皇帝陛下のお妃勤め

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第二部

24 嵐の後の小旋風

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 しばらくは龍靖が戻って来はしないかと、しかめっ面をした素流は湯気の向こうを気にしていたが杞憂だった。
 その間、一翔は慎重に近くを捜して剣を湯から拾い上げると鞘に収めた。

「ふう、本当に行ったみたいですね」

 湯に半端に浮いていた手ぬぐいを拾って絞りながら、石の足場に上がった素流がちょっと憎々しげにしながらもホッと息を吐き出した所で、同じく上がった一翔から背に腕を回されてふわりと抱きしめられる。

「わわっ陛下?」
「全く、そなたは朕を殺す気か! 剣の前に飛び込むなど、どれほど肝を潰したことか……!」
「ご、ごめんなさい」
「謝られても怒りは治まらぬ。刺客に襲われていた夜のような思いは二度としたくないと思っていたというのに……っ。相手がよく訓練され、即座に回避対応ができる技量の持ち主で幸運だったとしか言えぬ」

 一翔としてはもう邪魔者も消えたので感情に任せ本当はもっともっときつく抱きしめてしまいたかったが、加減を間違えそうで、そうできなかった。

(あ……腕が震えて……)

 力を入れ過ぎないよう堪えているせいか、一翔の腕が小さく震えているのに気付いた素流は、彼にまた大きな心配をかけてしまった自分を猛省した。
 逆の立場だったら何て無謀なと泣いて喚いて責め立てていたかもしれない。
 実際、二人が剣を交えていた時は気が気ではなかった。

「その、危なかったのはわかってます。本当にごめんなさい!」

 ぎゅうっと腕の力が強まった。
 でも素流には謝るくらいしかできない。

「朕はこの上なく怒っておる。だが、身を挺してまでしてくれたそなたの想いが嬉しかったのも、また事実だ」
「陛下……」

 彼は深い息を吐き出すとこつんと素流の額に自らの額をくっ付けた。
 その時にはもう彼の目から怒りは掻き消えていて、どこか弱ったような笑みを浮かべていた。

「そなたが変わらず笑っていられて良かった……」

 一翔の想いに、素流はズキリと胸が切なく痛んだ。
 彼の安堵の声が胸に沁み、泣きたくなった。
 更には、その裏の言わんとしている意図を酌み取れば、素流も自身の浅慮に自責の念が湧いてくる。

 龍靖は無理強いをしてくるようには見えなかったが、相手がきっと彼だったから素流は何もされずに済んだのだ。単に運が良かっただけだ。

 素流は彼の背に腕を回した。

(私も、この人が無事で心から嬉しい)

 温もりをしみじみと感じていると、抱擁を解かれ目を覗き込まれる。
 龍靖から至近距離で同じようにされた時には感じなかった喜びが湧き上がり、そんな自分を何だかちょっと現金だなあと思えばどこか可笑しくなった。
 一翔に昼間の不機嫌さが見受けられないのも頬の緩みに拍車を掛けて、およそ反省のしおらしい顔を保てない。
 一翔はふと真面目な顔付きになった。

「……ところで素流、あの男にどこまで見られたのだ?」
「え」
「朕が来る前に、どこまで見られた?」

 偽りは許さない、はぐらかすのも許さない、と目が言っている。
 かなり言いにくいが、ここは我慢してぽつりと答えた。

「む、胸だけです……たぶん。それ以後はこれを羽織っていましたし、きっと多少めくれる程度で……」

 一翔は双眸を少し細くして何も言わない。

(ああそっか、状況もきちんと説明しないとどうして胸だけで済んだかなんて信じられないのかも)

 そう考えた素流は自分の行動や当時の温泉の状況を話して聞かせた。

「――と、そういう次第でしたので、向こうが私を男だと思って無理やり腕を引っ張ってきて、その時に見られたんです。あと顔は近付けられましたけど唇は触れてませんからね」
「ほう、そうか」

 素流の説明に一翔は無感動に短くそう言っただけだった。
 反応が薄過ぎる。いやそれきり反応がないので余計に素流は不安になってきた。

「あの、陛下……?」
「どうして何事もなかったと偽って護衛たちを下がらせた。呼んでおけばあのような下郎にそなたの素肌を晒すことなどなかった」
「きっぱり断ってすぐに追い返せるかと思ったんです。それに、陛下に危険が及ぶような相手だったら大変なので様子を見ようかと思って……」

 言った途端、不機嫌だった一翔の面が明らかな怒気に歪んだ。

「朕はそなたに武芸で負ける気はせぬ! よって護ろうとしなくて良い! 通常の恰好ならばまだしも、そなたの方がこの場では何倍も危険な目に遭う可能性の方が高かった! どうして相手が男だという時点で自分の身の心配をしない? もしもそなたに何かされていたら朕は刺し違えてでもあの男を斬っていた!」

 酷く激昂した一翔はしかし悔いるように歯噛みし、激情を堪える様子を見せた。

 刺し違えてでも。

 その言葉に素流は戦慄した。
 それは彼が命を投げ出すと言ったも同然で、同時に他の誰かに聞かれでもすれば、皇帝として不適格と言われても仕方のない非常に無責任な言葉でもあるからだ。
 素流はそこまで言わせてしまった自分の愚かさに脱力しそうになった。

(こんなの……私お妃失格だ。やっぱり長く居れば居るだけ迷惑を掛けるのかもしれない)

 彼の前に立っているのが恐れ多くて、思わずよろければ腕を支えられた。
 礼を言うのにも思い至らず、素流は強迫観念にも似た焦りを胸に自身に課さずにはいられない。

(早くお世継ぎを産まなきゃ……)

