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第四章 西風を裂く剣
第二十九集 左賢王の想い人
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南匈奴の単于・呼廚泉の天幕に招かれた趙英一行。
同族である呼狐澹は、漢人と旅をしている理由を匈奴語を以って訊かれた事から、家族の仇を追っているその過去の経緯を説明するなどの世間話から入り、その後に緑風子によって現在の情勢などが語られた。
特に華北を制し、当代の覇者として盤石な勢力を築くに至った曹操が、羌氐を後ろ盾とした馬超を破った潼関の戦いの話に差し掛かると、周囲で話を聞いていた部族の長老たちは思う所があるのか、ヒソヒソと会話を始めた。
「羌族が再び漢族とやりあったか」
白髪交じりの髭を撫でながら、呼廚泉が呟いた。
遡る事四百年前、前漢の初頭。当時の単于である冒頓が率いた匈奴は大勢力となり、建国して間もなかった漢を脅かした。その頃、言語圏の違う西域の騎馬民族である羌族は匈奴に付いていた。
いつしか匈奴の勢力が衰えると、漢と共存する事を選んだ南匈奴と、漢を拒んだ北匈奴に分裂。形成が完全に逆転した漢によって北匈奴は領域外に追い出され、これより後の時代も含め中華王朝の記録からは完全に姿を消す事となった。
だが百年ほど前の後漢中期ごろ、かつては匈奴に付いていたものの、時代の流れと共に漢に服属していた羌族が漢に背き、永初の大乱や永和の乱と言った、漢人と羌族による大戦争を起こす。
一時は羌族の勢力が都にまで迫るほどの勢いを見せたが、結局は漢の勝利に終わり、その戦いの中で多くの凄惨な殺戮が繰り返されたのだ。
その頃の遺恨が未だに羌族の中に燻ぶり続けていた中で、羌族の血を引く馬超の決起を知って勇んで呼応した。それが今度の戦いの本質なのだろうと呼廚泉は語る。
南匈奴の先祖は、漢人との共存を選び、漢王朝の為に自らの同胞であった北匈奴と戦った。それは彼ら自身の選択であったがゆえ、漢人に対する先祖からの遺恨はほとんど無い。
だが無論ながら南匈奴とて一枚岩ではない。単于のやり方に異を唱えて漢王朝の官軍と刃を交えた者も中にはいる。先の永和の乱においても羌族と共に戦った南匈奴の者もいたのだ。
そして部族としても汝南袁氏の援軍として、近年に幾度も曹操と敵対した事で、曹操の、更に言えば漢人の側に遺恨を生んでしまっているのではないか。帰順した所で部族を滅ぼされないだろうか。或いは南匈奴もまた羌族と同じ道を辿ってしまうのではないか。それこそが呼廚泉ら長老たちの恐れる所である。
そこまでの話を聞いた緑風子は、穏やかな笑顔を浮かべて語る。
「それは問題ないと思いますよ。現在の曹操の陣営には、かつて敵対した将兵も多いのです。汝南袁氏に仕えていた者は勿論、董卓や李傕の下にいた者もいます。二心を抱かない限り滅ぼされる事はないでしょう。精強な匈奴の騎馬兵が味方になるとなれば、むしろ歓迎してくれると思いますよ。無論ながら漢人の中には思う所がある者もいるでしょうが、曹操はそんな器ではありません」
長老たちが再び騒めく中、我が意を得たりと目を輝かせた多羅克が呼廚泉に目を向ける。若き左賢王と視線を重ねた白髪の単于は口元を緩めた。
「いつまでも恐れていた所で始まらんか」
そんなやりとりを見た趙英と緑風子は、曹操への帰順に最も前向きなのが多羅克であったのだと気づく。今自分たちがここに呼ばれているのは、単于が漢人の旅人に会いたがっていたのではなく、多羅克自身が単于と引き合わせたかったのだと。
会談を終えると、趙英らは焚火を囲んでの夕餉を匈奴の民と共にした。若い男女が炎の周りで踊りに興じている様を眺めながら、良く焼けた羊肉に舌鼓を打つ。多羅克もまた彼らの横に座り、食事を共にしていた。
「本当に感謝する。これで南匈奴も変わっていけるはずだ」
どこか虚ろに空を眺めながら感謝の言葉を述べた多羅克は、静かに言葉を続ける。
