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エレオラ・エレオノーレは、生涯を清らかな身で過ごすつもりでいた。
なにせ彼女は「恋知らずの聖女」だったので。神殿で神に仕え、困った人々に尽くし、仲間と慎ましく暮らせれば、それで満足だった。
だから、神殿にやってきた叔父の告げた言葉は、エレオラにとっては青天の霹靂だった。
「……私が、結婚、ですか」
「そうだ。すまない、エレオラ。つい先日の大雨で、我が息子が亡くなったことは記憶に新しいだろう。そのせいでエレオノーレ家には家督を継げる子供がいなくなってしまった。エレオラには婿をとってもらい、ゆくゆくはエレオノーレ家を継いでもらいたい」
神殿の応接室には、大きな窓から春の日差しがのどかに差し込んでいた。柔らかな光がエレオラの向かいに座る叔父のアレンの顔に注いでいる。くるりとした栗色の巻き毛に緑色の瞳はエレオラの幼い頃に失踪した父親によく似ていて、その顔で申し訳なさそうに頼まれるとエレオラはいつも何も言えなくなってしまう。
彼の息子、すなわちエレオラの従兄弟も、同じ色の瞳を持っていた。大雨による土砂崩れで亡くなってしまった従兄弟を思って目を伏せ、エレオラは小さく祈りの言葉を呟く。
それから、ふっと顔を上げた。心苦しそうに眉を寄せる叔父の目を見つめる。
「……ですが、私は俗世を離れた聖女の身。結婚などはとてもできません」
「分かっている。だが、由緒正しきエレオノーレ公爵家を絶やすわけにはいかない。神殿長には私から話しておく。結婚のために聖女が俗世に戻る事例は他にもある。——お前の母親のようにな。神殿も駄目とは言わないだろう」
すまなそうに眉尻を下げて、けれどきっぱりとした口調だった。エレオラは深く息を吸い込んだ。身にまとった聖服の胸元を、片手で撫でる。聖女にしか着用の許されない、純白の生地に金の縁取り刺繍の美しい服だった。エレオラはずっと、この服だけを着用していた。
——十年前、エレオノーレ家から神殿にやってきて以来、ずっと。
窓辺に吊るされた鳥籠の中で、茶色の鳥がチチチ、と鳴き声をあげた。その羽の左側は失われており、バサリと羽ばたいた拍子にバランスを崩して止まり木から落っこちてしまう。
窓の外で風が吹く。神殿の庭に植えられた木々の枝がざわめいた。その葉の擦れる音よりささやかに、エレオラは微笑んだ。
「……分かりました。私などでお役に立てるのであれば、喜んで従いましょう。他者に尽くすことが、聖女の至上の光栄です」
凛然と放たれた言葉に、叔父が畏敬の念に打たれたように肩を震わせる。思わず、といった様子で手を祈りの形に組み合わせ、それから目元に浮かんだ涙をぬぐった。エレオラの方へ身を乗り出し、
「本当にすまない、エレオラ。必ず良い縁談を探し出してやる。お前が少しでも幸せになれるよう、私も全力を尽くすからな。ともにこの苦境を乗り越えよう」
「はい、叔父上。よろしくお願いいたします」
そのとき応接室の扉がほとほとと叩かれた。「どうぞ」とエレオラが声をかけると、白いワンピースをまとった幼い少女が、ひどく緊張した顔で扉を開ける。林檎のように赤らんだ頬が愛らしい。細い両腕に、羊皮紙の巻束を抱えていた。
聖女見習いの見知った子供である。エレオラは頬を緩めた。
「あら、レベッカ。どうしたの?」
「あの、あのっ、エレオラ様が作成した王宮への報告書を、巻物に仕立て終えました! こちらですっ」
「まあ、ありがとう。助かるわ」
短い足でちょこちょこ歩いて、エレオラのそばまでやってくる。エレオラは椅子から立ち上がり、そっと膝をついて両手を伸ばした。レベッカはきらきら輝く瞳でエレオラを見上げ、震える手で巻束を差し出す。
「ど、どうぞっ」
「ええ、確かに受け取りました。おかげで王宮への報告も滞りなく進められます。こんなに早く仕立てが終わるなんて、良い子ね」