 そのためには……。
 ギュッと目を瞑り決意にも似た思いを宿した刹那、支えてくれていた一翔の腕に抱きすくめられた。

「陛…」
「そなたが憎い。そなたが愛しい。そなたに会うまで、自分がこのように心乱される人間だとは思っていなかった」

 苦しそうな声音には、素流は瞳を揺らさずにはいられない。

「今夜の件は警備の穴でもある。それでも、気に食わない。そなたは俺の女人なのに……!」

 駄々を捏ねる子供のように、それでいて男としての嫉妬に染まった目で睨むように見つめられ、何か反応を返す暇もなく噛み付かれた。

 いや、噛み付くみたいな口付けをされた。

 吐息さえ押さえ込まれるようにして、何度と角度を変えて唇を蹂躙じゅうりんされる。
 顔を離されれば、互いに呼吸を乱したまま言葉もなく視線を絡め合った。

 素流は驚きの目で、一翔はどこか昏い目で。

 彼から湿った唇を親指で撫でられてピクリと身を震わせれば、羽織っただけの上着が肩を滑る。
 慌てて上着を引き上げようとしたが、その前に剥き出しになった肩や鎖骨にも口付けが降って適わなかった。
 一翔に止める様子はなく、このままではもっと恥ずかしい部分にまで口付けられてしまうだろう。
 どうするべきかと一瞬恐慌を来しかけた素流だったが、しかし先にも思ったように一日でも早く世継ぎを産むためには、ここで受け入れるべきなのだと思い直す。

(だけど……)

 口付け一つ取っても一翔はいつもと違って優しくない。
 もしかしたら、昼間の不機嫌はまだ彼の中で継続中だったのかもしれない。
 ともかくも、こんな怒ったままに触れられて素流は悲しくなった。

(陛下を好き。でもこんなの……こんな風な対抗意識みたいなので無理やり抱かれても、嬉しくない……ッ)

 嫌がれば最悪嫌われるかもしれない。
 それでもこんな彼は嫌なのだ。

(それに……後で冷静になったら、きっと後悔するでしょう?)

 素流はぐっと息を詰めた。

「……や、めて下さい」

 なけなしの気力を振り絞ったような素流の声に、一翔はハッとしたようだった。
 素流は顔を背けてぎゅっと両目を瞑る。

「素流……」

 状況から、自分が無理強いしているのだと悟った彼は、苦い物でも食べたように顔をしかめた。
 龍靖の出現で感情的になっていたのは認める。

 しかし一方では、決してそれだけでこんな事はしないと彼は思った。

「そなたは朕の妃だ」

 この国に二人と居ない皇帝の淑妃なのだ。
 元より誰に対抗意識など持つ必要もないのだと、彼は彼自身にそう言い聞かせようとそんな言葉を口にした。

 けれどそれは中途半端な意思表示で、言われた相手が誤解するには十分だった。

「妃、だから……」

(だから気分でこんな風にしてもいいと?)

「……確かに私は世継ぎを産むために後宮に入りましたけれど……」

 素流はぎゅうっと唇を引き結んだ。手も。

(ずっと温ま湯の中みたいに優しかったから、私は勝手に思い上がってたんだ。漠然とだけど理想の形みたいなのが出来てて、父さんと母様みたいな温かで柔らかい関係を築けるんだって思ってた)

 だが実際は、妃はやはり子を成すための存在でしかないのかもしれない。
 例えそうでも、一翔を残酷だとは思わない。
 皇帝一族は世間一般の婚家とは違うのだ。贅を享受できる代わりに国を維持するための我慢や犠牲は付きものだ。
 事実、一翔自身の婚姻がそれを物語っている。

「……わ、かりました。安心して下さい。今夜はちゃんとします。ですけど、宿に戻ってからでお願いします」
「素流……? どうしてそのような困った顔を……」

 多少は気まずかった一翔が疑問符を浮かべた時、二人の耳が異常を捉えた。

 ガサガサと囲いの内側に張り出した枝が鳴って、あわや龍靖が戻ってきたかと素流と一翔は息を潜めて音のする方を見守った。
 ガサガサガサ……と葉の擦れる音がする。
 そして黒い影が素早く岩場上に飛び出してきた。

「――ウキキッ」
「「…………」」

 姿を見せたのは、紗を被った猿だった。
 どうやら今夜も入りに来たらしい。

 気が緩んだのか、押さえる力も緩んだ。

 素流はその隙を見逃さず一翔の拘束を逃れ「着替えて先に帰ってます」と返事も待たずに脱衣所に引っ込んだ。
 手早く着替え、一部の護衛と秘湯を後にする。
 彼は追いかけて来なかった。

(やっぱり私を世継ぎのための女だって思ってるから? でも陛下をそんな人だって思いたくない。そう考えてしまう自分の心の醜さが大嫌い)

 しかし一度悪い方に考え出したら止まらなかった。
 一旦彼から離れて気持ちを落ち着かせたかったのに、追いかけて欲しいとも思う自分の矛盾にも呆れる。
 ふっと、自嘲を含んだ笑みが出て、素流は頭を振って思考を追い出しにかかった。
 決して虐げられているわけではない。むしろ恐縮するくらいに待遇は良い。自分が多くを望み過ぎているのだ。

(私の方は程々好きでって決めたくせに、向こうの気持ちを求めるなんてわがまま……)

 自分の気持ちを立て直して、宿の方ではきちんと一翔に仕えられるようにと、素流は心を鎧で覆う。
 何故ならこれは、家族のための、報酬ありきの仕事なのだ。
 最近では忘れかけていたが、そうなのだ。
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