婚約破棄の現場に遭遇した悪役公爵令嬢の父親は激怒する

白バリン

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第二部

14,教育・医療改革〔2〕

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 もう一つ、市販用の教科書に載せた内容の中であまり知られていないことが狂犬病であった。

 一年目の調査の際には領内の死亡者は何らかの疫病や魔物による被害が主たる原因だったが、原因不明の死亡者もいた。
 そのすべてが明らかになったわけではないが、いくつかのケースを取り上げる中でどうやら原因不明の死亡者の多くが犬に噛まれていたという証言があった。その死亡者が住んでいた場所がソーランド領のスラム街であり、確かに野犬が多く目撃されている場所だった。
 領内のスラム街の生活環境の改善を行う際に、こうした野犬や狐、猫、鼠の駆逐に力を入れて居住区から一掃すると、原因不明の死亡者数があきらかに激減していた。

 この病気についてはこの国では一部の人間には知られていた。

 動物学研究者のマロンという女性の研究者がいる。
 この世界に生息するあらゆる生き物の実態を調査するだけでなく、特定の動物や魔物に噛まれると人間が死亡する事実にも関心があり、そのデータを集めてきていた。
 マロンの話によれば、他領や他国でも同じ症状で亡くなった人間が観測されているという。
 マロンと同じ仲間たちもいたので、野生動物が人間にもたらすいくつかの変異を研究する中で、狂犬病に類するものを取り上げて研究させることにしていた。

 また、犬のように人間にとって身近な動物もいるので、そういう動物に絞っていった。ただ、イギリスほどに近しい存在でもなく、さらに日本よりもペット感覚はない。
 だから、領民の心情としては犬や猫などを居住区から追い出すというのは抵抗がなかったように思う。


 この世界にはウイルスやワクチンという考えはほとんど見られない。ただ、どうやら免疫という考えはある。
 しかし、精神論というか、比喩的というか、穢れに対する心のあり方のようなものとして理解されているようだった。

 ワクチン接種は、地球では1796年にエドワード・ジェンナーの種痘しゅとうが知られており、天然痘予防で数百万もの命を救ったことが有名である。
 これは、軽度の牛痘ぎゅうとう罹患りかんしたちちしぼりの人間は天然痘にかからない、そのような言い伝えから立てた仮説を検証する中で確立された。
 どういうことかというと、天然痘よりは軽度の牛痘に罹った人間のうみを、まだ天然痘に罹っていない人間に移して、天然痘の抗体を作ったというものである。


 この仮説の検証には怖さがある。
 牛痘に罹った乳搾りの女はサラ・ネルメスという人間で、彼女の両腕の膿瘡のうそうから膿を採取して、当時8歳だったジェイムズ・フィップスの腕に差し込み、フィップスは牛痘になった。これで牛痘が伝染することが証明された。

 まだジェンナーの仮説は完全には検証されていない。
 ジェンナーの恐ろしいところは、この次の段階である。
 つまり、このフィップスに微量の天然痘を注射したのである。
 結論から言えば、フィップスには天然痘に対する耐性、すなわち免疫ができたのである。

 ワクチンという言葉は、ラテン語で「雌牛」を示すvaccaが由来であり、サラ・ネルメスと牛のブラッサムへの敬意を示すために名付けられたと言われている。


 この後、何人もの子ども、そこには11ヶ月になる自分の息子も含めていたという話もあるが、これが事実かどうかはわからないが、ともかく検証をしていった。
 病気に罹った動物を利用するという考えに聖職者たちは嫌悪感を覚え、また患者の身体から雌牛の顔が出るという風刺画が描かれたり、「牛になる」と江戸時代の日本でも同じような拒否反応はあったが、徐々に受け入れられていった。

 なお、これは偶然の産物だとも言われることがある。
 ワクチニアウイルスというウイルスが天然痘に対するワクチンの有効成分であるが、これは21世紀にゲノム解析をした結果、馬痘ばとうウイルスと99.7%同一のゲノムであり、ジャンナーはこの馬痘ウイルスに偶然感染していた牛を種痘に用いていたわけで、牛痘ウイルスは利用されなかったことになる。
 歴史とは時折こういう偶然性が世界に落ちてくるものである。


 ウイルスの発見は、さらに100年後の1892年、ロシアのドミートリ・ヨシフォヴィッチ・イワノフスキーが煙草の葉にある病変を調査、分析することから始まった。
 当初は無視されたが、1898年にオランダの植物学者マルティヌス・ウィレム・ベイエリンクがイワノフスキーの実験を再現して、そこから広まっていった。
 要は病気の原因は微生物だと考えられていたが、さらに小さな感染因子がある、つまりこれがウイルスということになった。
 
