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0 二人の甘くなるまでの日々(前)
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一目合って、自分の一生の女神はここに居るのだと、まだどこか控えめな微笑を見つめてそう思った。
まだ恋も愛も強かな劣情も、そんなものさえわからない時分の黎明の好意が確かに強く奥深く根を張って、一瞬にして胸に大輪を開かせた。
私ロジーナと隣国の王子ユージーンとは、私が七歳、彼が五歳の頃に婚約した。
婚約と同時に私は彼の国――隣国の王宮へと住まいを移した。
二国間の友好の証として国境を越えたってわけね。
だけど友好なんて建て前で、隣国の本音としてはむしろ私の祖国が隷属を誓う証として差し出した人質に過ぎなかったと思う。
だって私の国は取るに足らない小国で、ユージーンの国は大国だもの。姻戚関係になんてなったのは、消すのが面倒だから足元から要らぬ火が出ないようにって予防的な思惑があったに違いない。
まあ、まだ幼かった当時の私にはそんな政治向きの話は全く聞かされなかったけどね。
そんなわけで隣国国王の住まう宮殿の東に建つ瀟洒な建物――東の離宮が私の新たな家になった。
ユージーンは王子だから当然国王と一緒に中央宮殿に暮らしていて、王宮全体を一つの家と考えれば広い意味では婚約者と一つ屋根の下と言えなくもない。まあ離宮だし距離はあったけど。
新たに始まった王宮での生活は、出自が一国の姫としての立場からすれば衣食住的には何ら不自由はなかった。
離宮は常に掃除が行き届いて清潔だったし敷地内の庭も良く手入れをされていて散策も自由だったから、精神的な癒しもあった。
だけど、ただ一つ自由だけがなかった。
勝手に宮殿からは出られない。
王宮の外には、友好的にではなく私の祖国を呑み込まんと戦いの火種を欲し、私を危険に晒そうと、最悪殺そうとする動きが見え隠れしていたからだ。
外出禁止に不満はなかった、というよりも不満なんて二の次だった。
その頃既に家族から引き離されて異国の知らない王宮の中に放り込まれた幼い私は、ホームシックになっていたんだもの。
王宮の皆は優しく親身で親切だったけど、心が満たされるのと休まるのはまた別もの。故に知らない街並みしかない外に出たいとは思わなかったのは幸いだったかもしれない。
そのうちそう言った勢力も駆逐されたみたいだしね。
心を寄せられる人間が誰一人として居ない。
それはまだ幼かった私の心を沈ませて憂欝にさせるには十分で、最初のうちは寂しくてしょっちゅう泣いていたっけ。
でもそうすると侍女たちが酷く心配そうな顔をした。基本皆良い人たちなのよね。だから申し訳なくて、誰にも見られないように泣こうと思った。
そんな決心をして、毎日庭の散歩に出てはかくれんぼと称して一人になって泣いた。
だけど、子供の浅知恵とでも言うべきか、泣けば目が赤くなる。
かくれんぼで一人になれる時間なんて高が知れている。
密かに私が泣いていると私に仕える大人たちが気付かないわけがなかった。
そんな話が伝わったのかもしれない。ううん後でそうだったって知った。
ある日、ユージーンが会いに来たの。
婚約したものの顔を合わせる機会は各種王宮行事の時だけかと思っていた。
だけど違った。
「お父様お母様、皆に会いたいよお……」
「そこにいるのはロジーナ姫だよね。泣かないで」
庭の生垣の陰に隠れて泣いていたら、わざわざ捜したのか声を掛けてきたのよね。
芝を踏む音が近づいてきて涙目で見上げたら、婚約式で初めて見た時も思ったけど、銀の髪をした天使が心配そうに私を見下ろしていたっけ。
その宝石みたいな碧眼で。
「どうして泣いてるの? 今お父様って言ってたけど、もしかして寂しいの?」
言い当てられて口を結んで思わず俯いてしまったら、隣に座り込んで手を握られた。
