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第一章 出会い
幕間 母の夢
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「聴いていますか、慧玉?」
目の前に母がいた。まだ若い頃の母。
趙英は夢を見ていると自覚した。まるで天意が、或いは母の念が、自分に忘れさせまいとしているかのように定期的に見る夢だ。
母は古書の虫で、知識も大いにあり、そこから学んだ伝統的価値観を大切にし、そしてそれらを活かす応用力や決断力もあった。
趙英はそんな母が苦手だった。
「さて楚の貞姜の話をしましょう。斉の公女として生まれ、楚の昭王に嫁ぎました……」
何度も聞いた話。
実際に母が話して聴かせたのは、この時くらいなものだが、それを何度も夢に見る。
いい加減にしてほしいが、誰に文句を言えばいいのか分からず、言ったからといって改善される物でもなかろう。
当時はまだ六歳かそこらの年齢であったので、夢の中ではその年頃の姿になっているであろうが、既に達観した目で母の話を聞いていると想像すると、どこか滑稽で笑えてくる。
「昭王は旅先で長江が氾濫すると聞き、残した妻を案じ使者を遣わしました。しかし急いでいた為に使者に割符を渡し忘れたのです。
割符は王の使者である事を証明する大事な物。貞姜は割符を持たない使者に付いていく事を拒否します。その間にも長江は増水し、既に溢れていたかも知れません。それでも断ったのです。
使者は割符を受け取る為に昭王の元に急いで戻りますが間に合わず、貞姜は洪水に飲まれて命を落としました。
さて慧玉、この貞姜の話を聞いて、お前はどう思います」
「かわいそう」
幼い頃、思ったままを口にした時の母の不機嫌そうな顔を今でも鮮明に覚えている。そんな答えは望んでいないと、無言のまま目を以って明言していた。今もこうして夢で見ている時も、印象が薄らぐ事もなくはっきりと再現されるのだ。
母は何か言いたげなまま何も言わず、宋の伯姫の話に移る。いつも同じ流れだ。
「では次に、宋の伯姫の話をしましょう。魯の宣公の娘に生まれ、宋の共公に嫁ぎます。
ある時、共公が不在の折、宋の城で大火が起きました。城には共公の使いも守り役もおらず、彼女を助ける者がいなかったのです。
しかし伯姫は逃げ出す事もなく、炎の中で城と運命をともにしました。さて、どうです慧玉」
正直愚かだ。
そのような死に方、いや生き方など真似したくはない。例え泥にまみれても、愛する者には生きていて欲しいと願うものではないのか。それほどに名誉が大切なのだろうか。
しかし思うままを答えたところで母の機嫌を損ねると理解していた。
「立派だと思います……」
我が意を得たりとばかりに母は笑顔を見せた。
「そうです。嫁いだ女は、夫の許しなく勝手に動く事などなりませぬ。例え死が迫っていてもです。……いえ、死が迫った時こそ、その人間の本質が出るというものです」
そんな母の信念が口だけでないと分かったのは、それからしばらく後の事。
涼州の漢陽郡で梁双という男が叛乱を起こした。その頃まだ幼い趙英は、母と二人の兄とともに、同じ漢陽郡にある西県に住んでいた。
役人である父は県令(市長のようなもの)として武都郡の羌道県に赴任しており留守で、兄たちは不運な事に叛乱が起きた場に居合わせた。
県令の息子である事を理由に兄二人とも梁双に殺害されたという報告が届く。
このままでは羌道にいる父に報告が届く前に叛乱軍がやってくる事は確実であった。しかし母はそこに至っても冷静で、いつものように故事を引用する。
「道ですれ違う人々皆が振り向くと言われた傾国の美女たる西施と言えど、汚物にまみれた服を纏えば、道行く人は皆が鼻をつまんで逃げると言います。
ましてや私は傾国の美女などではありません」
そう言うと母はボロボロにほつれた麻の服に着替えると家の外に向かい、肥料として木桶に溜めていた糞尿を素手ですくい取ると麻の服に塗りたくり、最終的に顔まで汚物にまみれた。
