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23 誤解が解けた向こう側

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『あれー? すずか? 馬鹿ケンからの電話じゃない?』

(ば、馬鹿ケン……? 馬鹿ケン!?)

 受け取ったスマホを手に、姉の呼称に愕然とした驚きの目でケントを見やれば、彼は額を手で覆って不愉快さとか羞恥とか自らの迂闊さなどの諸々の感情を抑え込んでいるようだった。
 呼び方だけで両者の上下関係がわかるというものだ。

「あの、ええと、ケン兄の電話で話してるんだ。そっかごめん、今そっちは朝なんだね。でも元気そうで何よりだよお姉ちゃん」

 外国に居るりさとは時差があるせいで、掛けるタイミングやあまり長い電話は控えるように気を遣っているすずかだ。しかも研究学会などの関係で別の国に滞在していたなんて事もあるので余計にだ。

『すずかもね。それでどうしたの? 何か用事? 馬鹿ケンもそこに居るの?』
「うん、居るよ」

 寝起きだと言うのに陽気な調子のりさの確認に、素直に頷いてケントにスマホを戻した。

「りさ、朝早くから電話して悪い。けど君からすずかに説明してくれないか?」
『何を……って、そうだごめんごめんめんご~。ついついすずかの前で馬鹿ケンって呼んじゃったわ』
「……それはもういい。今はとにかく僕が好きなのはすずかだって彼女を説得してほしい」
『え? 二人はもう結婚したんでしょ? 何その意味不明な状況?』
「したよ。けど……本当は少々認識のズレがあるまましたんだ」

 すずかとケントは対外的には好きで結婚した事になっている。例に漏れずりさにもそう話していたのだ。

『ふーん。ねえ、やっと結婚までしたくせに素直になれなくてまだ変な態度取ってるんじゃないわよね?』
「…………」

 明らかに目を泳がせたケントへと、画面越しのりさは全てを察し半眼で呆れた。

『はあ~。馬鹿ケンはホントどこまで行っても馬鹿なのね』
「……うるさいな。それで、説明してくれるんだろ」

 ややぞんざいな口調でケントが不機嫌をぶつければ、りさは『ん~どうしようかしら?』と勿体を付けた。

(え、ええと、ケン兄とりさお姉ちゃんって、仲は好いとは知ってたけど、私の知らない所では普段こんな気安いって言うか、出血大サービスの大安売りみたいな付き合いだったんだ)

 無論、売られているのはケントの何かだ。
 見ようによっては同性同士のようなあけすけさがあるのをどこか羨ましく思いながら、すずかは二人のやり取りを見守った。

「本当に今は冗談抜きに頼むから。これでも君の可愛い妹の今後の人生が掛かっているんだ」
『わかったわよ。ホント馬鹿ケンは事すずかに関してはしょうもない男よね』

 りさは仕方がなさそうに溜息をついた。
 気付けば座席に座りながらもケントの方へと体を傾け、彼と寄り添うようにして一緒にスマホを覗き込んでいたすずかの目に、新たな人物が映し出される。

『ん~リサ~? さっきから誰と話してるんダイ~?』

 ぬうっと画面に入って来たのは、若くハンサムな男性だ。
 剥き出しのたくましい腕がりさを抱き寄せる。
 褐色の肌の彫りの深い顔立ちの彼は画面を覗き込んで、画面越しにいるすずかへと『お?』と驚いてから微笑んだ。
 そんな風に品の良い微笑を浮かべれば、実は暑い砂漠の国の御曹司だと言われても納得してしまう風情を醸していた。

『スズカ~! スズカだ~リサ~! 元気かい~? 久しぶりダネ~!』

 豊かな感情のままにくしゃりと相好を崩し、流暢な日本語で話しかけてくる義理の兄のとても嬉しそうな様子に、すずかは揃って陽気な夫婦だと内心苦笑を浮かべて手を振った。

(これが世に言うラブラブってやつだよね。いいなあ)

 画面でイチャつく姉夫婦を微笑ましげに眺めていると、ケントが肩を抱き寄せてきた。

「もうっケン兄ってば電話中なのにどさくさで何やってるの!」
『アハッ何それ対抗意識~?』

 りさが茶化すようにしたけれど、ケントはムッとしただけで否定はしなかった。……腕も外さなかった。

「りさ、頼むからすずかに僕の潔白を証明してほしい」
『潔白? ちょっとやだ浮気でもしたの!? すずかを泣かせたら北極海に沈めるわよ?』
「違う。すずかはどうやら僕が君を好きだと思っているんだよ」

 りさがキョトンとして、次の瞬間には腹を抱えてケラケラと大爆笑した。
 堪え切れず毛布に倒れ込んだのか、画面の向こうが彼女と共に反転する。

『ないないないよすずかそれは絶対にない』
「え、でも昔告白してるの見たもん!」
『昔? いつの話?』
「小学生の頃。どこかのパーティーでケン兄が好きだよって言って、りさお姉ちゃんが嬉しいって返してた。だから今までずっとそう思ってたんだよ」