「本当にもう泣かないで? 僕はロジーナ姫の婚約者だよ。だからこれからは僕が傍にいるから。そうしたら一人で寂しくないでしょう?」
「あなたに会いたいんじゃないッ」
その時は婚約者って言うより、まだいきなり顔見知りになっただけって思ってたユージーンよりも家族への恋しさの比重が断然大きくて、何を言ってるのかしらこの子って正直苛立ちもあって手を振り解いた。ついでに声を上げて大泣きもした。
けど、つっけんどんな態度を取った私に幼き私の婚約者殿は怒ったりしなかった。
どこかそっと密かに悲しむようなそんな目でハンカチを差し出した後、私が数秒黙って睨んでから受け取ると、その上等なハンカチで涙を拭いて鼻をかむ私の頭をおずおずと伸ばした小さな手で撫でてくれた。
……温かかった。
自分よりも二つも下のまだ五歳の子供なのに、酷い態度にも泣き出さず慰めようとしてくれている。
彼の生来の優しさなんだろうって思ったら、八つ当たりした自分が何だか酷く幼稚で悪い奴に思えて、私の方がお姉さんなのにって猛烈に反省した。
「……怒鳴ってごめんね?」
泣きの余韻までが落ち着いた頃にバツの悪い声で告げれば、それまで文句も言わないで隣に居てくれた少年は、ふわりと微笑んだ。
「平気だよ。僕はロジーナ姫の婚約者だから、泣いていたら僕が涙を止めないといけないし、優しくして護らないと駄目なんだって父上が教えてくれたんだ。だから護るよ!」
小さな手で意気込みの拳さえ握り締め、彼は純真な目でそんな事をのたまった。
「ありがとうユージーン王子」
「ユージーンでいいよ」
「じゃあ私も姫は付けないでいいよ」
どちらからともなく「ふふっ」と笑った。
簡単に家族に会えない寂しさはなくならなかったけど、この日を境にしてぽっかりと開いてしまっていた心の穴は少しずつ埋まっていった。
しばしばユージーンが離宮に遊びに来てくれるようになったおかげだ。
「お早うロジーナ」
元気一杯の可愛らしい少年の笑みと共に。
そのうち、行ったり来たりするのは面倒だって、王子としての勉強も離宮でするようになった。ユージーン自らが所望したみたい。
日によってはお菓子も持参してくれる彼と遊んで疲れると、私たちは決まって一緒にお昼寝をした。
それが発展した形なのかもしれない。
空が暗くなるまで遊んでしまったある日、だけどユージーンは中央宮殿に戻る素振りはなかった。
「ねえ、帰らなくていいの?」
国王様や王妃様に叱られないか心配になった。
すると彼はちょっと得意気に胸を張ってみせた。
「うん、帰らない。思い付いてお願いしたら許可をもらえたよ」
「何の?」
「どうせ僕たち将来結婚するんだし、結婚したら昼も夜もずっと一緒に暮らすんだし、今からその練習をしたって別にいいよね。今日ロジーナと一緒に寝ても良い?」
ユージーンは甘えん坊の明るい笑みを浮かべている。根回し済みでもある。
私は少し考え、こくりと頷いた。
「じゃあ一緒に寝よ!」
わくわくするお泊まり会が急に降ってきて、心底喜んだっけ。
早速侍女たちに彼の泊まる準備をお願いしたけど、まあきっと大人たちは朝から事情を知っていたのよね。でなかったら彼をとっくに帰していたはずだもの。
「おやすみロジーナ」
「おやすみユージーン」
そうしてその夜、私たちは一つの広い寝台に二つ枕を並べ、カーテンを下ろされ消灯された暗い部屋の中で頭から毛布を被って声を潜めて内緒話をした。
普通の声じゃもしかしたら部屋の隅の暗がりに潜んでいるお化けに気付かれるかもしれないなんて、居るのか居ないのかわからない存在を子供ながらに意味なく怖がったけど、二人共その恐怖を取り除く方法を知っていた。
どちらともなく手を繋いで、ぎゅっと握った。
たったそれだけで怖さは薄らいで、私たちは安らかな眠りの中に没入していった。
彼のお泊まりは、最初はぽつりぽつりと日を置いていたものの、段々と頻度が増えていった。
それがいつしかほぼ毎日になって、彼の荷物も離宮内に増えていって、月日が流れた。