「エ、エレオラ様のお役に立てるのであれば、これに勝る喜びはございません!」
「……ありがとう。その優しさを、どうか他の人にも分け与えてあげてね」
「は、はいっ」
巻束を片手に抱いて、もう片方の手でレベッカの頭を撫でてやると、レベッカは嬉しそうに声をあげてほっぺたを手のひらで押さえた。それからその様子を微笑ましそうに眺める客人に気づいたらしく、はっと姿勢を改めると「し、失礼しましたっ」と叫んでぱたぱたと部屋を出ていく。扉を閉める際に、一礼することは忘れなかった。
叔父は目尻を下げてレベッカの背を見送っていた。
「ずいぶん慕われているのだな」
「私も長くここへいますから。それでは叔父上、王宮への報告がありますので、こちらにて失礼いたします」
エレオラは優雅に礼をし、聖服の裾をひらめかせて応接室をあとにした。神殿の廊下を歩くと、行き交う皆が挨拶してくれる。聖女に、神官、見習い、出入りの庭師、厩番にいたるまで。その一つ一つに、エレオラは微笑とともに応えた。
馬を出そうか、と厩番の老爺が勧めてくれるのを断り、エレオラは神殿の門をくぐって王宮まで歩いた。少し距離があるが、日々立ち働くエレオラにとっては大したことではない。慣れた足取りで王宮の庭園を横切り、宮殿の廊下を進む。ここでも、すれ違う人々が眩しそうな眼差しをエレオラに向けた。
エレオラは一人一人に目礼を返し、第一王子の執務室の扉が見えたところで立ち止まる。
扉を背にして、黒と赤の騎士服に身を包んだ、精悍な青年が立っていた。
新月の夜を溶かしたような黒髪に、血濡れたように輝く紅い瞳。顔立ちは凛々しく、間違いなく美しいのに、どこか不吉な気配を漂わせる目つき。すらりと背が高く、体つきはしなやかで、隙なく騎士服を着こなしている。腰に帯びた長剣は、飾り気がないがよく手入れされていて、まるで体の一部のようにすんなりと馴染んでいた。
——第一王子の護衛騎士、ヴァールハイト・ブランだった。
弱冠二十四歳にして、凄まじい剣技の冴えと戦場での数多の武功から『剣の英雄』などと呼ばれる男だ。騎士からは畏怖の視線を、宮女からは羨望の眼差しを集めているとかいないとか。第一王子とは幼少のみぎりより親交篤く、彼が護衛騎士となってからは数々の刺客を返り討ちにして、今や王子に刃を向けるものはいないという。
その瞳が、廊下の端に立つエレオラに向けられる。エレオラはぞっと背筋が粟立つのを感じ、唾を飲み込んだ。床にくっついてしまったような靴の踵を引き剥がし、執務室の扉の前へおずおずと歩を進める。
ヴァールハイトが眉根に皺を刻み、じろりとエレオラを睨んだ。その視線は小動物一匹くらいなら射殺せそうなほど鋭利で、薄い唇は固く引き結ばれている。エレオラは縮み上がりそうになる自分を叱咤して、なるべく落ち着いて一礼してみせた。
「……ごきげんよう、ヴァールハイトさま」
「なんの用だ、聖女エレオラ」
その声は低く、恐ろしく不機嫌そうに響く。ヴァールハイトの声には艶があり、彼が第一王子のノインと話しているときなどは不覚にも聞き惚れてしまうほどなのだが、エレオラが言葉を交わすときには、いつも親の仇かと思うほど憎々しげに低められている。彼の故郷を焼いた覚えはない。しかし出会ったときから態度が変わらないので、おそらく本能的に彼は自分を嫌っているのだろう、とエレオラは結論づけていた。
とはいえ、怖いものは怖い。後退りしそうになるのを堪えて、両手に抱えた報告書の巻束を掲げてみせた。
「神殿から第一王子へ定期報告です。執務室へ通していただいても?」
「なぜいつもあなた一人が来るんだ? 神殿は人手不足か?」
気に入らなさそうに言う。嫌いな人間とたびたび顔を合わせなくてはいけないのが嫌なのだろう。エレオラは苦笑した。
「ご安心ください。私が来るのも今日が最後ですよ。結婚することになったので」
「……なんだと」
切れ長の瞳がわずかに見開かれる。それを無視してエレオラは扉を叩き、執務室へ足を踏み入れた。