「井蛙は以って海を語るべからずは、虚に拘ればなり。今爾、崖涘より出で、大海を観、すなわち爾の醜を知る」
趙英と緑風子は顔を見合わせた。それは戦国時代の思想家・荘子の言葉だった。
狭い世界しか知らぬ者が、広い世界に出る事で己の視野の狭さを悟るという意味を、井戸の中に住む蛙と海で例えた物であり、後世にも有名な言葉である。
漢地の政治情勢をほとんど知らず、漢語も片言な様子であったのに、なぜその言葉を暗唱できたのか。そんな趙英らの疑問を、聞かれずとも察した多羅克は、悲しげに微笑んで語った。
彼はかつて漢人の娘と出会い、恋に落ち、十年ほど共に暮らした事があった。その娘は博識で、色々な話を聞かせてもらったそうな。その中でも特に印象に残っていた言葉だという。
「彼女と初めて出会ったのは、李傕が乱を起こした頃の、長安の都だった。その頃の私は初陣でな。この者くらいの歳の頃だったか」
そう言って呼狐澹に視線を送る。反応に困って視線を泳がせる呼狐澹と、かつての記憶を思い出しているのであろうか、黙ったまま微笑んでいる多羅克。
趙英はそんな多羅克に遠慮がちに質問をする。
「その娘さんは……、今は……?」
多羅克は趙英の遠慮を察し、微笑みを崩さずに答える。
「生きているさ。恐らくは曹操と同じ所。漢の都に」
そこで趙英も、そして呼狐澹も理解した。
多羅克がなぜ曹操の事を聞きたがったか。そしてなぜ南匈奴と曹操の交渉に尽力しているのか。
「また会えるといいね!」
そんな呼狐澹の無邪気な励ましに、多羅克もまた趙英と呼狐澹を交互に見て言う。
「そなたらも、共にいる時を大事にな」
漢人と匈奴の若い男女という事で、過去の己を重ねていたであろう多羅克だが、趙英と呼狐澹は変に互いを意識させられて返答に困り、相互に赤面し、わざとらしく咳払いして黙りこくってしまった。そしてそんな二人を面白そうに眺める緑風子なのであった。
翌朝、趙英ら一行は多羅克に地図で現在地を確認してもらうと、匈奴の民たちに別れを告げ、改めて目的地へと馬を走らせる。
目指すは西平。
涼州解放の第一歩となる交渉へと。
同族である呼狐澹は、漢人と旅をしている理由を匈奴語を以って訊かれた事から、家族の仇を追っているその過去の経緯を説明するなどの世間話から入り、その後に緑風子によって現在の情勢などが語られた。
特に華北を制し、当代の覇者として盤石な勢力を築くに至った曹操が、羌氐を後ろ盾とした馬超を破った潼関の戦いの話に差し掛かると、周囲で話を聞いていた部族の長老たちは思う所があるのか、ヒソヒソと会話を始めた。
「羌族が再び漢族とやりあったか」
白髪交じりの髭を撫でながら、呼廚泉が呟いた。
遡る事四百年前、前漢の初頭。当時の単于である冒頓が率いた匈奴は大勢力となり、建国して間もなかった漢を脅かした。その頃、言語圏の違う西域の騎馬民族である羌族は匈奴に付いていた。
いつしか匈奴の勢力が衰えると、漢と共存する事を選んだ南匈奴と、漢を拒んだ北匈奴に分裂。形成が完全に逆転した漢によって北匈奴は領域外に追い出され、これより後の時代も含め中華王朝の記録からは完全に姿を消す事となった。
だが百年ほど前の後漢中期ごろ、かつては匈奴に付いていたものの、時代の流れと共に漢に服属していた羌族が漢に背き、永初の大乱や永和の乱と言った、漢人と羌族による大戦争を起こす。
一時は羌族の勢力が都にまで迫るほどの勢いを見せたが、結局は漢の勝利に終わり、その戦いの中で多くの凄惨な殺戮が繰り返されたのだ。
その頃の遺恨が未だに羌族の中に燻ぶり続けていた中で、羌族の血を引く馬超の決起を知って勇んで呼応した。それが今度の戦いの本質なのだろうと呼廚泉は語る。
南匈奴の先祖は、漢人との共存を選び、漢王朝の為に自らの同胞であった北匈奴と戦った。それは彼ら自身の選択であったがゆえ、漢人に対する先祖からの遺恨はほとんど無い。