 この世界にはまだ電子顕微鏡がないので、ウイルスの姿をはっきりと見ることができない。光学顕微鏡では限界がある。したがって、実験器具の開発も同時並行で進められているが、まだまだ未開拓の分野である。
 ただ、何人かの研究者はそのような存在があると考えていたし、どのような仕組みであれば観察することができるかを考えている研究者たちもいた。最初はみな縦割りの研究者集団だったが、2年目あたりからは横断的な研究にも手を付けるようになった研究者たちもいる。


 一方、意外なことだが、注射器はこの世界にはある。
 瀉血しゃけつという、体内の悪い血を抜き取ることが医療行為だと信じられているのである。
 地球ではモーツァルトが死ぬ1週間前までに2リットルの血を抜かれたり、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンもその大量失血によって亡くなったとも言われている。
 もちろん、これは一部例外として効果が認められているものの、ほとんどの場合は医学的根拠がないことは明らかであり、なかなか納得してもらうことは難しい。

 医学の歴史をひもとくと、とにかく身体から何かを出すことが健康になる秘訣だと信じられていたり、四体よんたい液説えきせつ、すなわち血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の調和が健康に結びつくと考えられていたりした時代があって、下痢や嘔吐、そして瀉血というのが適切な医療行為だと考えられていた。18、19世紀になると内科医や科学者から少しずつ瀉血反対運動が始まって、この医療行為が問題となっていった。

 理容店に見られる赤、青、白の三色のサインポールは、理容師が外科医を兼ねていた名残であり、一説には動脈、静脈、包帯を示していると言われているが、ここでは瀉血を行っていたようである。
 なお、この世界にも下剤や催吐薬さいとやくはある。これは哀しいことだが毒薬があることとも関連しているのだろう。


 一つ救いがあったとすれば、瀉血は貴族限定であり、子どもや老人は適応外とされており、そして貴族が使用するためか、注射器の性能が思ったよりも良かったことである。ただし、注射針がやや太いので、2年目から注射針の改良に着手している。

 さらに救いがあるとすれば、狂犬病に似た病気に罹った人間に治療を施してそれで助かった人間が一定数いる、そんな驚くべき報告があったことである。
 通常、地球では狂犬病は発症すれば致死率は100%である。いくつかの例外があるが数えるほどである。

 しかし、マロンたち研究者によれば、他国にはその治療法がある、そういう話である。その国は早くからこの病気に目を付けて挑戦をし続けていたのである。そこでのその年の致死率はなんと30%だった。

 こうして、その国とも共同研究ということで、資金や人、設備を提供した。
 ただ、ソーランド領よりも小さな国であり、しかもあまり予算が請求できないような状況であったが、こちらが全面的に支援をするという約束をして、共同での研究が始まり、多くの研究者をソーランド領に呼び寄せた。
 そして、致死率を最終的に5%近くまで引き落とすことに成功した。

 その国ではポーション作りと同じように、特殊な製法過程、つまり水魔法なのだが、それによって作られたワクチンのようなものがあった。私が一つも知らなかった植物なども使われていた。この世界独自の植物のせいかもしれないし、水魔法のせいかもしれないし、狂犬病ウイルスが地球とは異なるのかもしれないし、この世界の人体の免疫システムが異なるのかもしれないが、まだこれは明らかにされていない。
 いずれにせよ、このような基礎データや研究の蓄積がなければ大幅に致死率を下げることはできなかったと思う。

 それがやはり3年近くかかったのだが、十分な成果である。この世界に来て4年目の下半期のソーランド領における致死率が5%だった。
 この件は、その国とも共同声明を出して広く知られるようになった。この研究はまだ続いており、最終的に0%を目指すために研究者たちが奮闘しており、多数の国からも共同出資という形で協力を得ている。他国でもやはり深刻な問題だったのだ。
 人間に投与するワクチンだけではなく、動物にも投与するものは今しばらく時間がかかるがいくつかの試作品はある。

 なお、この事実を公表する際に「狂犬病」という呼称はあえて用いず、「狂獣病」という名称を採用した。「狂犬病」だとどうしても犬だけが焦点化されてしまう危険性があったからである。
 それでも一番よく見るのは野犬なので、「犬は蹴飛ばせ」という文言も付け加えた。これは地球でも言われることである。特に異常が見える犬の場合は逃げるか、襲われたら足で蹴るのである。手よりも足の方が脳から遠いので噛まれた後の進行が遅い。

 狂犬病はあらゆる哺乳類間で感染をするが、全ての犬や猫などに噛まれたからといって発症をするわけでもないので、このあたりの判断が難しいのだが、とにかく噛まれたらすぐにソーランド領の各地にある病院に行けということは領民には伝えてあった。
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