皇帝陛下のお妃勤め

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第二部

20 現れた望まぬ過去

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 四阿あずまやで少し一翔を待っていた素流だが、彼は中々来なかった。
 もしかしたら所用で忙しいのかもしれないし、最悪来られないという可能性もある。まあその際は護衛なり何なりから連絡が来るだろう。
 時間を無駄に潰している自覚のある素流は一度先に入ってみる事にした。その間に一翔が来るならそれでよし、来なければ上がって涼んで彼を待ってからまた入ってもいい。勿論のぼせないように気を付けるつもりではいる。
 温泉に浸かればすっかり落ち込んで緊張で口の締まった自身の心も、少しは解れるだろうとも思ったのだ。柔軟な気分で一翔と接したかった。
 そんなわけで脱衣所の外に護衛たちを待機させ、手早く脱いで手拭い一枚を手にした素流は目の前に広がる湯気とそれを立ち昇らせている温泉を眺め、昨日は思うように味わえなかった秘湯の湯気を感動にも似た思いで吸い込んだ。
 昨晩はついつい推奨されない服のままで入ってしまったが、今夜はきちんと教えられた入浴の仕方で入る。

(へへっ貸し切り!)

 早々に気分が上向く。
 実の所、一翔より一足先に満喫してしまうのは正直申し訳なかったが、これも安定の子作りのためだと思う事にする。
 素流が大らかでいれば、機嫌が悪いだろう向こうも気持ちが少しは穏やかになると踏んだのだ。
 それ以前に、きっと端から一翔と居てはわかってはいても変に緊張してしまって、こうも純粋に秘湯を秘湯として楽しめなかっただろう。昨日でそこはしかと実感したので都合が良くもあった。

(よーし、こうなったら陛下が来るまでしっかりと楽しもう)

 髪の毛が濡れないように頭の上で纏めた素流は、両手を握り武者震いにも似た高揚に背筋を伸ばして一人浮かれた。
 白い湯気が立ち込める岩に囲まれた濁り湯温泉。
 手にしていた手拭いは最終的には頭に巻いた。
 どうせまだ一人なので隠す必要がないと気付いたからだ。
 体に湯を掛け流し洗うべき所は洗い、ちゃぷんと爪先から少しずつ温度を確かめるようにして静かに湯の中に入った。
 肩まで浸かればちょうど良い温かさに包まれてほぅ…と吐息が漏れた。
 名湯と言われているだけあってほんのり白く濁った湯が体を芯から温めてくれる。

「はあぁ~っ極楽極楽ぅ~っ」

 このお湯は天然の色だと言うのだから大自然とは実に計り知れない存在だ……などと一人哲学をして満喫の声を出した素流の耳に、その直後突如パシャンという水音が入った。

 やや遠かったので気のせいかと思って耳をそばだてていると、またどこかから温泉の水面を乱す水音がした。

(え……? でもここには私以外誰もいないはず……。あ、もしかして昨日の野生の猿が懲りずにまた来たの?)

 どうやら水音は素流からは見えない大きな岩の向こうから聞こえてきている。

(さすがに野生だと人間と仲良く入ってはくれないわよね。威嚇されて逃げられるのがきっと落ちかな。ここからだと死角だし私がそっと上がっちゃえば気付かれないとは思うけど、ああでもやっぱり気になる。それにもしも万が一億が一猿じゃなくて何か良からぬ輩だったりしたら、陛下がここに来た時に危険かもしれないし、一応こっそり見てみないと駄目よね)

 素流はもしもの時は排除も視野に入れて物音の正体を確かめる事にした。
 相手が女なら問題はないし、幽霊や魔物の類ならそもそも恥じらいなんぞを気にしていられないだろう。
 男だったとしても濁り湯に沈んでいれば隠せる。手拭いもあるので必要な時は最悪下だけでもそれで隠せる。しかし、元よりそうならないのを願うばかりだが、もしもの時はもしもの時だ、一応は覚悟をした。

(その時は、――かつての戦場時のように男になった気で行け景素流!)

 うすっ、と気合いの掛け声を心で叫んで音を立てないよう慎重に岩の向こうを覗き込んだ素流は、その岩陰の先からまさに自分と同じようにして何者かがぬっと顔を覗かせたのと鉢合わせた。

 見知らぬ男の顔と危うく正面衝突しそうになった。




「――っ!?」
「うわっ!?」

 素流は辛うじて仰け反って距離を取ったし、相手も驚いてザバリと湯から立ち上がった。周囲は薄らとした湯気にぼやけてはいるが、相手の細部を視認できるくらいは距離が近く視界も利いた。
 昨日一翔が言っていた生身の人間が一番だという言葉が頭を過ぎる。

(よ、よりにもよって人間が出た……!)

