上に貢献していくという攻めの姿勢が求められるようになる。
 この会社に入社して11年。
 地方の営業所で地道に業績を上げてきた。
 去年、長年に渡って他社が独占していた機械メーカーの受注を奪ったことを評価され、課長に昇進すると同時に市場開発課を任されることになった。
 昇進は素直に嬉しかったが、その分責任も感じている。
 俺が狙っている市場の開拓は、競合他社も考えていることだ。その中で遅れをとることなく確実に受注に繋げていく必要がある。それができないのであれば、市場開発課の存在意義はなくなる。
 そういう状況だからこそ、柏原が持っているであろう力が欲しい。
 だが、敵はそれを頑固なまでにそれを見せようとしない。
 何気なく柏原の方に視線を向ける。
 敵は俺のことなど眼中に無いといった様子で、PCの画面を見つめている。
 そっちが力を見せないのなら、こっちにも考えがある。
 今は様子見だ。
 姫島と同じ仕事を任せてはいるが、姫島の時よりも複雑な要求をしているし、納期を短めに設定している。
 だが、今のところ柏原はそれを難なくこなしている。
 それだけで姫島より仕事のレベルが上だとわかる。いや、姫島だけではない。事務を担当する他の女性社員達よりも上だ。それが柏原自身の力なのか、前の会社で叩き込まれたものなのかはわからないが、とうしても期待してしまう。
 今後は更に納期を短めに設定していく予定だ。いつまで2時間の壁を守れるのか、今はその見極めを慎重にしているところだ。
 幸いなことに、柏原は俺が自分の実力を測っているとは気づいていない。仕事に対する勘は鋭いくせに、こういうところは鈍いようだ。でも、今はその鈍さをありがたく利用させてもらっている。知らないうちに少しずつ業務量を増やし、気づいた時には……という戦略だ。
 卑怯かもしれないが、綺麗事だけで仕事はできない。向こうが実力を隠す以上、こっちだって策を練らせてもらうまでだ。
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