 随分前の出来事だからか、りさは半身を起こし首を捻るような顔をしていたが、ケントは記憶にあったのか「あれか」と脱力した。

「すずか、訊くけどどこから聞いてた?」
「今言った台詞の所だけだけど……」

 ケントがはあーと盛大な溜息をついた。

「これはもう完全に神様の悪戯だよ全く。それは確かに前後の会話を知らなければ誤解もするよなあ。だけどまあ、そんな前から誤解していたのか……」

 はあ、と彼はもう一度溜息を落とすと顔を上げ、わざわざスマホをすずかに持たせると彼女の肩に手を置いてひたと見据えた。

「あれは僕がりさにすずかとの仲を取り持ってくれるよう話していた際の、途中の会話だよ」

 ここでりさも話を聞きながら何かを思い出したらしい。

『あ、もしかして、すずかがテーブルクロスの中に隠れてた日の? あれは覚えてるわ』
「そうみたいだ」

 りさの苦笑する声がスピーカーから響いた。

『すずか、あの日は確かあたしが馬鹿ケンの気持ちを確かめるためにもあなたを好きかって訊ねたのよね。それで馬鹿ケンは正直に好きだって言ったのよ。ただそれだけの話だったんだけど……まさか今の今まで勘違いしていて尾を引いてたなんてねえ』
「そういう事だ。これで納得しただろう?」
「…………」

 すずかは、言葉もなかった。
 りさの言葉は真実なのだと素直に信じられる。

「私……」

 断片だけから勝手に思い込んだ自らの愚かさを恥じ、穴があったら入りたいと思った。今は走行中の車内なので逃げ出すのは無理そうだが。ケントもロックを解除してくれないだろう。
 彼へと今まで突っ撥ねる態度を取ってしまった自分が、猛烈に居た堪れない。
 りさは空気を読んでか『お役に立てて良かったわ。それじゃあそっちはそっちで頑張って~』と相変わらずの明るさで通話を向こうから切った。

 車内がシンとする。

(どっどうしよう、何て言って謝るべき?)

 雨に濡れた子猫のようにふるふる震え、赤くなったり青くなったりを繰り返すすずかは、画面の暗くなったケントのスマホを何かのよすがのように握りしめて俯くと、蚊の鳴くような声で言った。

「……ケン兄、今までごめんなさい」

 他の上手い言葉など一切思い付かず、ただただ謝罪として最も一般的な言葉しか浮かばなかった。
 すずかの肩から手を離して背凭れに背中を戻していたケントは、誠意が足りないと眉をひそめるでもなく明らかにホッとした顔をしていた。

「誤解が解けたなら、もういいよ」
「怒らないの?」
「いや、その、僕も君への態度が宜しくなかったし、お互い様って事でこっちも許してもらえると有難い」
「そっか。……ありがとう」

 そのいつにない素直な笑みに、ケントが瞳を揺らすようにしてどうしようもなく内心で悶絶したのをすずかは知らない。
 誤解が解けた喜びもひとしおで、彼としては本当ならすぐにでもイチャイチャしたかったが、足の手当てもまだでもあるし、すずかの方の気持ちの整理も必要だろうと思えば、今はこれ以上刺激を与えてはならないと自らを律した。

「あの、ケン兄」
「ん?」
「じゃあ、私に結婚を迫ったのは、やっぱりその……想ってくれてたから?」
「それ以外にはないよ。誰かと結婚するならすずか以外には考えられなかったし、結婚して君を助けられるなら一石二鳥だと思ったんだ。勿論、家とか会社とかの利益とは関係なく僕の望みとして君との子供だって欲しい。まあそれはまだ先の話だとは思うけどね」

 言われて気恥ずかしい内容ではあるけれど、すずかはケントとのまんま自分の理想のような家庭を築いているいつかを想像して、大いに照れつつも心が和んだ。
 自分でもそんな未来が待ち遠しい。
 どうしたって欲しいと願った。

「私たち、昔みたいに仲良しに戻れる……よね?」

 仲良し、だなんてすずからしい言い回しだと和みつつ、ケントは彼女の頭に手を置いて優しく撫でた。本当に彼女の黒髪は猫っ毛で柔らかく、無意識にでも手を伸ばして触りたくなる魔力があると半ば本気で彼は思う。
 そんな彼の唯一の黒猫姫は、されるがままに大人しくして、気持ち良さそうに目を細めた。

「……何だこの可愛い生き物」
「え?」
「いや何でも。勿論だ。まあ僕としては、夫婦なんだし昔以上に親密にって思っているけどね」
「……っ」

 おずおずとしたすずかの問いに穏やかに答えながら、やっぱり結局はマイペースに彼女を動揺させるケントなのだった。

 妻子持ちの専属運転手が二人の初々しい雰囲気に感化されて久々に妻に花束でも買って帰ろうと決めた頃、車は滑らかな動きで自宅マンションに到着した。
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