重い音を立て、分厚い扉が背後で閉まる。そうすると、外の音は一切聞こえない。王子の執務室なのだ。ここではありとあらゆる密談がささやかれ、駆け引きが張り巡らされる。
入って正面には、大きなガラス窓。それを背にして鎮座する執務机に、エレオラとさして年齢の変わらない少年が座っていた。日差しを透かす金髪に、夢見るような碧い瞳。簡素なシルクシャツに乗馬ズボンという出立ちは、その美しさを際立たせている。中性的な面差しは、エレオラによく似ていた。
第一王子、ノイン=シュデルツ。シュデルツ王国の第一王子にして、エレオラの母方の従兄弟だった。
書類に何か書き込んでいたノインは、顔を上げるとふわりと笑った。
「——おや、聖女どの。入室の許可は出していないけれど」
「これは失礼しました。表の番犬が恐ろしかったものですから、つい逃げ込んでしまいました」
「ヴァールハイトから逃げるのはなかなか骨が折れるよ。かなり執念深いから」
「……それはなんとなく分かります」
初対面から向けられ続ける鋭い視線を思い返して、エレオラは頷く。ノインがくすくすと肩を揺らした。手早く書類を机の隅に重ねて、
「定期報告だね、聞こうか」
「はい。第三十八期定例報告を始めます」
エレオラは流れるように報告を行う。神殿の財務状況、各地の魔物の情報、貧民層への炊き出しの様子など、王室としても聞き逃せない事項は多い。
やがてエレオラの報告が終わると、ノインは小さく息を吐き出した。
「……なるほど、よく分かったよ。報告ありがとう」
「お役に立てれば幸いです」
「ああ、今度の審議会で議題にあげたいこともいくつかあったな。いつも神殿からの情報は助かっている。——それで、エリー」
もうこの世で彼しか使わない愛称で呼んで、ノインは面白そうに瞳をきらめかせた。
「きみ、結婚するんだって?」
その瞬間、エレオラはその場に崩れ落ちた。純白の聖服の裾が床に広がるのも構わずにがっくりと。次いで頭を抱え、常に微笑みを浮かべる可憐な唇を歪めて——半泣きで叫んだ。
なにせ彼女は「恋知らずの聖女」だったので。神殿で神に仕え、困った人々に尽くし、仲間と慎ましく暮らせれば、それで満足だった。
だから、神殿にやってきた叔父の告げた言葉は、エレオラにとっては青天の霹靂だった。
「……私が、結婚、ですか」
「そうだ。すまない、エレオラ。つい先日の大雨で、我が息子が亡くなったことは記憶に新しいだろう。そのせいでエレオノーレ家には家督を継げる子供がいなくなってしまった。エレオラには婿をとってもらい、ゆくゆくはエレオノーレ家を継いでもらいたい」
神殿の応接室には、大きな窓から春の日差しがのどかに差し込んでいた。柔らかな光がエレオラの向かいに座る叔父のアレンの顔に注いでいる。くるりとした栗色の巻き毛に緑色の瞳はエレオラの幼い頃に失踪した父親によく似ていて、その顔で申し訳なさそうに頼まれるとエレオラはいつも何も言えなくなってしまう。
彼の息子、すなわちエレオラの従兄弟も、同じ色の瞳を持っていた。大雨による土砂崩れで亡くなってしまった従兄弟を思って目を伏せ、エレオラは小さく祈りの言葉を呟く。
それから、ふっと顔を上げた。心苦しそうに眉を寄せる叔父の目を見つめる。
「……ですが、私は俗世を離れた聖女の身。結婚などはとてもできません」
「分かっている。だが、由緒正しきエレオノーレ公爵家を絶やすわけにはいかない。神殿長には私から話しておく。結婚のために聖女が俗世に戻る事例は他にもある。——お前の母親のようにな。神殿も駄目とは言わないだろう」
すまなそうに眉尻を下げて、けれどきっぱりとした口調だった。エレオラは深く息を吸い込んだ。身にまとった聖服の胸元を、片手で撫でる。聖女にしか着用の許されない、純白の生地に金の縁取り刺繍の美しい服だった。エレオラはずっと、この服だけを着用していた。
——十年前、エレオノーレ家から神殿にやってきて以来、ずっと。
