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18 招かれざる客

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 河童の力は強くてビックリするくらい僕は横軸方向に飛ばされた。
 身構えたけど力をいなしたり受け止めるどころか、抱き付かれて河童共々宙を飛ぶって始末に泣きたい。
 ぐんと遠ざかる岸辺。
 これはまさかの滝壺ルート?
 夢の中と同じとか、冗談じゃない。
 だけどそう思った刹那、河童のすぐ背後を何か真っ黒くて大きなものが勢いよく通り過ぎた。

「……へ?」

 未だ河童と宙を移動しながら、しゃっくりのような声が出た。
 だってまさに完全埒外らちがい

 そいつは突如川面を盛り上がらせて飛び出してきたんだから。

 岸の方からも驚愕の声が上がった。
 大海原をくじらがジャンプする光景を間近で見ているような気分だった。河童のせいで後方に飛ばされているのに、弾けた飛沫がそれ以上の速さで飛んできて頬で砕け散る。
 生存本能が危機を告げ、僕は背筋を凍らせながら河童の襲撃を失念する程に呆然としてしまった。
 僕と弟がそれまで居た場所目がけて横から突っ込んできたソレは、端的に言って口部分のある顔のでかい魚で、間違いなく人間世界ではお見掛けしない生き物だ。
 河童が突進して来なければ、兄弟二人で仲良くその大口に食べられていたに違いない。

 もしかして河童は助けてくれた、とか?

 なーんて、さすがにそこまではないか。
 僕と河童は黒い妖怪魚が着水するのを見届ける前に落水し、水面に背中を強かに打った。
 くっ、この感覚はどこかで覚えが……ああ夢の中と同じだ。
 衝撃に意識を持って行かれそうになって、歯を食い縛って抗った。水中は言わずもがなで河童に有利だ。これには普通人たる僕には抗いようがない。河童は水掻き付きの指でしっかりと僕の腕を掴んで先行するように泳ぎ出す。
 僕はなす術なくぐいぐいと水底の方へと引っ張られていく。

 それだけでもピンチなのに輪を掛けてヤバいのは、追い掛けてくる妖怪魚だ。

 妖怪であれあんな巨大な魚類を直に見るのは初めてだった。
 河童もろとも一呑みにされること間違いなしの大きさと、僕の位置からだと大口の中のサメみたいなギザギザ歯がバッチリ見えているって点で戦慄しかない。
 何か非っ常~ッにまずくない!?
 河童と妖怪魚、ダブルの危機感が僕の全身を震わせるのに、呼吸がままならず苦しい。せめて河童からだけでも逃れようと、ぬるぬるするその皮膚に爪を立てたけど、そんな程度じゃ相手は怯まなかった。
 ああくそーッもう息が続かないッ。
 背後の脅威に河童も気付いているのか泳ぎを速めた。
 だけど根本の体の大きさと筋肉量の違いは、いとも容易たやすく泳ぎの勝敗を決してしまう。
 すぐ先に赤黒い口腔を晒したあぎとが迫った。

 ひいいいーーーーっ! 食われるうううーーーーっ!

 悲鳴の代わりに動揺した僕の肺からゴボゴボと空気が抜けていく。
 すると何故かここに来て河童は僕の手を放した。
 コンチクショーッ自分が逃げるために僕を餌にするつもりなんだろーーーーっ!

 心の中で泣き言と恨み言を喚き、怨みがましい目で河童の姿を追った僕は、次の瞬間思わず我が目を疑った。

 河童は得意な泳ぎで僕の前に回り込むと、まるで僕を庇うように両腕を広げて妖怪魚の前に出て――ばっくりと食われた。

 え。

 何、で……。

 弱肉強食の残酷な現実が網膜にこびりつく。
 混乱か恐慌か憤怒か、よくわからない嵐のような感情が席巻するけど、息が限界でそんな感情も薄れていく。
 きっと次は僕の番だ。
 でももう泳げそうにない。
 ああ、願わくはまた八巻さん辺りが助けてくれれば……いやでも圧し掛かりはもう勘弁……。

 水中を漂うように全身から力が抜けて行く中、僕はなけなしの気概で迫る黒い魚影へと敵意を向けた。
 口でか妖怪魚のぎょろりとした赤い目ん玉を意地で睨みながら。

 ――これ以上来るな。

 一瞬、僕の気のせいだったかもしれない、妖怪魚の赤眼が瞠目したように見えた。
 まあ魚類に瞠目なんて使うのも変な話だとは思う。
 こっちに来るなと念じ、よくバトル漫画で見るような全身から迸る闘気なんてこの僕にあるわきゃないけど、気持ち部分じゃそんなものをメラメラ燃やしていた。
 だけど群青色に染まったみたいに心の半分はやけに平静で、とうとう肺から最後の空気をゴボリと吐き出すと自我がどこかへ滑り落ちていく。

