皇帝陛下のお妃勤め

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第二部

19 想定外の喧嘩

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「素流……?」

 一翔は唐突に湯に没した素流に一瞬状況が呑み込めずに呆けた。
 おでこへの口付けの直後だったので、もしかしたら空気を察した彼女から今夜は避けられたのだろうかと思いもした。
 世継ぎを生むために必要な二人のあれこれを、この件に存外責任感を見せる素流が拒むとは思えなかったが、女子は色々とあるらしいので今日は駄目なのかもしれない……なんても思った。良い雰囲気に持って行こうとしていた自分が性急だったのだろうかとも気にした。

 何にせよ、かわすために湯に勢いよく沈まれては、ちょっといやかなり切ない気分にはなる。

 果たして素流は何と言って出てくるのかと待っていたが、暫ししても素流が水面から顔を覗かせる様子はない。

 ぶくぶくぶくと空気の泡が立っていたのも最後の一つを終えてしまった。

「素流? ――素流!?」

 ここでようやく彼は異常に気付き、濁り湯に沈んだ彼女を手探りで引き当てて急いで湯から上げた。
 幸い溺れてはいなかったが、何度か名を呼んで頬を叩いて促して薄らと目を開けた彼女は、咳き込みつつも意識がはっきりしないようだった。
 見るからに顔を赤く上気させながら、うなされるように苦しそうにしてまた意識を手放し、くたりと力なく一翔の胸に凭れた。

 明らかに湯当たりだった。

 どうやら長く湯の中に居過ぎたらしい。
 結局その夜彼女は急ぎ麓の宿まで運ばれて、骨休め中の宮女たちから大いに驚かれ心配されて世話をされた。
 宮女たちは突発事項に誰一人迷惑そうな顔はせず、むしろ素流の世話を焼けて嬉しそうだった。
 一翔は彼女が彼女の周囲の人間から好かれている様を目の当たりにして思わず頬を緩め、互いに着替えなども必要だったので暫し彼女を任せたのだった。

 一晩経って小鳥の囀りが清々しい朝、素流は豪華な天蓋付きの寝台で目を覚まし、その寝台に突っ伏すようにして眠りこけている夫を見つけた。

「え、陛下?」

 キョトンとして呟いたが、覚えている限りの昨晩の状況をすぐに思い出し、自分がのぼせたのだと悟って目元を覆った。

「あー……ごめんなさい陛下、それから博風さん」

 素流は自身の予感通り、博風のお膳立てを不意にしてしまったのだ。

「だ、だけどまだもう一晩あるし……」

 閉じられた目元に少し介抱疲れを見せる一翔を見下ろして、素流は申し訳ない思いでその肩に布団を掛けてやると、彼が起きるまで傍でもう何度と見てはいる寝顔を見下ろしていた。




 その日は徹夜に近かった一翔の体調を慮って午前中は宿で過ごした。
 言うまでもなく夫婦の部屋は一つだ。
 窓や戸の一つを取っても、木組みで編まれたような格子は繊細な彫刻職人の技が光っている。卓子に掛けられている布一枚でさえ細かに花と葉の模様が織り込まれていて上等だ。この一枚で中堅官吏の一月分の俸禄が飛ぶと言われても納得できる。その他の調度も似たような物かそれ以上の高級家具のようだ。
 博風が用意してくれたここは皇帝の寝室程ではないにしろ、そういう水準の部屋なのだ。
 彼は一緒に宿に居るという素流に安心したのか、今は心置きなく寝心地の良さそうなそんな豪華な寝台で眠っている。
 因みに素流が寝かされていた寝台でもある。
 布団に入った眠そうな一翔から一緒にどうだと言われたが、よく寝て眠くなかった素流は冗談だと受け取ってあっさり断った。よく彼女を抱き枕にする皇帝陛下はやや不満げにしたけれども。

 今は穏やかな寝息を立てる一翔だが、素流が無事に目を覚ました様を見た当初は、思い余ったように彼女を抱き締めた。

 驚きはしたものの、頭を撫でられながら彼からとても安堵されて、正直な所素流はちょっと涙が出た。
 湯当たり一つでこんなにも想ってくれていると感じて、彼への愛情が深まったように思う。
 けれど、それは同時に素流を戸惑わせた。

 ある程度ならばいい。

 この先に生まれてくる我が子に、両親は冷え切っていたなどと教えてほしくはない。

 それでも、このまま想いが深まっていくのはよくないと思うのだ。

 後宮を出て行く妨げになるのはわかり切っているからだ。

 適度に好きでいたい。

 ただ、それが自分で思うくらい自由に制御できる感情なのかは自信がなかった。

(だってもうこんなにも……)

 まだ後宮を離れる気持ちに変化はない。
 向こうだって若いのだし、素流が世継ぎを生んで安泰となれば、心にも余裕が出てくるかもしれない。そうすればもしかしたら他の妃を入内させるかもしれない。後ろ盾もいるのだし、そういう娘を見つけるのに苦はないだろう。
 どうなるにしろ、その頃自分は淑妃景素流ではなく、ただの一人の景素流として皇城の外で弟妹たちと楽しく慎ましく暮らしているに違いない。