もう私は家族恋しさに鬱々としなくなっていた。
ユージーンが常に傍にいるのが当たり前になっていたから、寂しさを感じる暇もなかったのよね。遊びに勉学にと、彼との日々は目まぐるしかった。
可愛い可愛い年下で婚約者の男の子。
気付けば「ユージーン大好き」って何のてらいもなく口に出来ちゃうくらいに、彼は私の心を占めていた。
ただまだまだ子供らしい好意だったとは思うけど。
私とユージーンは、三年経って私が十歳、彼が八歳になってもまだほのぼのと手を繋いで一緒に眠っていた。
最早東の離宮は「私」の住まいじゃなくて「私たち」の住まいになっているって言われても否定できない。
更に三年経って私が十三歳、彼が十一歳になってもまだぬくぬくとした手繋ぎは続いた。
この頃のとある夜、今日もお泊まりの日、ユージーンはただ手を握るだけじゃなく、指と指を絡めるような繋ぎ方をしようとしてきた。
「どうしたの?」
いつもと違うからちょっとビックリして訊ねれば、
「恋人とか夫婦はこれが普通なんだって父上が言ってたんだ。だから僕たちも予行練習しよう?」
なんて上機嫌に言ってきた。
「……駄目? ロジーナは嫌?」
大きなふかふかの枕を並べた寝台の上でおねだりの眼差しが向けられて、何だかちょっと擽ったい気持ちが込み上げる。婚約者君はまだまだ可愛い男の子だわ。
恋人繋ぎは好きな人とするものだろうし、私は彼が好きだからしても構わない。
「全然いいよ。しよ?」
パッと顔を輝かせたユージーンはすぐさま嬉しそうにして、指先をするりと滑り込ませるようにして私の手を大事そうに握り締めた。
トクンと胸が少し高く鳴ったっけ。
その手繋ぎの形がいつの間にか二人のいつもの形になっていった。
更に三年経って、私が十六歳、彼が十四歳になっても私たちはまだ婚約者同士で、結婚もしていない年頃の男女がとさすがに止められるかと思いきや、まだ仲良く一緒に寝ていた。
周囲から見ても私たちは恋人同士の甘い雰囲気が感じられず、むしろ姉と弟が仲良くしているようにしか見えなかったので大丈夫だと思われていたみたい。
実際に私たちはそうだったし、それで満足していた。
少なくとも私は。
ただ少しの変化としては、私が十六になったからと結婚の日取りは決められていた。
その日はきっと両親も列席するからと、久しぶりに家族に会える喜びと期待を胸に浮つく私だったけど、懐かしさこそあれ、もう祖国に帰りたいなんて心細い恋しさはどこかになくなっていた。
プライドの高い横柄な王族なら、小国の姫の私なんて見下して婚約なんて御免だって抗議して解消したがったに違いないのに、ユージーンは私を必要としてくれる。
彼のいるこの王宮がもう私の居場所で、心の拠り所になっていた。
「――ねえ、ユージーンはどうして私をこうして好いてくれてるの?」
「……ええと、どういう意味?」
今夜も恋人繋ぎのまま、眠くなるまでの取り留めのない話題の一つに、密かに抱いていた疑問を振ったら、彼は寝台の上でもそりと動いて怪訝そうに私を見つめた。
「自分の意思とは関係なく国同士の思惑で決められた婚約者が嫌じゃなかったのかなって、今更だけど考えちゃって」
私は婚約話を告げられてからは、もしも意地悪な男の子だったらどうしよう嫌だなって正直不安で嫌々婚約式にも出席したものだった。
ユージーンは「ホント今更だね」とふっと笑った。
「初めて顔を合わせた婚約式でさ、ロジーナは一番初めに僕を見て、はにかんでくれたのを覚えてる?」
「私はにかんだの?」
覚えてない。
とりあえず強そうで怖そうな子じゃなくて良かった~って安心したんだよね。その時に自然と顔が緩んじゃっていて、彼はそれをはにかみだと受け取ったのかもしれない。
「その時にああこの子で良かったって思ったんだよね」
よくわからないけど、初対面での好印象が今に繋がっているって考えていいのかな。
私の離宮に来ようって思ってくれたのもそんな根底があったから?
