19 / 39
19 噂と真実3
しおりを挟む
わかりました、と息と共に吐き出す凛風がもう潔く降参の意を示せば、肖子偉は微かだが眼差しを和らげた。
「実は彼らから話を聞きたくて。――あなたの噂についての」
肖子偉はすぐにまた表情を曇らせた。
「……そなたの性格的に噂になど興味がないのかと思っていた。しかしそなたも実は気にしていたのだな」
「はあ? 当然じゃないですか」
「そう、だな」
「――どうしても信じられなかったからですよ、噂を」
「え……?」
全く以って埒外の言葉でも聞いたように肖子偉は瞬いた。
「だから裏に何かあると踏んで調べていたんです」
「調べて、いた? まさか今日より以前から?」
「そうです」
「そなた……!」
「まだ始めたばかりですけどね」
全く悪びれる所のない凛風を見据え、彼は湖面に浮かぶ木の葉が揺れるように瞳を揺らした。
依然見下ろされたままの凛風はここまで来たら得た情報を開示しようと決意する。
(彼自身にもこの問題と向き合ってもらいたいもの)
「私が調べた件はあなたとは実際何の関係もない便乗したものばかりでした。中には後で金銭を支払っていたりと不可解な件もあったんですけどね。でも早々に巷での聞き込みに埒の明かなさと手詰まりを感じて、それで手がかりがありそうな皇都の妓楼で情報を集めようって思ったんです」
「だからここに……」
「はい。そうしたら偶然あのおじさんたちの話が聞こえて来て、しかもあなたの噂を流しているみたいな会話だったので気になって、それで今に至るわけです」
初日から黒幕に当たるとは何て幸運だと、凛風は密かに喜んでいた。
「……それで、ここまでしたと?」
しかし彼はやや目を伏せ苦しそうに頬を歪めた。
「どうして……。私のせいでそなたが無茶をするのは、耐えられない。流言など放っておいてくれていいのだ」
「流言って事はやっぱり全部冤罪なんですね」
「それは……違う。私がしていなくとも私が代理でさせたようなものだから」
(代理?)
凛風は言っている意味がよくわからず怪訝に眉を動かした。
「どういう意味ですか?」
凛風が声に慎重な響きを滲ませて問えば、肖子偉は俄かにハッとして目を瞑り小さくかぶりを振った。
「そなたはもう関わらないでくれ」
「不審な点が多々あると知った以上、そんな事はできませんよ」
「頼むから……私などのためには……」
(この人……)
私など、という言い方には何らかの自嘲を感じた。
そこには深い悲しみも含まれている。
「――嫌です」
一考の余地もなく、口から出ていた。
「雷凛風」
彼の咎める声に真っ向から反論する。
「嫌です。あなたがそんな顔しているうちは、嫌です。この際ハッキリ訊きますけど巷の悪評が原因で悩んでいるのでは? 自分の悪口なんて聞いて決して気持ちのいいものではありませんし。言っておきますけど、私は流した相手を突き出してやるつもりですから」
向けられた明確な意思に肖子偉はより一層眉間を深くする。
「……やめてくれ。噂通り、全部私がした事だ」
「またそんな事を言って……。だって殿下はいつも恥ずかしがりで優しい人です。どんなに噂が流れようと諦めないで下さい。皆だって実際のあなたを知れば本当は違うってわかってくれます」
「いいのだ、火のない所に煙は立たないというだろう」
「何言ってるんですか、酷い事なんて何一つしてないくせに!」
「買い被りだ……!」
「いいえ、だってあなたはこんなにも辛そうです! 何で一人で我慢してるんですか!」
図星だったのか、肖子偉は一瞬どうしようもない困った顔で反駁を詰まらせた。
「……辛くなどないっ」
「どうして意地を張るんですか!」
「張ってなどない……っ」
「私はあなたが誤解されたままは嫌です!」
「全部本当の事だ!」
「嘘つき! だったら私は誰にだって何度だって説明する。あなたは本当に優し…ッ……!?」
音がくぐもった。
これ以上は何も言うなとばかりに口を塞がれていた。
彼の唇で。
驚きで抵抗もできないでいると、ゆっくりと顔を離した彼が吐き捨てるように言った。
「私は本来こういう人間なのだ……!」
言葉も出ない様を見下ろして、卑屈な笑みで尚も続ける。
「そなたが私の何を知っているのだ? 無理強いもするし踏み倒しだってする。……そのうち暴力沙汰どころか人命だって害するかもしれないな」
