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26 二人のための新たな誓い
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「もう落ち着いた?」
ベッドの端に腰かけ嘆息するケントの横には、すずかが反省の色を滲ませて座っている。
「う、うん大体。ごめんなさい大声出しちゃって……」
近くの部屋の住人に通報されていない事を願いつつ、すずかはやらかしたバツの悪さに半笑いにも満たない微妙に抜けた顔で目を泳がせた。
どうやら就寝時は上を着ない日の方が多いというケントは、一枚シャツを羽織ってくれた。
ただ、ボタンも留めずに前が肌蹴ているので、すずかは隣を見る度に目のやり場に困ってもいたが。
(ふわあああ~っ適度に割れた腹筋、締まった胸板、腕から肩へかけての程良いしなやかな筋肉、浮き出た鎖骨とその他瑞々しい男盛りの色気……! 目の保養~~――じゃない目の毒目の毒!)
「寝ぼけて部屋を間違えたのは仕方がないにしても、僕の裸を見て絶叫するとか、海水浴に行ったらどうするんだ? いちいち目を塞ぐのか?」
安眠妨害された挙句悲鳴を聞かされては、さしものケントも呆れと言うよりも不機嫌さを覗かせている。
「だよね。ごめん……」
素直に謝罪するすずかを横目に見ていたケントは、軽く息をついて視線を正面に戻すと徐に腰を上げた。すずかが黙って見ていると、彼はすずかの膝と脇の下に手を差し込んで抱き上げた。
「え!?」
「部屋まで運ぶから。足まだ痛いだろう?」
「あ、あー、うんありがと」
反射的にそう言ってから、すずかは「あ!」と制止の意思を込めた声を上げた。
「ケン兄あのちょっと待って。質問があって」
「質問?」
足を止め、鸚鵡返しにしたケントへと彼女は逡巡するように視線を左右に動かしたが、決意して近くにあるケントの顔を見上げた。
「あのね、正直に言って。昼間の、キスを拒んだ事を怒ってる?」
一瞬ケントはポカンとした。
「何を言うかと思えば……。怒ってないよ」
「ホントにそう? 本音を言えばキスを催促されるかなって思ってたんだけど、あの後ケン兄はあっさりとしてたし、それって気を悪くしたからさりげに避けてたのかなって考えちゃって……。今だって私を遠ざけようとしてるんじゃないの?」
ケントはゆっくりとすずかをベッドの上に戻すと、その前に膝をついて彼女の両手をそっと握り込み、珍しく思い詰めたような彼の可愛い黒猫の目を覗き込む。
「一体全体どうしてそうなるんだよ。君の思考回路には全く以ってハラハラさせられるなあ」
「それはだって、漫画に……」
主人公が本心からではないのに拒んでしまって、関係がぎくしゃくするよくある喧嘩の定番展開をすずかは懸念していたのだ。
(ケン兄とそうなったら嫌だから、きちんとフォローしておこうと思ったんだよね)
「ええ? 漫画って何……」
しかし微苦笑もカッコイイ自らの夫を見ていると、杞憂だったのかもしれないと思った。
正直に心情を吐露すれば案の定そんな事はないとハッキリ断言された。勝手な思い込みに走った自分が恥ずかしくなる。
「怒ってないならいいんだけど、私ね、今だから言えば、キスできなくてちょっと残念だったんだ」
何とも言えない顔でケントはすずかから一度顔を背けた。
「……君を遠ざけるっていうのは、今は半分当たってる」
「そう、なんだ……」
「ああいや勘違いしないでくれ。これは僕なりの予防線なんだ」
「予防線?」
すずかが疑問に小首を傾げると、ケントは一つ頷いた。
「そうだ。僕だって普通に男だから、こんな時間に自分の部屋に君が居たらちょっとまずい」
「あっ……そそそそっか。だよね! 重ね重ね迷惑を掛けてごめんなさい」
「迷惑? 違うな。予期せず君の可愛いパジャマ姿を堪能出来てこの上ない」
「もっもうケン兄はすぐにそういう甘い台詞吐くんだから!」