 誰か……。

 絶好の捕食の機会なのに、妖怪魚は何故か動かない。

 助けを求め無意識に伸ばした腕の先のこれまたもっと先で、水面が朝顔の花の形みたいに開いたかと思うと別の影がぼんやり見えた。ああ誰かが飛び込んできたのか。
 助けを求めつつ、駄目だこっちは危険なのにと矛盾する思考を抱え、だけど、もう瞼は落ちる寸前だった。

 ひなた様、と千尋さんから呼ばれた気がした。

 ごめんな、僕本当は陽向じゃないんだ。

 そういえば直接彼女に嘘をついてごめんって謝りそびれたな、なんて思って心が痛んだ。




 ――――ボッ……!

 そんな着火の音が直接頭の中に響いて、僕の意識は糸一本で辛うじて繋がっていた。
 不思議にもまだ閉じている瞼の裏には、未だ水の中だろうに水の色じゃない綺麗な群青色の揺らめきが映し出された。
 何だか懐かしい色だ。

 もう息も苦しくない。

 ほんの少しだけ持ち上げた瞼の向こうには一対の群青色……ううん瑠璃色の美しい瞳が見えて、随分近くにあったけど何だか酷く安心して頬を緩めた。

 そう言えばこんな瞳を夢で何度も見たな。
 ああ、いや、夢じゃないんだっけ?
 いや、夢だったんだっけ?

 何であれ、この色は……温かさは……あの子だ。

 ――ちーちゃんのものだ。

 彼女の名を意識すれば、水底から次々と湧き上がる泡沫のように記憶が押し寄せて、弾けて分裂していくその無数の記憶の泡に僕は呑まれた。




 僕は過去にも自分の正体を偽ったことがある。

 得体の知れない相手に名を訊かれても答えないか、もしくは陽向と名乗れと陽向本人から注意というよりはむしろ懇願されていたからだ。
 理由は妖怪に本当の名前を知られると連れて行かれるとか何とか言っていた。僕はほとんど真剣には危険を感じていなかったけど、何せ可愛い弟からの頼みだ、一応は従うつもりでいた。
 でも日常でそんな機会はないままに日々だけが過ぎた。

 僕自身その取り決めを忘れかけていたそんな時、家族で狐守旅館に泊まって、そこで出会った妖怪の女の子に陽向とのその約束を実行した。

『川辺には怖いお化けが居るから、子供だけで入ったら駄目よ』

 宿泊初日、母親がそんなことを言っていた。
 僕は単に大人の目のない子供だけの水遊びは危険だって言いたかったんだろうと、勝手にそう解釈した。

 だけど川に誘われて、泳ぎは苦手じゃないからと警戒心もなく行ってしまった。

 その川というか沢は、旅館から裏山に入って下った所に流れていた。
 道は簡単だったし、旅館から遠いわけでもなかったから、僕は危険だなんて全く思いもしなかったんだ。
 誘ってくれた子が詳しそうだったから安心していたのもある。

 その子こそが「ちーちゃん」だ。

 ちーちゃんはちーちゃんでしかなく、本当の名前を聞いたけど忘れた。
 ……普段からあまり細かいことを気にせずのほほんと生きていて、陽向をえらく心配させていた僕の落ち度というか、駄目駄目さの賜だ。
 お人形みたいにきれいな瑠璃の目をしたちーちゃんは、初めて会った時は人目を逃れるようにして泣いていた。
 見つけて放っておけなくて声を掛けてしまったけど、彼女は日頃からよく見かけていた人ならざるモノとは違っていた。
 だって破格に狐耳と尻尾が魅力的だった。
 最初はコスプレした人間の子だと思ってたのは否定しない。すぐに違うってわかったけど。

 それでも妖怪であれ人間であれ、妹以外の女の子を可愛いなんて思ったのは、あの時が初めてだった。

 それも妹に感じる可愛いとはちょっと違っていて、妙に照れ臭さも伴う可愛いだ。
 あの時の僕は彼女に興味津々で、どうしても彼女と友達になりたかったんだ。
 初対面で一人きりで泣いていたせいもあるかもしれない。弟もよく泣く子だったから重ねてしまった節もある。
 とにかく、僕は仲良くなったその子に誘われて、次の日二人だけで川に行った。