投げやりに上から退くと、彼は横に身を投げ出すように座り込んだ。
拒絶するように拳を握り込んだまま黙し、もう凛風の方を見ようとしない。
その彼に似合わない荒れた様には、どこか心が疲れたような色も滲んでいた。
凛風には何故か、傷だらけの小さな子供が独りで必死に痛みに耐え蹲っているように見えた。
しばし、沈黙が流れ青年は気付いたように顔を上げる。
「……ああ、私がいたら着替えの邪魔になるか」
曹依依はまだ来ないが、手を着いて立ち上がろうとする。
半身を起こしていた凛風は、無言で彼の胸倉を摑んで引っ張った。
「――な!?」
予想外にも今度は彼女から床ドンで見下ろされた肖子偉は、目を白黒させる。
執拗に服を踏まれているわけでもないので手足の自由は利くが、不意打ちすぎる不意打ちに動けず、その体勢に虚勢の仮面も剥がれて素の表情のままに頬を赤くした。
「あなたこそ嘘が下手ですよ」
「……っ」
「その頑なさにどんな理由があるのかはわからないですけど、私はあなたに曇りない笑顔で居てほしいです。そこは譲れません。噂がその原因ならどうにかして取り除きたいと奔走することだって厭いません。あなたが私を心配してここに戻ってくれたように、私もあなたの事が心配なんですからね? わかってます?」
笑みのない真顔で見下ろす凛風はそっと手を伸ばし、肖子偉の耳横を撫でるとその柔らかい髪を一房指で掬って、唇を寄せた。
「な…にを……!?」
「お返しです」
やや身を屈めたまま近距離から無表情を破って挑発的に微笑めば、みるみるうちに耳まで真っ赤になったのは肖子偉だ。
乙女のように唇を震わせ目を潤ませた。
「可愛いですね」
「可ッ!? ――ッ――ッ……ッ…………」
そんな扱いって男としてどうよと複雑だった彼だが、少女の男前過ぎる笑みを直視するのに耐えられず、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
「……そ、そなたには敵わない」
参ったような控えめな声にようやく凛風は体を起こし、顎を上げて「ふふふ」と満足げに今は綺麗に紅が刷かれた唇を吊り上げた。
……まあ少し薄くなっていたが。
男に強引に口付けられた娘……というやり取りだけを抜き出せば完全に狼と羊の図だ。
だがしかしこの二人の常として色々と何かが間違っていた。
「――もしもーし、そろそろ入ってもいいですかねー?」
「「!?」」
そんな時だ、コンコンと入口の木枠を叩く音と共に、部屋の外から肖子豪の躊躇うような声が聞こえて来たではないか。
二人して見やれば、部屋の戸はお約束の如く中途半端に開いていた。
肖子偉は、そう言えば凛風を抱きかかえていたが為に手が空いておらず、戸を閉めていなかったのだと思い出す。
……ゆえに、つまりは、この部屋に入ろうとする相手からは一部始終がもろ見えだった。
予想通りの目撃者となっていたのか、戸口に佇む兄皇子は非常にやりにくそうに視線を明後日の方向へと逸らしている。
弟が組み敷かれている激甘衝撃シーンを見てしまっては、いくら普段豪快でお気楽者の男と言えどこうもなるだろう。彼だってそこまで神経は図太くなかった。
「ああもう雷様ずるいわよそれぇ~」
そのやや後ろには凛風の男装服一式を持ってきた曹依依も居て、ちょっと口の端に光る物を垂らして羨ましそうにしている。鼻からの赤いものが出なかったのは幸いだった。
「子豪兄さんと依依さん……」
凛風が立ち上がれば、障害が無くなり肖子偉も後に続いた。
あっけらかんとして全く羞恥を感じていない普段通りの少女は、肖子豪と共に入って来た曹依依に歩み寄るとお礼を言って自分の服を受け取る。
「うふふ、着替え手伝ってあげるわね!」
「ああいえ、このヒラヒラ服とは違って自分の簡単な服に着替えるのに、依依さんの手を煩わせるまでもないですよ。けどお気遣いありがとうございます」
「……ええ~あたしの手でその服脱がせたかったのに」
「へ? 脱がせ……?」
「「……」」
とても残念そうに唇を窄め独り言として呟かれた曹依依の台詞。
それをしっかり聞いていた肖兄弟は揃って微妙そうな顔をした。
「ん? 二人共どうかした?」
知らぬは本人だけ、な凛風が小首を傾げた。
曹依依の存在が濃くて重要な点を忘れかけた肖子偉だったが、そろりと兄皇子を見やった。
凛風とは違って彼の方は非常に居心地の悪い思いで一杯だったのだ。