「君へのキスの代わりだよ」
「……っ」
(そんな風に言われると、ケン兄が今本気でキスを我慢してるみたいだよ…………って、ホントに我慢してるのかな)
どうしようもなく落ち着かなくて、ケントに握られた手を握り返してしかと見つめ返し、すずかは勿体を付けるようにした。
「リビングでの続き、する?」
「……僕の話聞いてた?」
何だかどっと疲れたようなケントは、左右に首を振る。
「本当は物凄くしたいけど、キスで止まらなかったらすずかが困るだろ。女の子にとってそういうのはとても大事だと思うから」
「ケン兄……」
「卒業まで何もしないって誓いを破りたくない」
ケントはこんな時にまですずかの感情を優先して考えてくれている。
意地悪になったり、冷たい面も見せるケントは、本当は子供の頃から全然変わらないのだと気付いた。
すずかの恋が始まった優しい少年がここに居る。
きっとずっと彼の中に居たのにすずかが突っぱねて見ようとしなかっただけだ。
彼の言うように今そういうのは困る。
まだ全然覚悟は出来ない。
けれど、未来はわからない。
「ケン兄、その約束はもう無しにしよう?」
「すずか……?」
「あ、ええと誤解しないでっ、まだえっちな事は駄目だけど、駄目なんだけど~~っ……私の気持ちが固まるまで待ってて。――いっ一年も待たせないから!」
やや見開かれたケントの双眸にきらりと間接照明の淡い光が反射して、思考の片隅で綺麗だと見惚れた。
「それは、本気?」
「うん、本気」
「後悔しても…」
「しないよ! ケン兄になら、しない――ふわ!?」
飛び付くように抱きしめられた。
「わかった。待ってる。僕はこうやって君を沢山沢山抱きしめるけど、許可なく抱かないから安心して。君が心からそう望むまでは。そう約束する」
「……うん」
際どい台詞はともかく、こんな抱擁だけでもまだまだ一杯一杯で、けれど心がはち切れんばかりの幸せに包まれている。
「すずかが早く覚悟出来るよう、僕は少しでも君への思いの丈を知ってもらえるよう頑張るよ」
「え? うん……?」
(頑張るって何をどう?)
体を離し良くわからないものの小さく首肯したすずかは、ケントの手を両手で包むようにして、いつもなら彼がしそうな事をしでかした。
指の付け根に口付けたのだ。
「私も、待たせないって、これは約束のキス」
約束なんて言ったものの、これはすずかの予感だ。
きっと近いうちケントの気持ちに追い付くだろう確信がある。
その時は……。
「ねっケン兄、やっぱり昼間の続き、する?」
すずかからの大胆な指キスと誘いにケントはちょっと面喰らっていたようだったが、努めて控えめに、決して子猫を怯えさせないようにとでも言うように、愛しい柔らかな黒髪に指を梳き入れすずかの頭を胸に抱き寄せた。
「いいんだ? 本当に?」
「……いいよ。だ、だけどきちんとキス止まりだからね? ね!」
「はいはいわかってます。クマにこっそり僕の名前を付けるくらいに僕を大好きな可愛い奥さんの頼みを無下にはしないよ」
「何でバレてるの!?」
内緒、とケントは胸の中の大事な大事な少女へと慈しむように微笑むと、両手を使って彼女の両の横髪を耳に掛けてやる。
その手で今度は頬を包み込んで、彼は鼻の頭にキスをした。
悪戯のような、最後の問い掛けのような、そんなキスを。
嫌がらないので唇に触れ、離してはまた触れ、互いが互いを見つめた。
「……ちょっとしたキスでそういう顔するって反則だよ」
「ど、どういう顔!?」
ケントはやや上目遣いですずかを見るように顎を引くと、ふっと濡れた唇で笑んだ。
「えっちぃ顔」
「はっ……!?」
あけすけ過ぎる物言いに、すずかは羞恥に凝り固まった。
「僕としては奥さんがエロいのは大歓迎だけど」
「またそんな事言っ――ンッ」
ケントは頗る愉快そうな顔でそう揶揄し、抗議に転じようとしたすずかの口を自らのそれで塞いだ。