窓辺に吊るされた鳥籠の中で、茶色の鳥がチチチ、と鳴き声をあげた。その羽の左側は失われており、バサリと羽ばたいた拍子にバランスを崩して止まり木から落っこちてしまう。
窓の外で風が吹く。神殿の庭に植えられた木々の枝がざわめいた。その葉の擦れる音よりささやかに、エレオラは微笑んだ。
「……分かりました。私などでお役に立てるのであれば、喜んで従いましょう。他者に尽くすことが、聖女の至上の光栄です」
凛然と放たれた言葉に、叔父が畏敬の念に打たれたように肩を震わせる。思わず、といった様子で手を祈りの形に組み合わせ、それから目元に浮かんだ涙をぬぐった。エレオラの方へ身を乗り出し、
「本当にすまない、エレオラ。必ず良い縁談を探し出してやる。お前が少しでも幸せになれるよう、私も全力を尽くすからな。ともにこの苦境を乗り越えよう」
「はい、叔父上。よろしくお願いいたします」
そのとき応接室の扉がほとほとと叩かれた。「どうぞ」とエレオラが声をかけると、白いワンピースをまとった幼い少女が、ひどく緊張した顔で扉を開ける。林檎のように赤らんだ頬が愛らしい。細い両腕に、羊皮紙の巻束を抱えていた。
聖女見習いの見知った子供である。エレオラは頬を緩めた。
「あら、レベッカ。どうしたの?」
「あの、あのっ、エレオラ様が作成した王宮への報告書を、巻物に仕立て終えました! こちらですっ」
「まあ、ありがとう。助かるわ」
短い足でちょこちょこ歩いて、エレオラのそばまでやってくる。エレオラは椅子から立ち上がり、そっと膝をついて両手を伸ばした。レベッカはきらきら輝く瞳でエレオラを見上げ、震える手で巻束を差し出す。
「ど、どうぞっ」
「ええ、確かに受け取りました。おかげで王宮への報告も滞りなく進められます。こんなに早く仕立てが終わるなんて、良い子ね」
「エ、エレオラ様のお役に立てるのであれば、これに勝る喜びはございません!」
「……ありがとう。その優しさを、どうか他の人にも分け与えてあげてね」
「は、はいっ」
巻束を片手に抱いて、もう片方の手でレベッカの頭を撫でてやると、レベッカは嬉しそうに声をあげてほっぺたを手のひらで押さえた。それからその様子を微笑ましそうに眺める客人に気づいたらしく、はっと姿勢を改めると「し、失礼しましたっ」と叫んでぱたぱたと部屋を出ていく。扉を閉める際に、一礼することは忘れなかった。
叔父は目尻を下げてレベッカの背を見送っていた。
「ずいぶん慕われているのだな」
「私も長くここへいますから。それでは叔父上、王宮への報告がありますので、こちらにて失礼いたします」
エレオラは優雅に礼をし、聖服の裾をひらめかせて応接室をあとにした。神殿の廊下を歩くと、行き交う皆が挨拶してくれる。聖女に、神官、見習い、出入りの庭師、厩番にいたるまで。その一つ一つに、エレオラは微笑とともに応えた。
馬を出そうか、と厩番の老爺が勧めてくれるのを断り、エレオラは神殿の門をくぐって王宮まで歩いた。少し距離があるが、日々立ち働くエレオラにとっては大したことではない。慣れた足取りで王宮の庭園を横切り、宮殿の廊下を進む。ここでも、すれ違う人々が眩しそうな眼差しをエレオラに向けた。
エレオラは一人一人に目礼を返し、第一王子の執務室の扉が見えたところで立ち止まる。
扉を背にして、黒と赤の騎士服に身を包んだ、精悍な青年が立っていた。
新月の夜を溶かしたような黒髪に、血濡れたように輝く紅い瞳。顔立ちは凛々しく、間違いなく美しいのに、どこか不吉な気配を漂わせる目つき。すらりと背が高く、体つきはしなやかで、隙なく騎士服を着こなしている。腰に帯びた長剣は、飾り気がないがよく手入れされていて、まるで体の一部のようにすんなりと馴染んでいた。
——第一王子の護衛騎士、ヴァールハイト・ブランだった。
弱冠二十四歳にして、凄まじい剣技の冴えと戦場での数多の武功から『剣の英雄』などと呼ばれる男だ。騎士からは畏怖の視線を、宮女からは羨望の眼差しを集めているとかいないとか。第一王子とは幼少のみぎりより親交篤く、彼が護衛騎士となってからは数々の刺客を返り討ちにして、今や王子に刃を向けるものはいないという。