幼かった趙英も思わず鼻をつまんで顔を背けたのを覚えている。
「さあ、行きますよ」
まるで散歩にでも出かけるかのように自然に、それでいて有無を言わせぬ圧を以って、趙英は母に手を引かれ、父のいる羌道へ向かった。
その間、母は食事も水も摂らずに全て娘に渡していた。おかげで趙英は飢えた記憶はないが、母は日に日に痩せこけていった。
母の策が功を奏したか、天運に恵まれたか、幸いにして叛乱軍に追いつかれる事もなく羌道へ到着するが、すぐ先に城門が見える客桟で、母は足を止めた。
「慧玉、前に話した楚の貞姜、宋の伯姫の話を憶えていますか?」
趙英は頷いた。
「私も本来は家を動かず、叛乱軍がやってきたなら自害して果てるべきでした。されどそうしなかったのは、幼いお前を一人残すわけにはいかなかったからです。この先に見える城に父上がおります。ここまで来れば一人で行けますね」
そう言って母は隠し持った小瓶から毒をあおって倒れ伏した。
趙英が大声で助けを呼ぶと、客桟から人が出てきて、その中に幸いにも医術に詳しい者がいた為、母は一命を取り留めた。
羌道の城に運ばれると、父は母を抱きしめ、生きていてくれて良かったと涙を流した。やはり母がどう思おうと、父のその言葉に応えるのが正しいと、幼心に趙英は思った。
その後、回復した母が尚も自害しようとするのだが、父が自ら説得して思い直させたのである。
しかしこの一件の噂が広まって「涼州の貞婦」などと誉める者が後を絶たず、そう言われる度に自慢気な母を見ると、本質的な価値観は変わっていないようだった。
やはり趙英は、母が苦手だった。
この時は娘の命を救ったが、それは己の名誉と明確に対立しなかったからだ。もし名誉と子供の命を天秤にかける事になったなら、迷わず子を捨てるだろう。
少なくとも我が子にそう思わせる母が怖かった。
それ以降、趙英は自分の人生そのものを以って母への反抗とした。
女らしくある事が嫌だった。
名誉を守る方法に、死ぬ以外の選択肢がない事も嫌だった。
男装して剣を学んだのも、全ては母の価値観を否定したい、それが出発点だった。
そんな趙英の父の名は趙昂。そして母の名は王異と言った。
目の前に母がいた。まだ若い頃の母。
趙英は夢を見ていると自覚した。まるで天意が、或いは母の念が、自分に忘れさせまいとしているかのように定期的に見る夢だ。
母は古書の虫で、知識も大いにあり、そこから学んだ伝統的価値観を大切にし、そしてそれらを活かす応用力や決断力もあった。
趙英はそんな母が苦手だった。
「さて楚の貞姜の話をしましょう。斉の公女として生まれ、楚の昭王に嫁ぎました……」
何度も聞いた話。
実際に母が話して聴かせたのは、この時くらいなものだが、それを何度も夢に見る。
いい加減にしてほしいが、誰に文句を言えばいいのか分からず、言ったからといって改善される物でもなかろう。
当時はまだ六歳かそこらの年齢であったので、夢の中ではその年頃の姿になっているであろうが、既に達観した目で母の話を聞いていると想像すると、どこか滑稽で笑えてくる。
「昭王は旅先で長江が氾濫すると聞き、残した妻を案じ使者を遣わしました。しかし急いでいた為に使者に割符を渡し忘れたのです。
割符は王の使者である事を証明する大事な物。貞姜は割符を持たない使者に付いていく事を拒否します。その間にも長江は増水し、既に溢れていたかも知れません。それでも断ったのです。
使者は割符を受け取る為に昭王の元に急いで戻りますが間に合わず、貞姜は洪水に飲まれて命を落としました。
さて慧玉、この貞姜の話を聞いて、お前はどう思います」
「かわいそう」
幼い頃、思ったままを口にした時の母の不機嫌そうな顔を今でも鮮明に覚えている。そんな答えは望んでいないと、無言のまま目を以って明言していた。今もこうして夢で見ている時も、印象が薄らぐ事もなくはっきりと再現されるのだ。
母は何か言いたげなまま何も言わず、宋の伯姫の話に移る。いつも同じ流れだ。
「では次に、宋の伯姫の話をしましょう。魯の宣公の娘に生まれ、宋の共公に嫁ぎます。