「あ、兄上、今のはその…………ど、どこから見て?」
「えーと、お前が小風に押し倒された辺りから……?」
「――ッ!」
「あ、因みに依依は俺より先に来てたぞ」
「――ッッ!?」
「ちょっと甲様、余計なこと言わなくていいのに。大丈夫ですわ乙様、今見た事は誰にも言いませんから」
自分の最低な場面を見られていたとわかり肖子偉は羞恥と後悔の余り呆然とし、布を被って安息の空間に逃れるという手も思い付かないようだった。
着替えを抱えた凛風が気がかりに思って顔を覗き込み、ふと何かに気付いて彼の唇へと手を伸ばす。
「えっ、なっ?」
「あ、動かないで下さい」
そう言った少女から指で唇を擦られて、肖子偉はその意味に気が付いて余計に狼狽えた。
必然と言えばそうだった。
これでは一部始終を見ていなかった者でも大よその予測はできてしまう。
彼は大慌てで自分の袖で口をごしごしと拭った。
「大丈夫ですよ。誰にだって赤面してしまうような失敗ってあります。だからもうそんな顔しないで下さい、ね?」
「し、しかし私は……さ、最低な事をして済まなかった。気の済むように殴ってくれていい」
「あはっ、びっくりはしましたけど怒っても悲しんでもいませんから気にしないで下さい。あのおじさんと違って嫌じゃなかったですし」
「………………。……――えッ!?」
嫌じゃない。
肖子偉は羞恥と自責に項垂れていた顔を撥ね上げ、信じられないものを見るように目を丸くする。
「どうしました?」
男前なくせに全く以って天然の小悪魔でもある少女は、不思議そうな面持ちで見つめ返した。
そんな様子から他意はなく、別に大して意識されてもいないと思った肖子偉は、声にならない呻きを上げてまた肩を落とす。
「なあ依依、俺二人に何があったかは何とな~くわかったぞ。紅も残ってたしな」
「甲様、何も言ったら駄目よ」
「それくらいはわかってるよ。俺だって弟からこれ以上存在をフェードアウトされるの嫌だしな。それに何か俺な、小風があのカッコしててもどうしてだろうな、さっきは断袖の場面見てる気がしてた。ホンット男前気質だよなー」
「あー……うふふでもそこがまた」
「口の汁、口の汁」
「あら失礼」
呆れる肖子豪の横で、曹依依はさも澄ました様子で口元を拭った。
「でも本当にあの男気纏ってたら、美少年の女装にしか見えないものね。ああんその自信に満ちた冷静な顔を攻めて攻めて恥辱に染めてみたいわあ~」
「……おい、今度は鼻から赤い萌え果汁出てるぞ」
「あら失礼」
勝手に興奮して鼻血まで出す顔馴染みの変態妓女に肖子豪はドン引いていたが、その表情を引き締めた。
「依依、悪いがここからは……」
「はいはーい。それじゃあ仕事に戻るわね。それでは失礼致します雷様に乙様。雷様は絶ッッッ対また来て頂戴ね? ――さもないと」
そう言うや彼女は上品な仕種で肖子豪を掌で示した。
「この人のあれやこれやの恥ずかしい話がとんでもない所まで流れるわよ」
「……子豪兄さんの?」
脅迫になっていない「さもないと」に凛風は戸惑いを浮かべるしかない。
「はああ!? 何で俺だよ!? っつーかお前仮にも自国の皇子を貶めるのか!?」
「あらどこに皇子様が? あたしあなたに正式な身分をきちんと名乗られた覚えないけど」
「……今まで言わなかったのは悪かったよ。察してる様子だったから別に今更いいかと思ってたんだって」
「あらそうなの。まあ別に今更だし興味もないわねえ」
「ああそうかい!」
「まあとにかくもう行くわね」
ここからは部外者お断りと心得た彼女は潔く戸口へと歩いていく。
「依依さん、今夜は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
凛風が廊下に去る背中に声を張れば、長い裾をふわりと揺らした人気妓女は花のかんばせを緩め肩越しに手を振ってくれた。
「ホントは依依さん忙しかったのかも」
「いや、子偉に真面目な話があって、あいつには席を外してもらっただけだ」
「そうなの? じゃあ私も出て行くよ」
「いや、小風はここにいろ」
「どうして?」
「お前にも知って欲しいから、だな」
「私にも?」
瞬きを繰り返しつつ、一体何をだろうかと内心の緊張を高める。
肖子豪はゆっくり弟に近付くとその正面で足を止め、一度深呼吸をするように息を吸って吐いた。
消沈していた肖子偉も兄の気配に顔を上げると、何らかの後ろめたさを誤魔化すように唇を固く結ぶ。