運が良かったとか、結果オーライって言葉が頭に浮かんで消えた。
「政略結婚なのに、ああなんて僕は幸運なんだろうって神様に感謝したよ」
「ふ、ふうん、そうなんだ」
この子ってば嬉しい台詞を言ってくれちゃってまあ。
だからってわけじゃない……わけでもないけど、私はもう彼を置いてはどこへ行きたいとも思わない。
他人からは、良いように国の思惑に踊らされて飼い慣らされているように見えるかもしれない。
でも幸せを感じる形は人それぞれだもの。
私はこれがベストだわ。
「だからね、末永くよろしく、ロジーナ。おやすみ」
密やかな誓いを声に乗せ、彼は何を思ったか繋いだ手を口元に持って行ってちゅっと口付けた。
「……こちらこそよろしく、ユージーン。おやすみ」
そうそうもう一つ、ユージーンが時々、今みたいに親愛の気持ちと言って手の甲やら額に軽く口付けをしてくるようになったのも、変化と言えばそうかもしれない。
でもそれは一人の紳士へと成長していく彼の身に付けるべき社交術とか礼儀作法の一つでもあったから、私は特段何も変だとは思わなかった。
手の甲になんて夜会でよく見かける光景だし、額にだって家族とか親しい間柄ではやるみたい。
でもまあ、初めて額にキスされた時はちょっと気恥ずかしかったけど。
冬場は互いに身を寄せ合って暖を取るようにして眠ったし、気付けば抱き付かれたままだったり、肩口に頭を寄り添われていたりと距離がだいぶ近くはなったかもしれない。
でもそれが今度は私たちのいつもになっていった。
ほんの少しだけ痺れるような甘さを心の奥に感じはしていたけれども。
そんなとある朝、結婚式まで一月を切った日。
この日の前夜もユージーンが離宮に泊まって、私たちはいつものように同じ寝台で手を繋いで眠りに就いていた。
朝、カーテンの切れ間から暁の光が差し込んで、瞼を通して視界が明るくなったからかもしれない。
何となく意識が浮上して、私は薄らと目を開けた。
「!?」
ビックリした。
だってユージーンの顔がいつになく近い位置にあったから。
まだ恋も愛も強かな劣情も、そんなものさえわからない時分の黎明の好意が確かに強く奥深く根を張って、一瞬にして胸に大輪を開かせた。
私ロジーナと隣国の王子ユージーンとは、私が七歳、彼が五歳の頃に婚約した。
婚約と同時に私は彼の国――隣国の王宮へと住まいを移した。
二国間の友好の証として国境を越えたってわけね。
だけど友好なんて建て前で、隣国の本音としてはむしろ私の祖国が隷属を誓う証として差し出した人質に過ぎなかったと思う。
だって私の国は取るに足らない小国で、ユージーンの国は大国だもの。姻戚関係になんてなったのは、消すのが面倒だから足元から要らぬ火が出ないようにって予防的な思惑があったに違いない。
まあ、まだ幼かった当時の私にはそんな政治向きの話は全く聞かされなかったけどね。
そんなわけで隣国国王の住まう宮殿の東に建つ瀟洒な建物――東の離宮が私の新たな家になった。
ユージーンは王子だから当然国王と一緒に中央宮殿に暮らしていて、王宮全体を一つの家と考えれば広い意味では婚約者と一つ屋根の下と言えなくもない。まあ離宮だし距離はあったけど。
新たに始まった王宮での生活は、出自が一国の姫としての立場からすれば衣食住的には何ら不自由はなかった。
離宮は常に掃除が行き届いて清潔だったし敷地内の庭も良く手入れをされていて散策も自由だったから、精神的な癒しもあった。
だけど、ただ一つ自由だけがなかった。
勝手に宮殿からは出られない。
王宮の外には、友好的にではなく私の祖国を呑み込まんと戦いの火種を欲し、私を危険に晒そうと、最悪殺そうとする動きが見え隠れしていたからだ。
外出禁止に不満はなかった、というよりも不満なんて二の次だった。
その頃既に家族から引き離されて異国の知らない王宮の中に放り込まれた幼い私は、ホームシックになっていたんだもの。