ある時、共公が不在の折、宋の城で大火が起きました。城には共公の使いも守り役もおらず、彼女を助ける者がいなかったのです。
しかし伯姫は逃げ出す事もなく、炎の中で城と運命をともにしました。さて、どうです慧玉」
正直愚かだ。
そのような死に方、いや生き方など真似したくはない。例え泥にまみれても、愛する者には生きていて欲しいと願うものではないのか。それほどに名誉が大切なのだろうか。
しかし思うままを答えたところで母の機嫌を損ねると理解していた。
「立派だと思います……」
我が意を得たりとばかりに母は笑顔を見せた。
「そうです。嫁いだ女は、夫の許しなく勝手に動く事などなりませぬ。例え死が迫っていてもです。……いえ、死が迫った時こそ、その人間の本質が出るというものです」
そんな母の信念が口だけでないと分かったのは、それからしばらく後の事。
涼州の漢陽郡で梁双という男が叛乱を起こした。その頃まだ幼い趙英は、母と二人の兄とともに、同じ漢陽郡にある西県に住んでいた。
役人である父は県令(市長のようなもの)として武都郡の羌道県に赴任しており留守で、兄たちは不運な事に叛乱が起きた場に居合わせた。
県令の息子である事を理由に兄二人とも梁双に殺害されたという報告が届く。
このままでは羌道にいる父に報告が届く前に叛乱軍がやってくる事は確実であった。しかし母はそこに至っても冷静で、いつものように故事を引用する。
「道ですれ違う人々皆が振り向くと言われた傾国の美女たる西施と言えど、汚物にまみれた服を纏えば、道行く人は皆が鼻をつまんで逃げると言います。
ましてや私は傾国の美女などではありません」
そう言うと母はボロボロにほつれた麻の服に着替えると家の外に向かい、肥料として木桶に溜めていた糞尿を素手ですくい取ると麻の服に塗りたくり、最終的に顔まで汚物にまみれた。
幼かった趙英も思わず鼻をつまんで顔を背けたのを覚えている。
「さあ、行きますよ」
まるで散歩にでも出かけるかのように自然に、それでいて有無を言わせぬ圧を以って、趙英は母に手を引かれ、父のいる羌道へ向かった。
その間、母は食事も水も摂らずに全て娘に渡していた。おかげで趙英は飢えた記憶はないが、母は日に日に痩せこけていった。
母の策が功を奏したか、天運に恵まれたか、幸いにして叛乱軍に追いつかれる事もなく羌道へ到着するが、すぐ先に城門が見える客桟で、母は足を止めた。
「慧玉、前に話した楚の貞姜、宋の伯姫の話を憶えていますか?」
趙英は頷いた。
「私も本来は家を動かず、叛乱軍がやってきたなら自害して果てるべきでした。されどそうしなかったのは、幼いお前を一人残すわけにはいかなかったからです。この先に見える城に父上がおります。ここまで来れば一人で行けますね」
そう言って母は隠し持った小瓶から毒をあおって倒れ伏した。
趙英が大声で助けを呼ぶと、客桟から人が出てきて、その中に幸いにも医術に詳しい者がいた為、母は一命を取り留めた。
羌道の城に運ばれると、父は母を抱きしめ、生きていてくれて良かったと涙を流した。やはり母がどう思おうと、父のその言葉に応えるのが正しいと、幼心に趙英は思った。
その後、回復した母が尚も自害しようとするのだが、父が自ら説得して思い直させたのである。
しかしこの一件の噂が広まって「涼州の貞婦」などと誉める者が後を絶たず、そう言われる度に自慢気な母を見ると、本質的な価値観は変わっていないようだった。
やはり趙英は、母が苦手だった。
この時は娘の命を救ったが、それは己の名誉と明確に対立しなかったからだ。もし名誉と子供の命を天秤にかける事になったなら、迷わず子を捨てるだろう。
少なくとも我が子にそう思わせる母が怖かった。
それ以降、趙英は自分の人生そのものを以って母への反抗とした。
女らしくある事が嫌だった。
名誉を守る方法に、死ぬ以外の選択肢がない事も嫌だった。
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