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1章

22,別れの予感

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 それからさらに2ヶ月の時間が経った。
 講師としてやってきていたケルナーとも会う日が次第に少なくなり、マルクスの方に至ってはさらに少ない。元々忙しい立場の人なのだ。グレンは定期的に来ているが、それでも回数は減っていった。
 吉野は練習場へは行き、橘も楽隊への助言を行っていたが、徐々に回数が減ってきていた。
 逆に、カーニスの魔道具屋へは二人はクリスが付き添いとなって訪れることが多くなってきた。
 これはふとした言葉がきっかけであった。
 ある日の朝、マルクスが久しぶりに顔を見せにやってきた時のことだった。橘が「他国に行くことってできないんでしょうか」となにげなく尋ねた折、「どうして」と慌てた反応をしたことがあった。
「他の国も見てみたいです」
 橘が年相応の好奇心を示しただけであった。吉野の方も迷いながらも、「いつまでもこの国のお世話になるわけにもいきませんし」という言葉は、マルクスにとっては予想外のことだったようだ。
 歯切れの悪い口調で、「わかりました」とだけ答えたのだった。
 マルクスが部屋から出て行った後、吉野と橘は急に不安になり始めたのだった。

「やっぱり、私たちを国外に出したくないのかな?」
「あの反応はそんな感じはしましたね」
「都合良く解釈すれば、国外は危なくて国内が安全ということになるんだろうけどね」
「うーん、そういえば先生はこの国の貴族に会いました? 先日王宮内でばったり会ったんですよ」
 橘がいつも通りに音楽棟へと向かう際に呼び止める声があった。単に挨拶めいたものに過ぎなかったが、それからも何人かに呼び止められることがあった。
「それでですね、ぜひとも一度我が屋敷へなんて言ってきたから、今忙しいのでって返事をしたらあからさまに嫌な顔をしてましたよ。すっごい目で見られましたもん。こっちの都合も考えてよねと言いそうになりましたよ」
「ああ、私も会ったよ。なんだろう、笑顔が不気味だったかも。私は誘われなかったけど、橘くんは未成年だから良いようにできると考えてたりしてね」
 吉野も訓練場に行く時に呼び止められ、橘と同じように軽い挨拶を交わしただけだった。
「よく歴史上の王は絶対的な力を持っていて、上手く国を動かしているというのはありますね。この国はどうなんでしょう」
 橘の中には日本の歴史上の英雄と言われていた有名な人物や世界史でも同じように評価を受けている人物たちが思い起こされている。
「王様のことはわからないけど、マルクスさんやグレンくんを見る限りではそんなに悪い環境ではないと思うけどな。ただ、普通国を動かすのは王一人ではできないものだから、権力も分散するんだよね。私たちが会った貴族の中にはそういう人たちもいたのかもしれない」
「悪い大臣や高位貴族が、王の威光を笠に着て好き放題やりちらかしているという話はありますね」
 異世界の物語の事例を挙げて橘は説明をした。悪の一味を転移者や転生者が一網打尽にして、それで王宮内は平和になりました、という物語である。
「それは物語だけど、現実の社会でもあるよね。歴史上の偉大な人物でも実際には臣下に配慮したり、機嫌をとったりして、本当に『我が輩が王である』みたいな強い権力者って考えているよりも少ないと言われてるからね。いたとしてもその代で終わってしまう。清濁を併せ呑むと言ったらいいのか、権力者はしたたかで、同じようにしたたかな臣下を満足させつつ、バランスを考えながら国を統治しているというか」
「マルクスさんやグレンもそういうところがあるんですかね。マルクスさんはどちらかというと調整役に忙しそうにしてますけど」
「そうだね。転移者の扱いをめぐっても王家と貴族たちの間では何か対立があるのかもしれない。案外、マルクスさんがその調整で忙殺されてたりしてね」

 吉野の疑問の一つには、この国には王の威光を称えるような王権神話であったり、モニュメントが少ないなというものがあった。
 一般に人心を掴むためには、この国の正統性であったり、どのような経緯があって今の国があるのかという国の成り立ちを神の物語、つまり神話に仮託して歴史書が編纂されることがある。『古事記』や『日本書紀』のような歴史書が、世界の成り立ちを語り、神の代を語り、天孫が降臨して地上を平定していき、それがやがて天皇系のルーツとして説明されていく。
 神話とは今を説明するために始原に立ち戻っていく、あるいは始原を生み出して編纂されたものだというのは、世界の神話を繙いても説得力のある話である。
「ああ、その話、日光東照宮にも言えるかもって聞いたことありますよ」
 見ざる、言わざる、聞かざるの三体の猿の木像があることでも有名な日光東照宮は、徳川家康が神格化した東照大権現が祀られている神社である。橘が聞いた話は、家康という日本一の権力者がなぜ死後に自分を神として祀らせようとしたのかというその意図だった。
「武力だけでは治めることはできないから、神の威光を借りて人々を内面から支配していこうって話だよね。あの信長だってそういう考えを持っていたのではないかと何かで読んだことあるな」
「このアルム国にはそんな神話がないから、本当に人の力だけで統治してるってことですよね。それだけ多くの権力者を束ねながらだと、いろんな人間関係に配慮しないといけないんでしょうね」
 そうね、と吉野は答えた。
 政治的なかけひきに疎い吉野も、おそらく見えていないだけでこの国には無数の人間の欲望が衝突しているのだろうと推測している。それがいつ自分たちを巻きこむのか、もしかするとすでに巻きこまれているのか、そのことを考えると今の生活を自分たちも変えていく必要があるのではないかと考えていた。
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