兄は弟へとやや厳しい目を向けた。
「もう潮時だ。子偉、噂の件、きっちり説明してもらうからな」
「ちょっと待って子豪兄さん。彼はさっきの人に陥れられたんだよ。責める相手が違うでしょ」
肖子豪が弟にどうしてそんな言葉を突き付けるのかわからない凛風は、庇うように前に出る。
ただし彼がわけもなく他者へ非難を向けるとは思わない。何か理由があるに違いなかった。
多分に疑問を孕む少女の澄んだ双眸を見据え、厳しい目をしていた肖子豪は再度ゆっくりと口を開く。
「いや、違わない。子偉に関する数々の噂、それらは――子偉本人が流させたんだからな」
「……はい?」
一瞬、いやしばらくは、己の理解がだいぶ遠い所にあった。
「実は彼らから話を聞きたくて。――あなたの噂についての」
肖子偉はすぐにまた表情を曇らせた。
「……そなたの性格的に噂になど興味がないのかと思っていた。しかしそなたも実は気にしていたのだな」
「はあ? 当然じゃないですか」
「そう、だな」
「――どうしても信じられなかったからですよ、噂を」
「え……?」
全く以って埒外の言葉でも聞いたように肖子偉は瞬いた。
「だから裏に何かあると踏んで調べていたんです」
「調べて、いた? まさか今日より以前から?」
「そうです」
「そなた……!」
「まだ始めたばかりですけどね」
全く悪びれる所のない凛風を見据え、彼は湖面に浮かぶ木の葉が揺れるように瞳を揺らした。
依然見下ろされたままの凛風はここまで来たら得た情報を開示しようと決意する。
(彼自身にもこの問題と向き合ってもらいたいもの)
「私が調べた件はあなたとは実際何の関係もない便乗したものばかりでした。中には後で金銭を支払っていたりと不可解な件もあったんですけどね。でも早々に巷での聞き込みに埒の明かなさと手詰まりを感じて、それで手がかりがありそうな皇都の妓楼で情報を集めようって思ったんです」
「だからここに……」
「はい。そうしたら偶然あのおじさんたちの話が聞こえて来て、しかもあなたの噂を流しているみたいな会話だったので気になって、それで今に至るわけです」
初日から黒幕に当たるとは何て幸運だと、凛風は密かに喜んでいた。
「……それで、ここまでしたと?」
しかし彼はやや目を伏せ苦しそうに頬を歪めた。
「どうして……。私のせいでそなたが無茶をするのは、耐えられない。流言など放っておいてくれていいのだ」
「流言って事はやっぱり全部冤罪なんですね」
「それは……違う。私がしていなくとも私が代理でさせたようなものだから」
(代理?)
凛風は言っている意味がよくわからず怪訝に眉を動かした。
「どういう意味ですか?」
凛風が声に慎重な響きを滲ませて問えば、肖子偉は俄かにハッとして目を瞑り小さくかぶりを振った。
「そなたはもう関わらないでくれ」
「不審な点が多々あると知った以上、そんな事はできませんよ」
「頼むから……私などのためには……」
(この人……)
私など、という言い方には何らかの自嘲を感じた。
そこには深い悲しみも含まれている。
「――嫌です」
一考の余地もなく、口から出ていた。
「雷凛風」
彼の咎める声に真っ向から反論する。
「嫌です。あなたがそんな顔しているうちは、嫌です。この際ハッキリ訊きますけど巷の悪評が原因で悩んでいるのでは? 自分の悪口なんて聞いて決して気持ちのいいものではありませんし。言っておきますけど、私は流した相手を突き出してやるつもりですから」
向けられた明確な意思に肖子偉はより一層眉間を深くする。
「……やめてくれ。噂通り、全部私がした事だ」
「またそんな事を言って……。だって殿下はいつも恥ずかしがりで優しい人です。どんなに噂が流れようと諦めないで下さい。皆だって実際のあなたを知れば本当は違うってわかってくれます」
「いいのだ、火のない所に煙は立たないというだろう」
「何言ってるんですか、酷い事なんて何一つしてないくせに!」
「買い被りだ……!」
「いいえ、だってあなたはこんなにも辛そうです! 何で一人で我慢してるんですか!」
図星だったのか、肖子偉は一瞬どうしようもない困った顔で反駁を詰まらせた。
「……辛くなどないっ」
「どうして意地を張るんですか!」
「張ってなどない……っ」
「私はあなたが誤解されたままは嫌です!」
「全部本当の事だ!」