「お、お前……!?」

 声も出なかった素流同様に驚きに目を瞠った相手は、精悍さが際立つ男前な顔立ちではあるが、表情だけを見ればそれほど大人びてはおらず、素流と同じくらいかもしかしたら少し上かもしれない年頃の男だった。

 固まったように身を屈め肩まで浸かっている素流とは違って、上半身が出ても気にならないその相手は引き締まった厚い胸板を堂々と彼女の目に晒している。
 水位のおかげで彼の腰より下が湯の下に沈んでいたのは幸いだった。
 人体の常識通りに割れた引き締まった腹筋や張った胸筋は、男が鍛えている事実を如実に語っている。

(あれ? もしかしてこの人昨日ぶつかった人よね。まだこの街にいたんだ……っていうか案の定強そうだわ)

 夜空の下、昼日中と比べれば申し訳程度と言える灯りの下でも肌は小麦色に日焼けしているのだとわかったし、後宮の宮女たちは勿論、巷の女性陣がさぞかし喜びそうな健康的で理想的な体躯の持ち主だ。

 ただ、左の肩口から胸元にかけて刃物で斬られたものだろう傷痕があった。

 こうして湯に浸かってもいるし、もう完治している傷ではあるようだが。

 その手の怪我を見慣れている素流は、別段慄いたり目を逸らしたりはなかったし、また、良い体だと何かがぐっとくる事もなかった。
 少年と言うよりは、長身でもあるしどちらかと言えば青年と言ってもいい相手は、素流を信じられないものでも見るように見下ろしていたが、やがてその目に喜色のようなものを浮かべた。

「ははっ、はっ。昨日うっかりしてたら人混みに見失っちまって、もう絶対に見つからねえと思ってたが、まさかこんな山ん中で見つかるとはな。しかも、はははっ……――やっぱお前だ」

 素流が訝しむしか出来ずにいる前で、男はその面に凶悪に笑みを湛える。

「天はオレに大いに復讐しろって言ってるに違いない」

 どこか哄笑にも似た歪な嗤い声を立てる男を警戒心も追加で目を離さず見据えたまま、素流は眉をひそめた。
 何故なら相手の言っている意味が全くわからない。

(見つけたって、私を……? それに復讐なんて物騒だし、この人何者? 全然知らないけど)

 青年は怪訝にしている素流に気付くと、向こうも眉をひそめた。

「おい、何意味不明みたいな顔してんだよ。オレを忘れたとは言わせねえぞ、確かにお前だった。――この顔だった」

 唐突に強くあご先を掴まれ顔を近づけられて凄まれた。
 小さいながらも痛みに顔をしかめれば、男は可笑しそうに笑った。

「オレの痛みはそんなもんじゃなかったぜ」
「……さっきから本当に何を言っているの?」

 素流が無理やり口を動かして低く訊ねれば、彼は乱暴に彼女から手を離して自らの古傷をなぞった。

「これは四年前、あぁそろそろ五年か? まあ何でもいいが、その時に戦場でお前に斬られた傷だ」
「戦場で、私に……?」
「直後に戦が終わって、お前にやり返す機会がなくなったのはホント悔しかったぜ」

 その言葉と傷の部位を理解すれば、素流の中から思い当たる記憶が蘇った。

 男装をして付いて行ったおよそもう四年前の遠征だ。

 終戦間際、初めて誰かに深手を負わせた瞬間の感覚をまざまざと思い出す。

 言われてみれば相手の面差しには昨日云々とは別に、記憶の奥底から甦るような罪悪感と共にどこか見覚えを感じた。

 その憎々しげに自分を射る鋭い双眸には覚えがあった。

(この目は……)

 兜と泥汚れで細かい年齢まではよく考えもしなかったが、まさか自分と同じくらいだとは思わなかった。

「ま、さか……」
「はんっ、やっと思い出したか?」

 素流の表情から気付きを察したのだろう、相手は酷薄なまでに横柄な態度を崩さない。

「オレはこの消えねえ傷を負わせてくれたお前の存在を一日だって忘れたことはなかったけどな。後にも先にもオレにあんな深手を負わせた男はお前だけだ。祖国を出てこの国を放浪しながらずっと探してたんだ。もう一度戦って今度はオレが勝つために」

 彼は当時、動きからすぐにわかるほど武芸に関して素人だった。
 だが今はそうは見えない。

(あの時、確実に恨まれたとは思った。でも二度と会うこともないと思ってた)

 絶句する素流には文字通り言葉もなかった。
 思いもかけない再会以上に、戦場での心許なかった気持ち、無理をしていた自分が思い出され、浸かっているのは温かな湯のはずなのに冷水に浸されているように体が冷えていく。
 ときの声や悲鳴や絶叫、馬の嘶きや武器同士のぶつかり合う音、兵士を鼓舞或いは合図を送るための低く重い太鼓の音が今にも耳朶の奥に聞こえてくるようだった。

 望まぬ過去が急に目の前に現れて、素流の平常心を無残に踏みにじっていく。

 当時の喧騒の回想に息が詰まって我知らず咽元を押さえた。
 精神的衝撃に見舞われた上品な貴婦人たちがそうするように、自分も気絶できたらどんなに良かっただろう。しかし今そんな弱さを露呈させれば自殺行為も然りだ。そもそもそんな繊細さを持ち合わせていない。
 従って、素流は動揺を必死に堪えるほかなかった。
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