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第三章 西涼の錦
幕間 夫人たちの会食
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冀城を陥落させ、実質的に漢陽郡を手に入れた馬超であったが、投降した役人たちが本当に自分に心服しているのか不安が付きまとっていた。
上邽で蜂起した際に呼応した多くの城はほとんど心配していないが、何しろ冀城は先の涼州刺史・韋康と共に、飢えと戦いながら八カ月も抵抗して見せた者たちばかりなのだ。
目に見えて反抗した者は全て斬り捨てたが、その牙を隠している者とて多いに違いない。冀城包囲の際に彼を罵って斬られた先の上邽県令・閻温なども、初めは素直に県令の席を譲っていたのだから。
そこで馬超は、帰順した役人の中でも特に優秀と目される者たちを試す事とした。
参軍・楊阜に対しては従弟の楊岳を、撫夷将軍・姜敍に対しては実弟の姜冏を、それぞれ馬超の側近とし、いつでも斬れると見せつけた。
また参軍・趙昂に対しては、嫡子・趙月を、自身の長子である馬秋の供と言う名目で漢中へと送っている。
しかしそのいずれもが素直に従い、まるで反抗する素振りは見せなかった。
それでもなお信用しきれず、政庁に用意させた自室に籠って独り難しい顔で思い悩む馬超に対し、妻の浥雉が声をかける。
浥雉は武都に拠点を置く氐族出身の女子で、後に百頃氐王とも呼ばれる族長・千萬の妹にあたる。
もともと漢語が不得手で、日常会話では羌語を用いる馬超にとって、同じ言語圏である氐族の娘との婚姻は、漢人の娘以上に望んだ所であった。
それ故に夫婦仲は非常に良く子供にも恵まれ、縁戚関係となった武都氐の長である千萬とも良好な関係を築いていた。
先の冀城包囲戦にて、夏侯淵率いる長安駐留軍を八カ月間も陽動してくれた武都氐の動きは、正にこの関係があったからこそ可能だったのである。
余談であるが、この武都氐は後の五胡十六国時代に仇池という国を建国する事になる部族だ。その時の族長は楊飛龍・楊茂捜という親子であり、そこから先祖に遡って、後漢時代の族長である千萬もまた、楊姓を付けて楊千萬と呼ばれる事がある。
その事から、この馬超の妻・浥雉もまた、史書では楊氏と記述されている。
さてその浥雉であるが、参軍である趙昂の妻・王異が「涼州の貞婦」として名が通っている事を挙げ、それを理由に食事に誘うという策を提案した。
女同士で話してみれば、夫の心情も推し量れるという自信があったからである。
馬超はその策を浥雉に託して実行に移す事になるのだが、当の王異は素直にその誘いを受けた。
流暢な漢語で挨拶をする浥雉を、王異は大いに褒め、和気藹々とした雰囲気の中で会食が進んだ。
子育ての苦労話などといった母親同士の共通の話題から、次第に戦や政治へと身を投じる夫の話へと移り変わる。
夫である馬超が冀城を得た事で、王異の家族に悔しい思いをさせているのではないかと、悲し気な素振りを見せて訊いた浥雉。
それを受けた王異は静かに微笑みながら、春秋時代の名宰相である、斉の管仲を知っているかと訊いてきた。浥雉は漢語を学ぶ中で名前を聞いた事がある程度であり、王異にその通りに告げた。
殷周革命で活躍し、太公望の別名でも呼ばれる周の名宰相・呂尚を始祖とする斉の国を、その子孫でありながら暴虐な君主として知られる襄公が治めていた頃の事。
暴君であった襄公は、従弟の公孫無知に暗殺された。しかし斉の実権を握った公孫無知もまた、わずか一年で家臣に暗殺されたのである。
そこで襄公の弟である二人の公子が後継ぎの座を争う事になる。
姜糾と姜小白である。