不意打ちでちゅっと吃音の立った軽いキスを受け、すずかがびっくりすると同時に恨めしくも思ってちょっとケントを睨むと、彼は怒りの矛先を逸らすためか、彼女へとさもたった今思い付いたかのような口調でとある要望を口にする。
「そうだすずか、これからはもうケン兄じゃなくて普通に名前で呼ばないか?」
彼は前々から密かにそう望んでいたのだ。
呼び方一つで親密度だって増す。
しかしすずかは、物思うような伏し目がちになってしばらく黙した。
時期尚早だったかと、少しの落胆を胸に取り下げようとしたケントだったが、彼女のつむじの下から小さな呟きが聞こえた。
「……ケント」
「え……?」
「ケント!」
すずかは気恥ずかしさを押し込め、全力を振り絞っていた。随分と間が開いたのは、彼女としては今更ケン兄からケント呼びに変えるのは中々に違和感があり、初呼びは勇気が要ったせいだ。
けれど今度はケントが無言になった。
彼はこの僥倖を噛みしめていた。
「ええと、駄目だった……?」
無反応だったせいで、逆に果たして本当にそう呼んで良かったのかと不安が湧き、すずかの声が微かに揺れる。
「全然。この先もずっとそう呼んで。君から呼ばれるだけで自分の名前が千金にも値するものになったみたいだ」
「お、大袈裟!」
「全然だろ。ほんと君は僕にとって君がどれ程の存在かわかってないよなあ」
「そんなの、私はあなたじゃないんだからわかるわけないよ」
「ふーん、じゃあわかるように思い知らせてやろうか?」
彼から顎を掴まれキスを挑発の手段にされて、すずかはムッとして彼の手を掴んで下ろさせたが、ふっとその尖った気配を散じた。
「すずか?」
少々当ての外れた反応にケントが瞬く。
「千金どころか、万とか億になるように何度だって呼んであげる、――ケント?」
挑発返しに耳元で囁いて、すずかはにこりと微笑んだ。
ケントの方もややあってにっこり笑みを返し、二人は見つめ合ったままどちらともなく頬を傾ける。
「大いに期待してる」
キスの合間にそう返しつつも、彼はこの夜唯一その呼び声を聞ける黒猫姫の柔らかな唇を、愛しさのままに何度も何度も塞ぐのだった。
「……大丈夫すずか?」
「へうぅ~……」
そうして、ケントがキスだけで思い知らせた後のすずかは、彼の胸に凭れた凋んだ赤い風船のようだった。
最早人間に備わる理性的な言語能力さえどこかにお出掛けしているご様子だ。
(キスだけでも、ヤバかったよう……煽るんじゃなかった……)
一方のケントは、少しは頬を赤くしていたが、トータル的には平素とほぼ変わらない落ち着きを見せている…………ように見えて、実際はかなり際どい所まで彼の理性の壁は薄くなっていた。
互いにこれ以上は「もう限界」と感じつつ、しかし何とここに来て「同衾に慣れておきたい」と天然無神経を発揮したすずかが、自室から大きなクマを引っ張って来て間に置き、結局は狭いながらも二人で一緒のベッドで眠った。
(ケントンめ……)
疲れもあってあっという間に夢の世界に旅立ってすやすや寝息を立て始めたすずかは、ケントが邪魔なクマを忌々しそうにジトッと睨んでいた事など知る由もないのだった。
果たしてこの先すずかの覚悟が先なのかケントの忍耐崩壊が先なのか、それはどんな物よりも甘く蕩ける二人だけの最高の秘密だ。
ベッドの端に腰かけ嘆息するケントの横には、すずかが反省の色を滲ませて座っている。
「う、うん大体。ごめんなさい大声出しちゃって……」
近くの部屋の住人に通報されていない事を願いつつ、すずかはやらかしたバツの悪さに半笑いにも満たない微妙に抜けた顔で目を泳がせた。
どうやら就寝時は上を着ない日の方が多いというケントは、一枚シャツを羽織ってくれた。
ただ、ボタンも留めずに前が肌蹴ているので、すずかは隣を見る度に目のやり場に困ってもいたが。
(ふわあああ~っ適度に割れた腹筋、締まった胸板、腕から肩へかけての程良いしなやかな筋肉、浮き出た鎖骨とその他瑞々しい男盛りの色気……! 目の保養~~――じゃない目の毒目の毒!)