その瞳が、廊下の端に立つエレオラに向けられる。エレオラはぞっと背筋が粟立つのを感じ、唾を飲み込んだ。床にくっついてしまったような靴の踵を引き剥がし、執務室の扉の前へおずおずと歩を進める。
ヴァールハイトが眉根に皺を刻み、じろりとエレオラを睨んだ。その視線は小動物一匹くらいなら射殺せそうなほど鋭利で、薄い唇は固く引き結ばれている。エレオラは縮み上がりそうになる自分を叱咤して、なるべく落ち着いて一礼してみせた。
「……ごきげんよう、ヴァールハイトさま」
「なんの用だ、聖女エレオラ」
その声は低く、恐ろしく不機嫌そうに響く。ヴァールハイトの声には艶があり、彼が第一王子のノインと話しているときなどは不覚にも聞き惚れてしまうほどなのだが、エレオラが言葉を交わすときには、いつも親の仇かと思うほど憎々しげに低められている。彼の故郷を焼いた覚えはない。しかし出会ったときから態度が変わらないので、おそらく本能的に彼は自分を嫌っているのだろう、とエレオラは結論づけていた。
とはいえ、怖いものは怖い。後退りしそうになるのを堪えて、両手に抱えた報告書の巻束を掲げてみせた。
「神殿から第一王子へ定期報告です。執務室へ通していただいても?」
「なぜいつもあなた一人が来るんだ? 神殿は人手不足か?」
気に入らなさそうに言う。嫌いな人間とたびたび顔を合わせなくてはいけないのが嫌なのだろう。エレオラは苦笑した。
「ご安心ください。私が来るのも今日が最後ですよ。結婚することになったので」
「……なんだと」
切れ長の瞳がわずかに見開かれる。それを無視してエレオラは扉を叩き、執務室へ足を踏み入れた。
重い音を立て、分厚い扉が背後で閉まる。そうすると、外の音は一切聞こえない。王子の執務室なのだ。ここではありとあらゆる密談がささやかれ、駆け引きが張り巡らされる。
入って正面には、大きなガラス窓。それを背にして鎮座する執務机に、エレオラとさして年齢の変わらない少年が座っていた。日差しを透かす金髪に、夢見るような碧い瞳。簡素なシルクシャツに乗馬ズボンという出立ちは、その美しさを際立たせている。中性的な面差しは、エレオラによく似ていた。
第一王子、ノイン=シュデルツ。シュデルツ王国の第一王子にして、エレオラの母方の従兄弟だった。
書類に何か書き込んでいたノインは、顔を上げるとふわりと笑った。
「——おや、聖女どの。入室の許可は出していないけれど」
「これは失礼しました。表の番犬が恐ろしかったものですから、つい逃げ込んでしまいました」
「ヴァールハイトから逃げるのはなかなか骨が折れるよ。かなり執念深いから」
「……それはなんとなく分かります」
初対面から向けられ続ける鋭い視線を思い返して、エレオラは頷く。ノインがくすくすと肩を揺らした。手早く書類を机の隅に重ねて、
「定期報告だね、聞こうか」
「はい。第三十八期定例報告を始めます」
エレオラは流れるように報告を行う。神殿の財務状況、各地の魔物の情報、貧民層への炊き出しの様子など、王室としても聞き逃せない事項は多い。
やがてエレオラの報告が終わると、ノインは小さく息を吐き出した。
「……なるほど、よく分かったよ。報告ありがとう」
「お役に立てれば幸いです」
「ああ、今度の審議会で議題にあげたいこともいくつかあったな。いつも神殿からの情報は助かっている。——それで、エリー」
もうこの世で彼しか使わない愛称で呼んで、ノインは面白そうに瞳をきらめかせた。
「きみ、結婚するんだって?」
その瞬間、エレオラはその場に崩れ落ちた。純白の聖服の裾が床に広がるのも構わずにがっくりと。次いで頭を抱え、常に微笑みを浮かべる可憐な唇を歪めて——半泣きで叫んだ。
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