 陽向には教えなかった。

 弟はその頃ももう趣味がオカルト関係で、妖怪と聞くとちょっと怖いくらいに過敏に反応する子だったから、ちーちゃんを紹介なんてしたらくっ付いて離れないんじゃないかって思ったんだよな。

 そしてそれは何だか嫌だった。

 だから黙っていたんだ。

 もう一つ、いつも周囲で見かける得体の知れない存在たちは、狐守旅館ではちーちゃん以外は一切見当たらなかった。まあもしかしたら他にもいたのかもしれないけどさ。
 だから弟にはここでくらいはのんびりしていてほしいって誘わなかった。
 自分のわがままと気遣いの選択が正解だったのかどうかはもう今更だけど、川は妖怪世界の川だったんだろう。何しろ妖怪がいたんだし。
 僕はそこで、まさに今日と同じく何かに水中に引き摺り込まれた。

 そうだ、あの時も河童だった。

 緑色をしていたのを覚えている。
 そして、溺れて死ぬところだったのを、ちーちゃんに助けてもらった。

 水の中で、優しい群青の炎が僕を満たすように広がっていたっけ。

 あの五年前の夏、死なないでという必死な声に意識を取り戻せば、自分は浅瀬に横たえられて、泣きそうなちーちゃんに覗き込まれていた。
 感覚が戻れば急に激しく咳き込んで飲んでいた水を吐いた。鼻水や生理的な涙やなんかを拭いながらちーちゃんに背を支えられてゆっくり身を起こした僕は、とても体がだるくて寒くて吐き気も込み上げて、いつになく気分が悪かった。
 何か目に見えない異物が体の中を駆け巡っているような、音もないのにそんな騒がしい感覚が体内を満たしていた。

『もう心配ありません。あの不届きな河童はわたくしが撃退しましたので大丈夫です』

 頼もしく宣言してくれた彼女だったけど、僕を支える両手が小刻みに震えていた。
 どうしたのかと見やれば、水滴じゃない大粒の雫がぽろぽろと両目から溢れていた。

『ううっ……よ、よかったです。ホントに良かったあああっ、ひなた様がいなくなっちゃわなくてえぇっ』
『えっ、ええと、もう大丈夫だから、その、うーんとっ』

 ふえーんと泣きじゃくるちーちゃんをあたふたと見つめた僕は、女の子に泣かれるのに慣れてなくて物凄くキョドッた。だって僕の中では妹が泣くのとはどうにも違っていたから。どう宥めようか少し考えて、結局弟や妹にするようにいい子いい子した。
 彼女は見るからに顔色が良くなかったけど、それは不安にさせたからだとその時は思っていた。

『泣かないでちーちゃん。助けてくれてありがとう』

 ちーちゃんは理解はしているんだけど感情が追い付かないみたいで中々泣き止まず、僕は困り果ててずっと傍で頭や耳を撫でてあげていた。……狐耳に触りたかったって気持ちも半分くらいはあったけど。

『もう泣かないで? ちーちゃんに助けてもらったからもう平気だからさ。……そんなに怖かった?』

 こくりとちーちゃんは細い首を頷かせると、もう離さないとでも言うように僕の服をぎゅっと握った。

『そっか、そりゃそうだよな僕も河童怖かったし』

 ちーちゃんはちょっと不満そうに『河童は別に……』とか小さく呟いたけど、それ以上は何も言わなかった。

『そうだ、僕がもっと大人になったら、怖くないように今度はちーちゃんを傍で護ってあげる。だからもう泣かないでよ』

 するとぴくりと金色毛の大きな耳を動かして、ちーちゃんはびっくりしたように瞬いた。驚きのせいか涙がピタリと止まった。

『……大きくなっても、あやかしのわたくしと一緒にいてくれるのですか? ひなた様は人間なのに?』
『妖怪とか人間とか関係ないよ。ちーちゃんは僕の友達のちーちゃんでしょ? 人間の僕じゃ頼りないかもだけど、嫌?』
『いいえ、いいえ! 嬉しいです。……ぜ、絶対ですよ? 絶対絶対の絶対ですからね?』
『うん、約束する。絶対だよ』
『はい!』

 世界にお日様の花なんてものがあったなら、それはきっとこのちーちゃんの笑顔みたいなんだろう、なんて思ったっけ。
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