管仲は始め姜糾に仕え、年長である姜糾を次の君主とすべく多くの策を用いて姜小白の命を狙った。しかしその争いは最終的に姜小白が勝利し、斉の桓公として君主の座に就いた。
敗れた姜糾は処刑され、管仲もまたそれに殉じるつもりであった。しかし桓公に仕えていた管仲の友人・鮑叔が「天下を取りたくば、管仲を用いねばなりません」と桓公に進言し、管仲を宰相として抜擢したのである。
後世に伝わる管仲の言葉に「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という物がある。人間とは生活に余裕が出来て初めて礼儀や道徳を考える事が出来るという意味だ。
これを主君の立場として考えるならば、政治も戦争も、まず民の暮らしが安定していなければ出来ないという教えである。管仲はその言葉通り民生に力を注ぎ、斉国を大いに発展させた。そして斉の桓公は、衰退した周王室に代わって天下を取りまとめ、春秋時代最初の覇者となったのである。
王異はこの例えを挙げ、もしも管仲を信用せずに用いていなければ、果たして桓公は覇者となれたでしょうかと説いた。かつて互いに命を狙い合った者同士が手を取り合って協力し、初めて覇業を成し遂げる事が出来たのだと。
まるで果てない夢を追う少女のように目を輝かせた王異のこの言葉に感銘を受け、浥雉は確信を持つに至った。
王異に対して今後とも良き友人でいましょうと挨拶をした浥雉は会食を切り上げ、王異の方もまた浥雉に対し満面の笑顔で友情を約束した。
そんな王異の帰りを自宅で待っていた夫の趙昂は、いかがであったかと帰宅した妻に問う。会食の時とは別人のように冷徹な瞳を見せている王異は、わずかに笑みを零すと言い放った。
「あのような場を向こうから用意してくれて本当に感謝ですね。あの様子では馬超も警戒の手を緩めるでしょう。何とも容易な物です」
事実、浥雉が政庁で待っていた馬超へ報告すると、馬超もまたその言葉に大いに感銘を受け、趙昂への疑惑を解いたという。
二人の夫人の間で交わされたという、この会食の逸話は史書にも記されている。それが正に、王異の一世一代の芝居であったと馬超が知る事になるのは、もう少し後の話である。
上邽で蜂起した際に呼応した多くの城はほとんど心配していないが、何しろ冀城は先の涼州刺史・韋康と共に、飢えと戦いながら八カ月も抵抗して見せた者たちばかりなのだ。
目に見えて反抗した者は全て斬り捨てたが、その牙を隠している者とて多いに違いない。冀城包囲の際に彼を罵って斬られた先の上邽県令・閻温なども、初めは素直に県令の席を譲っていたのだから。
そこで馬超は、帰順した役人の中でも特に優秀と目される者たちを試す事とした。
参軍・楊阜に対しては従弟の楊岳を、撫夷将軍・姜敍に対しては実弟の姜冏を、それぞれ馬超の側近とし、いつでも斬れると見せつけた。
また参軍・趙昂に対しては、嫡子・趙月を、自身の長子である馬秋の供と言う名目で漢中へと送っている。
しかしそのいずれもが素直に従い、まるで反抗する素振りは見せなかった。
それでもなお信用しきれず、政庁に用意させた自室に籠って独り難しい顔で思い悩む馬超に対し、妻の浥雉が声をかける。
浥雉は武都に拠点を置く氐族出身の女子で、後に百頃氐王とも呼ばれる族長・千萬の妹にあたる。
もともと漢語が不得手で、日常会話では羌語を用いる馬超にとって、同じ言語圏である氐族の娘との婚姻は、漢人の娘以上に望んだ所であった。
それ故に夫婦仲は非常に良く子供にも恵まれ、縁戚関係となった武都氐の長である千萬とも良好な関係を築いていた。
先の冀城包囲戦にて、夏侯淵率いる長安駐留軍を八カ月間も陽動してくれた武都氐の動きは、正にこの関係があったからこそ可能だったのである。