「嘘つき! だったら私は誰にだって何度だって説明する。あなたは本当に優し…ッ……!?」
音がくぐもった。
これ以上は何も言うなとばかりに口を塞がれていた。
彼の唇で。
驚きで抵抗もできないでいると、ゆっくりと顔を離した彼が吐き捨てるように言った。
「私は本来こういう人間なのだ……!」
言葉も出ない様を見下ろして、卑屈な笑みで尚も続ける。
「そなたが私の何を知っているのだ? 無理強いもするし踏み倒しだってする。……そのうち暴力沙汰どころか人命だって害するかもしれないな」
投げやりに上から退くと、彼は横に身を投げ出すように座り込んだ。
拒絶するように拳を握り込んだまま黙し、もう凛風の方を見ようとしない。
その彼に似合わない荒れた様には、どこか心が疲れたような色も滲んでいた。
凛風には何故か、傷だらけの小さな子供が独りで必死に痛みに耐え蹲っているように見えた。
しばし、沈黙が流れ青年は気付いたように顔を上げる。
「……ああ、私がいたら着替えの邪魔になるか」
曹依依はまだ来ないが、手を着いて立ち上がろうとする。
半身を起こしていた凛風は、無言で彼の胸倉を摑んで引っ張った。
「――な!?」
予想外にも今度は彼女から床ドンで見下ろされた肖子偉は、目を白黒させる。
執拗に服を踏まれているわけでもないので手足の自由は利くが、不意打ちすぎる不意打ちに動けず、その体勢に虚勢の仮面も剥がれて素の表情のままに頬を赤くした。
「あなたこそ嘘が下手ですよ」
「……っ」
「その頑なさにどんな理由があるのかはわからないですけど、私はあなたに曇りない笑顔で居てほしいです。そこは譲れません。噂がその原因ならどうにかして取り除きたいと奔走することだって厭いません。あなたが私を心配してここに戻ってくれたように、私もあなたの事が心配なんですからね? わかってます?」
笑みのない真顔で見下ろす凛風はそっと手を伸ばし、肖子偉の耳横を撫でるとその柔らかい髪を一房指で掬って、唇を寄せた。
「な…にを……!?」
「お返しです」
やや身を屈めたまま近距離から無表情を破って挑発的に微笑めば、みるみるうちに耳まで真っ赤になったのは肖子偉だ。
乙女のように唇を震わせ目を潤ませた。
「可愛いですね」
「可ッ!? ――ッ――ッ……ッ…………」
そんな扱いって男としてどうよと複雑だった彼だが、少女の男前過ぎる笑みを直視するのに耐えられず、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
「……そ、そなたには敵わない」
参ったような控えめな声にようやく凛風は体を起こし、顎を上げて「ふふふ」と満足げに今は綺麗に紅が刷かれた唇を吊り上げた。
……まあ少し薄くなっていたが。
男に強引に口付けられた娘……というやり取りだけを抜き出せば完全に狼と羊の図だ。
だがしかしこの二人の常として色々と何かが間違っていた。
「――もしもーし、そろそろ入ってもいいですかねー?」
「「!?」」
そんな時だ、コンコンと入口の木枠を叩く音と共に、部屋の外から肖子豪の躊躇うような声が聞こえて来たではないか。
二人して見やれば、部屋の戸はお約束の如く中途半端に開いていた。
肖子偉は、そう言えば凛風を抱きかかえていたが為に手が空いておらず、戸を閉めていなかったのだと思い出す。
……ゆえに、つまりは、この部屋に入ろうとする相手からは一部始終がもろ見えだった。
予想通りの目撃者となっていたのか、戸口に佇む兄皇子は非常にやりにくそうに視線を明後日の方向へと逸らしている。
弟が組み敷かれている激甘衝撃シーンを見てしまっては、いくら普段豪快でお気楽者の男と言えどこうもなるだろう。彼だってそこまで神経は図太くなかった。
「ああもう雷様ずるいわよそれぇ~」
そのやや後ろには凛風の男装服一式を持ってきた曹依依も居て、ちょっと口の端に光る物を垂らして羨ましそうにしている。鼻からの赤いものが出なかったのは幸いだった。
「子豪兄さんと依依さん……」
凛風が立ち上がれば、障害が無くなり肖子偉も後に続いた。
あっけらかんとして全く羞恥を感じていない普段通りの少女は、肖子豪と共に入って来た曹依依に歩み寄るとお礼を言って自分の服を受け取る。
「うふふ、着替え手伝ってあげるわね!」
「ああいえ、このヒラヒラ服とは違って自分の簡単な服に着替えるのに、依依さんの手を煩わせるまでもないですよ。けどお気遣いありがとうございます」
