君に溺れてしまうのは僕だから

星野しずく

文字の大きさ
70 / 107

君に溺れてしまうのは僕だから.70

しおりを挟む
 ほどなくぬるいことで有名な温泉に到着した。

 伊織と武彦は三十分後という約束をしてそれぞれ女湯と男湯の暖簾をくぐった。



 嬉しい…、でも苦しい…。

「はぁ~」

 伊織はお湯につかりながら深~いため息をついた。

「それにしても本当にぬるい」

 こんな寒いところに来てまさかぬるい温泉に入るとは思ってもみなかった。

「面白い…」

 ぬるいお湯は思いがけず伊織の疲れた心と体を癒してくれた。

 熱くないせいでいつまででも入っていられそうだったけれど武彦との約束がある。

 浴場の時計はもうすぐ約束の十二時だ。

 伊織は急いでお湯からあがった。

「本当にぬるかったな」

 武彦はいかにも面白いといった風に言った。

「はい」

 伊織は少し気持ちがほぐれ、笑顔が戻っていた。



「さて、この辺で食事をしてしばらくドライブをしたらホテルに帰って仕事をしたいんだが、かまわないか?」

「はい」

 普通だったらこんなところに来てまで仕事をするなんてと思うところだが、伊織にしてみれば仕事があるのに旅行に連れてきてくれたことがまず信じられないくらい嬉しいことなのだ。

 今日もこうして十分楽しい時間を過ごせたのだから何の文句もあるはずがなかった。

 武彦と伊織は一時間ほどドライブを楽しむと宿泊しているホテルへと帰った。



「伊織はどうするんだ?」

「私は、プールで泳いでこようと思います」

「そうか、一人で行かせて悪いな」

「いいえ、どちらにしてもおじさまは泳がないですよね」

「いや、ジムのプールでは泳いでいる。ただ、ホテルのプールのようにリゾート気分は味わえないがね」

「そうですか、それは残念ですね。私だけ行くのが申し訳ないです」

「何言ってるんだ。こんなところにまで仕事を持ってきてしまって私の方が申し訳なく思っているよ」

 武彦が妙に優しくて、伊織の胸はいよいよ苦しくなる。



「行ってきます」

 伊織は泣いてしまいそうで、早々に部屋を出た。

 おじさまは何だか別人のようだ。

 それはやっぱり愛美さんのせい?

 伊織はレンタル水着に着替えプールに飛び込んだ。

 得意のクロールでゆっくりと水の中を進んだ。

 泳いでいる間は無心になれた。

 休憩を入れて一時間ほど泳ぎ、部屋に戻った。



 ドアを少し開けると中から話し声が聞こえてきた。

「ああ、愛美さんのアドバイスをもらって本当に助かったよ。伊織も楽しんでくれている。帰ったらお土産を持ってお礼に伺いますよ」

 愛実さんと電話で話してる?

 武彦が仕事以外で女性と話している様な場面に出くわしたことはなかった。

 それは、武彦が伊織に配慮していただけのことかもしれないけれど、こんな旅先に来てまで電話で話をするほど離れがたい気持ちになっているのだろうか。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...