 時々皇城にいる我が子や一翔へと元気でいるかと思いを馳せて生きていく。

 そんな姿がありありと目に浮かぶ。

 想像ではあったが胸の奥のどこかが痛んだのには気付かないふりをした。

 昼近くになって一翔が起き、昼餉を共にした。
 円い卓子に二人分よりも些か多めの皿が並べられている。残せばおそらくは廃棄されてしまうのだろうと思えば、素流は出来るだけ食べようと決意した。

「素流、夜までは時間もあるし、また温泉街に出掛けるか? 昨日は回ったとは言っても点心の店を出てからは、実質急ぎ足でしか回れなかったしな。何であれば、また点心を食べに行くのも良い」
「そそられるお誘いですけど、疲れは取れました? 宿でまったりして体力温存しなくていいんですか?」
「体力……。そなたは自覚があるのかないのか、時々少々際どい発言を平気でしてくるな」
「ええと際どいって?」
「いやいい……」
「ええ?」

 一翔としてはそのくらいの体力は全然余裕だと言ってやりたかったが、昼餉の席でそれはちょっとはしたないと思い直し、自重したのだった。
 二人は話し合って、夕方までは宿で過ごすと決めた。

「本当に良いのか?」
「はい。馬とは言え、山登りは楽じゃありませんし、体力温存です」
「……ああその方面の体力、か」
「はい?」
「いやいい」
「ですが、もしも陛下が温泉街が気に入ったのであれば、やっぱり回りましょうか?」

 素流の申し出に一翔はゆるりと横に首を振る。

「朕が回りたいのではない。そなたが回りたいだろうと思ってな」
「私、ですか?」
「そうだ。口には出さぬが、そなたは亡き将軍を偲ぶために街を歩きたかったのだろう? もう少しゆっくりと雰囲気を味わえば良い」

 素流はちょっと目を瞠った。

「え、と……お気付きだったんですか」
「朕を誰と心得る」
「天下の皇帝陛下ですけれど……?」

 一翔は箸を止め、微苦笑を浮かべた。

「そなたの夫だ」

 意外な答えに素流はぱちぱちと瞬いた。

「愛する妻の胸中を常に慮って然るべきだろう?」
「……すみません、気を遣わせてしまったんですね」

 目線を下げて恐縮すれば、一翔は今度こそ箸を置いた。
 溜息のようなものまでつく。

「そなたは誠に簡単ではない女人だな。どうして朕にそなたを存分に思いやらせてはくれぬのだ。世継ぎは確かに必要だが、朕はそなたの体だけではなく心も護りたいのだ。それくらいは理解してくれていると思っていたが……残念だ」

 残念。

 変に偽ったり婉曲せずに直接的な表現で気持ちを伝えてくれるのはありがたい。けれどその言葉に素流は悟られないように肩に力を入れた。

 彼からの失望が痛かった。

「……すみません。ですけど、本当に街を見なくても平気です。昨日ので満足です」

 点心は沢山食べたし、何より一翔との楽しい時間が思い出の上に重なって、もうこの街が心の中でとても貴重な風景になっていたからだ。
 楊一翔は忙しい皇帝陛下なのだ。
 きっとこの先こんな思い出は、多くは作れないだろう。
 後宮を出ていく素流にはそれほど時間に余裕だってない。
 だからかえって今日も出掛けて思い出を引き延ばすよりも、昨日感じた濃縮されたような輝かしい思い出をこのまま胸に仕舞っておきたかった。

「そうか。なれば良いのだが……」
「それにですね、ついでなので言っておきますと、相互理解は必要ですけど、私は現状陛下を善き方と理解しています。それで十分だと思うんです。陛下は私の立ち位置と意向をご存知でしょう。ですからお互い適度に程々の方がきっといいんです」

 一翔は黙り込んだ。

「それは依然としてそなたは将来的に後宮を出るつもりだからか?」
「そうですね」
「……食欲が失せた」

 唐突に一翔は両手を突いて席を立つと、歩調も荒く部屋を出て行った。

 素流は暫し呆気として、ピシャリと閉じられた洒落た格子戸をじっと見つめてしまった。

「前からそう言ってるじゃないですか……。どうして怒るんですか……」

 向ける本人がいなくなった部屋で、素流はポツリとそんな反駁はんばくを口にする。
 残しては勿体ないからと、悄然として残りの昼餉を平らげたが、ほとんど味なんてしなかった。




 どこに行ったのか、夕方になっても一翔は戻って来なかった。

 喧嘩をしたつもりはなかったが、一翔的には喧嘩だったのかもしれない。

 護衛に訊けば、彼は秘湯には行く予定ではいるらしい。
 彼からの指示で戻ってきたのか別の護衛から、夕餉を先に摂っているように言われた。

 しかも秘湯へは先に行っているようにとも言伝てされた。

 幽霊騒動は一風変わった猿の仕業だと片付けたので、素流自身さして危険を心配してはいない。一翔もきっとそうだろう。

「食事も一緒にしたくないのかな……」

 それなのに秘湯には行く辺り、やはり気持ちがどうだと言いはしても、決してその言葉は嘘ではないとしても、子作りは義務と彼もどこかで腹を括っているのだろう。

 素流もその点に異論はないが、少しやるせない気持ちが湧いたのは否定しない。

 それでも素流は文句もなく彼の指示に従い、早々と夕餉を摂って少し腹休めをしてから前日同様に秘湯へと向かったのだった。
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