「……ええ~あたしの手でその服脱がせたかったのに」
「へ? 脱がせ……?」
「「……」」
とても残念そうに唇を窄め独り言として呟かれた曹依依の台詞。
それをしっかり聞いていた肖兄弟は揃って微妙そうな顔をした。
「ん? 二人共どうかした?」
知らぬは本人だけ、な凛風が小首を傾げた。
曹依依の存在が濃くて重要な点を忘れかけた肖子偉だったが、そろりと兄皇子を見やった。
凛風とは違って彼の方は非常に居心地の悪い思いで一杯だったのだ。
「あ、兄上、今のはその…………ど、どこから見て?」
「えーと、お前が小風に押し倒された辺りから……?」
「――ッ!」
「あ、因みに依依は俺より先に来てたぞ」
「――ッッ!?」
「ちょっと甲様、余計なこと言わなくていいのに。大丈夫ですわ乙様、今見た事は誰にも言いませんから」
自分の最低な場面を見られていたとわかり肖子偉は羞恥と後悔の余り呆然とし、布を被って安息の空間に逃れるという手も思い付かないようだった。
着替えを抱えた凛風が気がかりに思って顔を覗き込み、ふと何かに気付いて彼の唇へと手を伸ばす。
「えっ、なっ?」
「あ、動かないで下さい」
そう言った少女から指で唇を擦られて、肖子偉はその意味に気が付いて余計に狼狽えた。
必然と言えばそうだった。
これでは一部始終を見ていなかった者でも大よその予測はできてしまう。
彼は大慌てで自分の袖で口をごしごしと拭った。
「大丈夫ですよ。誰にだって赤面してしまうような失敗ってあります。だからもうそんな顔しないで下さい、ね?」
「し、しかし私は……さ、最低な事をして済まなかった。気の済むように殴ってくれていい」
「あはっ、びっくりはしましたけど怒っても悲しんでもいませんから気にしないで下さい。あのおじさんと違って嫌じゃなかったですし」
「………………。……――えッ!?」
嫌じゃない。
肖子偉は羞恥と自責に項垂れていた顔を撥ね上げ、信じられないものを見るように目を丸くする。
「どうしました?」
男前なくせに全く以って天然の小悪魔でもある少女は、不思議そうな面持ちで見つめ返した。
そんな様子から他意はなく、別に大して意識されてもいないと思った肖子偉は、声にならない呻きを上げてまた肩を落とす。
「なあ依依、俺二人に何があったかは何とな~くわかったぞ。紅も残ってたしな」
「甲様、何も言ったら駄目よ」
「それくらいはわかってるよ。俺だって弟からこれ以上存在をフェードアウトされるの嫌だしな。それに何か俺な、小風があのカッコしててもどうしてだろうな、さっきは断袖の場面見てる気がしてた。ホンット男前気質だよなー」
「あー……うふふでもそこがまた」
「口の汁、口の汁」
「あら失礼」
呆れる肖子豪の横で、曹依依はさも澄ました様子で口元を拭った。
「でも本当にあの男気纏ってたら、美少年の女装にしか見えないものね。ああんその自信に満ちた冷静な顔を攻めて攻めて恥辱に染めてみたいわあ~」
「……おい、今度は鼻から赤い萌え果汁出てるぞ」
「あら失礼」
勝手に興奮して鼻血まで出す顔馴染みの変態妓女に肖子豪はドン引いていたが、その表情を引き締めた。
「依依、悪いがここからは……」
「はいはーい。それじゃあ仕事に戻るわね。それでは失礼致します雷様に乙様。雷様は絶ッッッ対また来て頂戴ね? ――さもないと」
そう言うや彼女は上品な仕種で肖子豪を掌で示した。
「この人のあれやこれやの恥ずかしい話がとんでもない所まで流れるわよ」
「……子豪兄さんの?」
脅迫になっていない「さもないと」に凛風は戸惑いを浮かべるしかない。
「はああ!? 何で俺だよ!? っつーかお前仮にも自国の皇子を貶めるのか!?」
「あらどこに皇子様が? あたしあなたに正式な身分をきちんと名乗られた覚えないけど」
「……今まで言わなかったのは悪かったよ。察してる様子だったから別に今更いいかと思ってたんだって」
「あらそうなの。まあ別に今更だし興味もないわねえ」
「ああそうかい!」
「まあとにかくもう行くわね」
ここからは部外者お断りと心得た彼女は潔く戸口へと歩いていく。
「依依さん、今夜は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
凛風が廊下に去る背中に声を張れば、長い裾をふわりと揺らした人気妓女は花のかんばせを緩め肩越しに手を振ってくれた。