「寝ぼけて部屋を間違えたのは仕方がないにしても、僕の裸を見て絶叫するとか、海水浴に行ったらどうするんだ? いちいち目を塞ぐのか?」
安眠妨害された挙句悲鳴を聞かされては、さしものケントも呆れと言うよりも不機嫌さを覗かせている。
「だよね。ごめん……」
素直に謝罪するすずかを横目に見ていたケントは、軽く息をついて視線を正面に戻すと徐に腰を上げた。すずかが黙って見ていると、彼はすずかの膝と脇の下に手を差し込んで抱き上げた。
「え!?」
「部屋まで運ぶから。足まだ痛いだろう?」
「あ、あー、うんありがと」
反射的にそう言ってから、すずかは「あ!」と制止の意思を込めた声を上げた。
「ケン兄あのちょっと待って。質問があって」
「質問?」
足を止め、鸚鵡返しにしたケントへと彼女は逡巡するように視線を左右に動かしたが、決意して近くにあるケントの顔を見上げた。
「あのね、正直に言って。昼間の、キスを拒んだ事を怒ってる?」
一瞬ケントはポカンとした。
「何を言うかと思えば……。怒ってないよ」
「ホントにそう? 本音を言えばキスを催促されるかなって思ってたんだけど、あの後ケン兄はあっさりとしてたし、それって気を悪くしたからさりげに避けてたのかなって考えちゃって……。今だって私を遠ざけようとしてるんじゃないの?」
ケントはゆっくりとすずかをベッドの上に戻すと、その前に膝をついて彼女の両手をそっと握り込み、珍しく思い詰めたような彼の可愛い黒猫の目を覗き込む。
「一体全体どうしてそうなるんだよ。君の思考回路には全く以ってハラハラさせられるなあ」
「それはだって、漫画に……」
主人公が本心からではないのに拒んでしまって、関係がぎくしゃくするよくある喧嘩の定番展開をすずかは懸念していたのだ。
(ケン兄とそうなったら嫌だから、きちんとフォローしておこうと思ったんだよね)
「ええ? 漫画って何……」
しかし微苦笑もカッコイイ自らの夫を見ていると、杞憂だったのかもしれないと思った。
正直に心情を吐露すれば案の定そんな事はないとハッキリ断言された。勝手な思い込みに走った自分が恥ずかしくなる。
「怒ってないならいいんだけど、私ね、今だから言えば、キスできなくてちょっと残念だったんだ」
何とも言えない顔でケントはすずかから一度顔を背けた。
「……君を遠ざけるっていうのは、今は半分当たってる」
「そう、なんだ……」
「ああいや勘違いしないでくれ。これは僕なりの予防線なんだ」
「予防線?」
すずかが疑問に小首を傾げると、ケントは一つ頷いた。
「そうだ。僕だって普通に男だから、こんな時間に自分の部屋に君が居たらちょっとまずい」
「あっ……そそそそっか。だよね! 重ね重ね迷惑を掛けてごめんなさい」
「迷惑? 違うな。予期せず君の可愛いパジャマ姿を堪能出来てこの上ない」
「もっもうケン兄はすぐにそういう甘い台詞吐くんだから!」
「君へのキスの代わりだよ」
「……っ」
(そんな風に言われると、ケン兄が今本気でキスを我慢してるみたいだよ…………って、ホントに我慢してるのかな)
どうしようもなく落ち着かなくて、ケントに握られた手を握り返してしかと見つめ返し、すずかは勿体を付けるようにした。
「リビングでの続き、する?」
「……僕の話聞いてた?」
何だかどっと疲れたようなケントは、左右に首を振る。
「本当は物凄くしたいけど、キスで止まらなかったらすずかが困るだろ。女の子にとってそういうのはとても大事だと思うから」
「ケン兄……」
「卒業まで何もしないって誓いを破りたくない」
ケントはこんな時にまですずかの感情を優先して考えてくれている。
意地悪になったり、冷たい面も見せるケントは、本当は子供の頃から全然変わらないのだと気付いた。
すずかの恋が始まった優しい少年がここに居る。
きっとずっと彼の中に居たのにすずかが突っぱねて見ようとしなかっただけだ。
彼の言うように今そういうのは困る。
まだ全然覚悟は出来ない。
けれど、未来はわからない。
「ケン兄、その約束はもう無しにしよう?」
「すずか……?」
「あ、ええと誤解しないでっ、まだえっちな事は駄目だけど、駄目なんだけど~~っ……私の気持ちが固まるまで待ってて。――いっ一年も待たせないから!」
やや見開かれたケントの双眸にきらりと間接照明の淡い光が反射して、思考の片隅で綺麗だと見惚れた。
「それは、本気?」
「うん、本気」
「後悔しても…」
「しないよ! ケン兄になら、しない――ふわ!?」
飛び付くように抱きしめられた。
「わかった。待ってる。僕はこうやって君を沢山沢山抱きしめるけど、許可なく抱かないから安心して。君が心からそう望むまでは。そう約束する」
「……うん」
際どい台詞はともかく、こんな抱擁だけでもまだまだ一杯一杯で、けれど心がはち切れんばかりの幸せに包まれている。
「すずかが早く覚悟出来るよう、僕は少しでも君への思いの丈を知ってもらえるよう頑張るよ」
「え? うん……?」
(頑張るって何をどう?)
体を離し良くわからないものの小さく首肯したすずかは、ケントの手を両手で包むようにして、いつもなら彼がしそうな事をしでかした。
指の付け根に口付けたのだ。
「私も、待たせないって、これは約束のキス」
約束なんて言ったものの、これはすずかの予感だ。
きっと近いうちケントの気持ちに追い付くだろう確信がある。
その時は……。
「ねっケン兄、やっぱり昼間の続き、する?」
すずかからの大胆な指キスと誘いにケントはちょっと面喰らっていたようだったが、努めて控えめに、決して子猫を怯えさせないようにとでも言うように、愛しい柔らかな黒髪に指を梳き入れすずかの頭を胸に抱き寄せた。
「いいんだ? 本当に?」
「……いいよ。だ、だけどきちんとキス止まりだからね? ね!」
「はいはいわかってます。クマにこっそり僕の名前を付けるくらいに僕を大好きな可愛い奥さんの頼みを無下にはしないよ」
「何でバレてるの!?」
内緒、とケントは胸の中の大事な大事な少女へと慈しむように微笑むと、両手を使って彼女の両の横髪を耳に掛けてやる。
その手で今度は頬を包み込んで、彼は鼻の頭にキスをした。
悪戯のような、最後の問い掛けのような、そんなキスを。
嫌がらないので唇に触れ、離してはまた触れ、互いが互いを見つめた。
「……ちょっとしたキスでそういう顔するって反則だよ」
「ど、どういう顔!?」
ケントはやや上目遣いですずかを見るように顎を引くと、ふっと濡れた唇で笑んだ。
「えっちぃ顔」
「はっ……!?」
あけすけ過ぎる物言いに、すずかは羞恥に凝り固まった。
「僕としては奥さんがエロいのは大歓迎だけど」
「またそんな事言っ――ンッ」
ケントは頗る愉快そうな顔でそう揶揄し、抗議に転じようとしたすずかの口を自らのそれで塞いだ。
不意打ちでちゅっと吃音の立った軽いキスを受け、すずかがびっくりすると同時に恨めしくも思ってちょっとケントを睨むと、彼は怒りの矛先を逸らすためか、彼女へとさもたった今思い付いたかのような口調でとある要望を口にする。
「そうだすずか、これからはもうケン兄じゃなくて普通に名前で呼ばないか?」
彼は前々から密かにそう望んでいたのだ。
呼び方一つで親密度だって増す。
しかしすずかは、物思うような伏し目がちになってしばらく黙した。
時期尚早だったかと、少しの落胆を胸に取り下げようとしたケントだったが、彼女のつむじの下から小さな呟きが聞こえた。
「……ケント」
「え……?」
「ケント!」
すずかは気恥ずかしさを押し込め、全力を振り絞っていた。随分と間が開いたのは、彼女としては今更ケン兄からケント呼びに変えるのは中々に違和感があり、初呼びは勇気が要ったせいだ。
けれど今度はケントが無言になった。
彼はこの僥倖を噛みしめていた。
「ええと、駄目だった……?」
無反応だったせいで、逆に果たして本当にそう呼んで良かったのかと不安が湧き、すずかの声が微かに揺れる。
「全然。この先もずっとそう呼んで。君から呼ばれるだけで自分の名前が千金にも値するものになったみたいだ」
「お、大袈裟!」
「全然だろ。ほんと君は僕にとって君がどれ程の存在かわかってないよなあ」
「そんなの、私はあなたじゃないんだからわかるわけないよ」
「ふーん、じゃあわかるように思い知らせてやろうか?」
彼から顎を掴まれキスを挑発の手段にされて、すずかはムッとして彼の手を掴んで下ろさせたが、ふっとその尖った気配を散じた。
「すずか?」
少々当ての外れた反応にケントが瞬く。
「千金どころか、万とか億になるように何度だって呼んであげる、――ケント?」
挑発返しに耳元で囁いて、すずかはにこりと微笑んだ。
ケントの方もややあってにっこり笑みを返し、二人は見つめ合ったままどちらともなく頬を傾ける。
「大いに期待してる」
キスの合間にそう返しつつも、彼はこの夜唯一その呼び声を聞ける黒猫姫の柔らかな唇を、愛しさのままに何度も何度も塞ぐのだった。
「……大丈夫すずか?」
「へうぅ~……」
そうして、ケントがキスだけで思い知らせた後のすずかは、彼の胸に凭れた凋んだ赤い風船のようだった。
最早人間に備わる理性的な言語能力さえどこかにお出掛けしているご様子だ。
(キスだけでも、ヤバかったよう……煽るんじゃなかった……)
一方のケントは、少しは頬を赤くしていたが、トータル的には平素とほぼ変わらない落ち着きを見せている…………ように見えて、実際はかなり際どい所まで彼の理性の壁は薄くなっていた。
互いにこれ以上は「もう限界」と感じつつ、しかし何とここに来て「同衾に慣れておきたい」と天然無神経を発揮したすずかが、自室から大きなクマを引っ張って来て間に置き、結局は狭いながらも二人で一緒のベッドで眠った。
(ケントンめ……)
疲れもあってあっという間に夢の世界に旅立ってすやすや寝息を立て始めたすずかは、ケントが邪魔なクマを忌々しそうにジトッと睨んでいた事など知る由もないのだった。
果たしてこの先すずかの覚悟が先なのかケントの忍耐崩壊が先なのか、それはどんな物よりも甘く蕩ける二人だけの最高の秘密だ。
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