余談であるが、この武都氐は後の五胡十六国時代に仇池という国を建国する事になる部族だ。その時の族長は楊飛龍・楊茂捜という親子であり、そこから先祖に遡って、後漢時代の族長である千萬もまた、楊姓を付けて楊千萬と呼ばれる事がある。
その事から、この馬超の妻・浥雉もまた、史書では楊氏と記述されている。
さてその浥雉であるが、参軍である趙昂の妻・王異が「涼州の貞婦」として名が通っている事を挙げ、それを理由に食事に誘うという策を提案した。
女同士で話してみれば、夫の心情も推し量れるという自信があったからである。
馬超はその策を浥雉に託して実行に移す事になるのだが、当の王異は素直にその誘いを受けた。
流暢な漢語で挨拶をする浥雉を、王異は大いに褒め、和気藹々とした雰囲気の中で会食が進んだ。
子育ての苦労話などといった母親同士の共通の話題から、次第に戦や政治へと身を投じる夫の話へと移り変わる。
夫である馬超が冀城を得た事で、王異の家族に悔しい思いをさせているのではないかと、悲し気な素振りを見せて訊いた浥雉。
それを受けた王異は静かに微笑みながら、春秋時代の名宰相である、斉の管仲を知っているかと訊いてきた。浥雉は漢語を学ぶ中で名前を聞いた事がある程度であり、王異にその通りに告げた。
殷周革命で活躍し、太公望の別名でも呼ばれる周の名宰相・呂尚を始祖とする斉の国を、その子孫でありながら暴虐な君主として知られる襄公が治めていた頃の事。
暴君であった襄公は、従弟の公孫無知に暗殺された。しかし斉の実権を握った公孫無知もまた、わずか一年で家臣に暗殺されたのである。
そこで襄公の弟である二人の公子が後継ぎの座を争う事になる。
姜糾と姜小白である。
管仲は始め姜糾に仕え、年長である姜糾を次の君主とすべく多くの策を用いて姜小白の命を狙った。しかしその争いは最終的に姜小白が勝利し、斉の桓公として君主の座に就いた。
敗れた姜糾は処刑され、管仲もまたそれに殉じるつもりであった。しかし桓公に仕えていた管仲の友人・鮑叔が「天下を取りたくば、管仲を用いねばなりません」と桓公に進言し、管仲を宰相として抜擢したのである。
後世に伝わる管仲の言葉に「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という物がある。人間とは生活に余裕が出来て初めて礼儀や道徳を考える事が出来るという意味だ。
これを主君の立場として考えるならば、政治も戦争も、まず民の暮らしが安定していなければ出来ないという教えである。管仲はその言葉通り民生に力を注ぎ、斉国を大いに発展させた。そして斉の桓公は、衰退した周王室に代わって天下を取りまとめ、春秋時代最初の覇者となったのである。
王異はこの例えを挙げ、もしも管仲を信用せずに用いていなければ、果たして桓公は覇者となれたでしょうかと説いた。かつて互いに命を狙い合った者同士が手を取り合って協力し、初めて覇業を成し遂げる事が出来たのだと。
まるで果てない夢を追う少女のように目を輝かせた王異のこの言葉に感銘を受け、浥雉は確信を持つに至った。
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そんな王異の帰りを自宅で待っていた夫の趙昂は、いかがであったかと帰宅した妻に問う。会食の時とは別人のように冷徹な瞳を見せている王異は、わずかに笑みを零すと言い放った。
「あのような場を向こうから用意してくれて本当に感謝ですね。あの様子では馬超も警戒の手を緩めるでしょう。何とも容易な物です」
事実、浥雉が政庁で待っていた馬超へ報告すると、馬超もまたその言葉に大いに感銘を受け、趙昂への疑惑を解いたという。
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