「ホントは依依さん忙しかったのかも」
「いや、子偉に真面目な話があって、あいつには席を外してもらっただけだ」
「そうなの? じゃあ私も出て行くよ」
「いや、小風はここにいろ」
「どうして?」
「お前にも知って欲しいから、だな」
「私にも?」
瞬きを繰り返しつつ、一体何をだろうかと内心の緊張を高める。
肖子豪はゆっくり弟に近付くとその正面で足を止め、一度深呼吸をするように息を吸って吐いた。
消沈していた肖子偉も兄の気配に顔を上げると、何らかの後ろめたさを誤魔化すように唇を固く結ぶ。
兄は弟へとやや厳しい目を向けた。
「もう潮時だ。子偉、噂の件、きっちり説明してもらうからな」
「ちょっと待って子豪兄さん。彼はさっきの人に陥れられたんだよ。責める相手が違うでしょ」
肖子豪が弟にどうしてそんな言葉を突き付けるのかわからない凛風は、庇うように前に出る。
ただし彼がわけもなく他者へ非難を向けるとは思わない。何か理由があるに違いなかった。
多分に疑問を孕む少女の澄んだ双眸を見据え、厳しい目をしていた肖子豪は再度ゆっくりと口を開く。
「いや、違わない。子偉に関する数々の噂、それらは――子偉本人が流させたんだからな」
「……はい?」
一瞬、いやしばらくは、己の理解がだいぶ遠い所にあった。
0
あなたにおすすめの小説
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
転生賢妻は最高のスパダリ辺境伯の愛を独占し、やがて王国を救う〜現代知識で悪女と王都の陰謀を打ち砕く溺愛新婚記〜
紅葉山参
恋愛
ブラック企業から辺境伯夫人アナスタシアとして転生した私は、愛する完璧な夫マクナル様と溺愛の新婚生活を送っていた。私は前世の「合理的常識」と「科学知識」を駆使し、元公爵令嬢ローナのあらゆる悪意を打ち破り、彼女を辺境の落ちぶれた貴族の元へ追放した。
第一の試練を乗り越えた辺境伯領は、私の導入した投資戦略とシンプルな経営手法により、瞬く間に王国一の経済力を確立する。この成功は、王都の中央貴族、特に王弟公爵とその腹心である奸猾な財務大臣の強烈な嫉妬と警戒を引き寄せる。彼らは、辺境伯領の富を「危険な独立勢力」と見なし、マクナル様を王都へ召喚し、アナスタシアを孤立させる第二の試練を仕掛けてきた。
夫が不在となる中、アナスタシアは辺境領の全ての重責を一人で背負うことになる。王都からの横暴な監査団の干渉、領地の資源を狙う裏切り者、そして辺境ならではの飢饉と疫病の発生。アナスタシアは「現代のインフラ技術」と「危機管理広報」を駆使し、夫の留守を完璧に守り抜くだけでなく、王都の監査団を論破し、辺境領の半独立的な経済圏を確立する。
第三の試練として、隣国との緊張が高まり、王国全体が未曽有の財政危機に瀕する。マクナル様は王国の窮地を救うため王都へ戻るが、保守派の貴族に阻まれ無力化される。この時、アナスタシアは辺境伯夫人として王都へ乗り込むことを決意する。彼女は前世の「国家予算の再建理論」や「国際金融の知識」を武器に、王国の経済再建計画を提案する。
最終的に、アナスタシアとマクナル様は、王国の腐敗した権力構造と対峙し、愛と知恵、そして辺境の強大な経済力を背景に、全ての敵対勢力を打ち砕く。王国の危機を救った二人は、辺境伯としての地位を王国の基盤として確立し、二人の愛の結晶と共に、永遠に続く溺愛と繁栄の歴史を築き上げる。 予定です……
崖っぷち令嬢は冷血皇帝のお世話係〜侍女のはずが皇帝妃になるみたいです〜
束原ミヤコ
恋愛
ティディス・クリスティスは、没落寸前の貧乏な伯爵家の令嬢である。
家のために王宮で働く侍女に仕官したは良いけれど、緊張のせいでまともに話せず、面接で落とされそうになってしまう。
「家族のため、なんでもするからどうか働かせてください」と泣きついて、手に入れた仕事は――冷血皇帝と巷で噂されている、冷酷冷血名前を呼んだだけで子供が泣くと言われているレイシールド・ガルディアス皇帝陛下のお世話係だった。
皇帝レイシールドは気難しく、人を傍に置きたがらない。
今まで何人もの侍女が、レイシールドが恐ろしくて泣きながら辞めていったのだという。
ティディスは決意する。なんとしてでも、お仕事をやりとげて、没落から家を救わなければ……!