だが無論ながら南匈奴とて一枚岩ではない。単于のやり方に異を唱えて漢王朝の官軍と刃を交えた者も中にはいる。先の永和の乱においても羌族と共に戦った南匈奴の者もいたのだ。
そして部族としても汝南袁氏の援軍として、近年に幾度も曹操と敵対した事で、曹操の、更に言えば漢人の側に遺恨を生んでしまっているのではないか。帰順した所で部族を滅ぼされないだろうか。或いは南匈奴もまた羌族と同じ道を辿ってしまうのではないか。それこそが呼廚泉ら長老たちの恐れる所である。
そこまでの話を聞いた緑風子は、穏やかな笑顔を浮かべて語る。
「それは問題ないと思いますよ。現在の曹操の陣営には、かつて敵対した将兵も多いのです。汝南袁氏に仕えていた者は勿論、董卓や李傕の下にいた者もいます。二心を抱かない限り滅ぼされる事はないでしょう。精強な匈奴の騎馬兵が味方になるとなれば、むしろ歓迎してくれると思いますよ。無論ながら漢人の中には思う所がある者もいるでしょうが、曹操はそんな器ではありません」
長老たちが再び騒めく中、我が意を得たりと目を輝かせた多羅克が呼廚泉に目を向ける。若き左賢王と視線を重ねた白髪の単于は口元を緩めた。
「いつまでも恐れていた所で始まらんか」
そんなやりとりを見た趙英と緑風子は、曹操への帰順に最も前向きなのが多羅克であったのだと気づく。今自分たちがここに呼ばれているのは、単于が漢人の旅人に会いたがっていたのではなく、多羅克自身が単于と引き合わせたかったのだと。
会談を終えると、趙英らは焚火を囲んでの夕餉を匈奴の民と共にした。若い男女が炎の周りで踊りに興じている様を眺めながら、良く焼けた羊肉に舌鼓を打つ。多羅克もまた彼らの横に座り、食事を共にしていた。
「本当に感謝する。これで南匈奴も変わっていけるはずだ」
どこか虚ろに空を眺めながら感謝の言葉を述べた多羅克は、静かに言葉を続ける。
「井蛙は以って海を語るべからずは、虚に拘ればなり。今爾、崖涘より出で、大海を観、すなわち爾の醜を知る」
趙英と緑風子は顔を見合わせた。それは戦国時代の思想家・荘子の言葉だった。
狭い世界しか知らぬ者が、広い世界に出る事で己の視野の狭さを悟るという意味を、井戸の中に住む蛙と海で例えた物であり、後世にも有名な言葉である。
漢地の政治情勢をほとんど知らず、漢語も片言な様子であったのに、なぜその言葉を暗唱できたのか。そんな趙英らの疑問を、聞かれずとも察した多羅克は、悲しげに微笑んで語った。
彼はかつて漢人の娘と出会い、恋に落ち、十年ほど共に暮らした事があった。その娘は博識で、色々な話を聞かせてもらったそうな。その中でも特に印象に残っていた言葉だという。
「彼女と初めて出会ったのは、李傕が乱を起こした頃の、長安の都だった。その頃の私は初陣でな。この者くらいの歳の頃だったか」
そう言って呼狐澹に視線を送る。反応に困って視線を泳がせる呼狐澹と、かつての記憶を思い出しているのであろうか、黙ったまま微笑んでいる多羅克。
趙英はそんな多羅克に遠慮がちに質問をする。
「その娘さんは……、今は……?」
多羅克は趙英の遠慮を察し、微笑みを崩さずに答える。
「生きているさ。恐らくは曹操と同じ所。漢の都に」
そこで趙英も、そして呼狐澹も理解した。
多羅克がなぜ曹操の事を聞きたがったか。そしてなぜ南匈奴と曹操の交渉に尽力しているのか。
「また会えるといいね!」
そんな呼狐澹の無邪気な励ましに、多羅克もまた趙英と呼狐澹を交互に見て言う。
「そなたらも、共にいる時を大事にな」
漢人と匈奴の若い男女という事で、過去の己を重ねていたであろう多羅克だが、趙英と呼狐澹は変に互いを意識させられて返答に困り、相互に赤面し、わざとらしく咳払いして黙りこくってしまった。そしてそんな二人を面白そうに眺める緑風子なのであった。
翌朝、趙英ら一行は多羅克に地図で現在地を確認してもらうと、匈奴の民たちに別れを告げ、改めて目的地へと馬を走らせる。
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