王宮の皆は優しく親身で親切だったけど、心が満たされるのと休まるのはまた別もの。故に知らない街並みしかない外に出たいとは思わなかったのは幸いだったかもしれない。
そのうちそう言った勢力も駆逐されたみたいだしね。
心を寄せられる人間が誰一人として居ない。
それはまだ幼かった私の心を沈ませて憂欝にさせるには十分で、最初のうちは寂しくてしょっちゅう泣いていたっけ。
でもそうすると侍女たちが酷く心配そうな顔をした。基本皆良い人たちなのよね。だから申し訳なくて、誰にも見られないように泣こうと思った。
そんな決心をして、毎日庭の散歩に出てはかくれんぼと称して一人になって泣いた。
だけど、子供の浅知恵とでも言うべきか、泣けば目が赤くなる。
かくれんぼで一人になれる時間なんて高が知れている。
密かに私が泣いていると私に仕える大人たちが気付かないわけがなかった。
そんな話が伝わったのかもしれない。ううん後でそうだったって知った。
ある日、ユージーンが会いに来たの。
婚約したものの顔を合わせる機会は各種王宮行事の時だけかと思っていた。
だけど違った。
「お父様お母様、皆に会いたいよお……」
「そこにいるのはロジーナ姫だよね。泣かないで」
庭の生垣の陰に隠れて泣いていたら、わざわざ捜したのか声を掛けてきたのよね。
芝を踏む音が近づいてきて涙目で見上げたら、婚約式で初めて見た時も思ったけど、銀の髪をした天使が心配そうに私を見下ろしていたっけ。
その宝石みたいな碧眼で。
「どうして泣いてるの? 今お父様って言ってたけど、もしかして寂しいの?」
言い当てられて口を結んで思わず俯いてしまったら、隣に座り込んで手を握られた。
「本当にもう泣かないで? 僕はロジーナ姫の婚約者だよ。だからこれからは僕が傍にいるから。そうしたら一人で寂しくないでしょう?」
「あなたに会いたいんじゃないッ」
その時は婚約者って言うより、まだいきなり顔見知りになっただけって思ってたユージーンよりも家族への恋しさの比重が断然大きくて、何を言ってるのかしらこの子って正直苛立ちもあって手を振り解いた。ついでに声を上げて大泣きもした。
けど、つっけんどんな態度を取った私に幼き私の婚約者殿は怒ったりしなかった。
どこかそっと密かに悲しむようなそんな目でハンカチを差し出した後、私が数秒黙って睨んでから受け取ると、その上等なハンカチで涙を拭いて鼻をかむ私の頭をおずおずと伸ばした小さな手で撫でてくれた。
……温かかった。
自分よりも二つも下のまだ五歳の子供なのに、酷い態度にも泣き出さず慰めようとしてくれている。
彼の生来の優しさなんだろうって思ったら、八つ当たりした自分が何だか酷く幼稚で悪い奴に思えて、私の方がお姉さんなのにって猛烈に反省した。
「……怒鳴ってごめんね?」
泣きの余韻までが落ち着いた頃にバツの悪い声で告げれば、それまで文句も言わないで隣に居てくれた少年は、ふわりと微笑んだ。
「平気だよ。僕はロジーナ姫の婚約者だから、泣いていたら僕が涙を止めないといけないし、優しくして護らないと駄目なんだって父上が教えてくれたんだ。だから護るよ!」
小さな手で意気込みの拳さえ握り締め、彼は純真な目でそんな事をのたまった。
「ありがとうユージーン王子」
「ユージーンでいいよ」
「じゃあ私も姫は付けないでいいよ」
どちらからともなく「ふふっ」と笑った。
簡単に家族に会えない寂しさはなくならなかったけど、この日を境にしてぽっかりと開いてしまっていた心の穴は少しずつ埋まっていった。
しばしばユージーンが離宮に遊びに来てくれるようになったおかげだ。
「お早うロジーナ」
元気一杯の可愛らしい少年の笑みと共に。
そのうち、行ったり来たりするのは面倒だって、王子としての勉強も離宮でするようになった。ユージーン自らが所望したみたい。
日によってはお菓子も持参してくれる彼と遊んで疲れると、私たちは決まって一緒にお昼寝をした。
それが発展した形なのかもしれない。
空が暗くなるまで遊んでしまったある日、だけどユージーンは中央宮殿に戻る素振りはなかった。
「ねえ、帰らなくていいの?」
国王様や王妃様に叱られないか心配になった。
すると彼はちょっと得意気に胸を張ってみせた。
「うん、帰らない。思い付いてお願いしたら許可をもらえたよ」
「何の?」
「どうせ僕たち将来結婚するんだし、結婚したら昼も夜もずっと一緒に暮らすんだし、今からその練習をしたって別にいいよね。今日ロジーナと一緒に寝ても良い?」
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私は少し考え、こくりと頷いた。
「じゃあ一緒に寝よ!」
わくわくするお泊まり会が急に降ってきて、心底喜んだっけ。
早速侍女たちに彼の泊まる準備をお願いしたけど、まあきっと大人たちは朝から事情を知っていたのよね。でなかったら彼をとっくに帰していたはずだもの。
「おやすみロジーナ」
「おやすみユージーン」
そうしてその夜、私たちは一つの広い寝台に二つ枕を並べ、カーテンを下ろされ消灯された暗い部屋の中で頭から毛布を被って声を潜めて内緒話をした。
普通の声じゃもしかしたら部屋の隅の暗がりに潜んでいるお化けに気付かれるかもしれないなんて、居るのか居ないのかわからない存在を子供ながらに意味なく怖がったけど、二人共その恐怖を取り除く方法を知っていた。
どちらともなく手を繋いで、ぎゅっと握った。
たったそれだけで怖さは薄らいで、私たちは安らかな眠りの中に没入していった。
彼のお泊まりは、最初はぽつりぽつりと日を置いていたものの、段々と頻度が増えていった。
それがいつしかほぼ毎日になって、彼の荷物も離宮内に増えていって、月日が流れた。
もう私は家族恋しさに鬱々としなくなっていた。
ユージーンが常に傍にいるのが当たり前になっていたから、寂しさを感じる暇もなかったのよね。遊びに勉学にと、彼との日々は目まぐるしかった。
可愛い可愛い年下で婚約者の男の子。
気付けば「ユージーン大好き」って何のてらいもなく口に出来ちゃうくらいに、彼は私の心を占めていた。
ただまだまだ子供らしい好意だったとは思うけど。
私とユージーンは、三年経って私が十歳、彼が八歳になってもまだほのぼのと手を繋いで一緒に眠っていた。
最早東の離宮は「私」の住まいじゃなくて「私たち」の住まいになっているって言われても否定できない。
更に三年経って私が十三歳、彼が十一歳になってもまだぬくぬくとした手繋ぎは続いた。
この頃のとある夜、今日もお泊まりの日、ユージーンはただ手を握るだけじゃなく、指と指を絡めるような繋ぎ方をしようとしてきた。
「どうしたの?」
いつもと違うからちょっとビックリして訊ねれば、
「恋人とか夫婦はこれが普通なんだって父上が言ってたんだ。だから僕たちも予行練習しよう?」
なんて上機嫌に言ってきた。
「……駄目? ロジーナは嫌?」
大きなふかふかの枕を並べた寝台の上でおねだりの眼差しが向けられて、何だかちょっと擽ったい気持ちが込み上げる。婚約者君はまだまだ可愛い男の子だわ。
恋人繋ぎは好きな人とするものだろうし、私は彼が好きだからしても構わない。
「全然いいよ。しよ?」
パッと顔を輝かせたユージーンはすぐさま嬉しそうにして、指先をするりと滑り込ませるようにして私の手を大事そうに握り締めた。
トクンと胸が少し高く鳴ったっけ。
その手繋ぎの形がいつの間にか二人のいつもの形になっていった。
更に三年経って、私が十六歳、彼が十四歳になっても私たちはまだ婚約者同士で、結婚もしていない年頃の男女がとさすがに止められるかと思いきや、まだ仲良く一緒に寝ていた。
周囲から見ても私たちは恋人同士の甘い雰囲気が感じられず、むしろ姉と弟が仲良くしているようにしか見えなかったので大丈夫だと思われていたみたい。
実際に私たちはそうだったし、それで満足していた。
少なくとも私は。
ただ少しの変化としては、私が十六になったからと結婚の日取りは決められていた。
その日はきっと両親も列席するからと、久しぶりに家族に会える喜びと期待を胸に浮つく私だったけど、懐かしさこそあれ、もう祖国に帰りたいなんて心細い恋しさはどこかになくなっていた。
プライドの高い横柄な王族なら、小国の姫の私なんて見下して婚約なんて御免だって抗議して解消したがったに違いないのに、ユージーンは私を必要としてくれる。
彼のいるこの王宮がもう私の居場所で、心の拠り所になっていた。
「――ねえ、ユージーンはどうして私をこうして好いてくれてるの?」
「……ええと、どういう意味?」
今夜も恋人繋ぎのまま、眠くなるまでの取り留めのない話題の一つに、密かに抱いていた疑問を振ったら、彼は寝台の上でもそりと動いて怪訝そうに私を見つめた。
「自分の意思とは関係なく国同士の思惑で決められた婚約者が嫌じゃなかったのかなって、今更だけど考えちゃって」
私は婚約話を告げられてからは、もしも意地悪な男の子だったらどうしよう嫌だなって正直不安で嫌々婚約式にも出席したものだった。
ユージーンは「ホント今更だね」とふっと笑った。
「初めて顔を合わせた婚約式でさ、ロジーナは一番初めに僕を見て、はにかんでくれたのを覚えてる?」
「私はにかんだの?」
覚えてない。
とりあえず強そうで怖そうな子じゃなくて良かった~って安心したんだよね。その時に自然と顔が緩んじゃっていて、彼はそれをはにかみだと受け取ったのかもしれない。
「その時にああこの子で良かったって思ったんだよね」
よくわからないけど、初対面での好印象が今に繋がっているって考えていいのかな。
私の離宮に来ようって思ってくれたのもそんな根底があったから?
運が良かったとか、結果オーライって言葉が頭に浮かんで消えた。
「政略結婚なのに、ああなんて僕は幸運なんだろうって神様に感謝したよ」
「ふ、ふうん、そうなんだ」
この子ってば嬉しい台詞を言ってくれちゃってまあ。
だからってわけじゃない……わけでもないけど、私はもう彼を置いてはどこへ行きたいとも思わない。
他人からは、良いように国の思惑に踊らされて飼い慣らされているように見えるかもしれない。
でも幸せを感じる形は人それぞれだもの。
私はこれがベストだわ。
「だからね、末永くよろしく、ロジーナ。おやすみ」
密やかな誓いを声に乗せ、彼は何を思ったか繋いだ手を口元に持って行ってちゅっと口付けた。
「……こちらこそよろしく、ユージーン。おやすみ」
そうそうもう一つ、ユージーンが時々、今みたいに親愛の気持ちと言って手の甲やら額に軽く口付けをしてくるようになったのも、変化と言えばそうかもしれない。
でもそれは一人の紳士へと成長していく彼の身に付けるべき社交術とか礼儀作法の一つでもあったから、私は特段何も変だとは思わなかった。
手の甲になんて夜会でよく見かける光景だし、額にだって家族とか親しい間柄ではやるみたい。
でもまあ、初めて額にキスされた時はちょっと気恥ずかしかったけど。
冬場は互いに身を寄せ合って暖を取るようにして眠ったし、気付けば抱き付かれたままだったり、肩口に頭を寄り添われていたりと距離がだいぶ近くはなったかもしれない。
でもそれが今度は私たちのいつもになっていった。
ほんの少しだけ痺れるような甘さを心の奥に感じはしていたけれども。
そんなとある朝、結婚式まで一月を切った日。
この日の前夜もユージーンが離宮に泊まって、私たちはいつものように同じ寝台で手を繋いで眠りに就いていた。
朝、カーテンの切れ間から暁の光が差し込んで、瞼を通して視界が明るくなったからかもしれない。
何となく意識が浮上して、私は薄らと目を開けた。
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ビックリした。
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