心根の優しいお世話係の令嬢と、無口で不器用な皇帝陛下の話です。
氷狼魔術師長様と私の、甘い契約結婚~実は溺愛されていたなんて聞いていません!~
雨宮羽那
恋愛
魔術国家アステリエで事務官として働くセレフィアは、義理の家族に給料を奪われ、婚期を逃した厄介者として扱われていた。
そんなある日、上司である魔術師長・シリウスが事務室へやってきて、「私と結婚してください」と言い放った!
詳しく話を聞けば、どうやらシリウスにも事情があるようで、契約結婚の話を持ちかけられる。
家から抜け出るきっかけだと、シリウスとの結婚を決意するセレフィア。
同居生活が始まるが、シリウスはなぜかしれっとセレフィアを甘やかしてくる!?
「これは契約結婚のはずですよね!?」
……一方セレフィアがいなくなった義理の家族は、徐々に狂い始めて……?
◇◇◇◇
恋愛小説大賞に応募予定作品です。
お気に入り登録、♡、感想などいただければ、作者が大変喜びます( . .)"
モチベになるので良ければ応援していただけると嬉しいです!
※この作品は「小説家になろう」様にも掲載しております。
「不吉な黒」と捨てられた令嬢、漆黒の竜を「痛いの飛んでいけー!」で完治させてしまう
ムラサメ
恋愛
漆黒の髪と瞳。ただそれだけの理由で「不吉なゴミ」と虐げられてきた公爵令嬢ミア。
死の森に捨てられた彼女が出会ったのは、呪いに侵され、最期を待つ最強の黒竜と、その相棒である隣国の竜騎士ゼノだった。
しかし、ミアが無邪気に放った「おまじない」は、伝説の浄化魔法となって世界を塗り替える。
向こう見ずな天才騎士に拾われたミアは、隣国で「女神」として崇められ、徹底的に甘やかされることに。
一方、浄化の源を失った王国は、みるみるうちに泥沼へと沈んでいき……?
死亡予定の脇役令嬢に転生したら、断罪前に裏ルートで皇帝陛下に溺愛されました!?
六角
恋愛
「え、私が…断罪?処刑?――冗談じゃないわよっ!」
前世の記憶が蘇った瞬間、私、公爵令嬢スカーレットは理解した。
ここが乙女ゲームの世界で、自分がヒロインをいじめる典型的な悪役令嬢であり、婚約者のアルフォンス王太子に断罪される未来しかないことを!
その元凶であるアルフォンス王太子と聖女セレスティアは、今日も今日とて私の目の前で愛の劇場を繰り広げている。
「まあアルフォンス様! スカーレット様も本当は心優しい方のはずですわ。わたくしたちの真実の愛の力で彼女を正しい道に導いて差し上げましょう…!」
「ああセレスティア!君はなんて清らかなんだ!よし、我々の愛でスカーレットを更生させよう!」
(…………はぁ。茶番は他所でやってくれる?)
自分たちの恋路に酔いしれ、私を「救済すべき悪」と見なすめでたい頭の二人組。
あなたたちの自己満足のために私の首が飛んでたまるものですか!
絶望の淵でゲームの知識を総動員して見つけ出した唯一の活路。
それは血も涙もない「漆黒の皇帝」と万人に恐れられる若き皇帝ゼノン陛下に接触するという、あまりに危険な【裏ルート】だった。
「命惜しさにこの私に魂でも売りに来たか。愚かで滑稽で…そして実に唆る女だ、スカーレット」
氷の視線に射抜かれ覚悟を決めたその時。
冷酷非情なはずの皇帝陛下はなぜか私の悪あがきを心底面白そうに眺め、その美しい唇を歪めた。
「良いだろう。お前を私の『籠の中の真紅の鳥』として、この手ずから愛でてやろう」
その日から私の運命は激変!
「他の男にその瞳を向けるな。お前のすべては私のものだ」
皇帝陛下からの凄まじい独占欲と息もできないほどの甘い溺愛に、スカーレットの心臓は鳴りっぱなし!?
その頃、王宮では――。
「今頃スカーレットも一人寂しく己の罪を反省しているだろう」
「ええアルフォンス様。わたくしたちが彼女を温かく迎え入れてあげましょうね」
などと最高にズレた会話が繰り広げられていることを、彼らはまだ知らない。
悪役(笑)たちが壮大な勘違いをしている間に、最強の庇護者(皇帝陛下)からの溺愛ルート、確定です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる