皇帝陛下のお妃勤め

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第一部

5、揺らめきだした日常

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「その……、思い切って訊くけど、淑妃はそんなに醜女なのか?」

 博風の気遣うような声に、一翔はピクリと眉を動かした。

「いやー、だって城下では体力仕事もこなして生計を立てていたって言うし、三年前の遠征じゃ、男のフリをして戦線に赴いてたって話も聞く。だから手を出せないほど難があるのかと思ってさ?」
「えんせいって戦いに行くあの遠征か?」
「そうだ」
「はああ!? 女の身で男装して遠征に加わっていただって!? 三年前って一体幾つだ?」
「確か、彼女今十六だったよな。だから十二か三かじゃないか?」

 一翔は頭痛がしてきた。その例の遠征は一翔が下した命だ。
 戦果は上々だったが、当然死傷者は出た。
 入隊の折には一応身体検査はあるはずで、どうしてそこで性別がバレなかったのか不思議だが、きっと何か知人とかの伝手で裏で手を回してもらったとか、そういうことだろう。何しろ景素流はかつてのこの国の将軍の娘、更に言えば将軍は将軍でも軍トップたる大将軍の息女だ。
 いくら落ちぶれて庶民と同等の暮らしをしていようと父親が築いたパイプは生きているのかもしれない。軍内部に知り合いがいてもおかしくはないのだ。そこはまあいい。本当は不正なので良くないが、まあ過ぎたことだし目を瞑る。
 それに入隊の仕方がどうであれ、どうせ軍の下っ端兵士としてだろう。
 だが、戦で真っ先に犠牲になるのは前線に出ているそういう兵士たちだ。
 もしかしたら、その遠征で彼女が死んでいれば今日顔を見ることもなかったと思えば、一翔の胸中に苦いものが広がった。

「そりゃ戦場なんて経験すれば、俺を初夜に躊躇なく押し倒す度胸もあるわけだ。怖いもの知らずなのかあの娘は?」

 落ち着かないそんな気持ちを散らすように悪態をつけば、博風が大きく目を見開いた。

「何だって? 押し倒された? しかも初夜に向こうから? なのに据え膳食わずに逃げてきたのか!? とんだ阿呆じゃないかそんなのは。お前自分が皇帝陛下だってわかってる?」
「わ、わかっている。俺……朕にだって気が乗らない時があるのだ!」

 そう言ったら博風から「お前、大丈夫だよな?」と心配そうに股間に視線を向けられて、一翔は憤りの余りゲンコツを食らわせていた。

「いててて、今時ゲンコツとか、この私の黄金比の頭の形が歪んだらどうしてくれるんだ」
「勝手に言ってろ。皇帝としての責務は果たすから心配するな。そうしなければ俺もお前の実家も終わりだ。計画は続行する。あと、別に醜女ってわけじゃない。ふつう……いやちょっと変わった娘だよ。そういえばまだお前は会っていなかったな」
「まあな。体調が優れないとしてお前らが軌道に乗るまでは会わないようにしてたんだけどな」
「おい軌道に乗るとか言うな。きっちり役割は果たす」

 一翔が嘆息と共にそう言えば、博風は少しの間思案した。

「そんなしかめっ面するなって。もしお前が無理なら、他の娘を探すぞ?」

 博風の予想に反し、一瞬だけだが一翔は虚を突かれたような顔になった。
 他の娘との可能性など、提案されるまで全く思いもよらなかったような、そんな面持ちだ。

「……そんな必要はない。関わらせる人間を増やすことで要らない事実を知られると困る」
「まあそれはそうだが。ああもしも彼女を気に入ったならずっと後宮に留め置くのも可能だぞ」
「気に入るなんてことはないから安心しろ。この嫁取りはあくまでも皇帝の義務だ」
「ふうん? なあ一翔、何日も顔を合わせてるくせに、一度も可愛いって思ったことはないのか?」
「ないな」

 博風は自らの顎に指を当てると、じーっと探るように両目を細めた。

「何だ?」
「いや~?」

 所作からして徹底して女装している今は女性にしか見えないのに、どこか男らしいというヘンテコな乳兄弟を心のどこかで珍妙認定しつつ、一翔は脳裏から離れないとある場面を思い出していた。

 綺麗だとは思った。

 浴室で自分を振り向いた時の、彼女の鋭い眼差しと凛とした横顔が。
 出で立ちはあられもないものだったのに劣情は湧かず、神仙に対するような神秘すら感じた瞬間だった。
 そんな感覚を有した自分が未だ信じられず、彼は胸の内にだけ留めていた。
 気の迷いだと確信するためにも、だから彼女の鍛錬を見学していたのだが、余計に悩む羽目になった。

(生き生きとしている姿にハッとする瞬間があるなんて、博風には口が裂けても言えない)

「どうかしたか?」

 急に黙り込んだのを訝しく思ったのか、博風が化粧の上の柳眉を片方持ち上げてみせた。

「いや、ところで博風、そなたは……」

 問い掛けて途中で言葉を戻した。
 天女に会ったことはあるか、なんて馬鹿げた質問をしそうになったからだ。
 そんな問いをしたらこの目の前の女装皇后は絶対に面白がる。
 一翔は何となく、あの日以来、腕の怪我もあって手を出さずに済んでいる状況に安堵を覚えていた。怪我の功名とすら思ってもいた。

(このままあと何日平穏を得られるか。いや、平穏だなどと男らしくないな。まあ、何もなくとも、今後のためにももっとよく彼女を知る努力は続けるべきか)

 故に夜だけでなく、公務の手が空いている時……というか早々に片付けて、観察も兼ねて傍にいることにしてみた、という次第だったのだ。
 それが偶然にも都合よくほとんど素流の鍛錬時間と重なっていて、挙句には素流の心証的には裏目に出ていたとは彼は露と知らなかったが……。




 鍛錬中は余計なことを考えず無心でいられる。夢中でいられる。
 今までの景素流はそうだった。
 だから浴場では加減もなく会って二日目の夫の腕を打ってしまったわけだが、最近は違っていた。
 今はいちいち見に来る一翔の目が気になって、つらつらと色んなことを考えてしまうのだ。回想から想像まで本当に幅広く。
 例えば今などは、後宮に来る前の出来事だ。

 ある日突然、父方の遠縁だという中年男性から、疑って掛かるべき話を持ち掛けられた。

 ――現皇帝の妃になって世継ぎを産んでほしい。

 冗談も程々にしろと追い返したかった。
 こっちはただでさえ困窮していて請け負っている仕事が立て込んでいて、呼吸一つ分でも時間が惜しいというのに。
 しかし、連れ出された茶館で、弟妹たちの分まで点心を土産に持たせてくれるというので踏みとどまったのだ。
 ただ、顎髭を撫でながらの実にのんびりとした男の話しぶりのせいで徒に時間が過ぎて行く苛立ちに、素流は早々に話をつけに掛かった。
 やや喧嘩腰に要点だけを求めれば、相手はせっかちだと苦笑したけれど、それだけだった。
 胡散臭い話だと思っていた手前、怒って席を立ってくれれば良かったのにと半分思ったが、そうしなかった辺り、嘘か本当かもわからない遠縁の男の腰の入れようが浅くはないのだとわかった。

 本気で自分に話を持ちかけているのだ。

 巷には皇帝に嫁ぎたい娘たちが腐るほどいるに違いないのに、どうして自分なのか。
 その疑問はすぐに解消された。

 ――ただし、くれぐれも情など持たないように。

 遠縁の男はそう言った。

 ――子を産めばすぐに後宮から出してやれるだろう。その後はたんまり下賜される報酬報奨で裕福に暮らせる。もちろんお主が後宮に居る間はしっかり弟妹たちの面倒は見ると約束する。どうだ? 受けてくれないか?

 ……受けてくれないか?

 男は物腰も柔らかにそう問いかけてきている。
 しかし素流は最早引き返せない所まで自分が来ているのだと認識していた。
 こんな話を知って断って「はいそうですか」とすんなり帰してくれるお人好しがいるはずがなかった。
 実際、茶館では人払いがされていた。
 すなわち、話を聞いた時点で素流には受ける道しか残されていなかったのだ。
 迂闊うかつだったと自分を詰っても後の祭り。

 ――本当に、子を産めば報酬は弾んでもらえると?
 ――もちろんだ。
 ――生きて後宮から出してもらえる確かな保証は?
 ――それは皇帝陛下の御名に懸けて。ただし、お主も口外無用だ。
 ――それは承知です。弟や妹たちには何も言わないで下さいね? 彼らの世話も必ずですよ?
 ――わかっておるわかっておる。

 返答に嘘は感じられなかったので、素流は一つ息を吐いた。

 ――承りました。

 この言葉と共に。
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